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 2年生までは当時の厚木キャンパス、3年生からは青山
ろいろとまわりのことを考えながら仕事をするようになり
キャンパスで過ごしました。法学部私法学科では、民法の
ました。
ゼミに所属し、厳しいながらも温かみのある教授の指導を
2000年には、世界的なソフトウェア会社と日立製作所
受けました。4年間を通じて熱心だったのは、ESSでの活
が合弁会社を設立、そこに2年間の出向を命じられました。
動です。本格的に英語でディスカッションやスピーチ、弁
お互いの強みを利用し合って発展することを目的に、最先
論大会などをやっていました。合宿中は会話も全て英語で、
端の外資系社員と純日系企業の社員同士が、時に協力し、
日本語をしゃべったら罰金なんていうルールもあり、楽し
時に議論を白熱させながら、同じ釜の飯を食って仕事をしま
いサークルでした。
した。その会社自体はもうないのですが、貴重な経験を共
就職活動はバブル景気の真っ最中、一人で何社も内定を
にした当時のメンバーとは、今も仲良くつきあっています。
る責任、営業目標となる数字、部下の抱える悩みなど、い
もらっていた時代です。先輩たちの就職先を調べたり、電
て、志望企業を探しました。インターネットが広まる前なの
中堅社員時代(2003 ∼)
関わったみんなが喜ぶビジネスを
で、自分で探して、電話して、会いにいって、お話を聞くわ
日立製作所のビジネスパートナーとしてお取引させてい
けです。活字や画面の情報よりも、その会社に属している
ただいている会社に、情報通信製品の大手企業がありま
人を通して、フェイス・トゥ・フェイスでどういう会社かを
す。2011年の春、私が担当していたその会社の方から、
知ることが大事で、それは昔も今も変わらないと思います。
情報製品の大量受注の見積もり依頼がきました。1台低
話帳みたいな就職情報誌や大学に来た求人票を見たりし
株式会社日立製作所 情報・通信システム社
ゼネラルマーケットビジネス統括本部
ビジネス企画本部 パートナー営業センタ 主任
小林直樹
(法学部私法学科 1990年卒業)
青山学院大学入学。
在学中を通じてESSに在籍。
大学卒業、日立製作所入社。
1990 年
OA営業部に配属。
1992年
研修員論文を出し
「研修員」から「企画員」へ。
日立グループの
1993年
販売会社に出向。
1995年
てみよう。大量受注で数万台なら作れるかもしれないよ」
で社会に貢献するということ。不安と期待と緊張で、就
と言ってくれたんです。
職が決まってからも気持ちが高ぶったことを覚えています。
その後うまく話が進み、同年秋に競合相手を蹴って、日
日立製作所に入社したのは1990年、配属はOA営業部で
立が受注しました。関係事業部の方、SEの方、工場の方、
した。さまざまな民間企業や官公庁をエンドユーザーにも
社内各所で協力をいただき、我々の統括本部が年間MVP
つ日立の特約店さんに対して、オフィス向けのワープロや
を受賞することができたんです。それが自分の中で大きな
コンピュータ製品を販売する仕事に就きました。
節目になりました。個々の案件を追いかけても、我々の仕
新人のうちは、厳しい上司にバシバシ言われながら、仕
事の決定率は10打数3安打くらい。だけどこうした大量受
事を覚えました。スキルもなく学生気分も抜けていないと
注は、相手先の主要製品に組み込まれるので、一度受注
いう要因はあったでしょうけど、自分の情けなさにトイレ
が決まると安定的に供給が続きます。だからパートナー企
で泣いたこともあります。特約店さんからも、ぶっきらぼ
業さんも安心、我々営業も、工場も、みんなが喜ぶんです。
うな話し方を叱られたりして、つくづくコミュニケーション
こういう仕事を、難しいけど、どんどん取っていきたいと
能力のなさを感じました。
思いました。
だこれはと特約店さんを激怒させてしまって、土下座して
私にとってキャリアとは
コミュニケーションの積み重ね
謝りました。そのあと奥のほうに連れていかれ、これは2、
さっき申し上げたとおり、営業という仕事は一人じゃで
3発殴られるかと覚悟していたら、冷蔵庫からビールが出
きません。事業部の人やSEの人を何人も巻き込んで、私が
てきて、
「いいよ、俺も若い頃はそういう失敗したんだ」と。
代表して受注という形にしたという感じです。だから私が
苦い思い出です。
考えるキャリアというのは、社内社外を問わず、人と人と
で出してしまったことがあるんです。倉庫に入らない、何
出向期間を終えて本社へ。
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のコミュニケーションを積み重ねる、そういうことだと思
外資系ソフトウエア会社との
合弁会社に出向。
出向期間を終えて本社へ。 2002年
2011年
社会人になるとは、学生時代と違って自分でお金を稼い
たら、製品事業部の人が、
「うちにないけど、面白いからやっ
ある時、私のミスで、パソコン30台の発注を倍の60台
主任に昇格。 1999 年
2000 年
当する製品は当社にありません。それで周囲に相談してい
年。
1986年
価格の製品を、3万台。これはチャンスと思いながら、該
新入社員時代(1990 ∼ 1992)
新人は失敗をバネに伸びていく
先輩インタビュー/キャリアを語る
社会人生活の長い先輩たちは、どんな学生時代を過ごしてき
たのか。
会社員として働く中で、キャリアについてどう考えているのか。
日立製作所で営業職一筋に活躍する小林直樹さんにお話を伺
いました。
す。また1999年には主任に昇格し、ひとつの係を任され
人と接することが好きで営業職を志望。
キャリア を語る
青山学院大学時代(1986 ∼ 1990)
会社を知るには、人に会え
出 会 い 、学 び 、助 け ら れ た
先輩インタビュー/
大型OEM案件を成約。
翌年、年間MVPを受賞。
若手社員時代(1993 ∼ 2002)
さまざまな経験が成長の糧に
います。
日立では入社2年目の終わりに研修員論文という課題
会人になってからは、
さまざまな業種や、
年代や、
役割をもっ
があり、これを経て新卒 社 員は「研 修員 」から一人前の
た方々とお話をします。相手には相手の立場があり、私に
「企画員」へと格上げされます。私の新人時代は終わり、
は私の立場がある。当然、摩擦がある時も、ベクトルが一
1993年から会社の組織変更によって再編された情報通信
緒の時もあります。その中で、いかに自分の主義主張を伝
製品の営業職となりました。まもなく東京日立情報機器と
えて、相手も喜ぶような方向にもっていくか。そういう力は、
いう販売会社への出向辞令を受け、1年半ほど職場を移る
大学生の皆さんも一緒だと思いますが、常日頃から会話を
ことになります。
大切にし、相手の話をよく聞くところから、身についてい
販売会社では、それまで経験してきた日立から特約店へ
くんです。そして私自身、コミュニケーション能力を高め
の「間接販売」とは異なり、直にエンドユーザーと接する
ることは、この先もまだまだ続く生涯の課題だと思ってい
ことができるので、とてもいい勉強になりました。販売と
ます。
私は人と接することが好きで、営業職を志しました。社
いう仕事の面白さや厳しさ、日立という会社の目線など、
新たに感じるところも多く、意識も変わってきたと思いま
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