エナクティビズムと実存の忘却 佐藤義之(京都大学

エナクティビズムと実存の忘却
佐藤義之(京都大学)
エナクティビズムは知覚が身体性と不可分な関係にあることを、今日の経験
諸科学の成果を踏まえて説得的に示した。しかしながらこういう成果の一方で、
私はエナクティビズムの議論にときに共鳴できないものを感じることがある。
本発表ではエナクティビズムの全体的な検討は避け、創始者であるF・J・ヴ
ァレラらの先駆的業績と現在におけるエナクティビズムの代表者のひとりA・
ノエの著作からひとつずつ具体的な事象分析をとりあげ、それにしぼって批判
的に検討する。この検討を通じて明らかになるのは、彼らがともにメルロ=ポ
ンティをはじめとする現象学の成果から強い影響を受けており、また彼ら自身
その影響を自認しているけれども、彼らの分析はともに「実存」という現象学
の枢要な概念を十分血肉にして展開できていないという事情である。この問題
点は、私がとりあげたこの事例に限ったことではなく、現在のエナクティビズ
ムが広くもつ傾向のように思える。ただしこの問題点は、エナクティビズムの
本性に根ざした克服不可能なものというわけではない。むしろこの克服にエナ
クティビズムの進むべき道が示唆されているといえるであろう。
経験と行為──エナクティヴィズムを越えて
呉羽 真(京都大学)
エナクティヴィズムとは、知覚経験と運動行為との間に密接な関係があるこ
とを強調し、経験を生物と環境の相互作用と見なすような立場である。こうし
た見方は、現象学やプラグマティズムの内にその先駆を見出すことができる。
エナクティヴィズムの意義は、知覚心理学などの分野で得られた豊富な証拠を
挙げることで、上記の見方を、知覚を脳内の表象作成プロセスと見なす標準的
見方に代わるような、認知科学における一つのアプローチに仕立て上げた点に
ある。
だがエナクティヴィズムは、標準的認知科学の擁護者たちに加えて身体性認
知科学の擁護者からも激しく批判されており、認知科学の哲学の中で芳しい評
価を受けているとは言えない。論争の中で浮き彫りになったのは、エナクティ
ヴィストたちの引き合いに出してきた科学的証拠が実際には彼らの主張を支持
するものではなく、むしろエナクティヴィズムにとって不利な証拠が積み上げ
られているということである。
本提題では、こうした議論状況を踏まえつつ、経験というものを生物と環境
の相互作用と見なすエナクティヴィズムの中心的洞察の意義を、デューイのよ
うなその先駆者の議論を見直すことを通して、再検討する。この作業はわれわ
れの生において知覚経験が占める位置を再考することを要求するものであり、
それを通してエナクティヴィズムを乗り越えるような経験の描像を模索するこ
とが提題者の狙いである。
現象学はエナクティヴィズムのために何ができるのか
宮原克典(立教大学・日本学術振興会)
エナクティヴィズムとは、認知科学の哲学的基礎を探求する「認知哲学」な
いし「認知科学の哲学」の分野における一つの立場である。認知科学の目的は、
わたしたちの認知活動を支えるサブパーソナルな認知過程を解明することにあ
る。その際、従来の認知科学では「表象主義」「計算主義」「内在主義」という
三つの考え方に基づいて、認知とは脳内で認知的な表象を生成する計算過程で
あると想定されてきた。それに対して、エナクティヴィズムでは、認知活動は
意識経験の一部をなしており、認知主体は一種の生物個体であるという二つの
洞察に基づいて、認知の基本的なあり方は「エナクション(enaction)」(身体
的行為を通じて意味を生み出すこと)であると主張される。また、経験に対す
る現象学的分析を積極的に活用した「エナクティヴな認知科学」という新たな
方法論的枠組みが提案される。
しかし、認知科学の目的がサブパーソナルな認知過程の解明なのだとすると、
現象学的分析はどのようにしてエナクティヴな認知科学に貢献できるのだろう
か。近年、エナクティヴィズムの立場から現象学と認知科学の融合に最も精力
的に取り組んでいるのは、この立場の提唱者の一人でもある哲学者のエヴァ
ン・トンプソンである。そこで本発表では、トンプソンの 2007 年の大著『生
命のなかの心(Mind in Life)』を参照しながら、現象学はエナクティヴな認知
科学においてどのような役割を果たすことができるのかを検討する。