マニフェスト・デスティニー

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マニフェスト・デスティニー
1848年
1848年、ポーク大統領
ポーク大統領が
大統領が仕掛けたメキシコへの
仕掛けたメキシコへの侵略戦争
けたメキシコへの侵略戦争に
侵略戦争に勝利し
勝利し、メキシコの国土
メキシコの国土
半分を
半分を強奪した
強奪した頃
した頃、マニフェスト・デスティニーという言葉
マニフェスト・デスティニーという言葉がアメリカ
言葉がアメリカ議会
がアメリカ議会で
議会で強調されて
強調されて
いた。
いた。マニフェスト・デスティニーとはアングロ・アメリカ版
マニフェスト・デスティニーとはアングロ・アメリカ版の選民という
選民という奇妙
という奇妙な
奇妙な概念の
概念の
ことである。
ことである。19 世紀の
世紀の初めごろから北米人
めごろから北米人たちは
北米人たちは、
たちは、神の摂理により
摂理により、
により、大西洋から
大西洋から太平洋
から太平洋ま
太平洋ま
での土地
での土地に
土地に住み、支配するよう
支配するよう運命付
するよう運命付けられていると
運命付けられていると信
けられていると信じるようになった。
じるようになった。その極端
その極端な
極端な信
奉者は
奉者は、北は北極圏から
北極圏から南
から南はマジェラン海峡
はマジェラン海峡まで
海峡まで、
まで、ヤンキーは拡大
ヤンキーは拡大を
拡大を続けると考
けると考えていた。
えていた。
マニフェスト・デスティニーのイデオロギーとは生得
マニフェスト・デスティニーのイデオロギーとは生得の
生得の権利、
権利、宗教の
宗教の自由、
自由、民主主義、
民主主義、共
和主義、
和主義、アングロ-サクソン気質
サクソン気質、
気質、地理的宿命などが
地理的宿命などが混
などが混ぜ合わされたもので、
わされたもので、アメリカ人
アメリカ人の
地理的拡張を
地理的拡張を正当化したものである
正当化したものである。
したものである。 当時のアメリカ
当時のアメリカ人
のアメリカ人は未開墾の
未開墾の土地や
土地や未採掘の
未採掘の鉱物
資源は
資源は如何なる
如何なる国家
なる国家といえども
国家といえども保有
といえども保有することは
保有することは出来
することは出来ないと
出来ないと信
ないと信じた。
じた。この原住民
この原住民を
原住民を排除する
排除する
ための理論
ための理論は
理論は次第にメキシコ
次第にメキシコ人
にメキシコ人、その他
その他に拡大されていった
拡大されていった。
されていった。「我
「我々の人種以外は
人種以外は西半球を
西半球を
開拓、
開拓、又は統治できない
統治できない」
できない」とするマニフェスト・デスティニーは民族的優越主義
とするマニフェスト・デスティニーは民族的優越主義の
民族的優越主義の論理で
論理で、
アングロ・サクソン・プロテスタント
アングロ・サクソン・プロテスタント文明
ロテスタント文明は
文明は先天的に
先天的に誰よりも優
よりも優っている、
っている、そして自由
そして自由な
自由な
地域を
地域を拡張するために
拡張するために共和政府
するために共和政府と
共和政府と民主主義を
民主主義を推し進めるというものである。
めるというものである。
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アメリカはこのドクトリンに沿
アメリカはこのドクトリンに沿って、
って、ラテンアメリカへの外交政策
ラテンアメリカへの外交政策を
外交政策を展開していった
展開していった。
していった。そ
の一環としてアメリカ
一環としてアメリカ国務省
としてアメリカ国務省は
国務省は中南米各地に
中南米各地に多くの領事
くの領事を
領事を配置した
配置した。
した。メキシコでは国境
メキシコでは国境の
国境の
町や州都はもちろんのこと
州都はもちろんのこと、
はもちろんのこと、重要と
重要と思われる都市
われる都市には
都市には領事
には領事を
領事を置いた。
いた。領事本来の
領事本来の任務は
任務は経
済活動に
済活動に関する調査報告
する調査報告であったが
調査報告であったが、
であったが、ひとたびメキシコで革命
ひとたびメキシコで革命が
革命が勃発すると
勃発すると、
すると、彼らは重要
らは重要
な情報源となった
情報源となった。
となった。アメリカ国務省
アメリカ国務省はひとたびメキシコで
国務省はひとたびメキシコで内
はひとたびメキシコで内乱が発生すると
発生すると、
すると、誰よりも正
よりも正
確に情勢を掌握していたのである
掌握していたのである。
していたのである。
1913年5月、ディアスを国外
ディアスを国外に
国外に追い出したフランシスコ・マデロがクーデターによ
りビクトリアノ
クトリアノ・ウエルタに
ウエルタに暗殺
タに暗殺され
暗殺され、
され、政権を
政権を奪われて二月
われて二月ほ
二月ほど経った頃
った頃、日米新聞の
新聞の記
者鷺谷精一
鷺谷精一がイーグルパ
がイーグルパスから
ルパスからピエ
スからピエドラス・
ピエドラス・ネ
ドラス・ネグラスへ足
グラスへ足を踏み入れた時
れた時から彼
から彼を監視し
監視し
ていたのは、
ていたのは、同市駐在領事
駐在領事ル
領事ルーサー・エル
ーサー・エルス
エルスワースであった。
ースであった。エルス
エルスワースが外交
ースが外交官
外交官にな
ったのは比較
ったのは比較的
比較的高齢の
高齢の四十四歳のときである
四十四歳のときである。
のときである。彼は以前、まだコロンビ
コロンビア領であったパナ
であったパナ
マで事
マで事業を行った経
った経験からスペ
からスペイン語
イン語に堪能で
堪能で、最初の任地は
任地はベネズエラのプ
ベネズエラのプエル
ラのプエルト・カ
エルト・カ
ベヨであった
ベヨであった。
であった。彼は領事業
領事業務よりは諜
よりは諜報活動に
報活動に手腕を
手腕を発揮した。
した。その頃
その頃、彼の任地では
任地では政
では政
府転覆を
転覆を企てたゲ
てたゲリラ活動
リラ活動が
活動が行われていた。
われていた。ゲリラが市
リラが市の近くに出
くに出没するようになると、
するようになると、
エルス
エルスワースは毎日
ースは毎日自
毎日自転車で
転車で前線へ
前線へ出かけ、
かけ、戦闘を間近に
間近に観て、ゲリラ兵士
リラ兵士をインタ
兵士をインタビュ
をインタビュ
ーし、
ーし、ワシントンへ報告
シントンへ報告した
報告した。
した。
エルス
エルスワースは1
ースは1903年
903年10月12日付けでコロンビ
けでコロンビアのカル
アのカルタヘナ領事
ヘナ領事に
領事に昇格した
昇格した。
した。
アメリカはパナ
アメリカはパナマ
パナマ運河を建設する
建設する許可
する許可をコロン
許可をコロンビ
をコロンビア政府に
政府に要請していたが、
していたが、埒が明かなか
ったため、
ったため、業を煮やしてパナ
やしてパナマで
パナマで暴
マで暴動を起こさせ
こさせ、パナマを
パナマを分
マを分離独立さ
離独立させる画策を行って
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いた。
いた。エルス
エルスワースは諜
ースは諜報活動の
報活動の手腕を
手腕を買われて任命
われて任命されたと
任命されたと思
されたと思われる。
われる。しかし、
しかし、彼の後
任となる副
となる副領事が
領事が病に倒れ、プエルト
エルト・カベヨに
ベヨに半年以上
半年以上も止まらざ
まらざるを得
るを得ず、カルタヘナ
へ赴任したときには既
したときには既にパナマは
パナマは独立
マは独立を
独立を達成していた
達成していた。
していた。コロンビ
コロンビアにいる間
アにいる間にエルス
エルスワー
スはさらにスパ
スはさらにスパイ活動に
活動に磨きをかけた。
きをかけた。
1907年
907年3月30日
30日、エルス
エルスワースはチワワ
ースはチワワ州都
チワワ州都の
州都の領事に
領事に任命された
任命された。
された。アメリカに亡
アメリカに亡
命したPLM
したPLMがメキシコを
PLMがメキシコを攻撃
がメキシコを攻撃するという
攻撃するという情報
するという情報を
情報を入手した
入手した国務省
した国務省は
国務省は、中立法違反者
立法違反者の取締
りをエル
りをエルス
エルスワースに期待
ースに期待した
期待した。
した。彼が着任して間もなく、
もなく、シウダー・ポ
ウダー・ポル
ー・ポルフィリオ・ディア
ス(現在の
現在のピエドラス
ピエドラス・ネ
ドラス・ネグラス
・ネグラス)の領事ル
領事ルイス・マーティンが体
イス・マーティンが体調を崩し、気候のよいチワ
のよいチワ
ワ市であれば
であれば健康を
健康を回復できる
回復できるだ
できるだろうと期待
ろうと期待して
期待して、
して、彼と場所を
場所を交代することを持
することを持ちかけた。
ちかけた。
エルス
エルスワースにとっても、
ースにとっても、中立法違反者
立法違反者の取締りには
取締りには国境
りには国境にいる
国境にいるほ
にいるほうが好
うが好都合であった
都合であった。
であった。
こうしてエル
こうしてエルス
エルスワースがシウダ
ースがシウダー
ウダー・ポルフィリオ・
フィリオ・ディアスにやってきたのは1
ディアスにやってきたのは1907年
907年1
0月1日のことである。
のことである。彼は副領事に
領事に仕事を
仕事を任せ、もっぱ
もっぱら情報収集
情報収集に
収集に没頭した
没頭した。
した。
翌年6月26日
26日、フロレ
フロレス・マゴ
ス・マゴン主義者の
主義者の一団がシウダ
がシウダー
ウダー・ポルフィリオ・
フィリオ・ディアスの
北西五十六
北西五十六マイ
五十六マイル
マイルにあるラス・バ
にあるラス・バカス(
カス(現在のシ
現在のシウダ
のシウダー・アクーニ
ウダー・アクーニャ
ー・アクーニャ)に駐屯していた
駐屯していた連
していた連
邦軍守備隊を
邦軍守備隊を攻撃した
攻撃した。
した。ゲリラはテキサス州
リラはテキサス州デルリオからリオグランデを渡
リオからリオグランデを渡って侵
って侵入し、
数時間撃ち
間撃ち合って山
って山中へ逃れた。
れた。ディアス大統領
ディアス大統領はアメリカ
大統領はアメリカ政府
はアメリカ政府に
政府に抗議し、アメリカから
の武装介入を
武装介入を厳重に取り締まることを要
まることを要求した。
した。リカル
リカルド・フロレ
フロレス・マゴンと数
ンと数人の幹部
は前年八月に
八月に逮捕されていたが
逮捕されていたが、
されていたが、ディアスはさらに関
ディアスはさらに関係者の逮捕を
逮捕を要求した。
した。ルーズヴェ
ズヴェ
ルト大統領はこれに
大統領はこれに応
はこれに応え、直ちに軍隊
ちに軍隊を
軍隊を派遣して
派遣して国境
して国境の
国境のパトロール
トロールを開始した。
した。
エルス
エルスワースはリーダ
ースはリーダーシッ
ーシップを発
プを発揮した。
した。彼が作り上げたネット
ネットワークのメンバ
ークのメンバーは、
ーは、
法務省管轄下
務省管轄下の
管轄下の捜査官とUSマーシ
USマーシャル
マーシャル、
ャル、財務省のシーク
務省のシークレッ
のシークレット・サ
レット・サ-
ト・サ-ビス、アメリカ陸
アメリカ陸
軍テキサス司令官
テキサス司令官、
司令官、メキシコ軍
メキシコ軍地区司令官、
区司令官、両国の税関、移民官、領事関係
領事関係者、テキサス・
テキサス・
レンジャ
ンジャース、
ース、国境に
国境に隣接する
隣接する郡
する郡の保安官、
安官、ディアスが雇
ディアスが雇った探偵
った探偵などである
探偵などである。
などである。エルス
エルスワ
ースは既
ースは既に国務省きっての
国務省きっての情報
きっての情報提供
情報提供者
提供者となっていたが、
となっていたが、法務省は
務省は国務省の
国務省の許可を
許可を得て、彼
を法務省の
務省の特別捜査
特別捜査官に任命した
任命した。
した。1909年
909年11月
11月11日
11日、彼は異例の
異例の人事により
人事により国務
により国務・
国務・
法務両省に所属して
所属して中
して中立法取締りを
立法取締りを一
りを一手に掌握することになった
掌握することになった。
することになった。
メキシコではフロレ
メキシコではフロレス・マゴ
ス・マゴン主義者と
主義者と関係のない新
のない新たな革命運動
たな革命運動が
革命運動が始まっていた。
まっていた。1
910年2月、メキシコから亡
メキシコから亡命してきた「
してきた「民主主義モ
民主主義モニター」
ニター」という知識層向
という知識層向け
知識層向け新聞が
新聞が
サンアントニオで第一
サンアントニオで第一号
第一号を発行した。
した。エルス
エルスワースはこれを翻訳
ースはこれを翻訳して
翻訳して報告
して報告した
報告した。
した。編集者
編集者パ
ウリノ・マル
・マルティネ
ティネスはメキシコで新
スはメキシコで新たに結成
たに結成された
結成された再
された再選反対党のメン
反対党のメンバ
のメンバーで、
ーで、彼の新聞
はディアス政府
はディアス政府によって
政府によって閉鎖
によって閉鎖された
閉鎖された。
された。その年
その年の四月、
四月、フランシスコ・マデロが大統領
フランシスコ・マデロが大統領候補
大統領候補
になった。
になった。マゴン主義者の
主義者の人気はあったが
人気はあったが、
はあったが、アメリカで徹底
アメリカで徹底的
徹底的にマークされ衰
にマークされ衰えを見
えを見せて
いた。
いた。エルス
エルスワースは新
ースは新たな運動
たな運動が
運動が知識層に
知識層に広がっていることに注目
がっていることに注目し
注目し、この年
この年に予定さ
予定さ
れている大統領選
れている大統領選挙
大統領選挙において、
いて、メキシコ国民
メキシコ国民が
国民が自由に
自由に候補者
候補者を選べないようなことになれ
ば、革命に
革命に発展する
発展する危険性
する危険性があると
危険性があると警
があると警告した。
した。
43
44
45
46
28
40. Matt S. Meier and Feliciano Ribera, “Mexican Americans/American Mexicans”
Mexicans”, Hill and Wang
.
1995, P55
41 W. Dirk Raat,
Raat, “Mexico and the United States,”
States,” The University of Georgia Press, 1992,1996 P63
42. Dorothy Pierson Kerig, “Luther T. Ellsworth; U.S. Consul on the Border during the Mexican
Revolution”
Revolution”, Texas Western Press, the University of Texas at El Paso, 1975,
1975, P7
43. Ibid. P8
44. Ibid. P11
45. Ibid. P25
46. Ibid. P27
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