~ 中原芳煙(1875 年~1915 年)の生涯と作品 ~ 1. 生誕・在郷期 1875年6月24日 邑智郡都賀行村大字潮132番地(現邑智郡美郷町潮村)に生まれる。 (明治 8 年) 父が絵を描いていた影響で幼いころから好んで絵を描く。 1891年 石見学校(後に改編により第二尋常中学校と改称、現在の浜田高校)に進学するが、 4年の時に中退して、京都に出て竹内栖鳳に師事するようになる。 (親の反対を押 し切り出郷)※卒業後とする説もあり。 2. 東京美術学校時代 1896年9月 東京美術学校(現東京芸術大学)に入学し、川端玉章の指導を受ける。 1899年4月13日 日本画科2年の時に美術学校生徒成績品展覧会に出品した「秋野鹿図」が 1 等褒状 を受賞。 (川端玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかった) 1899年6月18日 日本画会正会員になる。 1900年 日本絵画協会第9回連合絵画共進会に「春暁」を出品。 1901年6月5日 日本画会展覧会に出品した「豊穣」が百画に当選。 1901年7月10日 東京美術学校日本絵画科を首席で卒業。 卒業制作は 「春圃老狐」 (東京芸術大学所蔵) 。 1901年7月 師範学校中学校高等女学校図画科教員免状取得。 その後、国内を巡り画業を続ける。 1902年3月16日 第12回絵画共進会に「月下狐鹿」を出して1等褒状を受ける。 1903年3月1日 第5回内国勧業博覧会(大阪)に「月下三鹿」を出品、褒状を受ける 1903年春 白露会をつくり、作品の頒布を始める。 3.浜田中学校教員時代 1904年1月 島根県立第二中学校(現浜田高校)教諭となる。 1904年2月 島根県師範学校教諭を兼職。 1904年3月 第二中学校教諭兼島根県師範学校教諭を退職。免兼職。 中原にかわって杉浦非水が赴任する。 4.東京・奈良での活動 1904年 宮内省に奉職して正倉院御物の整理にあたる。 1904年6月4日 第7回日本画会絵画展覧会に「月下双鹿図」を出品、褒賞を受ける。 1905年~1910年 審美書院において古今諸派の技法を習得する。 1905年夏 生家に「秋草図」 (襖絵)を描く。 1905年10月1日 真美会正会員となる。 ※真美会は岡不崩らが明治35(1902)年に設立。 1906年1月1日 真美会委員となる。 1906年4月 第5回真美会に「猪」を出品、銅牌を受ける。 1906年5月23日 美術研精会第5回絵画大展覧会に「社暁」を出品、研精賞を受ける。 1906年 「双鹿・虎図」 (屏風1双) ・ 「松樹図」 (襖絵)を描く(いずれも生家蔵) 。 1908年 真美会に「鹿」を出品、銅賞。 1908年夏 芳煙画会(会員制の作品頒布会)をつくり、作品の頒布を始める。 1909年 帝国美術展覧会に「群鹿の図」を出品し、首席入選作となる。 このころ 帝国絵画協会、巽画会、美術研精(讃)会に所属する。 1910年1月1日 益田の飯塚文市の呼び掛けにこたえ、いち早く雪舟会設立に賛同する。 1910年3月15日 伊藤蘭崖とともに雪舟画集の担当を申し出る。 1910年 巽画会第10回展に「冬暁」を出品、褒賞を受ける。 この間、肺結核になる。 1914年 祖父が亡くなり帰郷。肺結核が悪化。 1915年6月20日 「死にたくない、早く東京へゆきたい」と言いながら離れで息をひきとる(39歳) 。 1915年7月 東京築地の本願寺別院で追悼法会が営まれ70人が参列。 併せて遺作展が開かれる。 1915年9月15日 『石見実業時報』81号に追悼文が載る。 1977年11月30日「群鹿」 ・ 「富嶽」が大和村文化財に指定される。 1980年5月20日~6月15日 島根県立博物館で「郷土の画家展」開催。後期展(6月3日~15日) に「鹿虎図」 「落葉図」 「四季動物図」 「花菖蒲鯉魚図」 「紅葉鹿図」が出品される。 1990年9月21日~25日 松江のうえの美術ニューギャラリーで「中原芳煙 幻の鉱脈展」開催。 「鹿虎図」 「霊峰富士」 「群鹿図」 「闘鶏」ほかが出展される。 1999年10月5日~10月31日 島根県立美術館の「島根の美術」において「月下三鹿図」を出品。 2000年10月1日~11月30日 益田市雪舟の郷記念館での「雪舟を慕う画家たち」に「富岳の図」 「群鹿の図」が出展される。 2015年6月6日~7月12日 浜田市世界こども美術館での「浜田の日本画と洋画(浜田高校ゆかりの 作家たち) 」に「晩秋乃群鹿」 「虎図屏風」 「鹿図屏風」外 7 点が出展される。 安来市加納美術館 神英雄館長による 「浜田の美術を作った人―中原芳煙を中心にー」 の講演会も開催される。 2015年 10 月 31 日(土)~11 月 6 日(金) 美郷町において中原芳煙展開催
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