カルマ ――蜘蛛の巣状の網――

カルマ
――蜘蛛の巣状の網――
コリン・プライス
カルマはこれまで、根本的宇宙法則と説明されて来た。この法則の本当の性質を理解す
ると、その完璧さが明らかになるだろう。法則という言葉は、いくつか異なる意味で使わ
れる。たとえば文明化した社会が、社会の平和のために国民の行動を規制する国家の法律
として説明される。似たようなことでは、個人のふるまいのルールつまり道徳上の規則と
して説明される。これらの種類の法則はどちらも、ある程度、宗教や文化的要因により、
その社会によって変わる。
一方、科学的法則はそれと大変違う。科学的法則は変化がない。科学的法則についての
理解は、人がそれを学ぶにつれて変わるかもしれないし、明らかにしようと試みるにつれ
て変わるかもしれないが、科学的法則そのものは不変である。カルマの法則は、このカテ
ゴリーに入る。カルマの法則を理解することで、その完全さをかいま見られる。現代科学
と工学全体は、物理学と生態学と化学の、自然界における自然の法則の再現性と不変性に
基礎を置いている。
カルマの完全さは、この自然の法則の不変性の概念である。それは私たちが神智学の分
野で理解している、宇宙法則への尊敬において、とても重要である。カルマの法則はたく
さんの側面を持つ。一つは、普通カルマの法則として知られている、原因と結果の法則で
ある。この法則の影響力はきわめて遠くまで届き、この法則の存在は私たちの人生を全面
的に支配する。特に、人の七つの本質(*1)に適用される。だから、自然科学の運動に
おける物質レベルのカルマの作用を観察できる。自然科学の確実性、普遍性、不変性は真
実であると、事実上みなされている。感情レベルでもいかにそれが確実で当然であるか、
そしてブッディ(*2)のレベルでいかに深く私たちの個性に影響があるかも、理解する
必要がある。
『神智学の鍵』でH.P.ブラヴァツキーは次のように言う。
我々はそれ(=カルマ)を、宇宙の根本的法則であり、自然界のすみからすみまで存在
する他のあらゆる法則の根源、初め、源泉であると考えます。カルマは物質的、メンタ
ル的、霊的レベルにおいて、結果を原因にぴたりと合わせる、間違うことのない法則で
す。
最大のものから最小のものまで、宇宙的な騒動からあなたの手の動きにいたるまで、ど
の原因もその当然の結果を伴わないままでいられません。そして似たものが似たものを
生み出すように、カルマは目に見えず知られることのない法則で、賢明に、聡明に、公
平に、結果をその原因にぴたりと合わせ、結果の原因をさかのぼって、その作り主を明
らかにします。カルマそのものは不可知ですが、その働きはわかります。
カルマは人生と自然界の中で、さまざまな形で現れる。したがって、多くの名前や定義
を持つ。たとえば、変化の法則(2つ目の基本的な命題)、因果の法則(結果にはすべて原
因がある)、バランスと調和の法則、進化の法則、生得の理性の法則など。また、こうも表
現されている。生を受ける法則、運動の法則、規則正しい変化の法則、本質的な統一の法
則などなど。それは宗教と政界にとって巨大なインパクトがある。カルマの教えのおかげ
で、世界の諸宗教は突然、処罰や裁きの問題に夢中になっている。人は思いやりと非利己
心を無視することにより自分自身を事実上、罰する。執念深くて激怒する神を恐れるより
もむしろ、自分自身を恐れねばならない。だからきっと、『マハートマ・レターズ』でKH
大師(*3)は「この恐ろしい法則」としてカルマに言及したのだろう。
甚大な結果を正しく認識することは難しい。カルマは人の自己評価を引き出す。あるい
はこの法則が、私たちが行動しようと思う上で意志を実行する真の本質にいかに深く浸透
しているかを悟るよう導く。そして私たちの行動が不可避の結果を引き起こす、KH大師
は、
「動機はすべてである」ことを明らかにして、カルマの法則の上記の一面を説明した。
そしてHPBは『沈黙の声』の中で、人間の完全化の段階を説明し、慈悲の行為をしない
ことは、大罪の行為を犯すのと同じだと言う。
私たちに起こることすべてには原因があるということは真実だが、起こることすべてが
個人的な思いや行いの結果ではないことは明らかである。HPB(*4)が言うように、
すべてが宿命的なものではない。しかし、カルマは多くの異なるレベルで作用する。個人
的なレベルでは、家庭内で一人のしたことが家族全員に影響する。地域社会のレベルでは、
一家族に何か惨事があると地域社会全体でその一家をサポートする。この、集団的カルマ
という概念は国全体にあり、社会と仕事上のグループと、世界レベルにさえも存在する。
一例をあげると、地球温暖化と海面上昇がある。世界全体に共通のカルマがある。世界の
階層的な構成のすみからすみまでカルマは作用するのである。
『神智学の鍵』でHPBは言う。
カルマは再調整の法則で、物質界で妨げられた平衡と、精神の世界でこわされた調和を、
絶えず修復しようとします。
ここへ来て私たちは、主観的なレベルにおけるカルマの作用について考えるに至った。
HPBは、精神の世界でこわされた調和、というふうに言っている。ダンマパダ(法句経)
に次のように書かれている。
もしも、汚れた心で話したり、行なったりするならば、苦しみはその人に付き従う。まる
で、車を引く牛の足跡に、牛車の車輪が、ついていくように。
(中村元 訳『真理のことば・感興のことば』 岩波文庫)
イエスはこう言っている。
(『マタイによる福音書』七章二節)
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、
自分にも量り与えられるであろう
聖パウロは言う。
(『ガラテヤ人への手紙』六章七節)
まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、
刈り取ることになる。
W・Q・ジャッジは雑誌『道』でこう書いた。
カルマは最も小さくて見えない原子からブラフマーに至るまで、すべてのものと存在に
作用する。カルマは人間、神々、エレメンタル(四大霊)(*5)の三つの世界に向かっ
て行き、顕現世界の中にそれを免れるところはない。
『マハートマ・レターズ』でKH大師はエレメンタルについてこう語る。
カルマは彼らのところまで達し、彼らはそれを受け入れざるを得ないだろう。苦い懲
罰のカップの、最後の一滴にいたるまで。
カルマの法則の不変性、完全な可屈曲性、完全な不撓性(訳注:柔軟性のないこと)
は過度に強調できない。自然科学が発見したすべての法則と同じく、カルマは堅く、信
頼でき、ゆるぎない法則である。誰も化学実験室に入って、すでに為された実験を繰り
返そうとはしないだろう。なぜなら私たちは自然界の法則が不変で確実であり、月曜と
火曜と金曜日だけの法則で他の日には当てはまらないというわけではなく、毎日存在す
るし、一年の中で毎月あるものだと信じている。HPBは『マハートマ・レターズ』で
KH大師が言ったように、くり返しくり返し、カルマは確実な法則だと言っている。そ
れから逃れられる逃げ道はない。
KH大師は『マハートマ・レターズ』で、カルマを報酬の法則と呼び、次のように言
っている。
初めから我々はこう教えた。人はそれぞれ、自発的な生産物である言葉ひとつひとつ
に、自ら責任がある。
(「法則と証拠」
)
証拠について異論の余地はない。何度も何度も言うが、民法においては証拠に関する
異論がある。何人の人が、犯した罪に対する処罰を、証拠が不確かだからと言って避け
られるだろうか。何人の人が、誤った証拠でかつがれて、罪を犯していないのに投獄さ
れるだろうか。カルマについて言えば、そうしたことはない。『シークレット・ドクトリ
ン』の一巻にこう書いてある。
すべての事が完全に細部にいたるまで、リピカ達によってアストラル光に記録されて
いる。
HPBはカルマを「報復の法則」とも呼んだ。それはどのように働くのだろうか。記
録を通してである。彼女はこう書いている。
そして第2の七者、リピカである。リピカの「リピ」という語は「書く」という意味
で、文字どおりには「筆記者」という意味である。秘教では、これらの神聖な存在達は
報復の法則であるカルマと関係がある。彼らは目に見えないアストラル光の銘板(タブレ
ット)――大いなる永遠の画廊――に印象を刻みつける記録係あるいは年代記編者だか
らである。その記録は自然現象の宇宙の中で人の、そして人であった、あるいは未来に
人となるものの行為と、思いすらもずっと正確に記録していく。
『ベールをとったイシス』
に言われているように、この神聖で目に見えないカンバス(画布)は「生命の書」であ
る。・・・
だがリピカは死と関係のある神々ではなく、永遠の生命と関係がある。リピカは人と
子供たちの誕生とそれぞれの運命と関係があり、人の人生はすでにアストラル光に描か
れている。それは宿命的にではなく、過去と同じく未来は、絶えず現在の中に生きてい
るからにすぎない。
(スタンザⅣ)
現在という時は、過去からのカルマに決定され、今のカルマが未来を決定する。そ
のように法則は自動的に働く。それは変化することがなく、自然の法則とちょうど同じ
ように働く。部屋の明かりをつけると同じようにいつでも明るい。カルマがそれと同じ
ように働くのを強調しすぎるわけにはいかない。それは完全な証拠に基づいており、そ
の証拠はアストラル光に記録されている。
ヨハネによる福音書 12 章 47,48 節で、イエスは言う。
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かな
い。
・・・・・・
わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたし
の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
誰にも、あるいは神でさえ疑いの余地なく、判断にかかわりなくすべてが自動的な
過程で起こる。カルマの法則があり、明白な証拠があり、それらは自動的過程である。
その結果は完全に必然的なものであり、繰り返される。
マタイによる福音書
12 章 33~37 でイエスは言う。
木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実
でわかるからである。まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良い
ことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。あなたがた
に言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければな
らないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によっ
て罪ありとされるからである。
バガヴァドギーターの 17 章 11~17 で、完全化(*6)は調和を通して成されること
と、動機の大切さを知ることができる。
11
人々が果報を期待せず、
こころ
ただ祭祀すべきであるとのみ考えて 意 を統一し、
教令に示されたように祭祀を行う場合、
それは純質的(註。サットヴァ的)な祭祀である。
12
一方、果報を意図して、
偽善のために祭祀を行う場合、
それを激質的(註。ラジャス的)な祭祀であると知れ。
13
教令に従わず
マントラ
食物が配分されず、呪句がなく、
報酬が払われず、信仰を欠いた祭祀、
それを暗質的(註。タマス的)な祭祀と称する。
14
神々、バラモン、師匠、知者の崇拝、
清浄、廉直、梵行(禁欲)
、不殺生。
タ パ ス
以上は身体的な苦行(功徳)と言われる。
15
不安を起こさせない、真実で、好ましい有益な言葉、及び、
ヴェーダ学習(読誦)の常修。
以上は言語的な苦行と言われる。
16
こころ
意 の平安、温和、沈黙、自己抑制、心の清浄。
以上は心的な苦行と言われる。
17
人々が果報を期待せず、
専心して、最高の信仰をもって、
三種の苦行を行った場合、
それを純質的な苦行と称する。
(註:動機は何と重要であることか。)
(『バガヴァッド・ギーター』上村 勝彦 訳・岩波文庫)
ヨギ・ラマチャラカは『ヨギの哲学と東洋のオカルティズム』でこう書いている。
ヨギは達成に至る道を3つに分類する。本道に至るその3つの小道は(1)ラジャヨガ
(2)カルマヨガ(3)ギヤーナヨガ と呼ばれる。これらの種類のヨガはそれぞれ大きな道に
至る小道となり、それぞれを好む者が歩むにふさわしい。――しかし、すべては同じ場
所に至る。
ラジャヨガは、人に潜在する力を発達させることに関心のある人が行く道である。
それは意志によるメンタル的な能力をわがものとすること――低級な自己を支配しマイ
ンドを発達させ、最後にはその展開の中で魂が救済される道である。
カルマヨガは仕事のヨガ、行為のヨガである。ギヤーナヨガは智慧のヨガである。
さらに、愛のヨガであるバクティヨガがある。それは宗教的な感情の道である。あ
る著者たちはこの道を他の道とまったく異なるように見なし、別格として扱うが、私た
ちは3つの道それぞれに付随するにすぎないものとしてこのヨガを考え、教えるほうを
好む。どのヨガの生徒も、完全なるお方――神――への愛と献身から離れて修行するこ
とは考えられないからである。全生命の大いなる中心への愛と尊敬に満たされることな
く、それぞれのヨガの道を行くことができるなどとは考えられない。
シルビア・クランストンによるHPBの驚異的な伝記「ヘレナ・ブラヴァツキーの
驚くべき人生と影響」の中で、HPBのかつての友人の一人ソロヴィヨフの話がある。
彼は怒ると人が変わるタイプの一人だった。彼は、男性であるという理由だけで女性を
牛耳ることができると思う人だった。彼がHPBを牛耳ろうとしたときのことを、花火
が打ち上げられたようだったと想像できるだろう。彼自身の思い通りにできなかった時
のことを、シルビアの言葉でこう書いてある。
そこでソロヴィヨフはHPBの家族内に面倒を起こそうとした。最初にヴェラ(H
PBの妹)に、神智学はキリスト教に対抗しているという考えを吹き込んだ。HPBは
シネットに、ヴェラが雷鳴のごとき手紙で彼女を「裏切り者」「背教者ユリアヌス」「キ
リストに対するユダ」と呼んだことを打ち明けた。ブラヴァツキーは返事でこう書いた。
「ソロヴィヨフは私が思ったとおりにしなかったことにひどく腹を立てたことは明らか
です。そして彼は、私が反キリスト教だからだという理由をつくり出しました。私が反
キリスト教であるということの本当の意味をご存じですよね。私は、プロテスタントと
カトリックの聖職者の不節制に対する敵です。私にとって、十字架にかけられたキリス
トの理想は、毎日、より鮮やかに、より純粋に、輝きます・・・・・・」
これを読んで私は、HPBが非常に新しい光に思われた。私は彼女の自己犠牲のすべ
て、彼女の全存在を教えのために捧げたことの動機づけがわかった。彼女が神智学は純
粋な利他主義だと言ったことは少しも不思議ではない。カルマについての考察は、どう
してもイエスのはりつけの意義をよく考えなければ完成しない。なぜイエスはわざと敵
に自らを捕らえさせ、苦難を加えさせ、拷問にかけさせ、殺させたのだろうか? 流血と
生贄のかぐわしい香りに喜ぶ神の怒りを鎮めるためではない! 誰かほかの人が犯した
罪で罰せられるためではない! では、なぜなのだろうか? クリスマス・ハンフリー
ズは著書『内なる探求』の中で「ザ・ウェブ」
(網)に言及して、私たちにヒントを与え
てくれる。彼はこう言っている。
いつも宇宙を、一つの物質と一つの魂を支配している生きた生物として描きなさい。
そして一つの世界の感覚で、すべてのものがどのように影響し合うかに気づきなさい。
すべてのものは一つの衝動により行動する。そしてすべてのものは、起こることすべ
てに協力する。また、網状の織物〔互いに織り合わさった大部分のもの〕と連鎖〔互
いにつながることによる団結〕にしるしをつける。
こうして今、私たちは「一つの生命」と人類愛の概念につき、最初のおぼろげな理解
を得た。すべての生命がお互いにつながっているので、ある一つの生命の作用が全体に
影響する。その作用が激しいか強力であればあるほど、生命の網全体はより影響を受け、
ゆがむか、改善するであろう。実例はとめどなくある。アメリカの世界貿易センターを
破壊したテロは、世界政治を変えた。だから、この全生命がお互いにつながっていると
いうことは物質次元で起こることである。だがここで私たちがカルマの法則に対し敬意
を持って言っているのは、さらに主観的なレベルにおけるその作用である。そのように、
個人個人の生活のレベルにおけるカルマの側面をここで言っている。HPBが言った、
毎日より澄んで、より純粋に輝く、十字架にかけられたキリストの理想とは次のことだ
ろうか。
○人生のすべての側面により良く対処する方法を見つけようとすること?
○不正と悪に対抗し、人と国家を奴隷状態にして盲目にする悪い思想と教えに反対す
ること?
○愛と人類愛の方法を示すこと?
私たちの思考を追跡する最善の方法は、SDにあると思う。
父・母は網をつむぐ。その網の上の方の端を霊(プルシャ)――一つなる暗黒の光
――にくくりつけ、低い方の端を物質(プラクリティ)
、その(霊の)影である端にく
くりつける。そしてこの網は、一つから成った二つの実質から紡ぎ出された宇宙であ
る。
・・・(SD1巻より)
スタンザのこの部分を説明するため、HPBはマーンドゥーキヤ・ウパニシャッド
に触れ、次のように言っている。
・・・次のように書かれている。「蜘蛛が網を投げ放ち、そして引っ込めるように、
草という草が地面に芽を出すように・・・そのように宇宙は不滅の一者から出てくる」
(I,i,7)
。「未知の闇の胚種」であるブラフマーは、すべてを進化させ発達させる
原料であり、
“蜘蛛から出る網、水から出る泡”などである。ブラフマーが「造物主」
だとすれば、これはただ生き生きとした真実にすぎない。・・・増大させ、拡張させる
のである。ブラフマーは「拡張し」
、彼自身の実体を編み上げた宇宙となる。
同じ認識がゲーテによって、次のように美しく表現されている。
こうして私は時間という活気に満ちたはたおり機ではたを織ることに精を出し、
神のために衣を織り上げる。汝に神が見えるように。
ここにも、錬金術の格言――上の如く下も然り――が当てはまる。蜘蛛の巣は宇宙
全体の美しい類似だが、一生命に当てはめる時に、さらにもっと重要である。それはす
べての生命がお互い関係していることを描写している。人間のレベルで、それは「人は
みな持ちつ持たれつ」であること、私たちはみな一つの網の一部分であることを教える。
オルコット大佐、フローレンス・ナイチンゲール、ウィリアム・ウィルバーフォース、
アニー・ベサント、マザーテレサなどの偉大な霊的指導者たちと改革者たちはみな、ほ
んとうの存在のほんとうの性質に対する並はずれた洞察力により刺激を受けてきたのだ
った。その性質とは、明白に一なる生命に起源があり、そして私たちの協会の第一の目
的(*7)のたいへん奥深くに秘められている。カルマの法則が包含するすべてのこと
を理解することは、強い動機と意志を人々に与える。その動機と意志とは、人々が自分
の人生を生きる道の路上で、完成に向かって努力するもとであり、聖パウロがガラテヤ
人への手紙で「霊の果実」と呼んだ。その果実とは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善
意、忠実、柔和、自制であり、これらを否定する律法はない(と彼は言う)。
(訳注:ガ
ラテヤ人への手紙 5章22~23)。よく似たものに七波羅蜜多があり、布施、持戒、
調和、忍辱、精進、禅定、智慧である。
この、何びとをも区別しない宇宙同胞愛の中心は、カルマの法則の究極の側面が守ら
れた時のみ存在できる。私たちが輪廻の旋回から脱するのは、アストラル光に存在する
完全な網の模様になじむかあるいは共振することにかかっている。心から利他心を持つ
と、いつであれどこであれ、この網目模様のすばらしい光輝が現れる。この模様によく
あてはまるという個人的な巡礼の旅を行くにつれて、自分自身の不死性のための基礎を
築くことになるのである。ある未来の恐ろしい裁きの日のための基礎を敷くのではない。
不可避で、議論の余地がなく、不変の法則の基礎を築くのである。その法則は、すべて
の存在のおおもとである一者の、まことのハートにある。
人の中に潜在するすべての力の中で、生命のヒエラルキーの至る所に、良いあるいは
悪いカルマを生み出す力が、最も激しく、最も生き生きとしている。一つの生命におけ
る人の個人的・集団的の両方の運命は、究極の宇宙法則によって決められる。ただ一人
の人が十分な勇気と信念を持つと、国家の運命を、そして実に、全人類の運命を変える
ことができる。
法則は善へと動く
何ものも しまいには免れず、とどまることもできぬ
法則のハートは愛だ。 愛こそ究極の目的である
平和と完成は甘美なり 従え!
(『東洋からのこだま』Ⅰ・313)
本文終わり
(Theosophical Digest No.96 より)
※聖書からの引用は、日本聖書協会の『口語訳 新約聖書』から引用しました。
コリン・プライス
科学の博士研究員・電気技術者として30年以上働く。1999年から英国神智学協
会の会長。同氏はブラヴァツキー企業合同(The Blavatsky Trust)の理事。この文章は、
2006 年 12 月にアディヤールの神智学協会国際大会で講義された内容からの抜粋である。
脚注
1…人の七つの本質
人間は、次の七つの本質から成ると神智学は言う。①肉体 ②プラーナ(生命・生気)
③アストラル体(幽体) ④カーマ・ルーパ(欲望と感情の座) ⑤マナス(心・知性) ⑥
ブッディ(霊的魂) ⑦アートマ(霊)
2…ブッディ
霊的魂。霊的理解力と智慧。未分化の質料の本質で、霊的個性を生み出す「母」で
ある。絶対者から発する放射の媒体。
3…KH大師
クートフーミ大師。神智学協会の創立に関わられた。
4…HPB
ブラヴァツキー夫人。
5…エレメンタル
四大(地水火風)または五大(空が加わる)という宇宙の元素。それぞれを構成す
るエネルギーの中心。自然霊や精を含む。
6…完全化
人間は完全な存在になるために、人生という進歩の道を進んでいる。
7…神智学協会の第一の目的
人種、信条、性別、階級、肌の色の違いにとらわれることなく、人類愛の中核とな
ること。