第41号(PDF

NPO 法人・歴史文化財ネットワークさんだ
第 41 号
2015 年 7 月 1 日発行(隔月刊)
歴ネットさんだ通信
今
号
の
投
稿
「川本幸民と明治日本の産業革命遺産」
藤田裕彦
……………
1頁
「郷土史家
藤川義人
……………
3頁
福富悦夫
……………
4頁
「三田の地名
児玉尊臣先生」
ふしぎ?発見」展示案内
川本幸民と明治日本の産業革命遺産
藤田 裕彦
先月 5 日、
「明治日本の産業革命遺産」を「世界遺産」に登録するよう「イコモス(=国際
記念物遺産会議)が記載勧告をした」
というニュースが流れました。どうも
話題は、長年の風雨にさらされて崩壊
の危機にある長崎市沖の「端島(= 通
称軍艦島)」の保存問題や中韓の反対
などに集中の感がありますが、三田の
我々としては、鹿児島の「尚古集成館」
が入っている点に注目したいもので
す。理由は,この幕末の薩摩「集成館
事業」には、三田出身の「蘭学者・川
本幸民」が深く貢献していた事実があ
るからです。
平成 22 年の三田は「川本幸民生誕 200 年祭」でお祭りムードでした。「幸民ビール」が
復刻されるなど市民の関心を集め、幸民に因む講演会が市内だけでも 5 回も開催され、多
数の市民が熱心に受講されました。その講師の一人として招かれたのが「尚古集成館の田
村省三館長」で「幕末薩摩藩の近代化と川本幸民の化学」と題して、薩摩に於ける幸民の
足跡を熱く語られたのが、印象に強く残っております。
何故鹿児島の博物館の館長が、遠路の処をわざわざ三田に招かれ、幸民のことを話され
たのか? 館長の話もそこから始まったわけですが、概要を私なりに簡単に説明します。
明治維新後の日本の急速な近代化は、まさに「明治日本の産業革命」の観を呈し、世界
を驚かせましたが、その先端を切ったのが、この薩摩の「集成館事業」だったのです。
1
蘭癖大名と呼ばれた薩摩藩 11 代藩主島津斉彬が,この事業を強力に推進したのですが、
その凄い事業に「蘭書翻訳」の形で大きく貢献したのが蘭学者の幸民でした。
弘化2年に幸民は、当時まだ世子だった島津斉彬から『ドイツの化学入門書(蘭語訳本)』
の翻訳を依頼されます。これが二人の関係の始まりです。
翌年には薩摩藩士 松木弘安(のちの寺島宗則=外務大臣など歴任)が幸民に入門するなど、
翻訳を通じる形で薩摩と幸民の関係は深まります。嘉永 4 年には斉彬が薩摩藩主となり、
同 6 年には幸民が薩摩府学々頭に就任(安政 3 年迄)します。翌年には『遠西奇器述』第一輯
を上梓し、安政 4 年には幸民自身が薩摩藩籍に替ります。
斉彬公と川本幸民の関係は、安政 5 年 7 月の斉彬公の急逝によって突如断たれますが、
実質 13 年に及んだ幸民の、多岐にわたる翻訳・献上した成果が、ここ尚古集成館に残って
説明・展示されています。これが川本幸民と薩摩の集成事業との関係のあらましですが、
当時蕃書調所教授の職にあった幸民は、ずっと江戸在住のままで、結局鹿児島には行って
いません。
実は私は平成 18 年頃「尚古集成館」に
残る幸民の足跡を訪ねたことがあります。
その折館長はご出張中で、代わりに学芸員
が案内して下さったのですが、慶應元年竣
工の、現存する日本最古の機械工場建築(国
の重要文化財)を一杯に使った広い展示場
には、壁際に幾つかのブースが設けられて
おり、その一つが川本幸民の足跡を展示す
るコーナーになっていました。
尚古集成館には、斉彬公が「集成館事業」
と名付け、富国強兵・殖産振興政策を強力に推進した実態が展示・説明されていました。
(軍
事色の濃い)製鉄、造船、造砲、火薬製造などと共に、
(民需色の濃い)紡績、ガラス(代
表的なモノが薩摩切子)印刷、更には写真、印刷、電信、医療、福祉まで様々な分野の近
代化に取り組んでいます。中には「蒸気機関」の模型や、安政 4 年に松木弘安が鶴ヶ城で
行った電信実験で使われた電線なども展示され、「原理が分かれば日本人のも作れる」との
幸民の信念が色濃く反映された観がありました。
大阪大学名誉教授の芝 哲夫先生は「この集成館は日本の科学技術史上忘れ得ない記念す
べき足跡である。それに川本幸民が大きい貢献をしている。幸民抜きには成り立たなかっ
た」と書き残しておられます。
『遠西奇器述』も、薩摩府学での幸民の講義が興味深い話ばかりなので、受講生たちが
中心になって纏め、出版するに至ったというエピソードもあるようです。
嘉永 6 年「幕府の役人がペリーに招かれビールを飲んだ」と聞いた幸民は「自著にある
製法に従い、工夫を凝らして自分で試醸し、知人にふるまった」との逸話も残っています。
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この「集成館事業」は、その後に勃発した「薩英戦争」で壊滅的打撃を受けます。しか
し逆に応戦した薩摩の砲弾が英の旗艦の艦橋に命中して艦長以下が死傷する被害を与えた
ため、英艦隊が早々に退散したことも事実です。まさに「日本の産業革命の一番手であっ
た集成館事業」の技術あればこその成果であったと云って良いでしょう。
「尚古集成館」が現存するのは、風光明媚な錦江湾に臨む「仙厳園(=むかし磯庭園とも)」
のすぐ隣り、観光バスなどの駐車場を背にした位置です。鹿児島へ行かれたら、一度是非
訪ねられることをお勧めしたいものです。できれば「世界遺産登録」などということで、
群馬県の「富岡製糸場」のような大騒ぎになる前がお勧めだろうと思います。
郷土史家
児玉尊臣先生
藤川義人
児玉尊臣先生は三田の歴史研究に多
大な成果を残し文化財の保存に貢献さ
れた。
現在の市内で保存されている明治時
代の貴重な建物は旧九鬼家住宅を代表
とするが以前は九鬼隆一が開設した日
本で初めての私設博物館があった。場
所は旧九鬼家住宅と道路を挟んだ元有
馬郡役所跡である。明治時代の建物で
大正時代に民間博物館として活用された日本初の私設博物館であるが、隣接する旧市民病
院の駐車場建設用地であったため取り壊されたのである。先生は「文化遺産は大切にしな
ければいけない。保存して後世に残さなければならない。古いものは生きている」という
信念から三田博物館を長く保存してほしい。建物の外観を失わず、そこに三田青磁の展示
や民俗資料館にしてもらいたいという陳情を市長や市議会にしている。しかし、某建築家
が博物館はこれ以上使い物にならない。こんな建物は何処にでもある。こんなものはつま
らないと云ったらこれを聞いていた関係者たちは、そうですかと云ったという。
今想うと大変貴重な財産を失ってしまった。先生のお気持ちは如何ばかりかと察するに
余りある。建物の横に建てかけてあった九鬼隆一書の碑も壊されるところであったが、旧
市民会館が建ったのでその入口に移設された。その後、現在博物館の碑は元の場所に収ま
っている。
収蔵センターに眠っている三田青磁等の文化財を博物館で見られたら市民にとってどん
なに誇りに思うか計り知れない。市民の宝となっていたであろう。本当に残念でならない。
現在の法務局の建っている所に藩主九鬼家の御下屋敷があった。御下屋敷には黒門があ
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ったが先生は黒門を残すように申し入れたが潰されていしまった。幸いに黒門は金心寺が
引き取り移築され山門となっているが、金心寺が引き取らなければ壊されていたという。
御下屋敷の築山も壊そうとされていたので、先生は人夫達に御下屋敷の不幸な伝説を話し
たら人夫達はびっくりして取り壊すのをやめた。今はそのまま残されている。
三田青磁に功績を残した一人、神田惣兵衛の墓石は正覚寺にある。ある時期無縁墓の中
に埋まっていたが先生が掘り出したいと寺側に依頼し、探しあて石碑二基を寺門の左側に
祀って供養している。先生は神田惣兵衛の墓石の価値は大きいと語っておられる。
現三田市民病院の周辺にあった西山古墳群の中で確認されている6号墳は全長35mの
前方後円墳である。大王のものと思われ豪華な埋葬品が出土した。現在この古墳があった
場所は市民病院の駐車場になっており、当時の姿を見ることはできない。奇しくも新旧市
民病院の建設用地にあった文化財が消失している。文化遺産の保存と市民生活の調和を見
出すことが何故出来なかったのか。又今後このような事象が発生した時私達はどのように
対処するか。後世に悔いを残さぬようにしたいと思う。
児玉尊臣先生がご存命であればご教示願いたいものである。
【参考文献:
「北摂 三田の史話」 児玉尊臣著 あかね書房】
「三田の地名
ふしぎ発見‼」(企画展)開催中
福富悦夫
三田の高平地区にある「蓮花寺」に行きたい
と思い、道順を尋ねれば「JR三田駅から神姫バ
スで小柿行のバスに乗り(こうづき)で降りたら
直ぐです。」ということで向かうことになったが
(こうづき)という表示が見当たらない……と
いう声を聞いたことがあります。木器、母子、
尼寺、高次、川除、永沢寺……どう読むのでし
ょうか?
三田の城下町を散策しようとJR三田駅から中央商店街に入ると、
「桶屋町」
、「新町(福
井町)」と、そして車瀬橋を渡り本町に入ると「鍛冶屋町(北町)」
、
「裏町(南町、浦町)
」
と呼ばれている光景に出会うことがあります。ここは中央町、三田町なのに「なぜ?」。
また、有馬高校、有馬富士等『有馬○○』が三田にあるのは「なぜ?」という人、三田
を丹波地方、播磨地方の一地域と勘違いしている人もいます。
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今回、
「歴ネットさんだ」では、三田(周辺地域含む)の「読み方の不思議な地名」、
「江
戸時代の三田中心部の(消えた)地名」
、そして古くから当地は「摂津国、有馬郡」に属し
ていたところから、「摂津、有馬、三田の地名の起こり」について考えてみようと企画展を
開催いたしました。
これを機会に自分たちの住んでい
る地域の地名、地域の歴史・文化に
ついて考えていただけるようになれ
ばと思います。
そもそも地名とは?…私たち人間
あるいは社会の土地へ向けた呼称で
す。
それではどの様に地名が発生した
のでしょうか?
地名の始原は地形、気候、風土か
らの自然地形からきているのが大多
数であると言われています。土地に住む人々が自然に発する音が当時の言葉となり、これ
が変化してみんなに認知され、今日でいう地名になったのではないでしょうか?
その後、漢字の伝来により自由に当て字が付けられ、例えば「有馬」は「アリマ」であ
り、古代日本語で「アリ」は山を表し、
「マ」は土地を意味し、これが起源であるという説
があり、昔は漢字で「阿利万」とか「有間」、
「蟻間」でも表示されています。
漢字が入ってくれば、漢字のもつ意味からも地名が生まれるようにもなってきます。山
の姿が「鹿の舌」に似ているから「鹿舌山」(現在の羽束山)となり、これが「香下」とい
う地名の由来であるという説があります。
(香下には6世紀後半百済から来朝した日羅上人
がこの地に来て霊木を探しあて観音菩薩像を彫ったが、この像が高貴な芳香を放ったこと
から地名となったという説もあります。
)
次に古代に入ると律令制が布かれ、土地に条里制がひかれました。今も条里制の名残が
ある地名が存在しています。また、和同6年(713)好字(二字)令により地名に漢字を当
てる際はできるだけ好字を用い、二字に統一しようとしたことも地名を不思議な、複雑な
ものにしているのではないでしょうか。
中世から近世に入ると各地に豪族が起こり、豪族の屋敷村を中心に土地の呼称が発生し
てきます。例えば「小柿」は戦国時代丹波八上城の波多野氏の所領であって、その家臣が
この地に屋敷を構えて住んだ(小垣内)ことから地名が起こったと伝わります。
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この他に、城下町を形成するときに特定職人を一定地域に住まわせたことから「桶屋町」
、
「鍛冶屋町」という地名が生まれています。町に人が集まりだすと職人町の様相はなくな
っていきますが地名はそのまま残りました。三田ではこの職人町の呼称は明治時代に入り
消えてしまいましたが、150年を経た現在でも耳にすることがあります。
当初「言葉」
(音)のみで地名を表していたが、漢字が伝来し、表現が多様化してくると
漢字によりいろいろと地名が変遷して、後付で伝承とか由来が加わり、地名をより不思議
なもの文化的なものにしているのではないでしょうか。三田でも地名の由来を取り上げた
「民話」が沢山残っています。
しかし、平成の大合併により歴史的、文化的な地名が消えつつあるのは寂しい限りです。
2015 年 5-6 月活動状況
:三田ふるさと学習館
事業全般
情報発信事業
○月例連絡会
○総会
5/27
6/24
○旧九鬼家住宅資料館
5/27
・九鬼茶会
学習支援事業
○歴ネット通信
○三田ふるさと学習館(展示)
まちづくり事業
・「のぞいてみよう
さんだの大昔」(常設)
GW3日間
○古文書
○郷土史
・「伊能忠敬も歩いた旧街道を歩く」
5/11 内容協議
「三田の地名
打合せ
5/28・「旧九鬼家住宅を設計
6/5
ふしぎ発見」展示
5/12
5/27
○見学・探訪「佐用三城と平福」
した九鬼隆範と日本の鉄道史」
○ふるさと学習館セミナー
6/13
「三田八景を巡る旅」
下見
5/13
○郷土史学習講座
5/30
調査・研究事業
・竹コプター、水鉄砲、竹馬
○歴史ウォーク
5/1 号発行
○「屋敷町を歩こう」
・「空海ゆかりの三田の寺」(4/18~6/14)
○古代体験学習
6/6
6/10
5/7
編集後記
5/30
梅雨の季節真っ只中で気が晴れない日が続いて
・「空海ゆかりの三田の寺」
います。しかし、年々季節の移り変わりが見えに
○旧九鬼家住宅資料館展示
くくなってきているような気がします。年を重ね
・「昔の写真展」(4/18~6/14)
たからでしょうか。
○さんだふるさと探検隊
8月末まで「地名の不思議」について企画展を
施設管理事業
開催します。これを機会に「今住んでいる」地名
○指定管理施設:旧九鬼家住宅資料館
について興味を抱いていただければ……。(ℯ.ℱ)
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