神 戸 高 商 の 開 校 の こ ろの 会 計 帳 簿 * ― 和 帳 か ら洋 帳 へ の 転 換 ― 岡部 孝好 (神 戸 大 学 名 誉 教 授 ) * 初 出 : 「 経 営 学 研 究 のた めに 」 ( 神 戸 大 学 経 営 学 部 、2 0 0 2 年 ) 。 1.100 年 前 の試 練 会 計 帳 簿 に 記 録 す るの は 数 字 や 符 丁 ど の 記 号 や 番 号 )ば かりだ から 、 こ の帳 (借 方 、貸 方 、勘 定 科 目 な 簿 記 録 に 一 番 向 い てい るの はコ ンピュ ー タ で あ る。 会 計 帳 簿 とコ ンピ ュ ータ は 相 性 がいい 。そ れ な のに 、 会 計 帳 簿 へ の記 録 をす べてコ ン ピ ュ ー タに 任 せ て、 紙 のメ デ ィア から 磁 気 のメ デ ィア へ 完 全 に 転 換 す る のは 、けっ し てな まや さし い こ とで はな い 。 「 ペ ー パー レス 会 計 」 に 向 け た 戦 い はす で に 何 世 代 も 前 か ら す す めら れ て いる が 、そ の完 結 は まだ まだ 先 の ことら し く、血 のに じ むよ うな 苦 闘 がい まも つづ け ら れ てい る。 し か し 、 日 本 の 会 計 に と っ て 、 こ の よう な 苦 闘 は 最 初 の 経 験 で は な い 。 お よそ 1 0 0 年 前 、 神 戸 高 商 が 誕 生 し た 明 治 3 5 ( 1 9 0 2 ) 年 ご ろ に も 、 同 じ よ う な 、 い や そ れ より も も っ と 厳 し い 試 練 の 時 が あ っ た 。ま だ 文 明 開 化 の 波 に 洗 われ てい た 当 時 、わ が 国 の 企 業 は、 和帳 ( 大 福 帳 に よ る 日 本 式 会 計 帳 簿 ) から 洋 帳 ( 西 洋 式 会 計 帳 簿 )に 乗 り 換 える ことを 迫 ら れ てい た のである。 和 帳 は 漢 字 の 数 字 をタ テ に 書 く が 、 洋 帳 は アラ ビ ア 数 字 を ヨ コ に 書 く 。 こ の 表 面 的 な 相 違 より も も っ と 本 質 的 な の は 、 和 帳 は 単 式 簿 記 法 な の に 、 洋 帳 は 複 式 簿 記 法 に よる と い う 違 い で あ る ( 1 ) 。 明 治 時 代 に は この複 式 簿 記 の 知 識 がき わ めて希 少 で あっ た から 、 神 戸 高 商 出 な ど 、 超 エ リ ー ト を 雇 え る 優 良 企 業 でな けれ ば 、 洋 帳 を 使 う といっ た 贅 沢 は 許 され な かっ た 。問 題 は、 それ ば かりで は な い 。 当 時 に お い て は 、 洋 帳 を 採 用 し よ うに も 、そ の た めの 帳 簿 1 用 紙 も、また ペ ンもイン キも、わ が国 に はまだ 存 在 し ていな かっ た の であ る。明 治 時 代 の 先 輩 た ちは、 想 像 を 絶 す る この 試 練 を、い っ た い ど の よう に 乗 り 越 え た の で あ ろ う か 。 今 年 の 平 成 1 4 ( 2 0 0 2 ) 年 は神 戸 高 商 の開 校 から 1 0 0 周 年 目 に あた るから 、 この記 念 す べ き 年 に 、会 計 ツ ー ル の側 から 当 時 の会 計 帳 簿 を追 っ てみ る ことに し よう 。 2.明 治 時 代 の筆 記 具 (1) 鉛 筆 筆 と 墨 し か 使 っ て こな かっ た 日 本 人 に とっ て、文 明 開 化 ととも に 流 入 し てき た 西 洋 の筆 記 具 は目 を見 張 るも のば かり であっ た 。 わ けても鉛 筆 と 万 年 筆 は斬 新 で、新 し がり 屋 に とっ て垂 涎 の的 で あ った(2)。 西 欧 ではつとに 鉛 筆 工 業 が確 立 されていたのに、明 治 10( 1877) 年 代 に なっ てもわ が国 に はまだ 鉛 筆 の製 造 技 術 はな か っ た 。 明 治 1 4 ( 1 8 8 1 ) 年 に 開 かれ た パリの内 国 勧 業 博 覧 会 に 、 井 口 直 樹 が 手 製 の 鉛 筆 を 出 品 し てい る とい う が、 これ は おそ ら く は 試 作 品 程 度 の も の で あろ う 。 こ の 鉛 筆 の 国 産 化 に 果 敢 に チ ャ レ ンジし たのは、 真 崎 仁 六 ( 三 菱 鉛 筆 の 創 始 者 )で ある。 真 崎仁六は 苦 心 惨 憺 の す え に 、 明 治 2 0 ( 1 8 8 7 ) 年 に よう や く 鉛 筆 ら し き も の の 製 品 化 に 成 功 し た が 、そ の 芯 は、 石 臼 で ついた 黒 鉛 と 粘 土 を 、 摺 り 鉢 で 練 り合 わ せた もの でし か なか っ た ( 『 鉛 19 65 ) 。 し か も 、それ は 三 筆 と とも に 80 年 』 、 方 の 軸 で 芯 を 囲 む「 は さみ 鉛 筆 」 で あ っ た から 、力 を 入 れ て 書 くと 芯 が 引 っ 込 むとい う 欠 点 をも っ てい た 。 こ の た め 評 判 はす こ ぶ る 悪 く、 明 治 時 代 の全 体 を 通 じ て 鉛 筆 は 一 般 に 普 及 せ ず、 毛 筆 が あい かわら ず幅 を 利 かせ てい た 。 明 治 の 初 め から 舶 来 鉛 筆 がさ か んに 輸 入 さ れ て いた が、 それ は 製 図 、 図 画 、 速 記 な どのた め の 特 殊 な 器 具 で あっ た 。 明 治 の 末 ご ろ に は 国 産 鉛 筆 が よう や く 愛 用 さ れ る よう に な る が 、 国 産 化 さ れ ても 、この簡 便 な 筆 記 具 が会 計 ツ ー ル とし て広 く使 われ るよ うな こ とに はな ら な かっ た 。 鉛 筆 の文 字 は 消 し ゴ ム で簡 単 に 消 え、 改 ざん( 竄 ) され や す い 点 が 嫌 わ れ た の で あ る。 なお 余 談 に な る が、 磁 気 デ ィス クは現 代 の最 も 重 要 な 会 計 ツ ー ル であ るが、これ に も 、 2 消 し や す い とい う鉛 筆 と同 じ 欠 点 が ある。 (2)ペ ンと インク 毛 筆 と墨 で 、和 紙 に 書 かれ た 文 字 は 、 改 ざ ん が む つかし い うえ に 、保 存 がきく。防 水 性 も高 く 、江 戸 時 代 の商 人 は、 火 事 の炎 が 迫 っ て く ると 、大 福 帳 を 井 戸 に 投 げ 込 ん で逃 げた とい う 。和 紙 に 書 かれ た 毛 筆 の 文 字 は 、濡 れ ても、 後 で乾 かせ ば 元 通 りに 復 元 す る 。西 欧 の 鉱 物 性 の イン キに これ ほ ど の防 水 性 が あっ た と は と ても思 えな い が、 洋 紙 に ペ ン とイ ンキ で 書 かれ た 文 字 が 永 く保 存 でき るも の であっ た こと 、 そ れ に 改 ざ ん され に くい も の であっ た ことに 疑 い はな い 。そのうえに 、 アラ ビア数 字 は、ペ ンとイン キを 使 っ て横 書 き に す る方 が 書 き や す く、 滑 り がい い 。 こ うし た 長 所 を 備 え てい た た めに 、 早 く も明 治 10( 1877) 年 代 に は 、先 進 的 な ごく 一 部 の 大 企 業 では 、横 浜 の貿 易 商 社 を 通 じて鉄 鋼 ペ ン と 西 洋 イン キ を 直 輸 入 し 、 これ ら の 舶 来 文 具 で 洋 帳 に 記 録 し てい た とい う(ち なみ に、日 本 最 初 の 洋 式 帳 簿 は 明 治 5( 18 72) 年 に 国 立 銀 行 に よっ て 採 用 され た収 支 計 算 帳 だと いわれる )。 現 存 す る明 治 20( 1887) 年 の 丸 善 唐 物 店 ( いま の 丸 善 )の 相 場 表 (商 品 リス ト) に は、 石 鹸 、マッチといった 当 時 の 高 級 生 活 用 品 に ま じっ て 、 鉛 筆 、ペ ン 先 、 イン キ とい っ た 西 洋 文 具 が記 載 され ている(『 丸 善 百 年 史 』、 19 8 0)。 明 治 時 代 の会 計 ツ ール の中 で、 製 造 技 術 が比 較 的 簡 単 で あっ た の はイ ンキ で ある 。明 治 1 0 ( 1 8 7 7 ) 年 代 に な っ て 洋 帳 が 普 及 し は じ める と、 この イン キの 消 費 量 が 増 え てき た 。 そ こ で 丸 善 は、 インキの 製 法 に 詳 し い安 井 敬 七 郎 の創 始 者 )を (日 本 初 の ソース 工 場 「 神 戸 ソー ス」 社 員 に 招 き、その国 産 化 に 挑 戦 し は じめた。明 治 20( 1887) 年 に 丸 善 工 作 部 から 販 売 され た 「 簿 記 用 イ ン キ」 はそ の 輝 か し い 成 果 で あ る 。 この 和 製 イ ン キ はの ちに 改 良 され て「 丸 善 インキ」 に 、さら に 大 正 5 ( 1 9 1 6 ) 年 に は「 アテ ナイン キ」 とな り 、日 本 を代 表 す るイ ン キの 人 気 ブ ラ ン ド に 成 長 し た 。た だ 、 当 時 の 国 産 イン キの 品 質 は粗 悪 で 、輸 入 イ ンキに は とても 太 刀 打 ち できな かっ た 。 当 時 の洋 行 み や げに 鉛 筆 と イン キが 多 かっ た のは 、西 欧 製 が 品 質 面 で 格 段 に す ぐ れ て い た こ と に よる も の で あ る 。 (3) 万 年 筆 3 明 治 時 代 に おける 万 年 筆 は、 上 流 階 級 の「 ハ イカラ さん」 が弄 ぶ奢 侈 品 で、 会 計 ツ ー ル とはまっ た く無 縁 であ る。 し かし 、 万 年 筆 は鉄 鋼 ペ ン と イン キ壷 を合 体 させ た 複 合 商 品 であり 、 会 計 ツ ー ル の製 造 技 術 と切 っ て も切 れ ない 関 係 に あ る。 明 治 10( 1877) 年 代 に 輸 入 され て い た の は「 ス タ イ ロ グラ フイッ クペ ン 」 と 呼 ば れ る 原 始 的 な 万 年 筆 で、 細 い 金 属 パ イプ の中 に 針 金 を通 し 、 そ の上 下 操 作 でパイプ の 先 端 に イン キを送 る仕 掛 け に な っ て いた 。 明 治 2 0 ( 1 8 8 7 ) 年 代 に な る と 、 「 ウ ォー タ ー マ ン 」 と い う 毛 細 管 現 象 を 応 用 し た 本 格 的 な 万 年 筆 が輸 入 され はじ め 、 これ が 西 洋 か ぶれ の 文 士 な ど の間 で人 気 を呼 んだ 。この需 要 を受 けて、明 治 40( 1907) 年 ごろか ら万 年 筆 の国 産 化 が はじ まっ たが 、耐 磨 耗 性 のペ ン 先 を製 造 す る技 術 がわ が国 に はまっ た くな く、 金 ペ ン だ け は 輸 入 に た よっ た 。 東 京 商 船 学 校 教 授 の 並 木 良 輔 筆 の 創 始 者 ) は、 この 状 (パ イ ロ ット 万 年 況 をみ て 金 ペ ン の研 究 を 思 い 立 ち 、羅 針 盤 の 支 持 ピ ン に ヒン ト をえ て、ペ ン の 先 端 に 耐 磨 耗 性 のイ リド ス ミ ンを 焼 き 付 け る 技 術 を 開 発 した( 『パ イ ロ ット の 航 跡 』 、 19 7 9) 。し かし 、 この国 産 万 年 筆 の商 業 生 産 がは じまっ た のは大 正 7 ( 1 9 1 8 ) 年 と い う から 、 鉄 鋼 製 のペ ン 先 に 関 し ては 、 明 治 時 代 に は 幼 稚 な 製 造 技 術 し か な か っ た と い え よう 。 イ ン キ は 低 品 質 で も 国 産 品 が あ っ た が 、 洋 帳 に 使 え る よう な 国 産 の ペ ン 先 は わ が 国 に は ま だ 存 在 し な かっ た のである。 3.明 治 時 代 の洋 帳 (1) 明 治 時 代 の 帳 簿 用 紙 明 治 維 新 の ころ 、 わ が 国 の 製 紙 技 術 はす でに ト ッ プ レベ ル に あ り 、 手 漉 き 和 紙 ほ ど 良 質 の 紙 は 世 界 の ど こに も な かっ た 。 この 和 紙 は壁 紙 、 障 子 、 襖 、 衣 服 、 傘 な ど に 広 く使 われ ており 、 全 国 各 地 に 生 産 拠 点 があっ た 。し かし 、和 紙 に マ ッ チ す る筆 記 具 は毛 筆 だ け で 、 鉄 製 の ペ ン 先 と は 特 に 相 性 が よく な か っ た 。 西 洋 文 化 の 流 入 とともに 洋 紙 に 対 す る需 要 が 急 増 し た た め、 明 治 6 ( 1 8 7 3 ) 年 に 渋 沢 栄 一 な ど に よっ て 王 子 製 紙 が 設 立 さ れ た が 、 生 産 され た 洋 抄 紙 は 新 聞 用 紙 な ど 、 印 刷 向 け の 低 級 品 で あっ た 。 明 治 2 0 ( 1 8 8 7 ) 年 ごろ に は、 原 料 はボ ロ 布 から パル プ に 切 4 り 換 えら れ 、洋 紙 の供 給 体 制 が整 っ てき た が 、これ ら の国 産 洋 紙 は 均 質 で は あ っ て も 、 品 質 が 悪 く、 ペン 書 き の 会 計 帳 簿 に は 不 向 き であっ た 。 洋 帳 向 けの 帳 簿 用 紙 の 国 産 化 は ずい ぶ んと 難 渋 し 、大 正 の 初 めになってもなお試 作 の段 階 にあった(『コクヨ70年 19 75 )。コクヨ の創 始 者 黒 田 善 太 郎 は土 佐 製 紙 の あゆみ 』 、 (い まの 日 本 紙 業 ) に 特 に 依 頼 し て 、 イ ン キ で も 書 け る 特 製 の 和 帳 を 製 造 し よう と し た が 、 そ の 生 産 も 販 売 もは か ば かし く な かった 。 こ の た め、 大 正 2(1913) 年 になってコクヨが 洋 帳 の既 製 品 の製 造 に着 手 したとき に も 、 用 紙 だ け は 輸 入 も の に た よる ほ か は な か っ た 。 コ ク ヨ が 王 子 製 紙 小 倉 工 場 で 洋 帳 向 け の「 コ クヨ 帳 簿 紙 」 の開 発 に は じ めて 成 功 し た のは 、な ん と 昭 和 5 ( 1 9 3 0 ) 年 に な っ てから の こと であ る。 明 治 時 代 全 体 を 通 じてみ る と 、洋 帳 の 帳 簿 用 紙 はす べ て輸 入 も ので あり 、国 産 品 で 使 え る 用 紙 はど こに も な かっ た とみ な け れ ば な ら な い 。先 に 述 べた 丸 善 唐 物 店 の相 場 表 に おい て、直 輸 入 の 主 要 品 目 の1 つ が「 簿 記 用 紙 」 であっ た こ とも 、こ の点 を裏 付 け て いる。 (2) 明 治 時 代 の 会 計 帳 簿 こ の 簿 記 用 紙 が ど の よう に 使 わ れ た の か は は っ き り し な い が 、 輸 入 され た の は 赤 い 罫 線 を印 刷 し た 文 字 通 り の「 用 紙 」 で あっ て、 「 帳 簿 」 で はな かっ た の はた し かな こ とで あ る。し た がっ て、 製 本 は 国 内 で行 う 必 要 が あっ た が、 これ を 請 け 負 っ てい た の が「 帳 簿 屋 」 である。銀 座 の伊 東 堂 や 文 祥 堂 、横 浜 の文 寿 堂 などがこの帳 簿 屋 で、西 洋 の製 本 技 術 を使 っ て「 別 誂 え品 」 を 特 製 し てい た と い う(『コ ク ヨ 70 年 のあ ゆみ 』 、1 97 5)。 明 治 時 代 の洋 帳 はほ とんど 全 部 が こ の特 注 品 で あ るが 、時 代 が下 が る とその 装 丁 はし だ い に 凝 っ てき て、 威 厳 に 満 ち あふ れ た も のに な っ た 。輸 入 帳 簿 用 紙 はも とも と高 級 品 で あっ た が、それ が 西 洋 の 貴 重 書 の 製 本 技 術 に よっ て 重 厚 に 装 丁 さ れ た 。 帳 簿 の 断 ち口 に はし ば し ば 鮮 や かな 縞 模 様 ( マーブル )が描 かれ ていた し 、 背 皮 に は風 格 の あ るイ ンド 産 羊 皮 ( ヤ ン ピ ー )が 張 ら れ 、そ の うえに 金 箔 で 背 文 字 が 押 さ れ て い る こ と も め ずら し く な か っ た ( 3) 。 た だ 、 仕 立 て に は 関 東 風 と 関 西 風 の 別 が あり 、 東 京 で は 黒 染 めの 背 5 皮 に 「 ~元 帳 」 という 背 文 字 が 押 され た が 、大 阪 で は赤 染 めの 背 皮 に 「 ~原 簿 」 と刻 まれ るのがふ つ うで あっ た とい う( 『コ ク ヨ 70 年 のあ ゆみ 』、 19 75 )。 4 .和 帳 の全 盛 時 代 明 治 32(1899)年 に商 法 ( 法 律 第 4 8 号 )の 第 25 条 に、「商 人 ハ 帳 簿 ヲ 備 ヘ 之 ニ日 日 ノ 取 引 ・ ・ ・ ヲ 整 然 且 ツ 明 瞭 ニ 記 載 ス ル コ ト ヲ 要 ス 」 とい う規 定 が設 け ら れ た 。 会 計 帳 簿 の 作 成 を義 務 づ け た この 条 文 は わが 国 の ビジネス の近 代 化 に とっ て画 期 的 な も の で、1 0 0 年 余 の星 霜 をへて、い まな おそ のまま 活 き てい る。し かし 、 こ の条 文 が 洋 帳 の 普 及 を 狙 っ た も の で あっ た とす れ ば 、 かな り 無 謀 な 会 計 規 制 で あっ た こ と は まち がい な い ( 4 ) 。 洋 帳 を 作 成 し よ う に も、その会 計 ツー ル が国 内 に はまっ た くな かっ た し 、複 式 簿 記 の 知 識 も まだ 普 及 し てい なか っ た 。神 戸 高 商 が 開 校 し 、 よ う や く 簿 記 教 育 に 力 を 入 れ はじ めるのは、 3 年 後 の明 治 36( 190 3) 年 に な っ てからのこ とであ る。当 然 の 結 果 とし て 、新 商 法 が 施 行 され ても、 洋 帳 はい っ こ うに 増 えず 、 会 計 規 制 の イン パクト ら し き も のは、 何 も 残 ら な かっ た 。 大 多 数 の 企 業 で は、 従 来 と まっ た く 同 様 に 、 墨 と 筆 で、大 福 帳 に 「 整 然 且 ツ 明 瞭 ニ」 記 載 し た だ け のことであ る。 和 帳 は 1 0 0 枚 程 度 の和 紙 の束 を表 紙 で挟 み 、紐 でと じる。 黒 田 善 太 郎 が こ の 和 帳 の 表 紙 を 製 造 販 売 し は じ め た の は、 明 治 3 8 ( 1 9 0 5 ) 年 のことであ る。新 商 法 施 行 6 年 後 のこ の年 でも 、 和 帳 の需 要 は旺 盛 で あっ た とみ え、この 表 紙 ビジ ネス は大 成 功 で あ った。明 治 41(1908) 年 になって、黒 田 善 太 郎 は 表 紙 とそれに挟 まれ る帳 簿 和 紙 を一 体 化 し 、 和 帳 の既 製 品 を販 売 し は じめた が、 これ も あた っ て、大 い に 産 をな し た 。大 正 7 ( 1 9 1 8 ) 年 に 第 一 次 大 戦 が 終 結 し て から 、 和 帳 の 需 要 に は じ め て陰 が さし は じ めた と い われ るが、そ れ まで売 れ てい た のは 和 帳 ば かり であっ た 。 このこと か ら 、わが 国 に おい ては、 商 法 施 行 後 も 和 帳 の時 代 が 長 く つづ き 、 主 要 な 会 計 ツ ー ル が 墨 、 筆 、 和 紙 、 そ し て ソ ロバ ン で あ っ た こ と が わかる。 5 .洋 帳 への 転 換 6 大 正 3( 1914) 年 に 第 一 次 大 戦 が勃 発 し 、 西 洋 式 の会 計 ツー ル の輸 入 が途 絶 し た 。そ こ でま ず 国 内 需 要 をま かな うた めに 、 鉛 筆 、ペ ン 先 、帳 簿 用 紙 な ど の国 産 化 が 急 ピッ チ に す す めら れ た 。 こ の 国 産 化 に 早 く 成 功 し た 企 業 に は 、 さ ら に 大 き な ビ ジ ネ ス チ ャン ス が 待 っ て い た 。 西 欧 で は 戦 争 に よっ て 文 房 具 の 生 産 が 止 ま っ た た めに 、鉛 筆 な どに 海 外 から の 注 文 が殺 到 し た から で ある 。こ うし て、会 計 ツール の国 内 生 産 体 制 は飛 躍 的 に 拡 大 し た。 だ が 、大 正 8 ( 1 9 1 9 ) 年 に 戦 争 が 終 結 す ると 、 こん ど は輸 出 の 停 滞 に より 、 文 房 具 の 国 内 価 格 が 暴 落 し は じ め た 。 小 規 模 業 者 が 乱 立 し て い た 鉛 筆 業 界 で は 、 過 当 競 争 に よっ て 際 限 も な く 価 格 が 下 が り 、 これ に 対 応 し て 品 質 も 劣 化 し てい っ た 。 人 目 に 触 れ る 両 端 だ けに 芯 を 詰 めた 「 キ セル 鉛 筆 」 を 輸 出 し 、 国 際 的 信 用 を失 墜 させ た のも 、 このころ のこと であ る。し かし 、わ が国 の 近 代 文 明 を 前 進 さ せ た の は、 皮 肉 な こと に 、 こ の 価 格 の暴 落 で あっ た 。 価 格 の 大 幅 な 下 落 のた めに 、 鉛 筆 がだ れ も が 親 し める 「 生 活 用 品 の文 房 具 」 に 化 けた ので ある。「 一 銭 鉛 筆 」 が でてから 、貧 し い 家 庭 の 子 弟 で も 、 鉛 筆 で 学 べ る よう に な り 、 学 校 で も 鉛 筆 が 文 具 とし て定 着 し た 。この 状 況 を背 景 に 、 会 計 帳 簿 に も 大 き な 変 革 が 起 こり 、 第 一 次 大 戦 後 の 不 況 を 境 に 、 よ うや く 洋 帳 の 需 要 が 増 え、 代 わ り に 和 帳 の 需 要 が 下 落 し は じ めた 。 この 動 き に 拍 車 を か けた のが、法 人 所 得 税 制 である( 5 ) 。 昭 和 に な っ ても 和 帳 の 需 要 は かな り あっ た とい う から 、 大 正 時 代 に 日 本 企 業 の 会 計 帳 簿 がす べ て 洋 帳 に 切 り 換 え られ て い た わ け で は ない 。し か し、 区 切 り の ひ とつ の 目 安 に な る のは 関 東 大 震 災 の 大 正 1 2 ( 1 9 2 4 ) 年 で あ る。こ の関 東 大 震 災 を起 点 とす れ ば 、毛 筆 から ペ ンへ、和 帳 から 洋 帳 への 転 換 に は、明 治 6( 1873) 年 に 公 刊 され た 福 沢 諭 吉 の『 帳 合 之 法 』 から 数 えて 半 世 紀 、 明 治 32( 1899) 年 の 商 法 か ら 数 えて 四 半 世 紀 が か かっ た こ とに な る。 福 沢 諭 吉 の『 帳 合 之 法 』 を 端 緒 とし て、 明 治 時 代 から 大 正 時 代 に かけ て 、 かな り 多 く の 簿 記 の 教 科 書 が 日 本 で 発 刊 され て い たのは 事 実 で あ る。 また 東 京 高 商 、神 戸 高 商 といっ た 上 級 の 教 育 機 関 だ け でな く 全 国 各 地 の 旧 制 商 業 學 校 に お いて も、 教 育 7 科 目 の 中 心 に 簿 記 が 据 えられ 、西 洋 式 の 複 式 簿 記 が徹 底 的 に 教 え込 まれ てい た ことも ま ちがい な い 。し かし 、 日 本 の ビジネス の 実 情 に 目 を向 け てみ ると、 複 式 簿 記 は 当 時 で はさし て普 及 し ておら ず、 関 東 大 震 災 以 前 に お い ては 洋 帳 よ り も むし ろ 和 帳 が 一 般 的 で あ った こと が わか る 。日 本 の 会 計 史 を語 る 場 合 、 大 正 末 期 に 至 る ま で、 複 式 簿 記 が ビ ジネス の 一 般 的 なツ ー ル に なっ ていな か っ た 事 実 に も 光 を当 てな けれ ば な ら な い 。 6 . むす び 会 計 帳 簿 へ記 録 す るに は 足 し 算 、掛 け算 が 不 可 欠 で あるが、 九 九 の教 育 が 普 及 し ていない西 欧 では、その 穴 を 埋 め る機 械 式 計 算 機 を開 発 す るのに ずい ぶん と精 力 をつ ぎ 込 ん だ 。 し かし 、 幸 い な こ と に 、 日 本 に は ポ ー タ ブ ル で 、 扱 い や す い ソ ロバ ン が 古 く か ら 発 達 し ていて 、商 家 の 子 弟 など はそ の操 作 に 十 分 に 熟 達 し てい た 。計 算 機 に かんす る かぎ り、 明 治 時 代 の 日 本 は 世 界 に 類 のな い好 環 境 に 恵 まれ ていた といえる 。し かし 、帳 簿 用 紙 もな けれ ば 、 ペ ンも イン キも な い わが 国 に おい て 、和 帳 から 洋 帳 へ 乗 り 換 え ると い うのは とほ うも な い 難 事 業 であ り 、苦 し い 戦 い で あっ た こと はま ち がいな い。そ の戦 い の旗 手 とな っ て 、日 本 の 会 計 の近 代 化 を リー ド し てき た のが、わが神 戸 高 商 の先 輩 た ちであっ た 。 神 戸 高 商 の開 校 から 1 0 0 年 余 がた っ た い ま、われ われ が直 面 し て い るの は それ と は 別 の 計 算 機 と の 戦 い で あ る。 電 子 式 計 算 機 、 つま り コ ン ピ ュ ー タに よ る会 計 帳 簿 の作 成 は「 ペ ー パー レス 化 」 に 向 かっ てい るが、 このペ ー パー レス 化 の 動 き は、 先 輩 た ちが苦 労 のす えに 打 ち 建 てた 洋 帳 の世 界 を叩 き 潰 す こと を狙 い に し てい る。 紙 の メ デ ィ ア から 電 子 の メ デ ィア へ の こ の大 転 換 が 完 成 す れ ば 、 明 治 時 代 に 創 出 され た 日 本 の 会 計 帳 簿 がも う い ちど 大 変 身 を 遂 げ 、 まっ た く新 し い 時 代 を迎 える ことに な る。 次 世 代 に 向 け た こ の 戦 い も 容 易 でな い が、 神 戸 高 商 の先 輩 た ち が そ うし た よ う に 、 わ れ われ も ま た 旗 を高 く 掲 げ て、 こ の 難 事 業 を乗 り 切 ら な け れ ば ならない。 ≪注 ≫ 8 1. 和 帳 は単 式 簿 記 である が、 その記 録 はかなり 粗 雑 で、 組 織 的 な 単 式 簿 記 ではなかったようである 。 大 福 帳 の多 くは、 今 日 の用 語 で い えば 掛 売 り と 掛 仕 入 れ の 補 助 記 録 簿 に す ぎ ず 、 現 金 出 納 帳 とし て も 不 完 全 き わまりな い も の が 大 半 で あ ったと 推 定 される。 2. 輸 入 鉛 筆 の 歴 史 は 古 く、徳 川 家 康 が南 蛮 渡 りの 鉛 筆 を 使 っ て い た 証 拠 が あると い う。 名 古 屋 の 徳 川 記 念 館 に は 、 いま で も 徳 川 家 康 が 使 ったと される 短 い 鉛 筆 が 陳 列 さ れて いる。 3. 神 戸 大 学 経 済 経 営 研 究 所 の 文 献 セ ン タ ーに は、 明 治 時 代 に 実 際 に 記 帳 され たペ ン 書 き の 洋 帳 が たす う 所 蔵 さ れ てい る 。 これ ら の 洋 帳 に は 豪 華 な 装 丁 が 施 さ れ て お り、 会 計 帳 簿 と い う より も 美 術 品 と いう 印 象 を 受 け る。 4. 商 法 が要 求 す る 会 計 帳 簿 に は、 複 式 簿 記 による も のの ほかに 、 単 式 簿 記 によるものが含 まれるというのは、今 日 で も支 配 的 な解 釈 だと い え よう 。し かし 、 当 時 の 乱 雑 な 大 福 帳 が 、 は た し て 商 法 の 要 求 を 満 た す も の で あ った の か ど う か は 疑 わし い 。 5. 洋 帳 へ の 切 り 換 えを 促 し た 決 定 的 要 因 の 1 つ は 、 法 人 所 得 税 制 である 。 課 税 標 準 と なる 「 所 得 」 なる ものを 周 知 させる ために、 大 正 6(1 917) 年 か ら 、 税 務 署 が 全 国 各 地 で 講 習 会 を 開 催 して 、 複 式 簿 記 に よる 記 帳 指 導 を 行 った 。こ れ がわが国 の会 計 事 情 を 一 変 さ せ る こと に なる が、 ここ で は そ の 経 緯 に 立 ち 入 る 余 裕 がな い。 ≪参 考 文 献 ≫ コクヨ株 式 会 社 、『 コクヨ 70年 のあゆ み』(1975 年 )。 パ イ ロ ッ ト 万 年 筆 株 式 会 社 、 『 パ イ ロ ット の 航 跡 ― ― 文 化 を 担 っ て 6 0 年 ――』( 1979 年 )。 丸 善 株 式 会 社 、『 丸 善 百 年 史 』 (19 80 年 )。 三 菱 鉛 筆 株 式 会 社 、 『 鉛 筆 と と もに 8 0 年 』 (1 9 6 6 年 )。 9
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