︱第一次近衛内閣期までを中心に︱ 近衛文麿像の再検討 はじめに 近衛文麿︵一八九一∼一九四五︶は、一九三〇年代後半から四〇年 古 川 隆 久 いては、相反する素材を並べておく﹂と、包括的な人物像を描くこと をあえて放棄している。近衛の人物像の研究はそれほど難しい作業な のである。 はすべて生前に公刊されており、昭和期に入ってからの時期について 研究が難しい理由は三つある。第一の理由は、多くの文献が、近衛 の手記はすべて第一次近衛内閣退陣後から太平洋戦争敗戦直後に自殺 代初めにかけて︵昭和一〇年代中期︶の日本の激動期の重要場面で、 しかし、二〇〇七年段階での今津敏晃氏の総括によれば、﹁その評 するまでに書かれ、その一部が死後公刊された。これらの手記をその が数多く残した手記を重要な史料として参照していることである。そ 価は様々で﹂、﹁近衛像も一致を見ていない﹂。すなわち、﹁近衛に日中 まま事実と解釈すると、憲法や陸軍、天皇など、他律的な事情により れらは一九三〇年代に入ってから書かれ、大正期までについての回想 戦 争 や 日 米 開 戦 の 責 任 を 求 め よ う と す る 立 場 か ら は、 近 衛 に 意 志 薄 三度にわたって首相を務めた人物として著名である。当然、近衛の人 弱、優柔不断という評価が下され﹂、﹁日米開戦回避の努力や戦中下で 志を遂げられなかった悲運の政治家という人物像が浮かび上がること 物論に言及した文献は夥しい数にのぼる。 の和平実現へ向けての活動を評価しようとすれば、近衛は、熟慮、粘 になる。 そもそも、近衛についての最初期の伝記であるとともに、現在まで 己への批判を防ぐための自己弁護や責任回避のためにそのような措置 照すると、事実関係と明らかに異なる叙述が散見され、いずれも、自 しかし、それぞれの手記が対象としている時期に書かれた史料と対 で最も詳細な伝記を著した矢部貞治は、その書の中で、 ﹁ただ真実を が な さ れ た と み な す こ と が で き る。 従 っ て 、 自 筆 手 記 類 は あ く ま で 5 − − 21 2 りの人とも評される﹂。全く相反する人物像が浮かび上がるという異 4 3 追究することに全力を注ぐべきで︹中略︺判定のつきかねる事柄につ 例の状態となっているのである。 1 近衛文麿像の再検討 個々の手記執筆時における近衛の自己認識についての史料と考えるべ 実際、近衛の生前でも、一九三七︵昭和一二︶年六月の第一次近衛 が不十分なことである。矢部の﹃近衛文麿﹄において、一九一八年の 第二の理由は、おびただしい数にのぼる近衛の言説の全体像の検討 公は果して文字の厳格なる意味において思想を有してゐるか﹂と書い それが思想と呼ばれんがためには、統一ある形態を必要とする。近衛 がある︹中略︺思想は感覚なくして生れることは不可能だが、しかし 内閣成立時に、外交評論家清沢冽が、﹁かれは現状に対する鋭い感覚 有名な﹁英米本位の平和主義を排す﹂以後、雑誌や新聞への論説寄稿 ている。 きである。 やインタビューが多数あることが確認でき、最近の庄司潤一郎氏の諸 近衛の言論活動を紹介するにとどまり、庄司氏も近衛の外交思想の研 研究でもそれら以外の公刊論説類が発掘されている。しかし、矢部は うに、否定的な価値判断が込められているので、学術的な用語として う言葉は、﹁ポピュリズムに陥った﹂という前引の用例に見られるよ しかし、そもそも、 ﹁ポピュリスト﹂あるいは﹁ポピュリズム﹂とい もっとも、近衛に体系的な政治哲学なり政見がないのであれば、近 にみられるように、大衆におもねって冷静で合理的な政治的判断が下 かしきれずにポピュリズムに陥ったことが問題﹂という叙述に典型的 は、筒井清忠氏の﹁最も文化的な境遇に生まれた人が、教養主義を生 ト﹂と位置づける流れがある。この場合、﹁ポピュリスト﹂という言葉 究の近年の動向として、このような視点をとる、近衛を﹁ポピュリス れ思想は信念に於て結晶する﹂と主張している。 に、近衛自身も、一九三九年七月の講演で﹁政治は思想によつて導か と、 近 衛 の 言 説 に 一 定 の 方 向 性 が あ る こ と は 認 め ら れ て い た。 そ れ とリーダーシツプを打ち樹てたいといふことがかれの長年の念願﹂ 評し、前出の清沢の評論でも、 ﹁この昏迷の時代に、一つの指導精神 恒吾は、 ﹁かれ︹近衛︺自身の人格と思想には国民が信頼してゐる﹂と は近衛の生前からあった。第一次近衛内閣の成立時、政治評論家馬場 しかも、近衛の言説や行動に一定の思想性なり方向性を認める評価 せない﹁大衆迎合主義者﹂という意味で使われている。特に、第一次 衛の言説の全体像の検討は無意味となる。前掲今津論文以後の近衛研 適切かどうか議論の余地がある。 究に焦点を絞っている。 10 近衛内閣期の日中戦争下における一九三八︵昭和一三︶年一月の蒋介 石政権否認の声明︵第一次近衛声明︶が近衛の典型的なポピュリズム 12 11 する。そういう折衷主義が彼の本質﹂なので、近衛の外交思想の時期 こうした見方からは、 ﹁局面ごとに何かが強く出たり、弱く出たり の政治家といった人物像を再検討すべきだという問題提起をしている は、大正期の近衛の言説を題材に、近衛の意志薄弱や優柔不断、悲運 9 は定見がないという見解が導き出されることになる。 たい。 15 が、 そ の 後 こ の 問 題 提 起 が 十 分 に う け と め ら れ て き た と は 言 い が が 十 分 に あ る。 実 は、 す で に 一 九 七 四 年 に、 ゴ ー ド ン・ バ ー ガ ー 氏 つまり、近衛は一定の思想にもとづいて政治活動をしていた可能性 13 7 別の整理は、﹁それほど重要なこととも思われない﹂ 、つまり、近衛に 的行動とされる。 8 14 − − 22 6 う観点からの実証的研究は、閣僚人事や内閣更迭への関与を除き皆無 を振える立場に立った際に、本人がどの程度指導力を発揮したかとい 期の日米交渉についてのみ﹁粘り﹂が指摘されてきたが、近衛が権力 ﹁先送り﹂といった手法が近衛の常とう手段とされ、第三次近衛内閣 第三の理由は、近衛の政治的指導力の問題である。従来、﹁先手﹂ 、 の若さで病死した。 る東亜同文会の創立の中心人物となったが、一九〇四年一月、四〇歳 運動に関わり、一八九八年、中国保全を掲げるアジア主義運動団体た 院議員で、一八九六年に貴族院議長に就任、近衛出生の頃から対外硬 育ての母は篤麿の再婚相手である生母の妹だった。父篤麿は当時貴族 記に﹁総理は閣僚よりの進言を少しも採用することなし。独裁もよい しかし、第一次近衛内閣期の一九三七年一一月、有馬頼寧農相の日 ら一九三一年まで東亜同文書院︵東亜同文会経営の上海所在の学校︶ 同文会副会長、一九三六年一二月に会長となり、その間一九二六年か 動の内容からわかるのみならず、一九二二︵大正一一︶年三月に東亜 近衛が父のアジア主義運動を継承していったことは、後述の言説活 が、少し度が過ぎはせぬか﹂とあり、事実上近衛の独断による政務遂 院長も務めたことから明らかである。 に等しい。 19 行の様子がうかがえ、元老西園寺公望も、翌年三月中旬に秘書の原田 熊雄に対し、﹁近衛もよくやつてゐてくれる﹂と、それなりに治績を 挙げていると述べている。近衛の政治家としての指導力についても再 20 一高等学校文科に入学した。ここで近衛は文学書や哲学書を読み漁っ 学習院中等科卒業後、高等科に進まずにあえて受験に挑み、旧制第 21 以上の問題意識にもとづき、本論文では、近衛の言説や行動につい が 出 て 来 た な ど の 理 由 で、 一 〇 月 に 京 都 帝 国 大 学 法 科 大 学 に 転 学 文科大学哲学科に進学するが、授業がつまらない、社会科学への興味 て思索に耽った。近衛は、一九一二︵大正元︶年九月、東京帝国大学 て、一九三一年九月の満洲事変勃発を境に二章に分けて俯瞰的に検討 する。 京 大 時 代 に は、 木 戸 幸 一、 原 田 熊 雄、 後 藤 隆 之 助、 西 園 寺 公 望 な なお、近衛の回想手記は前述のような問題点があるため極力使用せ らに、京大の教員である哲学者西田幾多郎や経済学者河上肇とも親し ど、以後友人や後援者として永く関係を保つ人々と出会っている。さ く交流した。近衛が西田から﹁正義人道﹂といった思想概念や思惟方 が、一九一三年三月二九日付の近衛の元家庭教師への書簡の﹁昨今小 る。 近 衛 文 麿 は、 五 摂 家 筆 頭 の 近 衛 家 当 主 公 爵 近 衛 篤 麿 の 長 男 と し て 近衛文麿像の再検討 生の志望は、全く経済学の専攻に有之︹中略︺人間としての最高生活 ま た、 河 上 と の 関 係 に つ い て は、 河 上 も 近 衛 も 回 想 で 触 れ て い る 法などで強い影響を受けたことはすでに明らかにされている。 26 25 一八九一︵明治二四︶年に東京で生まれた。生母は出産直後に死去し、 一 満州事変期まで ず、できるかぎり近衛の言説や行動をその時点で記録した史料を用い 24 し、紙数の関係で、主に第一次近衛内閣期までを対象とする。 23 − − 23 16 し、 近 衛 の 人 物 像 に つ い て の 認 識 を 深 め る き っ か け を 得 た い。 た だ 検討の余地があるといえる。 22 18 17 は矢張り宗教、哲学、芸術の精神界にあり、物質生活は其手段と心得 米正雄、山本有三らが始めたばかりの文芸雑誌である。 五月号と六月号に連載した。同誌は近衛の一高時代の友人であった久 近衛文麿像の再検討 居り、経済学も亦精神生活を助くる一方便として、其主要の目的は貧 困てふ現象の研究にあると確信致し︹中略︺価値、資本、利子等の理 論的のものが面白く御座候﹂という記述が当時の河上の研究状況と合 ければ、自分の様になれと強ゐもしない。却つて自分と異るの故を以 何ぞや、個人主義即ち是﹂ 、 ﹁真の人格﹂とは﹁常に他人に干渉もしな ﹁吾人の生活を充分に発達せしむるには、もつと必要なものがある。 33 に記したように、近衛は学部卒業後も河上を指導教 27 て考えるためにこの評論の翻訳を試みたことがうかがわれる。そして て他人を愛する﹂といった訳文から、近衛が社会と個人の関係につい 致しており、注 員として国家学の研究を目的に大学院に残っているので、近衛は河上 近衛がワイルドの論に共感していたことは、以後近衛が個人の内面的 次の彼の著述は、 ﹃日本及日本人﹄一九一八年一二月一五日号掲載 からもさまざまなことを学んだことは確実である。特に、当時から河 の有名な﹁英米本位の平和主義を排す﹂である。その主要部分は、 ﹁戦 上の代表作とされた﹃貧乏物語﹄の﹃大阪朝日新聞﹄連載開始が近衛在 を抑制すれば貧困を防ぐことができるという﹃貧乏物語﹄の結論は、 自由の尊重を主張していくことからわかる。 のちに近衛が首相を務める昭和戦時期の統制経済思想に大きな影響を 後の世界に民主主義人道主義の思想が益々旺盛﹂で、﹁之を国際的に 人道に合すと考ふるが如き趣あるを見て甚だ陋態﹂であり、﹁日本人 条件的無批判的に英米本位の国際連盟を謳歌し、却つて之を以て正義 進 む こ と を 決 意 し て い た と 考 え ら れ る。 近 衛 の 貴 族 院 議 員 就 任 は の正当なる生存権を確認し、此権利に対し不当不正なる圧迫をなすも 道徳の永遠普遍なる根本原理﹂であるが、 ﹁我国近時の論壇が﹂、﹁無 一九一六年一〇月で、当初は無所属で活動した。 と提唱している。 なお、京大では法科を選び、大学院でも国家学専攻志望であったこ ︵ ﹁社会主義下の人間の精神﹂一八九〇年刊︶の翻訳である。 Socialism” 耽美派的な作風で同性愛者としても知られたワイルドの作品︵小説、 とから、京大転学時までには世襲の貴族院議員として政治家への道に 見れば各国民平等生存権の主張とな﹂り、﹁かくの如き平等感は人間 与えただけでなく、 ﹁自制﹂論という形で近衛の以後の政治思想基調 学中の一九一六年九月一一日であることは注意を要する。富者が奢侈 5 戯曲、評論︶は、一八九七︵明治三〇︶年以降、日本で盛んに紹介さ Wilde,一 八 五 四 ∼ 一 九 〇 〇 ︶ の 論 文 、 ﹁平和主義 近衛の著述第一号は、イギリスの作家オスカー・ワイルド︵ Oscar のある場合には、飽く も之と争ふの覚悟なかる可らず﹂ “The Soul of Man Under と人道主義とは必しも一致せず﹂というもので、国際協調自体は﹁正 義人道﹂にかなっているので、日本は﹁平等生存権﹂を主張すべきだ 30 れるようになった。近衛は前記の評論を﹁社会主義論﹂という題で元 とはすでに明らかになっている。さらに言えば、この論文が発表され 海市京大教授が当時唱えていた﹁国民生存権論﹂の影響が見られるこ この論文にアジア主義、西田に刺激を受けた西洋哲学の知識、戸田 35 家庭教師の風見謙次郎の指導のもと邦訳し、 ﹃新思潮﹄の一九一四年 31 32 36 − − 24 34 28 の一つとなるからである。 29 た直後に近衛がパリ講和会議の西園寺公望日本全権の随員となってい の政治社会で容認されたことを意味している。 手段︵国民外交、公開外交︶の両者において、近衛の政治思想が日本 一方、近衛は、 ﹁あらゆる事物が因襲と不完全と不自然とに束縛さ ることから、西園寺を含む政界有力者や世論に対し、自分が随行する に足る見識を持っていることを示すために書いたと考えるのが適切で 外交の時代﹂で、﹁国民外交は公開外交﹂なので、﹁実力ある国民は外 月に帰国した。近衛は、パリ滞在中の雑誌寄稿の中で、 ﹁今日は国民 まっていた講和会議に参加、六月末の調印式後、欧米を巡遊して一一 近衛は一九一九年一月日本を出発し、三月にパリに着き、すでに始 となので、﹁師範教育を改善し﹂ 、 ﹁一層人間らしい教員を作る事が、 国教育上の、重大なる欠陥﹂は、 ﹁生徒を常に受動的の地位に置く﹂こ 事は、所謂危険思想の対抗策としても、亦必要﹂であり、さらに﹁我 慶事﹂ではないので、 ﹁抽象的教育を、常識教育に、改善すると云ふ り、青年の多くが、社会当面の利害に冷淡﹂なのは、﹁決して国家の 善である。一九二〇年七月の新聞寄稿において、﹁内外重要の時に当 れて﹂いる日本の﹁根本的改善﹂を主張しはじめた。一つは教育の改 交に勝ち、実力なき国民は外交に敗る﹂とした上で、日本外交の﹁無 目下の急務﹂と、当時の最新の教育学研究の動向をふまえつつ主張し ある。 に 進 歩 し 居 ら ﹂ な い 以 上、 能﹂は﹁国民全体の実力如何に帰着する﹂とし、﹁人類は未だ正義人道 ﹁正義人道の美名に空頼みして力の養成を忘﹂れてはならないと主張 持のために一九二一年九月に財団法人日本青年館が設立された際、設 その後、近衛は、各地の青年団の要請により日本青年館の建設・維 た。国民力の向上のための教育改善が主張されていることがわかる。 のみ活きて国家的利害打算を超脱する している。近衛は、パリ講和会議で国際交渉の実相を見た結果、国民 立者の一人に名を連ね、内紛で辞職するまでの約三年間、初代理事長 事や事務職員には、後藤文夫、志賀直方︵志賀直哉のおじ︶、後藤隆 外交の時代にあっては、国民全体の力量の向上が日本の生存権を国際 一九二三年二月一九日の貴族院本会議において、近衛を筆頭発議者 之 助 な ど、 以 後 近 衛 の 周 囲 で 活 動 す る 人 々 が い た 点 で も 留 意 に 値 す で可決され、その場で加藤友三郎首相も決議案に賛成した。近衛の外 ラシム﹂べし、という内容を持つ﹁外交ニ関スル決議案﹂が全会一致 経済的生存ノ意義トニ鑑ミ対外国策ヲ確立シ東洋平和ノ基礎ヲ強固ナ 楠︵右翼活動家、貴族院議員︶ 、阿部重孝︵教育学者︶ら共に近衛の名 ら︶が中心となって一九三〇年に成立した組織で、吉野作造、井田磐 表したが、同会はまさに日本青年館の関係者︵後藤隆之助、後藤文夫 一九三一年五月、教育研究会という組織が﹁教育制度改革案﹂を発 る。 交論が、民選議院ではないとはいえ、公開の席で議会という国家組織 がある。しかも、この案は、現行教育制度の欠点として﹁画一ノ弊﹂ 、 とし、﹁国際政局ニ於ケル帝国ノ地位及其ノ責任ノ重大ナルト国民ノ 44 には右の引用部分は収録されていない。 社会に認めさせるための前提条件だとみなしたのである。なお、外遊 43 として在任した。社会教育への強い関心がうかがわれるが、同館の理 42 の意志となり、それを政府も認めたことは、内容︵生存権の主張︶と 近衛文麿像の再検討 40 45 − − 25 41 37 中の文章を集めて翌年に出版された近衛初の著書﹃戦後欧米見聞録﹄ 39 38 ﹁知育偏重﹂、 ﹁教員ニ其ノ人ヲ得ザルモノ多シ﹂など、近衛の持論を として当事者の自発性の尊重を主張している点は、近衛の他の言説と 件作りという見地からの議論であることがわかる。また、改善の手法 近衛文麿像の再検討 取り入れた部分も多く、近衛がその後も教育改善に関心を持ち続けて 共通しており、これはもはや近衛の政治的信念というべき考え方と判 本の﹁議会政治責任内閣の発達﹂のため﹁二重政府﹂という﹁変態﹂を 日の如き八方塞り世界的孤立の状勢を誘致するに至つた﹂として、日 略主義は日露戦争後二十年間極東の舞台を事実上支配して其結果は今 参謀本部については、一九二一年一〇月の講演で﹁日本の軍国主義侵 著 し い 割 合 に 議 員 の 素 質 が 進 ま な い ﹂ こ と、 ﹁政党政治の弊害意外に ﹁議会の審議はホンの形式的となつた﹂こと、 ﹁一般国民の文化的向上 多くな﹂り、﹁有らゆる問題は議会が中心となつて処理する﹂ため、 ある。近衛は、一九二三年一月の新聞寄稿において、﹁国務の範囲が 注意すべきことは、近衛は衆議院を無条件で肯定していないことで 断できる。 防ぐために参謀本部を﹁責任政治の組織系統内に引き入れる﹂よう制 甚大﹂なことを指摘し、国民の質についても﹁日本青年が︹中略︺現代 もう一つは統治機構の改善で、参謀本部と貴族院が問題とされた。 いたことがわかる。 度を改正することを主張した。国論の統一という観点から統帥権の独 立を問題視したのである。 の如く抽象的空理空論に走るときは国家の前途が憂へられる﹂と、改 城を構えて﹂、﹁動もすれば陰険 はないので﹁実質の改善﹂以外に﹁良策はない﹂とするにとどまってい を得ないが、改善策については、 ﹁現在の代議制度に代るべき良制度﹂ 第二次近衛内閣期の近衛の政治改革論とのあまりの類似に驚かざる 善の必要性を主張している。 閥﹂の﹁残党は貴族院と枢密院とに にして無暗に政府 す﹂が、﹁憲法上解散を命ぜら 貴族院については、一九二二年一月の新聞寄稿において、﹁官僚軍 49 が横暴専恣の極度に達した時﹂を除き、 ﹁貴族院の権限を或る程度に いので、﹁謂はれなき憲法改正の大事が企てられた際とか或は衆議院 に衝突し頻々として政府弾劾を敢てする如きは憲政上の危険﹂が大き るゝことのない我が貴族院が其の憲法上の保障を 事︶の一人として参加したのもその路線上のできごとと位置づけられ ナリスト、代議士の有志で結成された新日本同盟に、近衛が幹部︵幹 る。一九二五年一二月、 ﹁党弊﹂改善などを目標に、内務官僚、ジャー 51 まり、原則として貴族院は自主的に衆議院の意志を尊重すべしと主張 るから﹂、﹁先づ議員各自の自制に依つて理想の域に到達し度い﹂ 、つ 制限﹂すべきであるが、 ﹁現行制度﹂の改正は﹁行はれ難い事情も存す 際 も、 近 衛 は、﹁ 議 員 各 自 が 自 制 す る や う に し た ら 自 然 に 品 位 は 向 一九三一年二月、議会での乱闘事件によって政党政治批判が高まった る。 し か し、 そ の 活 動 を 通 じ て も 妙 案 が 浮 か ば な か っ た こ と は、 52 近 衛 の 政 治 制 度 改 革 論 を こ こ ま で の 文 脈 上 で 解 釈 す れ ば、 国 民 外 とする諸外国の上院改革史を紹介する大著﹃上院と政治﹄を出版し、 近衛は、一九二四年末に、三〇〇頁近くにわたってイギリスを中心 上﹂と自制論を対策として主張するにとどまったことからわかる。 交、公開外交の前提として、日本の国家意思の正当さを主張できる条 した。 53 48 54 − − 26 46 なる手段を弄して政府毒殺の企てを 50 47 衆議院と正面衝突をする可能性を多からしめる﹂ので、 ﹁貴族院は自 本の現状をふまえ、﹁国民の輿論を代表する政府与党の多数を占める 寄稿した。同論文では、イギリスの上院史と政党内閣の成立という日 翌年一一月には、﹁我国貴族院の採るべき態度﹂を﹃東京日日新聞﹄に 見せたが、会運営の実権は依然水野が握っており、近衛も普選法が通 し、自身の研究会脱会をほのめかして通過に同意させるなどの活躍を 年三月には普通選挙法案の貴族院通過に際し、研究会内の反対派に対 その後近衛は一九二四年五月に研究会の筆頭常務に就任、一九二五 60 政府及びその与党を離れつゝある﹂場合を除き、﹁衆議院に於ける時 輿論を指導し是正するの機能を有す﹂べきで、 ﹁国民の意志が明かに れず、常に衆議院に対する批判牽制の位置を保つと同時に一面民衆の ら節制して、如何なる政党の勢力をも利用せず、またこれに利用せら 公侯爵議員による新会派火曜会を結成した。その結果、研究会は内部 月に相談役に棚上げされたことをきっかけに、翌年一一月に脱会して の政権割込み工作に関与することになり、一九二六︵昭和元︶年一一 過して護憲三派内閣の連立がくずれて憲政会単独内閣となると研究会 の多数党﹂に﹁頑強に反対してこの志を阻むやうなことがあつてはな は達成されたのである。 分裂が激化し、政局への影響力をほぼ失なった。事実上貴族院の自制 論壇誌﹃中央公論﹄誌上で﹁近代精神の要求に通じた至当の明論﹂と絶 のである。この論文を、当時民本主義論の旗手だった吉野作造が有力 仲間の岡部長景に﹁将来議長になつて見たい﹂と述べている。貴族院 に就任したが、一九三〇年一二月、就任説が浮上した際、近衛は華族 に示している。 議長は代々公爵が務めており、前述のように父篤麿も在任した。政党 者と位置づけた上で、貴族院の非政党化と自制を理論的に正当化した 一九三一年一月、政府や徳川家達貴族院議長の意向で貴族院副議長 らない﹂と主張した。貴族院の役割を世論や衆議院勢力の思想的指導 63 62 賛したことは、近衛の貴族院論が当時の論壇で認められたことを如実 64 内閣時代にあって、持論に従って政党に所属せずに貴族院の自制を実 行するには議長が最適な立場であることを近衛が認識していたことが の指導者に担ごうと入会を勧誘したのである。しかし、近衛は入会理 研究会の事実上の指導者だった水野直は、世評 平和ヲ確保スル﹂という一節があり、文脈上﹁諸国又諸地方諸地域﹂ ニシテ特殊ナル関係ヲ持続セネバナリマセヌ︹中略︺以テ東洋永遠ノ 自存自衛ノ経済的発展ニ資スルノ諸国又諸地方諸地域トハ、常ニ密接 一九二三年の﹁外交ニ関スル決議案﹂の趣旨説明の中に﹁我ガ国民ノ 本 章 の 最 後 に 近 衛 の 対 中 政 策 論 に つ い て ふ れ て お き た い。 前 出 の わかる。 由を﹁単に批評家として言論を吐いてゐるには無所属も良いが実際の 近衛文麿像の再検討 一人である侯爵蜂須賀正韶が行ったものであるが、近衛が筆頭発議者 仕事をするには多数の力が必要﹂とし、﹁或程度の自由を保持し自分 回のため、近衛を会 65 に中国が含まれていることは疑いない。趣旨説明自体は共同発議者の をしばしば衆議院と対立させて世論から批判を浴びていた。そこで、 は、貴族院の院内最大会派である研究会に入会した。研究会は貴族院 さ ら に 近 衛 は 持 論 実 現 の た め に 行 動 し た。 一 九 二 二 年 九 月、 近 衛 57 の考へを実現する事に努め」ると主張したので、貴族院を自制させる 58 ため、最大会派の幹部となるべく入会したことがわかる。 59 − − 27 61 55 56 近衛文麿像の再検討 である以上、近衛もこれに同意していたと考えられる。 ついで、一九二六年五月の雑誌の誌上討論の中で、近衛は、 ﹁道理 ある支那の国民的希望に対しては同情と好意を以て之を迎へ、其の実 現に向つて十分援助﹂すべきと述べている。﹁道理ある﹂希望に対応す ると留保付であることが注目される。前出の決議の趣旨説明をふまえ れば、日本の既得権益は確保するという意図が込められているとみな 自制が必要だという、体系的な政策論を主張していた。そして、世襲 華族という立場で持論を実現するため、貴族院の動向の主導権を握る べく試行錯誤を続けたのである。 二 満州事変の衝撃 満 洲 事 変 は 近 衛 の 言 説 や 行 動 に い か な る 影 響 を 与 え た の だ ろ う か。 近衛は一九三一年八月中旬以降、陸軍のクーデター未遂事件である三 本は土地狭く人多く単に経済的の方面のみから見るも真に行詰りの状 さらに、一九二九年四月に東亜同文書院新入生への訓辞で、 ﹁我日 を 持 っ て い た こ と は、 一 九 三 二 年 一 月、 内 政 外 交 の 危 機 を﹁ 日 本 精 と一一月中旬に政民連立内閣工作を試みていた。しかし相当の危機感 発後も、木戸幸一︵内大臣秘書官長︶や原田熊雄︵西園寺公望秘書︶ら 月事件について詳細を知るようになったが、九月一八日の満洲事変勃 される。 する支那と提携﹂するのは﹁真に意義のある事柄﹂だが、﹁今や支那は 態に在﹂るので、﹁広大無辺の天然資源を有し、又無限の購買力を有 国民的に目覚め不平等条約の撤廃﹂を﹁熱心に主張﹂しているため、 者 と し、 内 務 官 僚 を 主 な 構 成 員 と す る 私 的 結 社 国 維 会 が 結 成 さ れ た 神﹂による﹁維新﹂で打開することを掲げ、陽明学者安岡正篤を主宰 那人の為めに頼み甲斐のある親友となりて彼の為めに又我が為めに尽 す ﹂ べ き だ と、 日 本 の 経 済 進 出 の 対 象 と し て 中 国 を 確 保 す る 必 要 性 こうした中、近衛は軍部と接触しはじめる。遅くとも一九三二年二 際、近衛も理事に名を連ねたことに表れている。 月初めには小磯国昭陸軍省軍務局長、永田鉄山同局軍事課長と接触が も、日本の既得権益は確保しつつ、経済進出の対象としての中国との 要するに、近衛の対中政策論は、中国の自発的発展には賛同しつつ た 平 沼 騏 一 郎 枢 密 院 副 機 長 を、 ﹁平沼一派の陰謀に対する﹂ 、 ﹁先手﹂ 会内閣︶の荒木貞夫陸相を推したり、陸軍内部で首班待望論が出てい 始まり。同月下旬になると、近衛は次期首班として当時︵犬養毅政友 と、中国にその役割を悟らせる必要性を主張している。 70 ﹁排外又排日の風潮が至る所に弥漫して居﹂るので、﹁卒業後は常に支 69 発言力を得るためには、個人の自発性尊重という信念から、日本の置 思想によって日本の生存権要求を正当化し、日本が要求実現に必要な 以上のように、満州事変勃発前の近衛は、 ﹁正義人道﹂という政治 には荒木や陸軍省軍務局新聞班の鈴木貞一とも接触しはじめ、陸軍の 述べるなど、軍部の政治進出を許容するようになった。遅くとも四月 として宮中入りさせるべきだという意見を内大臣の側近である木戸に 72 かれた状況を自覚し、自発的に協力できる資質の高い国民の創出と、 間に対ソ軍備を充実する間、当時対日批判を強めていたアメリカとの 政党政治否認論や政策構想について理解を深め、一〇月には今後二年 74 国論統一に必要な政治改革が必要であり、そのためには利害関係者の 75 73 − − 28 68 66 関係強化を主張するというものであった。 71 67 て直接行動の勃発を促した﹂と、過激行動に対する融和策の必要性を が﹁相当峻烈を極め﹂たため、﹁危険分子をやや焦燥ならしめ、かへつ 防止しえた﹂のに対し、前年の血盟団事件連座者に対する海軍の方針 ど内部の過激な動きに対し﹁慰撫に努力﹂し﹁直接行動の勃発を多少 また、五・一五事件が起きると、近衛は、陸軍が前年の三月事件な き、風俗を敦く﹂し﹁国体観念の明徴と日本精神の長養とを重ずる﹂ 、 育については﹁道徳心を長養し、徳操を磨き、智見を高め、世務を開 さらに、同じ号に掲載された﹁国維会研究案 国政革新の要訣﹂に は、内閣制度については国務大臣と各省長官の分離と少数閣僚制、教 論を、満州事変を契機として、否定論にまで強化したのである。 米批判論、アジア主義論、生存権論にもとづく国際協調路線への懐疑 き方途を考ふべき﹂と、非は欧米列強にありと主張した。かつての英 ので、 ﹁欧米の識者は、宜しく反省して﹂ 、 ﹁真の世界平和を実現すべ 知人に主張した。さらに、一九三三年一〇月に荒木陸相が﹁今日の不 関係改善を図るという陸軍の方針を荒木から聞いている。 安な空気を一掃するため﹂に左翼右翼の収監者を赦免することを近衛 外交については﹁国際正義に基く東洋民族の解放と提携﹂と﹁東洋諸 国 と の 経 済 的 共 存 共 栄 の 実 現 ﹂ を﹁ 国 是 ﹂ と す る こ と な ど が 主 張 さ に提案した際、﹁考えておかう﹂と拒否していないことは、以後これ 元老西園寺は、近衛の親軍化に歯止めをかけようと、将来の内大臣 が近衛の持論となる点で見逃せない。 就任を含みとした貴族院議長への棚上げをもくろんだが、その実現を れた。 本案は、満州事変後、日本の国際的孤立が深まり、政党内閣復活も の平和﹂で、国際連盟や不戦条約を﹁真の平和を実現する力を有する 近衛は、一九三三年元旦付の国維会の機関誌に寄せた巻頭論文﹁真 い︶と高い資質の国民を創出し、そうした内閣制度や国民が目標実現 力な指導力が自然と形成されるのでこのような内閣制度改正は必要な ために、強力な非政党内閣︵政党内閣では与党党首が首相となって強 きる。すなわち、日本を中心とするアジア独自の国際秩序形成実現の 期待できない中で、満州事変の肯定を前提とする危機打開策と解釈で や﹂と否定し、﹁真の平和は、戦争の原因となるべき不合理なる国際 に 向 か っ て 一 致 団 結 し て 作 動 し て い く た め の 政 治 信 条︵ イ デ オ ロ 企図せし所以﹂と、満州事変を生存権主張の立場から肯定し、 ﹁真の して待つて居る訳には参らぬ。これ吾人が万難を排して満州に進出を く其経済生活を圧迫﹂されているので﹁此二大原則の実現を、便々と 容ばかりであり、右の近衛論文と国維会の政策構想は、近衛の新しい 高調、﹁国際正義﹂という言葉の登場など、以後近衛の持論となる内 ることが明白である上、その他の部分も、内閣制度改正や日本主義の この政策案は、外交策や教育策の一部に近衛の持論が反映されてい ギー︶として天皇を活用していくという構想である。 世 界 平 和 の 実 現 を 最 妨 げ つ ゝ あ る も の は、 日 本 に 非 ず し て 寧 ろ 彼 等 政策的方向性が一九三二年末から三三年初頭までに定まったことを示 とすべき﹂だが、 ﹁我国民は、年々百万に近い人口の増加により甚し 間の現状を、調節改善する事によりてのみ実現し得る﹂ので、日本は 待たずに近衛は新たな行動を開始した。 80 ﹁今後の国際会議﹂において﹁常に資源公開人種平等の二大原則を旗印 79 ︹欧米︺である事は、十年前の巴里︹講和︺会議能く之を証﹂している 近衛文麿像の再検討 − − 29 76 78 77 近衛文麿像の再検討 改造せよ︱偽善的平和論を排撃す︱﹂を、代表的大衆雑誌﹃キング﹄ の同年二月号に寄稿した。同論文では、かつての﹁英米本位の平和主 している。 ちなみに、近衛自身の文章における﹁国際正義﹂という言葉の初出 義を排す﹂と同論文との共通性を明言し、生存権論の説明の中で﹁持 近衛は、同年六月に貴族院議長に就任したが、その前後から首班説 てる国﹂ ﹁持たざる国﹂という図式をはじめて用いている。 が、その説明の過程で﹁社会正義﹂という言葉も近衛の文章では初め が現れ始めた。五月に松井石根が近衛と原田と会食時に提案したのが ふ が 如 き こ と な く、 均 等 の 機 会 を 供 与 す る ﹂ こ と と 定 義 さ れ て い る て使われ、 ﹁各人各様、その性格性能を存分発揮出来るやうに、均等 史料上の初出で、七月末、民政系内務官僚の大物伊澤多喜男による近 は一九三六年一月の雑誌寄稿で、﹁伸びんとする国々に干渉圧迫を加 の機会を与へる﹂ことと定義されている。個人の尊重という彼の政治 盟脱退大アジア団結が叫ばれるに至り﹂、 ﹁大アジア協会﹂の第一回創 ﹁国際政局の重大危機に直面してわが学界、華族、軍部等各方面に連 下村宏などの例が確認できる。さらに、一九三三年一月二六日には、 後、政治学者で東京帝大法学部教授の蝋山政道や朝日新聞編集委員の いても、日本の生存権の立場から肯定する議論は、一九三二年六月以 進出論は満州事変以前から学界や言論界で現れており、満州事変につ 考えではなかった。そもそも日本の生存権を肯定する立場からの大陸 もちろん右の国維会の政策構想は近衛や国維会の構成員たちだけの 就任時の政策構想を示唆するものと考えるべきである。 従って、少なくとも三四年春以降の近衛の言説は、すべて将来の首相 接触しているので、近衛がこの動きを知っていたことは間違いない。 近衛内閣の閣僚名簿まで作っている。原田や鈴木は当時近衛と頻繁に 雄、鈴木貞一、志賀直方、小林順一郎︵元陸軍軍人の右翼運動家︶が 時の斎藤実内閣の退陣が 会に発展するのだが、これも近衛首班説を意識しての動きであった。 研究会をはじめ、当初は近衛も出席していた。これがのちに昭和研究 推していたが、一〇月には、後藤隆之助が、蝋山政道を中心に政策の 近衛自身は﹁軍を抑へ得る﹂という理由で次期首班に平沼騏一郎を 衛次期首班説が報じられたのが報道面の初出である。 立委員会が開かれ、陸軍の松井石根中将、日本史家の平泉澄東京帝大 的信念がにじみ出ている。 89 88 文学部教授、広田弘毅前駐ソ大使らとともに近衛の名もあった。満州 91 さ れ 始 め た 一 九 三 四 年 二 月 に は、 原 田 熊 92 事変肯定に伴うアジア主義論は政界や論壇で有力な流れとなりつつ はこれを目して国力を無視した予算﹂だと﹁批評する者があるが、そ 同年九月末、陸海軍の大幅な予算増額要求に関し、 ﹁為政者の中に なる。 並に支那と提携しないとはだれが断言し得よう﹂と、陸軍案を積極的 くて日米の重大な危機が到来する﹂が、﹁この際米国はソヴイエツト あった。当然、近衛は同年五月の役員改選を機に設立以来務めてきた 90 れこそ認識不足﹂とし、アメリカが﹁不況を克服して経済的に立直つ 82 た場合、宿望の太平洋上の制覇権獲得に全力をあげる事は必然で、か 93 83 国 際 連 盟 協 会 の 理 事 を 退 任 し て い る。 近 衛 の 政 界 及 び 論 壇 で の 位 置 94 − − 30 81 は、時流への便乗者ではなく、むしろ時流の源泉の一つだったことに 85 84 近衛は、前出の﹁真の平和﹂の内容を敷衍した論文﹁世界の現状を 87 86 問題を片づけて日満ブロツクを完成し︹中略︺その相合した大きな力 際、内には国論を統一して、全国民打つて一丸となり、外には、満州 の翌年︺には、前古未曾有の国難が来るものと思はねばならぬ。この そして一〇月の雑誌寄稿では、 ﹁一九三六年︹海軍軍縮条約の失効 いる。近衛は陸軍の政策構想を現在の日本に必要であるとしつつも、 首相の下に政策立案機関を作ることと事実上の少数閣僚制を提唱して 能であるという前提の上で、政治的主導権を政治家に回復するため、 軍の政策構想を肯定しつつも、政党政治による国論統一はもはや不可 近衛は、国際情勢が日本にとって極めて不利であるという理由で陸 すでに斎藤首相に提案したと述べている。 で、三年後に迫る危険なる峠を見事に飛び越すべく腹を決すべきこと それを円滑に実現していくのは政治家の役割だと考えたのである。た さらに一一月の政治評論家たちの対談記事では、﹁政党政治に愛想 勢力が結成され﹂るべきという抽象論にとどまっていた。 らせることもよろしい﹂と親軍政権論を主張するか、あるいは﹁新興 て、反発的行動に出でしめるより、硬派に責任をもたせて、穏健にや だし、政権を担うべき政治勢力像については、 ﹁濫りに硬派を排斥し なる。随て政界が浄化される﹂として﹁非常に普通選挙の結果を期待 を尽か﹂し、﹁普通選挙になれば買収などゝいふものに手が届かなく 主張している。 を、今から国民に警告する﹂と、かなり明確に国家主義的な革新論を に肯定する発言が報道された。 97 ︹中略︺政党の人と較べると、それよりも遥に勉強もして居るし、又 として政党政治に強い拒否反応を示す一方、﹁最近軍部の若い連中は 回となると段々悪くなつて、買収も盛に行はれるやうになつて来た﹂ して居つた﹂が﹁第一回の選挙は相当に成績が好かつたが、二回、三 を重ねて帰国した。連盟脱退や満州国承認、華北への進出といった日 大統領をはじめとするアメリカ政府の要人やジャーナリストらと懇談 の長男文隆のハイスクール卒業式出席を名目に渡米し、ルーズベルト 一九三四年五月一七日から八月一日にかけて、近衛は、米国留学中 99 98 者による﹁ブレーン・トラスト﹂を作って﹁其処で総ての国策を総合 ある方に引張られてしまふ﹂から、﹁総理大臣の下に﹂軍部も含む中堅 防計画を樹て、その国防計画に都合の好い国策を作﹂るので、﹁案の の政治家がその国策を考へないのだから、軍部はどうしても自分で国 の国策に依つて軍部が国防を樹てるといふのが理想ですが、今日はそ そして当面の対策として、﹁政治家が国策を考へ︹中略︺その政治家 が、﹁溌溂たる国家主義﹂をうたっているところに、個人の自覚や自 と は 出 来 な い ﹂ と、 国 家 主 義 に よ る 国 論 統 一 の 緊 急 性 を 強 く 訴 え た 我を理解せしめぬ以上は、不安・不愉快な国際的現状から脱却するこ たる国家主義である。我々は速かに之に依つて国論を統一し、世界に に対抗するために、 ﹁ 個 人 の 独 創、 個 人 の 相 違 を 認 め る と こ ろ の 溌 溂 論に注意を促すとともに、一二月の雑誌寄稿で、アメリカの対日批判 その状況を政府への意見書にまとめ、しかもそれを公表して日本の世 本の外交政策へのアメリカの厳しい世論を目の当たりにした近衛は、 して樹て﹂ることを提唱し、さらに﹁閣内に陸海軍大臣、大蔵大臣、 発性を尊重する近衛の政治的信念がうかがわれる。 本も読んで居る﹂と軍の動きを肯定的に評価した。 100 外務大臣、総理大臣で一種の国防、外交の最高の会議を作﹂ることを 近衛文麿像の再検討 102 101 − − 31 95 96 ところの平和原則を克服して我々独自の見識から新しい国際平和の原 三五年一一月には若者向けの講演で、 ﹁我々は現状維持を基礎とする もちろん近衛自身も中国に対して満州国承認を求める立場であり、 ﹁人権宣言の思想﹂から導き出される、人権を人類の至上価値とする て も 個 人 の 尊 重 を 主 張 し て い る の で、 こ こ で 否 定 さ れ て い る の は、 説を明確に否定した。近衛はすでに見てきたように国家主義下におい せて行かなければならない﹂と、国家主義的立場から美濃部の憲法学 近衛文麿像の再検討 則を考へ出し、これを世界に向つて大胆率直に問ふ﹂べきだと、日本 というような文脈における﹁個人主義﹂と考えられる。 108 が新しい国際秩序形成の主導者となるべきことを聴衆に呼びかけた。 103 これは、前年の訪米時にアメリカの朝野から﹁従来の︹国際︺原則に 元老西園寺は時局収拾の切り札として近衛を天皇に首班として推薦 一九三六年二月、二・二六事件が勃発、事件終結直後の三月四日、 切って辞退した。表向きの理由は健康問題であったが、実際は西園寺 し、 陸 軍 も 近 衛 首 班 を 強 く 要 望 し た が、 近 衛 は 西 園 寺 の 説 得 を 振 り そして日本陸軍の華北分離工作が進行した一九三七年一月の雑誌寄 との政治路線の違いであることは当時から新聞で報じられていた。 そのものであり、この論文は実質的には華北分離工作を正当化するも びかけた。ただし、日本資本による中国の資源開発とは華北分離工作 い﹂と哲学的な言い回しで日中提携の必要性の自覚を日中両国民に呼 ものは、真に日・満・支の三国民であることに目覚めなくてはならな に冠たる東洋人の本然に立ち還り﹂、 ﹁アジア民族の運命を担うて立つ しなければならない。思索生活に於て、特に反省の道徳に於て、世界 支の経済提携﹂を提唱し、﹁我等は、今こそ静かに東洋の現状を正視 ように、近衛が陸軍皇道派との関係を絶つと西園寺側が見込んで推薦 ﹁嘗てよりも少い﹂と述べたのをうけて西園寺が近衛推薦を決心した また部内における勢力もかねてのやうなことはない﹂ので﹁危険﹂は いて、﹁荒木がほとんど世間から反乱軍側の者であるやうに見られ、 ことや、三月四日当日、原田が西園寺に、近衛と﹁軍との関係﹂につ の状態になる﹂と、反乱派への融和としての﹁改革﹂を主張している ても﹂ 、 ﹁改革を行はなかつたら、又々第二第三の事件が起り、 事 件 直 後 の 息 子 文 隆 へ の 手 紙 で、 ﹁たとひ今度の関係者を悉く銃殺し のセンチメントもあり、社会には歴史もある﹂ので、 ﹁個人主義、自 このことは、近衛が第一次内閣でたびたび退陣しようとしたことの意 首相の座に執着しないという近衛の政治的信念も浮き彫りとなった。 そして、今回の首相候補辞退の過程で、政見実現の見込がなければ とがわかる。 由主義、人権宣言流の考へ方を克服して、日本独自の憲法学を発展さ 底した合理主義﹂とし、﹁人間は理性ばかりではない。その他に色々 111 革命 のであったため、当然のことながら中国各紙はこれに強く反発した。 したことから、皇道派を政界から排除するか否かが相違点であったこ 前述のように近衛が以前から過激派への融和策を唱えていたこと、 110 一 九 三 五 年 二 月 に 天 皇 機 関 説 事 件 が 起 き る と、 八 月 の 雑 誌 談 話 で これを供給し、支那側の労力と協同してその開発に当る﹂という﹁日 稿では、﹁無尽蔵﹂な﹁支那の天然資源﹂を、﹁資本、技術等は日本が は日本にあり﹂と言われたことから生まれた発想と考えられる。 109 誤りありとすればそれを指摘しこれに代るべき新原則を樹立する責任 104 ﹁美濃部学説の根本﹂は﹁仏蘭西革命の人権宣言の思想﹂のような﹁徹 112 − − 32 105 107 106 味を考える上で留意に値する。 ない﹂と述べている点である。後の新体制運動の発想の原点というべ 視野に入れた貴族院改革を提唱した。しかし、一九三六年五月貴族院 が、二・二六事件直後に近衛は職能議員︵職能団体の代表︶の導入も 策だった林銑十郎も議会と決定的に対立した。西園寺は、陸軍が近衛 西園寺だが、もう一人の切札だった宇垣一成が組閣に失敗し、次善の さて、近衛の親軍化、右傾化を警戒して首班への推薦を控えていた き主張として注目される。 での改革促進決議後、総てを政府に託してしまったこと、前述のよう 首班実現を要路に要請し、次善の策として陸相杉山元の首班を考えて なお、政党内閣の断絶によって貴族院自制論は意味を失なっていた に政治制度に関する当時の近衛の主な関心事が内閣制度だったことを いることを知り、軍事政権をきらう西園寺はやむなく昭和天皇に対し の安寧向上﹂を主張したことである。これが一九三四年一〇月に陸軍 ているが、内政については新しい論点が二つある。一つは﹁国民生活 内容を総合すると一九三三年一月以降の外交、内政論の集大成となっ 日新聞﹄の三紙に事実上の巻頭論文を寄稿するまでになる。それらの され、一九三七年正月には、﹃読売新聞﹄、 ﹃中外商業新報﹄、 ﹃東京朝 年八月に近衛の主要な論文や随筆を集めた﹃近衛文麿清談録﹄が出版 首相候補辞退を契機に近衛の社会的存在感はさらに大きくなり、同 内閣は激しい権力闘争の結果生まれたのである。 なく﹁国民にはよく分らない舞台裏の事情﹂と分析したように、この され、蝋山政道も﹁近衛内閣の成立﹂の﹁真因﹂は﹁国民的人気﹂では わ ち、 新 聞 で﹁ 近 衛 内 閣 こ そ は、 実 に 軍 部 が 選 ん だ 国 防 内 閣 ﹂ と 評 ため、近衛は所信を実行できると考えて受諾したと判断できる。すな 回は前回と異なり、近衛に対し西園寺から何等の条件提示もなかった 六月四日、圧倒的な国民的歓迎の中、第一次近衛内閣が成立した。今 近衛を首班に推薦し、今度は近衛も受諾した。こうして、一九三七年 考えると、どの程度熱意があったか疑わしい。 が 出 し た い わ ゆ る 陸 軍 パ ン フ レ ッ ト の﹁ 国 民 生 活 を 維 持 向 上 せ し め 118 113 つゝ、真に必要なる国防力を充実せんが為め﹂の﹁厖大なる経費︹中 では、早速、国際収支の適合、生産力拡充、物資需給の調節という財 など陸軍の要望を承認した上で組閣し、六月四日の組閣当日の初閣議 実際、近衛は、国体明徴、国防充実、政治刷新、 ﹁国民生活の安定﹂ 119 略︺に堪へ得る如き経済機構の整備は、現在の如き非常時局に於ては 121 もう一点は、政権の理想像について、﹁立憲政治の本義の埒外に出 義﹂ 、﹁対内関係﹂は﹁社会正義﹂に即すとした上で、施政の最重点を いた。そして、その夜のラジオ演説で近衛は、 ﹁対外関係﹂は﹁国際正 し な が ら も、 ﹁或る程度の計画経済の実現を必要﹂とすると考えて 政経済三原則が決定され、政府としては国民の自覚創意を期待すると 122 は﹂、 ﹁国民生活が直接政治の上に自由に発言する権利を与へる機会を ことは一目瞭然である。 123 づることは許されない﹂が、 ﹁時流を達観して非常時局を克服するに 116 多からしむる﹂という﹁基礎の上に挙国一致、一切の勢力を渾然融合 乗り切り、国運の発展を期しようではありませんか﹂と国民に呼びか ﹁各方面の相剋摩擦の緩和﹂とし、 ﹁どうか協力一致して此の非常時を 近衛文麿像の再検討 せしめた力の集団をして、施政の任に当らしむる以外に何等の方途は 124 − − 33 117 120 114 当然第一に考慮せらる可き問題﹂という主張を取り入れた主張である 115 軍拡遂行のため、国民負担の平準化を代償とする国民負担増を予告し けた。近衛は、陸軍の意向をふまえ、対外強硬路線とそれを支える大 初ハ左程強イ意味ハナカリシモ議会ノ関係ニ於テ非常ニ堅苦シキモノ ズ﹂という第一次近衛声明について、後に近衛が昭和天皇に対し﹁最 し た が っ て、 一 九 三 八 年 一 月 一 六 日 の﹁ 爾 後 国 民 政 府 ヲ 対 手 ト セ 近衛文麿像の再検討 たのである。 では独裁的にやらねば徹底的の整理は不可能﹂と、緊急の重要懸案に と﹁余り船頭が多過ぎても結局は議論倒れ﹂になるので﹁或る程度ま 思ひ切つて整理すれば必ず出来る﹂とし、﹁調査会﹂で﹁衆智を集める﹂ に関連して、近衛は﹁既にいけないといふことだけは判つて居るから 四月、時の第二次若槻内閣の﹁行財政並に税制の三大整理﹂の進め方 では、近衛はどうやって公約実現を図ろうとしたのか。一九三一年 日の第二次近衛声明、いわゆる﹁東亜新秩序声明﹂となった。 兆銘引き出しによる親日中央政権樹立工作が進められ、同年一一月三 件であったことからも傍証できる。結局は蒋政権がこれに応じず、汪 に蒋政権との交渉再開を認めた際に蒋の下野が正式交渉開始の必要条 ぎと認めたという意味である。それは、同年五月就任の宇垣一成外相 トナレル﹂と述べたのは、蒋政権と交渉すらしないとした点を行き過 132 133 は組閣当初から華北分離工作の支持継続を表明し、中国側の親日地方 第一次近衛内閣組閣直後の七月七日に日中戦争が勃発するが、近衛 を哲学的見地から正当化することで国是化し、国民に負担強化への協 が創造﹂されるべきで、それが﹁如何なる犠牲を求め﹂るかへの﹁徹底 ジオ演説では、 ﹁国際正義﹂に基き﹁歴史の発展に併行する新平和体制 る﹂と、日中戦争を世界史的視野から正当化し、国民の自覚による協 史 の 本 流 に 於 て、 真 の 国 際 正 義 を 主 張 せ ん と す る も の ﹂ と し た 上 で に伴う講演︵ラジオ中継された︶では、近衛は、日中戦争を﹁世界歴 的である。そして、一九三七年九月一一日の国民精神総動員運動開始 拾を図るため、中国に対して強硬態度に出たと解釈するのが最も説得 の新体制運動以後となり、その結果同年一〇月に大政翼賛会が創設さ ある。結局近衛がこの構想の実現に乗り出すのは一九四〇年六月開始 も、そして一般国民をも包含するものでなければならなかったからで 得られるものもなかった。近衛の政界再編論は新党ではなく、軍も官 各種の近衛新党工作があったが、近衛が主導したものも近衛の納得を ﹁相剋摩擦の緩和﹂に関して、二・二六事件以後第一次内閣期まで 135 127 ﹁ 国 家 に 対 す る 自 覚 の 深 ま る 所、 そ こ に 国 家 総 動 員 は 俟 た ず し て 成 力を求めたのである。 せる理解﹂を国民に求めた。従来の持論をふまえ、 ﹁東亜新秩序﹂政策 認めつつも、日満支提携による新秩序建設を主張し、当日の近衛のラ 同声明では、蒋下野を条件とする蒋政権の親日中央政権への合流を 134 政権解消要求を無視した。さらに、盧溝橋事件勃発直後、七月一一日 数の関係でごく大雑把な俯瞰を試みたい。 ついて首相の独裁を肯定する指導者論を述べていたこともふまえ、紙 126 の閣議で陸軍の派兵要求が承認され、近衛が各界代表を招いて政府へ 128 の協力を要請したのは、陸軍の方針に従い、華北を維持しつつ早期収 129 結局﹁相剋摩擦の緩和﹂について、第一次内閣で近衛が採った方策 れることになる。 勢で臨んでいたのである。 136 − − 34 125 力を呼びかけた。すなわち近衛は首相として当初から蒋政権に強硬姿 131 130 は、まず陸軍皇道派の政治的復権で、一九三七年九月二七日に真崎甚 だ し 宇 垣 は、 失 言 を き っ か け に 閣 内 で 孤 立 し、 九 月 二 九 日 に 辞 職 し 蔵相兼商相とし、財界や反近衛派を含む全勢力の包含に成功した。た のである。内閣改造では、宇垣を外相に、荒木を文相に、池田成彬を 命をきらったが、近衛が退陣をちらつかせたためやむなく受け入れた ど、政党、軍、財界から一〇名を任命した。陸軍が荒木の内閣参議任 して当時政界における反近衛派の首相候補と目されていた宇垣一成な 池田成彬、皇道派指導者の一人荒木貞夫、海軍艦隊派の末次信正、そ 閣参議設置と翌年五月の内閣改造である。内閣参議には、財界の大物 系を支持し、その実現に自分が役立つと考えた時、首相となり、所信 た。近衛は新しい状況下における所信実現の手段として陸軍の政策体 壊 と い う、 所 信 実 現 の 前 提 条 件 が 変 っ た と い う 認 識 に よ る も の だ っ 具体的な政策が変ったのは、英米中心の国際協調体制や政党政治の崩 に対し、自覚の上での国家への協力を呼びかけ続けた。満州事変後に 民の質の向上を主張した。そして、個人の尊重という信念から、国民 ﹁ 国 際 正 義 ﹂ と い う 政 治 思 想 で 正 当 化 し、 そ の た め の 国 論 一 致 及 び 国 本の生存権を国際社会に認めさせる必要性を、﹁正義人道﹂すなわち 以上の第一次近衛内閣期までの俯瞰からわかるように、近衛は、日 おわりに た。一九三九年一月の近衛退陣時に、宇垣辞職が近衛の辞意を固める 実現のために指導力を発揮した。つまり、第一次近衛内閣期までの近 三郎の軍法会議無罪を実現した。ついで一〇月一四日に準閣僚級の内 一因と報じられたが、納得できる説明である。 の後身で、近衛も参加していた教育改革同志会も求めていた義務教育 育審議会の設置にあたって、会長を首相と別人として審議と政局を切 を実現した。挙国一致方策としての教育改革は、一九三七年一二月教 関係各省間の権限争いを近衛が裁定して一九三八年一月の厚生省設置 その他の個別の政策に関してであるが、 ﹁社会正義﹂については、 整﹂が、三国軍事同盟、日ソ中立条約、北部仏印進駐、大本営政府連 強化﹂ 、﹁日ソ国交関係の問題﹂ 、 ﹁南方方策の確立﹂ 、﹁国務と統帥の調 業 中 の 陸 海 外 相 予 定 者 と の 会 談 で の 合 意 事 項 中、 ﹁日独伊三国関係の 内閣の際も同じだったことは、大政翼賛会の創設のみならず、組閣作 の政治家だったのである。そして、一九四〇年七月発足の第二次近衛 衛は、意志薄弱でも優柔不断でもポピュリストでもなく、有言実行型 また、重要対外政策については四相会議や五相会議で事実上決定す 敗戦によって内外に莫大な犠牲を生じさせ、国際社会から厳しい批判 日中戦争を収拾できずに英米を敵とする太平洋戦争を始め、惨憺たる 稿で、 ﹁外交を一国の利害から出発させないで、思想的イデオロギー るなど少数閣僚制も実行した事も含め、近衛は、日中戦争勃発という 近衛文麿像の再検討 程度実現したのである。 を浴びることになったからである。清沢冽が一九三七年三月の雑誌寄 ただし、その結果は近衛が望んだようなものではなかった。日本は 絡会議の設置として実現したことでわかる。 144 予定外の事態に遭遇しながらも、持論や組閣時の重要公約をかなりの 学校設置などをもたらした。 143 − − 35 138 り離した上、異例にも天皇の上諭を仰いだ。同審議会は、教育研究会 139 137 年限延長や教育内容の改革、教員養成制度の改革案を打ち出し、国民 145 142 141 140 ︵ ︵ 近衛文麿像の再検討 B で進む場合には、そこには止まる限界がなくなる﹂と警告していたこ とをふまえ、その原因を考えてみると、近衛の言説と行動は、当時の 国際常識ではもはや認められない対外侵略を国内的に美化して日本の 軍事・外交の失敗を隠 する効果を持っただけでなく、国論統一の手 段としての政党政治を否定した結果、政権交代や政策決定の責任を天 皇にあからさまに負わせることになったため、国家としての柔軟な、 あるいは画期的な政策転換を困難としたのではないかという仮説が立 てられる。しかし、その検証や、さらに、太平洋戦争末期に昭和天皇 に対し、戦時中の自己の治績を共産主義者の陰謀によるとして事実上 ︵ − − 36 否 定 し た、 い わ ゆ る﹁ 近 衛 上 奏 文 ﹂ を ど う 考 え る べ き か と い う 課 題 は、別の機会に譲らざるを得ない。 ︵ 4 3 2 1 注 ︵ 輪 宗 弘﹁ 日 独 伊 三 国 同 盟 締 結 時 に お け る、 日 独 伊 ソ 構 想 へ の 疑 問 ﹂ ︵ ﹃ 日 本 大 学 生 産 工 学 部 研 究 報 告 ﹄ 二 五 ︱ 一、 一 九 九 二 年 ︶ 二 八 ∼ 二九頁。 また、青年期についての回想としてよく利用される、近衛の﹁我が 遍歴時代﹂ ︵ ﹃文芸春秋﹄一九三三年九月号︶には、 ﹁京都︹京都帝国大 学︺で一年先生︹河上肇︺の書斎に出入りしてゐるうちに先生は海外 へ旅行され、縁が切れ﹂ ︵一九五頁︶たとあるが、杉原四郎・一海知義 編﹃河上肇 自叙伝﹄ ︵五︶ ︵岩波書店 一九九七年︶四二六頁の注記に よれば、一九一七年七月の近衛の京大卒業時に河上が近衛の大学院で の指導教員となっており、縁が切れたというのは虚偽である。このよ うな操作が行われた背景として、河上が一九三三年一月に治安維持法 違反で検挙され、八月七日に懲役五年の有罪判決を受けたこと︵住谷 悦治﹃河上肇﹄吉川弘文館 一九六二年、二五一頁︶は留意に値する。 ︵ ︶ ﹁ 近 衛 文 麿 像 の 再 検 討 ︱ 対 外 認 識 を 中 心 に ︱﹂ ︵近代外交史研究会編 ﹃ 変 動 期 の 日 本 外 交 と 軍 事 ︱ 史 料 と 検 討 ︱﹄ 原 書 房 一 九 八 七 年 ︶ 、 ﹁日中戦争の勃発と近衛文麿の対応︱不拡大から﹁対手トセス﹂声明へ ︱﹂ ︵ ﹃新防衛論集﹄一五︱三、一九八八年︶ 、 ﹁日中戦争の勃発と近衛 文 麿﹁ 国 際 正 義 ﹂ 論 ︱ 東 亜 新 秩 序 へ の 道 程 ︱﹂ ︵ ﹃ 国 際 政 治 ﹄ 九 一、 一九八九年︶ 、 ﹁近衛文麿の対米観︱二度の訪米を中心として︱﹂ ︵﹃外 交時報﹄一二八五、一九九二年︶ 、﹁ ﹃近衛上奏文﹄の再検討︱国際情勢 分析の視点から﹂ ︵ ﹃国際政治﹄一〇九、一九九五年︶ 、﹁近衛文麿の対 米観︱﹁英米本位の平和主義を排す﹂を中心として︱﹂ ︵長谷川雄一編 ﹃大正期日本のアメリカ認識﹄慶応義塾大学出版会 二〇〇一年︶。 ︵ ︶筒井清忠﹃近衛文麿︱教養主義的ポピュリストの悲劇﹄︵岩波書店 二〇〇九年︶三〇五頁。 ︵ ︶服部龍二﹃広田弘毅﹄ ︵中央公論新社 二〇〇八年︶一五九、一九七 頁、前掲筒井書一九六頁、田原総一朗・井上寿一・庄司潤一郎﹁近衛 文 麿 内 閣 の 教 訓 ︱ 軍 官 僚 よ り 害 を な し た﹁ 政 治 家 の 大 衆 迎 合 ﹂ ﹂ 6 7 8 146 ︶今津敏晃﹁近衛文麿﹂ ︵御厨貴編﹃宰相たちのデッサン﹄ゆまに書房 二〇〇七年︶二〇七頁。 ︶近 衛 文 麿 伝 記 編 纂 刊 行 会・ 矢 部 貞 治﹃ 近 衛 文 麿 ﹄ 上︵ 弘 文 堂 一九五二年︶二∼三頁。岡義武﹃近衛文麿﹄ ︵岩波書店 一九七二年︶ もこれに近い ス タ イ ル で あ る 。 ︶主要なものは伊藤武編﹃近衛文麿清談録﹄ ︵千倉書房 一九三六年︶に 収録されてい る 。 ︶﹁元老・重臣と余﹂ ︵﹃改造﹄一九四九年一二月︶ 、 ﹃平和への努力﹄ 、 ︵日 本電報通信社 一九四六年︶、﹃失はれし政治﹄ ︵朝日新聞社 同年︶ 、 ﹃最後の御前 会 議 ﹄ ︵時局時報社 同年︶などが著名である。 ︶第二次近衛内閣期の日米交渉についての近衛の太平洋戦争期執筆の手 記﹁三国同盟に就て﹂ ︵﹃失はれし政治﹄に収録︶が事実関係と矛盾して おり、それが結果的に責任回避につながっていることについては、三 5 ︵ ︵ 25 24 23 26 27 ︵ ︵ ︵ ︵ ︶同右一〇五頁。転学経緯の詳細については別の機会に検討したい。 ︵ ︶各人と知遇を得た経緯については、とりあえず前掲杉森書を参照。 ︵ ︶中西寛﹁近衛文麿﹁英米本位の平和主義を排す﹂論文の背景﹂ ︵ ﹃法学論 叢﹄一二三︱四・五・六、一九九三年︶二四五∼二四六頁。 ︵ ︶近 衛 文 麿﹁ 我 が 遍 歴 時 代 ﹂ ︵﹃ 文 芸 春 秋 ﹄ 一 九 三 三 年 九 月 ︶ 一 九 四 ∼ 一九五頁、前掲﹃河上肇 自叙伝﹄ ︵五︶ ︵一九九七年︶四九∼五〇頁。 ︵ ︶風見謙次郎宛近衛文麿書簡︵杉森﹃近衛文麿﹄一〇五∼一〇六頁︶ 。た だし、国立国会図書館憲政資料室蔵﹁伊藤隆旧蔵近衛文麿関係文書﹂ 所収の筆写本︵目録番号三五六、筆写者不明︶で補訂。 ︵ ︶以後、河上については住谷悦治﹃河上肇﹄ ︵吉川弘文館 一九六二年︶ による。 ︵ ︶牧 野 邦 昭﹃ 戦 時 下 の 経 済 学 者 ﹄︵ 中 央 公 論 新 社 二 〇 一 〇 年 ︶ 、特に 一一∼一七頁。 ︵ ︶以上、荒井良雄﹁オスカー・ワイルドの世界︱﹃ワイルド全集﹄ ︹復刻 版︺解説﹂ ︵矢口達編﹃ワイルド全集﹄第五巻、日本図書センター 一九九五年︶ 。 ︵ ︶平井博﹁日本における Oscar Wilde ﹂ ︵同﹃オスカーワイルド考﹄松柏 社 一九八〇年︶ 。 ︵ ︶前掲杉森書一一三頁所載の、一九一三年一〇月三日付、および一〇月 二二日付風見謙次郎宛近衛文麿書簡で、近衛が訳稿のチェックを風見 に依頼していたことがわかる。 ︵ ︶前掲﹁我が遍歴時代﹂一九四頁。 ︵ ︶近衛文麿訳﹁社会主義論︵オスカア・ワイルド︶上︵ THE SOUL OF ︱ OSCAR WILDE. ︱︶ ﹂ ︵ ﹃新思潮﹄一九一四 MAN UNDER SOCIALISM 年五月︶四、八、一三頁。 ︵ ︶近衛文麿﹁英米本位の平和主義を排す﹂︵ ﹃日本及日本人﹄一九一八年 一二月一五日︶二三∼二四頁。 ︶中西寛﹁近衛文麿﹁英米本位の平和主義を排す﹂論文の背景﹂ ︵ ﹃法学論 ︵ − − 37 ﹄二〇一〇年一月号︶一四二∼一四三頁。 ︵﹃ Voice ︶ 前掲筒井書三 〇 一 頁 。 ︶清 澤 冽﹁ 近 衛 公 の 思 想 的 背 景 ︱ 心 臓 は 右 翼 に、 頭 は 自 由 主 義 に ︱﹂ ︵﹃日本評論﹄一九三七年七月号︶一五〇頁。 ︶ ﹁日曜評論 近衛首相への期待﹂ ︵ ﹃読売新聞﹄一九三七年六月六日付朝 刊︶二面。 ︶前掲﹁近衛公の思想的背景﹂一五四頁。 ︶近 衛 文 麿﹁ 支 那 事 変 二 周 年 に 際 し て ﹂ ︵ ﹃ 銀 行 通 信 録 ﹄ 六 四 三 号、 一九三九年八月二〇日︶五頁。題名の後に﹁ ︵昭和十四年七月七日国民 精神総動員中央連盟主催支那事変二周年記念講演会講演︶ ﹂ ︵四頁︶と ある。 ︵ ︶ Gordon.M.Berger “Japan’s Young Prince Konoe Fumimaro ’ s Early Political Career 1916-1931” Monumenta Nipponica XXIX:4, 1974. ︵ ︶注 の文献の中で庄司潤一郎氏がポピュリスト説に同意しているのは その一例であ る 。 ︵ ︶筒 井 清 忠﹃ 昭 和 十 年 代 の 陸 軍 と 政 治 ﹄ ︵ 岩 波 書 店 二 〇 〇 七 年 ︶ 第 五 章、第七章。 ︵ ︶伊 藤 隆 ほ か 編﹃ 有 馬 日 記 ﹄ 三︵ 山 川 出 版 社 二 〇 〇 〇 年 ︶ 四 三 一 頁 ︵一九三七年一一月一六日条︶。 ︵ ︶原田熊雄述﹃西園寺公と政局﹄第六巻︵岩波書店 一九五一年︶二六四 頁︵一九三八年三月一六日条︶。 ︵ ︶山本茂樹﹃近衛篤麿﹄︵ミネルヴァ書房 二〇〇一年︶ 、特に巻末年譜 参照。 ︵ ︶東亜文化研究所編﹃東亜同文会史﹄霞山会 一九八八年︶六〇三頁。 ︵ ︶以上、霞山会編刊﹃東亜同文会史・昭和編﹄二〇〇三年︶四〇、一六二 頁。 ︵ ︶杉森久英﹃近衛文麿﹄ ︵河出書房新社 一九八六年︶所載の、元家庭教 師︵風見謙次郎︶あての多数の書簡を参照。 近衛文麿像の再検討 8 28 29 30 31 32 34 33 35 36 10 9 11 13 12 14 15 16 17 18 19 21 20 22 ︵ ︵ ︵ ︵ 近衛文麿像の再検討 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︶近衛文麿﹁貴族院の改善﹂︵ ﹃東京毎夕新聞﹄一九二二年一月六日付夕 刊︹五日発行︺ ︶一面。 ︶同右﹁代議制度の本義︵上︶ ﹂ ︵同右一九二三年一月九日付︹八日発行︺︶ 一面。 ︶一九四〇年八月二八日、第一回新体制準備会開催に際しての近衛首相 の 声 明︵ 下 中 弥 三 郎 編﹃ 翼 賛 国 民 運 動 史 ﹄ 翼 賛 運 動 史 刊 行 会 一九五四年、八三∼八六頁︶ 。 ︶近衛文麿﹁代議制度の本義︵下︶ ﹂ ︵﹃東京毎夕新聞﹄一九二三年一月 一〇日付︹九日発行︺ ︶一面。 ︶河 島 真﹁ 新 日 本 同 盟 の 基 礎 的 研 究 ﹂ ︵ ﹃紀要﹄ ︹神戸大学文学部︺ 四〇、二〇一三年︶ 。 ︶ ﹁ 新 聞 も 野 次 を 黙 殺 せ よ 貴 族 院 副 議 長 近 衛 文 麿 公 ﹂ ︵ ﹃東京朝日新 聞﹄一九三一年二月二日付朝刊︶二面。 ︶日本読書協会会報臨時号として同会事務所から刊行された。 ︶同 紙 一 九 二 五 年 一 一 月 二 一、 二 二、 二 三、 二 四 日 の 各 朝 刊 二 面 に 連 載。近衛自身がこれらをまとめて出版した小冊子﹃我国貴族院の採る べき態度﹄が国立国会図書館にある。 ︶前掲﹃我国貴族院の採るべき態度﹄ 、一〇、一五頁。 ︶吉野作造﹁近衛公の貴族院論を読む﹂ ︵ ﹃吉野作造選集﹄ 岩波書店 一九九六年、初出は﹃中央公論﹄一九二六年一月︶一三〇頁。 ︶内藤一成﹃貴族院﹄ ︵同成社 二〇〇八年︶一二七頁。 ︶ ﹁賛美と罵りが渦巻く 一人一党主義を棄て =研究会に馳せ参じた= 若い近衛公が その抱負は恁う ﹂︵ ﹃読売新聞﹄一九二二年九月二八 日付朝刊五面︶ 。 ︶前掲内藤書一四八頁。 ︶ ﹁ 近 衛 公 の 奔 走 勅 選 横 暴 を 慨 し 幹 部 を 動 か す ﹂︵ ﹃東京朝日新聞﹄ 一九二五年三月二九日付朝刊︶二面。 ︶﹁いよ〳〵政友本党へ 連立内閣交渉 近衛公、水野子の橋渡しで − − 38 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 4 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 叢﹄一二三、四・五・六、一九九三年︶ 。 ︶﹁西侯随員決定﹂ ︵﹃東京朝日新聞﹄一九一八年一二月二八日付朝刊︶二 面。 ︶近衛文麿﹃戦後欧米見聞録﹄ ︵外交時報社 一九二〇年、中央公論社 一 九 八 一 年 ︶、﹁ 帰 朝 せ る 近 衛 文 麿 公 ﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄一九一九年 一一月二二日付朝刊︶五面。 ︶近 衛 文 麿﹁ 巴 里 よ り ﹂ 上︵﹃ 太 陽 ﹄ 一 九 一 九 年 八 月 一 日 ︶ 一 六 五 ∼ 一六七頁。 ︶当 該 会 議 の 議 事 録︵ 国 立 国 会 図 書 館 ホ ー ム ペ ー ジ﹁ 帝 国 議 会 会 議 録 データベース﹂︶。 ︶近衛文麿﹁不愉快な日本を去るに際して﹂ ︵ ﹃婦人公論﹄一九二〇年二 月号︶二〇頁。 ︶同右﹁日曜論壇 教育の改善﹂︵﹃国民新聞﹄一九二一年七月三日付朝 刊︶五面。 ︶三好信浩編﹃日本教育史﹄ ︵福村出版 一九九三年︶一七〇∼一七四頁。 ︶田澤義舗﹃青年団の使命﹄ ︵日本青年館 一九三〇年︶六七頁、熊谷辰 治郎編刊﹃大日本青年団史﹄ ︵一九四二年︶一五六∼一五八頁、一八七 ∼一九一頁。後藤隆之助については内政史研究会編刊﹃後藤隆之助氏 談話速記録﹄ ︵一九六八年︶三七∼五七頁。 ︶ 八 本 木 浄﹃ 両 大 戦 間 の 日 本 に お け る 教 育 改 革 の 研 究 ﹄ ︵日本図書セン ター 一九八二年︶九八頁。 ︶教育研究会﹁教育制度改革案﹂︵石川準吉編﹃綜合国策と教育改革案﹄ 清水書院 一九六二年︶七〇三頁。 ︶講演原稿﹁国際連盟の精神について﹂ ︵国会図書館憲政資料室蔵﹁近衛 文麿関係文書﹂マイクロフィルム︶ 。冒頭でパリ講和会議を﹁一昨年﹂ としているので、一九二一年一〇月一二日、愛媛県松山における国際 連盟協会主催講演会での近衛の講演︵ ﹁国際連盟趣旨宣伝﹂ ﹃大阪朝日 新聞﹄一九二一年一〇月一一日付朝刊四国版︶の原稿とわかる。 ! 48 49 50 51 52 53 55 54 57 56 59 58 61 60 62 37 38 39 40 41 42 44 43 45 46 47 先づ床次総裁に非公式交渉 本党側回答を保留す﹂ ︵同右一九二六年 五月一七日付朝刊︶二面。 ︵ ︶以上、前掲内藤書一六三∼一六四頁。 ︵ ︶﹁貴院副議長 候補者 結局近衛公か﹂ ︵同右一九三〇年一二月二二日 付朝刊︶二面。 ︵ ︶尚友倶楽部編﹃岡部長景日記﹄ ︵柏書房 一九九三年︶四八一頁︵同年 一二月二日︶。 ︵ ︶﹁ 誌 上 討 論 支 那 国 民 革 命 運 動 ﹂ ︵ ﹃財政経済時報﹄一九二六年五月︶ 二六頁。 ︵ ︶前掲﹃東亜同文会史 昭和編﹄九二四頁。 ︵ ︶木 戸 日 記 研 究 会 編﹃ 木 戸 幸 一 日 記 ﹄ 上︵ 東 京 大 学 出 版 会 一 九 六 六 年︶、九三∼九四、九七頁︵一九三一年八月一二日、九月九日条︶ 。 ︵ ︶小山俊樹﹃憲政の常道と政党内閣﹄ ︵思文閣出版 二〇一二年︶第六章。 ︵ ︶引用も含め、﹃国維﹄創刊号︵一九三二年六月︶二頁︵ ﹁国維会の趣旨﹂ ︶ 。 ︵ ︶﹃木戸日記﹄上一三四頁︵一九三二年二月三日条︶ 。 ︵ ︶同右一四二頁︵同年二月二三日条︶ 。 ︵ ︶前掲﹃西園寺公と政局﹄第二巻︵一九五 年 ? ︶二二四頁︵同年二月二五 日条︶。 ︵ ︶以上、同右二五二∼二五四頁︵同年四月四日条︶ 。 ︵ ︶一九三二年三月九日には、木戸と近衛は他の華族仲間とともに永田か ら 陸 軍 の 内 情、 政 党 観、 政 策 に つ い て 詳 細 な 説 明 を 聴 取 し て い る ︵﹃木戸日記﹄上、一四七∼一四八頁︶ 。 ︵ ︶ ﹃西園寺公と政局﹄第二巻、三九四頁︵一九三二年一〇月三〇日条︶ 。 ︵ ︶小山完吾﹃小山完吾日記﹄ ︵慶應通信 一九五五年︶一二∼一三頁。 ︵ ︶﹃西園寺公と政局﹄第三巻︵一九五一年︶一六〇頁︵一九三三年一〇月 一二日条︶。 ︵ ︶同右第二巻二五〇、二六〇頁︵一九三二年三月二六日、四月六日条︶ 。 ︵ ︶以上、﹃国維﹄八、二頁、四頁。 近衛文麿像の再検討 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︶近衛文麿﹁国際正義と日本の立場﹂ ︵ ﹃実業之世界﹄一九三六年一月︶ 一二頁。 ︶建部遯吾﹃応用社会学十講﹄ ︵同文館 一九二七年︶、小汀利得﹃内外 経済の諸問題﹄ ︵平凡社 一九三一年︶などの例が確認できる。 ︶マイルズ・フレッチャー︵竹内洋・井上義和訳︶ ﹃知識人とファシズム ︱近衛新体制と昭和研究会﹄ ︵柏書房 二〇一一年、原著一九八二年︶ 五九∼六〇頁。 ︶下村宏﹃世界と日本﹄︵朝日新聞社 一九三二年六月︶。下村も満州事 変以前から生存権論にもとづく大陸進出肯定論を主張していた︵同書 一頁︶ 。 ︶ ﹁ 大 ア ジ ア 協 会 創 立 昨 夕、 初 の 委 員 会 ﹂ ﹃東京朝日新聞﹄ 一九三三年一月二七日付朝刊三面。 ︶この点についての詳細は、松浦正孝﹃ ﹁大東亜戦争﹂はなぜ起きたのか ︱汎アジア主義の政治経済史﹄ ︵名古屋大学出版会 二〇一〇年︶を参 照。 ︶ ﹁ 本 協 会︹ 国 際 連 盟 協 会 ︺ ニ ユ ー ス ﹂ ︵ ﹃国際知識﹄一九三三年五月︶ 一五〇頁。 ︶﹃西園寺公と政局﹄第三巻七六頁︵同年八月一一日条︶。 ︶﹁政界漫談 疑問の大同団結 次期政権に何んと 後藤文夫氏説 裏 から見た此頃の政府・政党・軍部︻七︼﹂ ︵﹃読売新聞﹄同年七月二九日 付朝刊︶二面。 ︶﹃西園寺公と政局﹄第三巻四九頁︵同年三月二八日条︶。 ︶﹁酒井メモ﹂ ︵昭和同人会編﹃昭和研究会﹄経済往来社 一九六八年︶ 八四頁など︵同年一〇月九日、二〇日条など︶ 。 ︶﹁近衛内閣の成立を語る 成 = 立の経過・意義及び其の前途 ﹂ =︵﹃東洋経 済新報﹄一九三七年六月一二日付︶二六頁における蝋山政道の発言。 ︶伊 藤 隆・ 佐 々 木 隆 編﹁ 鈴 木 貞 一 日 記︱ 昭 和 九 年︱ ﹂ ︵ ﹃史学雑誌﹄ 八七︱四、一九七八年︶六六頁︵一九三四年二月二一日条︶ 。 − − 39 81 82 83 84 85 86 87 89 88 91 90 92 93 64 63 65 66 68 67 73 72 71 70 69 75 74 78 77 76 80 79 近衛文麿像の再検討 ︵ ︶前掲﹁鈴木貞一日記﹂及び﹃西園寺公と政局﹄第三巻参照。 ︵ ︶﹁新邸に納つて 近衛公時局談 軍部予算膨張に 非難は認識不足 寥々たる真の為政家﹂︵﹃報知新聞﹄一九三三年九月二九日付朝刊︶二 面、 ︵ ︶近衛文麿﹁国民精神の眼覚め﹂ ︵﹃日の出﹄同年一〇月︶六〇頁。 ︵ ︶﹁近衛公と﹁非常時局﹂を語るの会﹂ ︵ ﹃政界往来﹄同年一一月︶四四∼ 五二頁。 ︵ ︶近衛文麿﹁随感随想﹂ ︵﹃連合情報﹄一九三五年六月︶五九頁。 ︵ ︶﹁ 二 大 政 党 は 既 に 夢 大 衆 は 新 興 勢 力 待 望 軽 井 沢 に て 近 衛 公 語 る ﹂ ︵﹃読売新聞﹄一九三六年八月三日付朝刊︶二面。 ︵ ︶その概要については、とりあえず前掲矢部﹃近衛文麿﹄上の﹁五 ア メリカに行く﹂。 ︵ ︶﹁政府に提出された 近衛公の意見書 軍縮外七項目に亙り 当局の 注意を喚起﹂ ︵﹃東京朝日新聞﹄一九三四年八月八日付夕刊︹七日発行︺ ︶ 一面。 ︵ ︶近衛文麿﹁国家主義の再現﹂ ︵﹃維新﹄同年一二月︶六一頁。 ︵ ︶前掲﹃東亜同文会史 昭和編﹄九三一頁︵初出は﹃支那﹄一九三三年五 月︶。 ︵ ︶近衛文麿﹃国際平和の根本問題﹄ ︵自費出版︶五五頁。論文冒頭に﹁昭 和十年十一月二十二日於日本青年館講演﹂とある。 ︵ ︶﹁日本の増率要求を 米国一般的に理解 ﹁全然理由なし﹂とせず ニ ユーヨークでの感想 近衛文麿︵稿︶ ﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄一九三四年七 月二日付朝刊︶二面。 ︵ ︶近衛文麿﹁東亜の危機に際して日支両国の識者に望む﹂ ︵前掲﹃東亜同 文会史・昭和編﹄︶九六七∼九六八頁︵初出は﹃支那﹄一九三七年一月︶ 。 ︵ ︶﹁近衛公の所論に対する支那各方面の反響﹂ ︵同右、初出は﹃支那﹄同 年二月号︶。 ︵ ︶近衛文麿﹁山荘閑話﹂ ︵﹃実業の日本﹄一九三五年八月一五日︶一九頁。 ︵ ︶ ﹃木戸日記﹄上、四七二頁︵一九三六年三月三日条︶ 。 ︵ ︶ ﹁近衛公拝辞事情﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄同年三月五日付朝刊︶二面。 ︵ ︶同年三月一三日消印近衛文隆宛近衛文麿書簡︵前掲杉森﹃近衛文麿﹄ 三二一頁、前掲﹁伊藤隆旧蔵近衛文麿関係文書﹂所収の筆写本︹目録 番号三五六、筆写者不明︺で補訂︶ 。 ︵ ︶ ﹃西園寺公と政局﹄第五巻︵一九五一年︶一二∼一三頁︵一九三六年三 月四日条︶ 。 ︵ ︶ ﹁貴革調査会設置に 近衛議長も気乗薄 責任分担を回避す﹂ ︵﹃東京 朝日新聞﹄一九三六年六月七日付夕刊︹六日発行︺ ︶一面。 ︵ ︶ ﹁我が政治外交の指標﹂ ︵﹃東京朝日新聞﹄一九三七年一月一日付朝刊︶ 一五面、 ﹁現代の政情を憶ふ﹂ ︵ ﹃中外商業新報﹄同年一月一、三、四日 付朝刊︶各二面、 ﹁内外時局を論ず﹂ ︵ ﹃読売新聞﹄同年一月三∼五日付 朝刊︶各二面。 ︵ ︶前掲﹁我が政治外交の指標﹂。 ︵ ︶陸軍省新聞班﹃国防の本義と其強化の提唱﹄ ︵一九三四年一〇月︶一八 ∼一九頁。 ︵ ︶前掲﹁我が政治外交の指標﹂。 ︵ ︶ ﹃ 西 園 寺 公 と 政 局 ﹄ 第 五 巻 三 一 一 ∼ 三 一 三、 三 二 〇 ∼ 三 二 二 頁 ︵一九三七年五月一八、一九、三〇、三一日条︶ 。 ︵ ︶一例として、 ﹁近衛内閣歓迎 各地いづれも賛成﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄同 年六月二日付朝刊︶八面。 ︵ ︶ ﹁近衛内閣と軍部 好意は即ち期待 広義国防の確立へ﹂︵ ﹃読売新聞﹄ 同年六月七日付朝刊︶一面。 ︵ ︶ ﹁ 近 衛 内 閣 の 成 立 と そ の 前 途 上 国 民 的 輿 望 と の 矛 盾 蠟 山 政 道 ﹂ ︵同右同年六月八日付朝刊︶二面。 ︵ ︶ ﹁陸軍の主張 国防充実・生活安定等﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄同年六月二日 付朝刊︶二面。同面掲載の﹁陸軍の主張は承認 閣僚に兼任なし 近 衛公・本部で語る﹂も参照。 − − 40 111 110 109 112 113 114 116 115 118 117 119 120 121 122 95 94 97 96 99 98 100 101 103 102 104 105 106 107 108 ︵同右同年六月五日付朝 ︵ ︶﹁ 新 財 経 策 の 三 点 大 蔵、 商 工 両 相 提 示 す ﹂ 刊︶二面。 ︵ ︶﹁計画経済実現へ 国民の自覚創意に待つ﹂同右二面。 ︵ ︶近衛文麿﹁新内閣の方針﹂ ︵﹃日本及日本人﹄同年七月︶二頁。 ︵ ︶﹁三大整理への期待と希望︻二︼ 無任所大臣を置きたい 貴族院議員 公爵近衛文麿 ﹂ ︵﹃読売新聞﹄一九三一年四月二六日付朝刊︶二面。 ︵ ︶﹁現下政局の懸案 首相所信を語る﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄一九三七年六月 一三日付朝刊︶二面。 ︵ ︶﹁ 日 支 国 交 調 整 へ 交 渉 再 開 の 準 備 成 る 速 に 現 状 打 開 を 熱 望 王 ︹寵恵︺外交部長、重大言明﹂ ︵同右同年六月一九日付朝刊︶二面。 ︵ ︶とりあえず前掲矢部﹃近衛文麿﹄上の﹁七 第一次近衛内閣﹂参照。 ︵ ︶近衛文麿﹁時局に処する国民の覚悟﹂ ︵国民精神総動員大演説会︶ ︵ ﹃斯 民﹄一九三七年一〇月号︶五∼六頁。 ︵ ︶本 講 演 の 草 稿 は 近 衛 の 指 名 に よ り 中 国 問 題 研 究 家 中 山 優 が 執 筆 し た ︵中山優﹃中山優選集﹄中山優選集刊行委員会 一九七二年、二七五 頁︶が、中山はこの直前に東亜同文会発行の雑誌﹃支那﹄九月号に論 文﹁日本は斯く歩む︱北支事変の文明史的意義を闡明し日支両国の識 者に訴ふ﹂を掲載しており、これ︵掲載誌奥付に八月二五日納本とあ る︶を近衛が読んだ上で依頼したと考えられるので、近衛の意向が反 映されたもの と 判 断 で き る 。 ︵ ︶沢田茂﹃参謀次長沢田茂回顧録﹄ ︵ 芙 蓉 書 房 一 九 八 二 年 ︶ 一 一 一 頁 ︵﹁参謀次長上奏控﹂一九四〇年二月二一日条︶ 。 ︵ ︶劉傑﹃日中戦争下の外交﹄ ︵吉川弘文館 一九九五年︶一九四頁。 ︵ ︶同右二三四頁。 ︵ ︶﹁首相・世界に告ぐ 真の戦は今始まれり 防共緊密世界秩序再建に 邁進﹂ ︵﹃東京朝日新聞﹄一九三八年一一月四日付夕刊︹三日発行︺ ︶一 面。 ︵ ︶拙著﹃戦時議会﹄︵吉川弘文館 二〇〇一年︶ ﹁第二 日中戦争期の戦 近衛文麿像の再検討 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 時議会﹂参照。 ︶加藤陽子﹃模索する一九三〇年代﹄ ︵山川出版社 一九九三年︶第五 章、第六章。 ︶ ﹁小川平吉日記﹂ ︵小川平吉文書研究会編﹃小川平吉関係文書﹄一、み すず書房 一九七三年︶四一一頁︵一九三八年九月二三日条︶。 ︶ ﹁ 漸 次 迫 力 を 喪 失 遂 に 新 鋭 と 交 代 近 衛 内 閣 総 辞 職 ま で ﹂ ︵ ﹃東京朝 日新聞﹄一九三九年一月五日付夕刊︹四日発行︺ ︶一面に﹁近衛内閣の 相貌は、九月末の宇垣外相の辞任を転機として何となく衰頽のいろを 漂はせた﹂とある。 ︶ ﹁ 結 局 首 相 の 裁 断 ﹃ 保 健 社 会 省 ﹄ 妥 協 案 の 縺 れ 永 井 逓 相 強 硬 に 反 対﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄一九三七年一二月二四日付夕刊︹二三日発行︺ ︶ 一面。 ︶ ﹁教育審議会設置に 優渥なる上諭 官制公布、委員決定﹂ ︵同右同年 一二月一一日付朝刊︶三面、前掲八本木書二四六頁。 ︶ ﹁教育改革への一指針 英才の養成より 社会人の完成へ 近衛新首 相を会長とする 同志会の草案成る﹂ ︵ ﹃報知新聞﹄同年六月六日付朝 刊︶二面、相澤 ﹁近衛首相と安井文相﹂ ︵ ﹃帝国教育﹄同年七月︶二五 頁。 ︶前掲八本木書第八章参照。 ︶ ﹁四首脳意見完全に合致 国防・外交の基本確立 近衛公組閣第二段 階へ﹂ ︵ ﹃東京朝日新聞﹄一九四〇年七月二〇日付朝刊︶二面。 ︶なお、大政翼賛会に関する近衛の動向については、拙稿﹁新体制運動 の歴史的意味﹂ ︵ ﹃歴史と地理﹄六七二、二〇一四年三月︶を参照され たい。 ︶清沢冽﹁イデオロギー外交の危険性︱非常時外交清算の必要︱﹂︵ ﹃国 際知識﹄一九三七年三月号︶一八頁。 − − 41 137 138 139 140 141 142 144 143 145 146 123 126 125 124 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