演劇の皮膚 松田正隆 演劇の皮膚というものがあるように思える。皮膚は表面であるが、感触をともない、限りな く薄い膜であるが、それでも厚みをともなう。 皮膚は確かにある。ないところから、皮膚が生まれるということではない、厚みに刺激され、 生み出されるような皮膚なのである。それは、しかし、ゼロの厚みというような想像上のこと ではない。厚みは演劇の時間と空間、あるいは舞台空間と俳優の身体、そして戯曲とその上演 の狭間にあって、なにかのきっかけで皮膚の感触を産む。表面でありながらも厚みであること が皮膚からの知覚である。皮膚であるためには、なにが起こればいいのだろうか。すなわち、 厚みが生まれること、厚みの再開がなされること、その契機はどうしたら訪れるのか。 俳優が身体とともに舞台空間に現れる。観客に現前する、その感触と厚みが演劇の皮膚であ る。観客は俳優が出て来たと認識する。劇場であり舞台なのだ、俳優が出て来るのは当然では あるが、その俳優に演劇の皮膚があること(=ある感触と厚みがあること)は、俳優が舞台上 において認識(あ、俳優さんなんだな、とか、その劇の登場人物として認識)されることとは 違う何かが働き始めたからだ。その違う何かの働きは、観客のそれぞれに特異な身体があるこ とにも対応している。私たちが、何者(たとえば観客という立場や社会的な人格等)であるか、 ということとは別にこの現実をこの身体で生きているという逃れようのなさ、みたいなものと 関係していると思えるのだ。 この現在の現実からの離れようのなさは、この身体と接する空間の広がりからの離れようの なさ、とも言える。気がつけばこの身体が私の身体だったというように、このことからはなる ほど逃れられない。まさに、この事態は受動的である。疲れた身体だったら、その疲れは身体 とともに持続する。急にぷっつりと、身体と空間の接地面や疲労の持続が消え去ることはない。 まずはこの身体のまわりの空間から身体は動きはじめなければならず、さっきまでの過去の疲 労は身体のうちに引きずるように残っている。 演劇の皮膚とは、この逃れようのなさが何かと結びつき変容して、はじめて生まれるもので はなかろうか。逃れようのなさを肯定的にとらえなければならない。なぜ「この身体」から逃 れようとするのか。この身体と現在の空間の絶対的な結びつきを自由に解放したいと思うのは 頭の中の働きである。身体に頭を沈めるようにして身体で思考すれば、この受動的な事態が「促 し」としてとらえられはしないか。つまり、ある表現の再開の契機が生まれないだろうか。そ れは、むしろ「この身体」という受動性を経なければ生じない事態ではないのか。この逃れよ うのなさを、別の「逃れよう」として積極的に評価できはしないか。 それは、たとえば見えることと見えないことの関わりによっても起こる、と仮定してみる。 俳優が舞台上にあるとして、ある登場人物として電車に乗っているということであれば、観客 はそれを電車に乗っている人物として認識する。見えることは舞台の上の俳優であり、見えな いことは電車に乗る人物の像であるが、演技を媒介して見えない像が見えるようになる。これ はだが、俳優は戯曲上の時空間と舞台上の時空間の両方にあるという、あの何度も演劇につい て述べられてきた問題のことでもある。 俳優の身体は、観客の目の前にありながら、俳優は戯曲の世界を登場人物として生きている。 演技は、電車に乗る人物を模倣し再現する。しかし、演劇の皮膚とは、見えること(上演・再 現)によって見えないものが像(演劇の約束事)として浮かび上がる表象(representation)の ことではない。 俳優の身体そのものにともなう感触と厚みが見えない像のほうへと移植される過程で、もう ひとつの演劇の皮膚が生まれる。この移植のプロセスは目に見えるわけではないが、俳優と登 場人物の狭間に生きもののように生息するのである。この生きもののように生息するものは、 俳優でもなく登場人物でもない、極めて貧弱な受肉現象である。 しかし、俳優の身体が登場人物の像のほうへ帰属する事態が定着すると、俳優の演技は電車 に乗る人物という意味情報を伝達する手段となる。そのとき演劇の皮膚も失われ、あの、ふて ぶてしい登場人物としての役者の演技が舞台上を席巻することとなる。そこが劇場の舞台だと しても、俳優の演技が吊り革を握る仕草をすれば、どうやら電車の中らしい、ということにな るのである。ここには皮膚の厚みも受肉現象もない。それは、上演する側からのひとつの記号 の伝達と、それの観客の想像を通した読み取りでしかない。 それでは、どうしたら受肉(incarnation)が起きるのか。 受肉現象とは、「促し」「逃れよう」とする働きである。受肉現象は、俳優でもなく登場人物 でもない、判断のつきがたい存在の持続が舞台上で推移するときに起こっている。「これは何々 である」と認識できそうでできない。舞台上の約束事が破綻し、吊り革を握る仕草をしている にはしているが、場合によってはそうとも言えないということとなり、演技の記号としての読 み取りに失敗している。そんなときに起こる。だが、舞台上で進行する事態は、それはそれと して認めざるをえない、ということになってしまう。「これは何々である」と認識(言葉にして 説明)できないにもかかわらず、舞台で進行することを、これはこれとして見続けざるをえな いことになる。「これはこれとして」ひとまずは見続けるときに、演劇の皮膚が生成していると 言えるのではないか。 そこでは一体なにが起こっているのか。 それは次のような事態と似てはいないか。雑踏で誰かを見かける。見覚えのある人のようだ が誰かは思い出せない。会ったこともない人のようだが知り合いのような気がする。見覚えの あることは確かだが、その人が誰だと特定できない。あるいは、今見ている光景が以前見た光 景に思える既視感。これらは、今急に顔を出した過去が、自分の記憶の中でしっかりと支えを 持たないときに起こる宙づりのような出来事である。見かけた人を誰々と、眼前の光景を何々 と特定はできないが確かに過去のことだったとしか言いようがないときに、この事態は起こる。 現在の流れの中にある者が、現在の出来事を過去の特定の記憶と再認できずに、けれどもそれ を確かに過去と感じながら見届けざるをえない。このなんとも言えない感触に、現前する主観 の生の感覚とは違うもうひとつの生の厚みを覚えるとき、それこそが演劇の皮膚にさわったと 言えるのではないか。 私の身体が世界との接地面に直面して離れられないこと。これが現在ということなのだが、 その接地面が揺るがされる事態、それが皮膚の出現である。 ひとりの俳優がなにもない舞台空間のある宙空に向けて指差し「この絵はどこの風景ですか」 と問う。相手役の俳優が「セーヌ川です」と応える。舞台空間に、壁にかかった絵が現れる。 セリフの情報から、セーヌ川の絵が出現する。舞台空間に戯曲の空間が立ち上がる。しかし、 ここで重要なのは、俳優の演技(セリフと仕草)とともに表象された戯曲の空間、壁にかかっ たセーヌ川の絵ではない。俳優が、現在時の舞台の接地面(いま、俳優も観客もそこを生きて いる)に戯曲上の空間の接地面を上書きするようにもたらすことが重要なのだ。俳優の側から すればそういうことになる。観客のほうからは、戯曲上の空間は見えない。いま、舞台上の空 間には何もないのだ。セーヌ川の絵は現在見えているものの完全なる下書きでしかなく、舞台 の宙空の下にあるとしか言いようがない。それでも、同時に俳優は確信を持ってその宙空に向 けて「この絵はどこの風景ですか」とあたかも壁にかかった絵があるごとくに言うのである。 そのとき、絵はどこにあるのか、俳優=登場人物はどこにいるのか。 絵は戯曲上の空間にあり、俳優は登場人物としては戯曲上にあり、身体としては舞台空間に ある。それゆえ、俳優は戯曲の世界と舞台上の両方を二重に生きている。なにか、おさまりの ついたような真っ当な解答だけれども、演劇にともなうこのような配置を言い当てたつもりに なっても仕方のないことなのだ。何処とものの所在を問うのではなく、この特殊な配置のあり ようによって、なにが起こっているのかを問うほうがいい。 あるいは、舞台上には俳優の身体による動きと発話があるのだが、それらのパフォーマンス は、それらの情報によって与えられ、観客の頭の中に受容された戯曲のイメージを通して観ら れることになる、という考え方もあるだろう。つまり、観客に植え付けられたイメージ(戯曲 とその上演によってもたらされるもの)と舞台上の出来事の相互作用によって演劇が成り立つ、 ということだ。しかし、演劇の皮膚は、観客の脳内を起点としたイメージの働きによって舞台 上に投映される像ではない。すでにイメージに浸透された観客が舞台上の出来事を観るという ことであれば、演劇が私たちに及ぼすスペクタクル化という悪弊からはどうしても逃れられな い。 それゆえ、場所の問題ではないのだ。舞台上でも頭の中でもない、まさしく理念的なありか たで演劇の皮膚がもたらす知覚は生成するのである。あえて所在を語るなら、登場人物も絵も、 舞台上のなにもない空間の下にあるのだ。要するに見えないし、イメージとしても見えてはな らない。それでも、この「下にある」という感覚が、自律した物事の生成を導き出す。空間上 のどこにも帰属しないイメージ(見える像としてのイメージではなく、演劇の皮膚)は理念的 な存在としか言いようがない。しかも、そのイメージは戯曲の情報によって直接与えられたも のではなく、視覚の外にあって、舞台空間の下にあるという感覚が生み出す自由な動きそのも のなのである。それは、生きもののようにあらゆる出来事と結びつく契機である。 それでは、そのような受肉現象を産み出す動き、行為とはどのようなものなのか。 普段、私たちは「行為」を目的への手段としてもちいる。「食べる」という行為は、たとえば 空腹を満たす目的で行うのだ。その行為は目的に従属している。 では、演劇では「食べる」行為はどうなるのか。それは観客に見せるためにある。「食べる」 行為を「見せる」ということは、どういうことか。「食べる」を再・呈示(表象)するというこ とである。チョコレートを、スパゲッティを、フランス料理を、口へと運ぶ動きを模倣して行 う。その口へと運ぶものに見合ったさまざまなマイム(ものまねの身振り)等から、総合して、 なにを食べているのかが観客に認定されるのである。 なぜそんなことをするのか。当たり前だが、俳優は空腹を満たす目的への手段として「食べ る」行為をするのではない。かと言って単に、なにかを食べていることが観客にわかればいい というわけでもないだろう。さまざまな行為の積み重ねを見せることで俳優が演じる登場人物 のおかれた状況を呈示すること。そのとき、「行為を見せる」ことは登場人物のおかれた「状況 の呈示」に寄与しているのではあるが、その状況を見せるという目的のための単なる手段とい うわけではないのだ。ダンスやパントマイムとまではいかないまでも、演劇においても発話と 同様、俳優の所作、身振り、立ち振る舞いはとても重要な構成要素なのである。 演劇において「行為」は、その行為自体をどのように見せるのか、ということで問われるこ とになる。「食べる」ことを表象してはいるものの、ほんとうには食べているわけではないのだ から、その食べようが、「食べるの呈示」の仕方が問題となる。つまり舞台上の行為自体がどの ように見られるのかが目的となること。それが演劇の美学的な判断基準になる。ここでは、行 為は手段ではなく、その行為の呈示自体が目的なのである。ほんとうに食べているように見え ることがよしとされれば、リアルな食べっぷりが要請される。いや、ほんとうに食べていると きよりも、「食べる」行為が前景化され、「食べる」がドラマチックに問題提起されている、と いうことになったりする。そのようにして行為を洗練させること。稽古を通して、俳優の動き を開発し安定させること。ユニークな演技の仕方で、「食べる」が演出されること。ほとんどの 演劇は、そういう「行為の見せ方」の面白さを主題としているようだ。 しかし、それでいいのかという思いがつきまとうのだ。 「食べる」と認定されるためにある「食 べるのマイム」のことを慎重に考える必要がある。演劇の行為を見せることが、自明のことと なってはいないか。このような言い方は奇妙でもどかしいのだが、なぜ、演劇の「食べる」は このこと自体、食べる自身をそうまでして呈示しようとするのか。「食べる」ことへの接近(食 べることが成り立つこと)にばかり目を奪われて、見落としているのは、演劇の「食べる」に 必然的につきまとう未熟さと言うか、「食べる」への至らなさと言うか、食べそこないの「食べ る」なのである。決して「食べる」に到達しない「マイム」のほうを感じるべきではないか。 経験上(日常の食べるという経験から)、そこ(舞台)で行われている「食べるのマイム」は 「食べる」こととして認知しうるのだが、あまりに当然のようにして「食べる」が舞台上で実 現できていない(その行為は食べまねにすぎない)としたとき、なにが起こっているのか。そ れを、経験を超えて理念的に思考することはできないか。そのような舞台空間を呈示したとき、 私たちの感覚はどうなるのか。そこで生成されるものはなにか。言い方をかえると、戯曲上の 人物や出来事は、舞台上ではうまく実現できないが、その実現できなさを真っ当に舞台上で呈 示することは、むしろ積極的な演劇表現としてありうるのではないか、ということである。演 劇は、反・実現がなされる表現なのではないか。 「食べる」をマイムするということは「食べる」を「食べる」手前で実現させず、「食べる」 が現前しないで「食べるのマイム」のままでいることなのだ。ただし、決して、その「食べる のマイム」が上手に洗練された美的な振る舞いになってはならない。なぜなら、美的なものと してそのマイムは成就してしまうからだ。「食べるのマイム」のままの持続であること、そのと き、「食べるのマイム」は「食べる」と「マイム」に分離し、食べるという意味のほうは脱色さ れ、マイムは舞台空間に少しずつ意味を失いながら推移する。それでも「マイム」は「食べる」 から離れられない。そのようにして「食べるのマイム」はゆらぎ、振動している。 マイムは「長崎を上演する」における重要な構成要素の一つ、俳優と登場人物を超越したア クターである。それは、地と図のように上演空間と相互に関係し合い、そこを特異な場所に創 造するのである。俳優の動きは「食べる」「飲む」「歩く」「すわる」「立つ」「話す」「見る」「祈 る」等の動詞へ(あるいは美しいものへ)と認定する視覚のみに支配されてはならないのであ る。審判のいる「いま・ここ」という凝固した現在時に還元されないで、行為を厚みの感触を ともなうイメージの空間のほうへ差し出すマイムの棲む場所。そここそが演劇の皮膚の生成の 場であると思われる。 演劇には、三つの面(二つの位相 aspect と一つの局面 phase)がある。一つは、上演時の舞 台において、俳優と観客に現前する空間とのアクチュアルな接地面。もうひとつは俳優の演技 によってできる戯曲上のイマジナリーな面。そして、この二つの静的な面(位相 aspect)が接触し たときに走る亀裂面(局面 phase)が三つ目である。この現在の空間における私たちの接地面に対 して差し障りを与えるように俳優=登場人物が振る舞うこと。その振る舞い(動き)で二つ目 の面を投入することによって動的な亀裂を生じさせることが劇であり、厚みであり、演劇の皮 膚である。それは生じるや再度、三つ目の亀裂面を生み厚みは持続し自己増殖してゆくだろう。 それはすなわち、ある局面(phase)の発生、劇の時間が生じることでもある。 ※本テキストは『ドゥルーズ・知覚・イメージ―映像生態学の生成』(せりか書房)から抜粋し たテキストに加筆したものです。
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