NPO 法人・歴史文化財ネットワークさんだ 第 39 号 2015 年 3 月 1 日発行(隔月刊) 歴ネットさんだ通信 新発見!九鬼家古文書について 奈良恵美子 新聞には時々古文書が発見された記事が載る。 昨年夏には夏目漱石の関係文書が何度か掲載さ れ、秋には足利義昭の幻の上洛計画の文書もあ った。しかし何と言っても三田の住人としては 十二月中旬に発表された「九鬼家文書」に興味 がある。此の文書は、九鬼家とは何の関係もな い神戸の個人のお宅から発見されたもので、お 祖父さんが所持されていたものだという。文書 は神戸大学大学院に寄託され、現在調査中とのことであるが、歴ネット(歴史文化財ネッ トワークさんだ)との関わりは、たまたま当主の奥様が旧九鬼家住宅資料館に来られ、「九 鬼家に関係があるのでは?」とコピーを頂いたことに始まる。早速、コピーを読ませてい ただいたが結構難しく、悪戦苦闘の末 3、4 カ所読めないままになっていたものである。 文中、九鬼藤四郎という馴染みのない名が現れ一同首をひねったが、会員仲間である中 後茂さんが「九鬼守隆の庶兄の成隆ではないか」ということを突き止められ、更に藤田裕 彦さんが‛成隆‘について詳しく調べられ「三田史談」に発表されるはずである。 文書は六通、これは先程歴ネットの連絡会で簡単に内容を説明させて頂いたが、神戸大 の発表によれば、元は九鬼家伝来の文書の一部とみられ、家康の分を除く後の五通は新出 の原文書と考えられ、織豊時代の非常に貴重なものであるとのこと。文書を包んでいた包 み紙から、成隆から始まる九鬼家の家老も務めた九鬼図書家所蔵のものとみられる。 神戸大学の発表では全部で七点とあるが、歴ネットに持ち込まれたコピーには包み紙の 分はコピーされておらず、従って、文書が九鬼図書家から出たものであること、籐四郎成 隆がその祖であること、更に貞享元年(1684)に幕府が諸大名とその家来から感状等の書 付を提出させた際、五代藩主隆律が九鬼図書家に伝来した文書も加えて覚書として老中に 提出したことも説明できない。何だか肝心の一枚が抜けていた感がある。 以下六通の概要を簡単にご紹介させていただく。 1. 織田信長より右馬之介(九鬼嘉隆)への黒印状(折紙) 折紙とは鳥の子、壇紙等の紙を横長に二つに折り、わさを下にして使用。 1 革衣と立付(たっつけ・袴の一種)が到着した。懇ろな心遣いをとりわけ喜んでいる …というお礼状である。矢部善七郎に伝えておくというのは、この手の文書の通例で ある。面白いのは思食候(オボシメシソウロウ)で、天皇をはじめエライ人は自身の 事に自尊語を使うので初めは戸惑ってしまう。また宛名が下の方にあり、様に相当す る殿がひらがなになっているのは身分の差による。尚信長の馬蹄形の印は文字「天下 布武」で天正年間に使用されたものらしい。 2. 太閤秀吉感状、並びに判入は包み紙で、筑前守、二月 廿二日秀吉花押は名前の部分のみ切り取って保存している。 3. 豊臣秀吉より九鬼藤四郎への朱印状(折紙) 朝鮮出兵のため出陣している九鬼籐四郎の辛苦をねぎらい、 帷(かたびら・単衣)を三枚送ったので、それを着ていよい よ精を出してほしい。仕置きについては書状を遣わし、熊谷 半二と水野久右衛門の二人を使者として遣わすというもの。 尚同じような書状がさきの二人を使者として他の諸将に 2.太閤秀吉感状等 も一斉に出されているとのこと。 4. 豊臣秀次から九鬼藤四郎・九鬼大隅守への朱印状(折紙) 二月廿七日の書状を見て、廿二日に敵の番船が動き、それに対して彼等が船を乗出 し敵船二艘を乗っ取ったことを賞し、大変感じ入った、これからも他の面々と相談し て落ち度のないように精を出してほしい。又いい知らせを待っている。ということで ある。ここでも御感とか思食すとかの自尊語が使用されている。 面々とは九鬼氏や脇坂安冶ら船手衆であろう。これは折紙なので二頁目はそのまま ひっくり返し、わさが下になるように書くので伸ばした時後半は左下から上に向かっ て書かれるのが普通だが、ここでは右上から下へ書かれており、神戸大では一度切っ て継いだように見ておられるらしいが、私は単純にうっかり紙を伸ばして書いてしま ったのではないかと思っている。 5. 豊臣秀次から九鬼藤四郎への朱印状 藤四郎から珍しい鯨一折を贈られた礼状 で、礼状の定型である。六通の内一番分か り易く楽しい。(右写真) 6. 徳川家康から三人の諸将に宛てた書状 の写し(切紙・折紙を半分にきったもの) 写しなので印はない。長門守は守隆。家康の書状はよく研究されていて、この書状 は慶長5年と考えられ、関ヶ原の合戦に関するものであり、ほぼ同文の書状が他の諸 将にも送られていることが分かっているとのこと。宛名の殿がひらがなでなく、草書 ながら漢字あることに注目されたい。それは家康と諸将の関係を示すものと云えよう。 2 この度、この六通の古文書をみて改めて古文書を考えることになった。そこに盛られて いる情報をすべて解読するためには慎重の上にも慎重。広範囲の情報を集め、その全ての 関連を読みとってゆかねばならない。神戸大が今後どのような結果を出して下さるのか。 今はそれが頼みでもある。 高平上槻瀬「八坂神社の社号額」 中後茂 昨年8月、上槻瀬の八坂神社について調査依頼を受け、現地へ赴いた。 八坂神社の社号額は字が欠落していて読みづらかったが(写真) 、地元の人の好意で太い 鎖を切って外して下さった。 裏面には と刻まれて 願 主 別 當 氏 子 中 大 仙 寺 宇 左 衛 門 三 宅 倫 右 衛 門 享 保 十 九 寅 正 月 御 寄 附 攸 也 京 牛 頭 宝 天 鏡 王 寺 御 宮 額 大 御 所 摂 州 多 田 荘 槻 瀬 上 邑 いて「牛頭天 王宮」である ことが解った。 上槻瀬の区 有文書の中に 当神社に関す る文書がある と聞いていた ので再度訪れ た。二枚の古 文書が並べて 表装された掛軸が木箱に入れて保存されているのを見て感動を覚えた。(次ページ参照) 別に木箱の中に下記の如く書かれた紙が入っていた。 本 覚 院 徳 厳 理 豐 宮 宝 鏡 寺 二 十 二 代 後 西 院 天 皇 皇 女 これらを調べているうちに、約 20 年前に三田市郷土文化研究会会長の 大熊隆治先が「三田史談」7,8号で「宝鏡寺寄附の社号額について」 と題して発表されているのを思い出した。 以下は大熊先生の調査内容を引用させていただく。 宝鏡寺は「京の尼寺・人形寺」で有名な寺で、禅宗臨済派に属する尼 門跡寺の一つである。開基は光厳天皇の皇女惠厳禅尼、後円融天皇のと き福尼寺を宝鏡寺と改称されている。 3 牛 頭 天 皇 別 当 大 上 仙 槻 寺 瀬 村 享 保 十 九 年 申 寅 年 四 月 日 仍 而 如 件 蓮 花 寺 構 申 儀 少 モ 無 御 座 候 。 為 後 証 向 後 別 当 職 之 儀 ニ 付 当 寺 ヨ リ 蓮 花 寺 ト 成 シ 被 下 候 得 共 、 相 願 候 ニ 附 、 御 添 翰 ニ 別 当 御 額 機 瀬 三 社 壱 同 ニ 拙 僧 宝 鏡 寺 宮 様 御 真 筆 之 貴 寺 御 支 配 ニ 無 粉 所 、 京 都 第 一 ノ 氏 神 、 近 代 ハ 一 牛 頭 天 皇 ハ 槻 瀬 村 覚 栄 ㊞ 蓮 花 氏 寺 子 御 中 房 へ 摂 州 別 多 当 田 庄 槻 瀬 上 邑 享 保 十 九 年 寅 正 月 池 田 堅 物 ( 書 判 ) 宝 鏡 寺 宮 御 内 不 相 成 候 様 ニ 可 被 心 得 候 者 也 被 成 下 候 後 々 迄 も 粗 末 ニ 当 宮 被 染 御 筆 御 寄 附 牛 頭 天 皇 乃 御 額 之 事 下って後水尾天皇の系譜を見ると親王、内親王合わせて 33 人となっていて皇位を継承さ れた 4 人の天皇を除いては京都 15 門跡中の仁和寺ほか有名寺 7 つ、宝鏡寺等 4 つ計 11 寺 へ入山されている。宝鏡寺に行かれた内親王は 5 女が第19代、14 女が第 20 代を姉妹で 継いでいる。 それでは、八坂神社の古文書にある宝境寺宮様とは誰のことだろうか? 御直筆斗ある からには間違いなく内親王、即ち御門跡自ら筆をとってお書きになったものである。享保 19 年(1734)頃は中御門天皇皇女徳厳禅尼その人である。書体から見てやわらかな感じな ので女文字に思える。 京都の尼寺、それも紫衣を賜る格式高い門跡寺から社号名を彫った額をいただくには何 か理由があるに違いない。 京都市編「京都の歴史」の「西陣焼」に書いてある内容をまとめてみると、享保15年 京都で大火があり寺社67、民家3,797、外13が焼失した。宝鏡寺は運よく類焼を 免れた。近くの寺社は羅災者へ救済の手を差しのべられたと想定する。宝鏡寺でも救済の 資金が欲しい。そこで考え出されたのが門跡尼である内親王直筆による揮毫料稼ぎであろ う。宝鏡寺の賄いの為ではなく、お救い米を稼ぐのに寺社の看板書き料としてもらった応 4 添 翰 分の謝礼を当てられたのではないだろうか。 同じ時期の同一寺、おそらくは同じ人の筆になる社号額が狭い地域に4社あったこと。 寄附を受けた直前、京都北部に大火があって羅災者が路頭に迷っていたこと。等の点を独 断と偏見でつなぎ、仮説を立ててみたのが「なぜ」の答えである。 三田の郵便ポスト・郵便の歴史 中西芳一 三田市の本町(三田町)屋敷町に昔懐かしい丸形の赤い郵便ポストが5基設置されている。 (三田市生涯学習支援課発行の“三田 お散歩 MAP”に設置場所は詳しく掲載 されているので是非参照下さい) これは2年前に同課が本町(三田 町) ・屋敷町の景観に似つかわしいとの 考えで以前から設置されていたものに 加え郵便事業会社から何基か融通して もらい修復し設置したものでレトロな 雰囲気を醸し出し街並みに良く溶込ん でいる。 え き て い し 日本の郵便の歴史は明治4年4月20日に始まっている。駅逓司と呼ばれる機関が明治 政府内に置かれその役所として「東京郵便役所」が日本橋に誕生した。此の役所を開き「郵 ま え じ ま ひそか 便」とゆう言葉を創案し世に普及させたのは前島 密 である。前島密は郵便切手を用いたイ ギリスの制度を学び新しい郵便事業を東京・京都・大阪と東海道筋の各宿駅でスタートさ せた。それまでの”飛脚“は個人的な契約でリスクも有ったが”郵便“は切手を貼ってポ ストに投函しそれを回収し戸別に配達する一貫したシステムとなった。 当初の郵便ポストは江戸時代の目安箱の上に屋根を付けたデザインであった。 三田に郵便局ができたのは明治4年12月5日で東京などにわずか八ヵ月の遅れで 開設されている。場所は三田町二五八番屋敷、現在通称浦町と呼ばれている場所で 「摂津三田郵便取扱所」と呼ばれていた。 局長は永井喜一氏で市内扱いは当時の三田町・三田屋敷町・三田村で寺村は市外扱い になっていた。 三田の街頭にはじめて郵便ポストが設置されたのは明治25年10月で三田町一二二番 屋敷で現在三田町にある忠魂堂辺りの場所で木製の簡単な箱型が設置された。 館内の郵便ポストの設置状況は明治31年に三輪地区に、阪鶴鉄道の開通に伴い三田駅 構内に、明治39年には下田中、同41年には湯之山町、大正2年には新町に次々と設置 5 されてゆく。又全国的に赤色のポストに統一されたのは明治41年ごろからと言われてい る。忠魂堂近くのポストは昭和16年に鉄製の円柱形ポストになったが太平洋戦争中に金 属供出の対象となり同19年3月に木製の掛箱になった。 現在は再び赤い金属性の丸形ポストが鎮座している。 参考文献 荒俣 宏氏著 江戸の醍醐味 岸田 達男氏編集 明治末期の三田 光文社発行 町並みを調べる会発行 2015 年 1-2 月活動状況 ○旧九鬼家住宅来館者向けビデオ作成 事業全般 ○さんだふるさと探検隊 ○月例連絡会 1/28 2/25 ・「おひなさまを作ろう」 2/28 学習支援事業 施設管理事業 ○三田ふるさと学習館(展示) ○指定管理施設:旧九鬼家住宅資料館 ・のぞいてみよう さんだの大昔(常設) :三田ふるさと学習館 ・戦国末期から江戸初期の三田(10/1~2/1) 情報発信事業 ・海から山へ ○旧九鬼家住宅資料館 鳥羽から三田への九鬼氏 ○体験学習(1/16~2/6) ・ガイド・ビデオ作成 ・富士小 1/16 あかしあ台小 1/20 本庄小 1/21 ・九鬼家四季彩 ゆりのき台小 1/22 三田小 1/27 広野小 1/28 「鏡びらき」1/10 すずかけ台小 1/29 三輪小 1/30 武庫小 2/3 まちづくり事業 加東郡福田小 2/4 狭間小 2/6 ○ひなめぐり in 三田 ○歴史ウォーク 三輪小 1/23 ○おひなさまロード ○ふるさと学習館講座 ・第 3 回 2/27~3/8 ○「本町、屋敷町を歩く会」(小学生、保護者)3/1 1/17 調査・研究事業 「九鬼隆義とキリスト教」 ○古文書解読 「明治以降の三田の歴史」 (3 人の九鬼等) ○郷土史 ・第 4 回 2/27~4/5 2/14 1/15 2/12 1/7 2/4「三田地域の地名の由来・起源」 編集後記 「旧九鬼家住宅の価値と魅力」 3月に入り、暦の中ではすっかり「春」ですが、 旧九鬼家住宅資料館見学 未だまだ寒い日が抜けないようです。しかし、 「三 ○ふるさと学習館セミナー1/10 寒四温」と言われるように着実に春が近づく気配 ・「三田藩の歴史」高田義久氏 が感じられ、気分も少しずつ和らいでくる時期で ○旧九鬼家住宅資料館展示 もあります。気分が和らいだところで、会員各自 ・「明治を生きた 3 人の九鬼さん」(~2/1) テーマを見つけ投稿をお願いいたします。(ℯ.ℱ) 「NPO 法人・歴史文化財ネットワークさんだ」発行 〒669-1532 三田市屋敷町 7-33 三田ふるさと学習館気付 HP http://www.jttk.zaq.ne.jp/rekinetsanda/ 6 ℡&fax 079-563-5587 メール [email protected]
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