コチラ - ヴォーカルアンサンブル ラルテ・フィオレンテ

ヴォーカル・アンサンブル
ラルテ・フィオレンテ
〜 第 67 回 演 奏 会 〜
ルネサンスのア・カペラの響き
◆ プ ロ グ ラ ム ◆
― 第 1 部 ―
Tomas Luis de Victoria /トマス・ルイス・デ・ビクトリア (c.1548-1611)
O magnum mysterium /おお、大いなる神秘
Johannes Ockeghem /ヨハネス・オケゲム (c.1410-1497)
Missa Mi-Mi /ミサ ミ - ミ
……… 休 憩 ………
― 第 2 部 ―
Heinrich Isaac /ハインリヒ・イザーク (c.1450-1517)
Missa de Apostolis /使徒たちのミサ
◆ ご協力お願いします ◆
演奏中の携帯電話のご使用はご遠慮願います
♪ ソプラノ :赤司 真智子・石橋 聖・橋本 郁子
♪ アルト :今泉 弘美(T)・木田 郁子
西澤 美砂・渡邊 けいこ(T)
♪ テナー :石堂 能成(B)
♪ バス :川野 史博(T)
— —
解 説
皆様ようこそ、お忙しい中私たちラルテ・フィオレンテの演奏会にお越しくださり、ありがとうございます。
本日は、私たちのレパートリーとしては古い方になります、フランドル楽派の二人の作曲家のミサ作品を取り上げます。
その二人は、歳の順に記しますと、ヨハンネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)とハインリッヒ・イザーク(Heinrich
Isaac)です。この二人はいずれもベルギーはフランドル地方出身なのですが、オケゲムはラテン語風、イザークはドイツ語
風の名前で呼ばれています。俗身ながら宮廷礼拝堂や修道院の実務畑を歩んだオケゲムはともかく、
イザークは最初こそフィ
レンツェのメディチ家に仕えたものの、のちに主として神聖ローマ皇帝の宮廷に仕えたことからドイツ風の名前で呼ばれる
事が多いようです。とくに彼の手になる「インスブルックよさようなら」との和名で知られる四声の歌曲はご存知の方もい
らっしゃることでしょう。しかし彼は基本的に妻の里でもあるフィレンツェを本拠に単身赴任の形で、国王と異なり各地を
遍歴していた神聖ローマ皇帝に従っていたようです。いずれにせよフランドル出身者の例にもれずふたりともヨーロッパ各
地を渡り歩いて活躍した国際人でした。
オケゲムはのちのフランス王家となるブルボン家の宮廷礼拝堂を皮切りに、国王三代にわたり王室礼拝堂専属歌手、最後
に王室直属の修道院財務官を務めました。特筆すべきは同時代人のようなイタリア来訪の経歴をもたない事で、その事が彼
の作風を特徴づけているとの指摘もあります。その彼の決して多くはない作品のうち、最も進取に富んだジャンルといえる
のが今日取り上げますミサ曲です。私たちラルテ・フィオレンテでもその中の1曲、ミサ・プロラツィオーヌムという、同
じ旋律を拍子記号を変えて重ねて歌うという技巧的な作品を取り上げていますが、今日取り上げるのは、ミサ・ミーミと呼
ばれる作品です。このミーミという奇妙な呼び名は、各章の曲の始め、バスの特徴的な動きを譜読みした時の音名から来て
おります。当時の譜読み(音採り)は、今日の全音階に対する移動ドに近いものですが、ドレミファソラの六音のみを用い、
シがでてきたらそこをミに読めるように読み替える(mutatio=mutation、読替)
ようにしておりまして、そもそも音階をオクターブ一セットではなく、
四度(ドレミファ)と五度(ドレミファソ)の二種のセッ
ト(deductio=deduction、間を補って順次に読む意)にわけ、聖歌を司る教会旋法毎に適宜組み合わせて読む事をしていま
した。これをソルミゼーションといいますが、第四旋法(ヒポフリギア旋法)であるこのミサのバス冒頭をソルミゼーショ
ンしようとすると、今日ミーララミファミドシラソと読めるところ、ミー□□ミファミ(→ラに読替)ファミレド。ここで
□ですが、deductio のルールだと、今日の移動ドでミからラと読むところの間にシがあるためラには読めない。結局ここの
部分だけ別の deductio を用いてミと読まねばならない。その事を指しての呼称と思われます。なお、この特徴的なバスは、
ソプラノのやはり特徴的なミーソソラソファソとともに、オケゲムの世俗曲「ほとんど死んでいるともいえるほどに傷つい
た私は(Presque trainsi)」にある旋律であり、各章冒頭が必ずこの組み合わせで始まることから、初期のパロディミサであ
るという説もあります。
さて今日取り上げる今一人、イザークのミサは、使徒のミサ(Missa de Apostolis)と呼ばれる作品で、四声、五声、六
声と3曲遺されているうち四声のものです。定旋律に使徒の祝日向けのミサ通常文聖歌が用いられている事から使徒のミサ
と呼び習わされていますが、この聖歌は当時のウィーンで出版された聖歌集(Graduale Pataviense, Wien, 1511)に記載さ
れるものに対応しております(Agnus dei は不明)。しかも credo には作曲されず、そのほかも、聖歌隊が二つに分かれて唱
えあううちの一方と思われる部分に作曲されています。今回の演奏会ではその聖歌をメンバー全員で歌いながら演奏します。
ひと耳すればおわかりと思いますが、簡明な旋律でしかもそれを繰り返すようで繰り返さない、ウィットネスに富んだ作
品で、これはイザークの作風に共通するものです。イザークの同時代人で当時から大家と知られたジョスカン・デ・プレと
並べて、
「ジョスカンは自分のために書くが、イザークは人のために書く」との言葉が遺されているくらいです。現代でもジョ
スカンをバッハに、イザークをテレマンに例える評論家がいらっしゃいます。多作家で、ミサ典礼に用いられる固有分すべ
てに曲を書くプロジェクトを担いさえしたイザークの一側面をもあらわしていると思われます。
ジョスカンをベートーベンと比肩する古楽演奏家もいらっしゃいますが、イザークはさしずめモーツァルトに比肩すべき
ところでしょう。さすればフランドル楽派の先達として尊敬されたオケゲムはハイドンとなりますでしょうか。
それではどうぞお楽しみください。
— —
作曲家紹介
に、ビクトリアの音楽は、われわれをバロックの情念の世界
トマス・ルイス・デ・ビクトリア
Tomas Luis de Victorias
に導く。これは、ラファエロの晴朗なマドンナの世界ではな
く、宗教的な情熱に満たされて劇的に強くゆがめられたエル・
(1548 年アビラ生~ 1611 年マド
グレコのあの細長い人物像の世界である。
リード没)
スペインの作曲家。オルガニス
「ニューグローブ世界音楽大辞典」
(講談社)より抜粋
ト。一時イタリアに在住した。ル
ネサンス期スペイン最大の作曲家
で あ る だ け で な く、 当 時 の ヨ ー
ロッパ最高の教会音楽作曲家の一
人である。
彼の幼年時代とその教育につい
てはほとんど知られていない。し
かしながらフェリペ二世から認可がおりて、彼は 1565 年ロー
マを訪れることができた。そこで彼は、ロヨラによって創設
されたイエズス会の神学校コレギウム・ゲルマニクム(コッ
レージョ・ジェルマニコ)に入った。その後、彼は 1575 年
下級聖職から司祭職に叙階された。そして、1578 年からは
世俗のあらゆる地位を捨て去り、ローマのサン・ジロラモ・デッ
ラ・カリタ教会の専属司祭となり、少なくとも 1583 年まで
この地位にとどまった。
ローマの同僚たちが、芸術的で洗練された対位法作品を作
曲していたその地でビクトリアは、誇張を断固として避けな
がらも、感情の熱っぽい激しさを発揮していた。彼の作品の
出版は、彼がスペインに帰っ後も、時には長い期間を置いて
であったが、ずっと続けられた。ミサやモテットや詩篇の中
には、六声、八声、九声を初めとして、十二声のためにさえ
書かれた作品も多数ある。そしてそれらの作品は、ローマの
作曲家たちの親しんでいたヴェネツィア派の二重および三重
合唱の持つ、あのバロック初期の壮麗な気品を見せている。
ビクトリアは、教会暦のあらゆる讃美歌を書いた最初の音
楽家であった。
1603 年 3 月皇后マリアが死んだため、ビクトリアは、故
人への感謝のしるしとして一曲のレクイエム・ミサを作曲し
た。1605 年に出されたこの作品は、彼の芸術のなかでも無
上の栄光に輝くものであり、この種のものの中でも、最も壮
大な合唱曲の一つである。ビクトリア自身、それを白鳥の歌
と呼んだが、彼はその後何一つ作曲しなかったようである。
この厳格で霊感に満ちた僧侶は、一行たりとも世俗曲を書か
なかった。
パレストリーナは、1、2 巻の霊的なマドリガルを書いたが、
それは性格的に世俗的でないとはいえ、けっして典礼に使用
することはできない。ビクトリアは世俗起原の定旋律を使用
しようとさえしなかった。至福、敬神、およびやさしさの夢
の中に立ちどまっていたローマ人パレストリーナは、ラファ
エロによって描き出されたような普遍的な精神美の概念に近
い。これに反して、スペイン人ビクトリアは、ほとんど感能
的ともいえる劇的情熱を燃えたぎらせて、十字架の苦しみに
耐えているかのようである。この芸術は、もはやルネサンス
に属していない。スペインの劇やスペインの絵画と同じよう
— —
交上の任務によってマクシミーリアンにも仕えた。16 年末に
ハインリヒ・イザーク
Heinrich Isaac
病に冒され、その業績と人柄を称賛されつつ、17 年 3 月に死
去した。
(1450 年頃フランドル生、1517 年 3 月 26 日フィレンツェ没)
ジョスカンの時代を通じて、ネーデルラント、イタリア、
フランドルの作曲家。オブレヒト、ヴェールベケ、コンペー
ドイツの音楽的な慣行の類似点がどのようなものであろうと、
ル、アグリコラ、ラ・リュー、ブリュメルらと肩を並べる、ジョ
それらの基本的な相違は明白である。その経歴が示すように、
スカン・デ・プレの時代の最も重要な作曲家の一人。極めて
イザークはこれら 3 つの文化的に異なった地域のすべてを訪
広い範囲にわたる質の高い作品に加え、ヨーロッパ諸国での
れており、私的体験からこれらの違いを知悉し、理解してい
活動やその作品に見られる新しい音楽状況への適応性により、
たと推測される。この推測は彼の作品中でも証明されている。
彼は特別な評価を得ている。
ミサ曲、モテット、シャンソンの一部にはネーデルラントの
イザークはフランドルで生まれたが、同地での彼に関する
伝統が表れており、完全にイタリア風の様式は特にフロット
資料は何も残っていない。イザークに関する最も古い確実な
ラに、ドイツの様式は他のミサ曲、とりわけミサ固有分の曲
記録は、1484 年 9 月のインスブルックのものである。彼は、
に見られる。
フィレンツェのメディチ家に仕えるためにイタリアへ赴く途
イザークの作品は、その範囲と質においてジョスカンの作
中、インスブルックに立ち寄っている。
品と比肩しうるものである。イザークは彼の作曲したあらゆ
フィレンツェ滞在中、イザークはメディチ家の支配下にあ
る分野において、ジョスカンの時代の歴史に重要な貢献を果
り、その援助を受けていた聖ジョヴァンニ洗礼堂聖歌隊のメ
たした。当時のドイツは、とりわけ後にプロテスタント化し
ンバーとなった。この聖歌隊は同地の大聖堂、洗礼堂、サン
た地域では著しく保守的であったが、ドイツの音楽史にイザー
ティッシマ・アヌンツィアータ教会でポリフォニー曲を歌う
クがもたらした影響は、16 世紀前半にほとんど途切れること
任務を負っていた。
なく発展していたイタリアの音楽に彼が与えた影響以上に、
ロレンツォ・イル・マニフィコの治世では、あらゆる政治
後にまで及んだと考えられる。
的陰謀があったにもかかわらず、フィレンツェにはある程度
イザークの音楽市場での重要性は、第 1 に、彼の作品が一
の平和と文化の隆盛がもたらされ、その最後の数年間にイザー
様に高い質を持つことである。音楽理論家のグラレアヌスは、
クはイタリア歌曲、モテット、ミサ曲を作曲した。彼はこの
イザークをジョスカンの同時代人のうちで傑出した人物とし
時期にフィレンツェを離れたことはほとんどなかったようで
ていち早く称賛している。第 2 の重要性は、最も卓越したネー
ある。
デルラント出身の音楽家の一人であったイザークが、大多数
1486 年にイザークは、当時イタリア北部に滞在していた
の同郷人のようにイタリアで生涯を送るか、あるいは北ヨー
神聖ローマ帝国マクシミーリアン 1 世と出会った。96 年晩
ロッパに戻る代わりに、ドイツ人の土地への道を見つけた
秋にイザークは妻とともにウィーンへ移り、マクシミーリア
という重要な事実にある。新しい環境に対する受容性と適応
ンからの招きを待った。しかし実際に宮廷作曲家の地位を得
性のあるイザークは、ドイツにおいて自ら偉大なネーデルラ
られたのは、97 年 4 月になってのことであった。イザークが
ント音楽の精神を表現する真に芸術的な才能を持った人物と
ドイツに行ったのは新しい職を探すためであったと思われる。
して初めて認められた大家であり、またドイツでネーデルラ
一方、芸術の保護者であったマクシミーリアンは、宮廷の音
ント様式が次第に受け入れられていく際に決定的な影響力を
楽活動の一新と発展の好機と考えていたのであろう。この時
持っていた人物といえるであろう。イザークと彼の弟子ゼン
代に至るまで、当時のドイツはヨーロッパ音楽の伝統のなか
フルを通じて、ドイツはヨーロッパの音楽的伝統の主流への
で指導的な役割を果たしていたとは言いがたく、宮廷で重き
道を見出したのである。
を成し権威を持っていたのはドイツ人作曲家ではなく、イザー
クのようなネーデルラント出身の作曲家であった。彼らこそ
偉大なネーデルラント芸術の精神を表現することができたの
「ニューグローヴ世界音楽大事典」
(講談社)より抜粋
である。
イザークは 1500 年 2 月および 01 年 12 月にインスブルッ
クを訪れ、1502 年の晩春と夏にフィレンツェに戻り、9 月初
めにはフェッラーラに滞在した。12 年 1 月に再びフィレン
ツェに住み、その後フィレンツェを離れたようであるが、14
年春に 1 度だけ戻っている。やがて再びメディチ家が権力の
座に着くと、14 年 5 月、ロレンツォ・イル・マニフィコの
息子でおそらくイザークのかつての教え子である教皇レオ 10
世は、年老いたイザークに年金を与えるようフィレンツェに
強く要請した。14 年秋にオーストリアへおそらく短期間の旅
行をし、その後は一度もフィレンツェを離れず、ある種の外
— —
たシャルル 8 世の宮廷記録は、88 年 4 月付の記録文書のみ
ヨハンネス・オケゲム
Johannes Ockeghem
である。それによると、同年の聖木曜日(洗足木曜日)に同
王が貧者の足を洗った際には、オケゲムは宮廷に仕えていた
という。王室の従者登録簿にオケゲムの名を再び見出すこと
(1410 年頃生、1497 年 2 月 6 日トゥール?没)
フランス・フランドルの作曲家。デュファイ、ジョスカン
はできないが、その名はサン - マルタン - ド - トゥール教会の
とともに 15 世紀後半に活躍した代表的作曲家。その姓のつ
記録には 94 年までしばしば記載されている。87 年 3 月 17
づりはさまざまであるが、一般的には「Ockeghem」が採用
日には、財産と所有地からの収益を同教会の参事会に遺贈す
されている。これは、オケゲム自身によるとされる署名(ファ
る内容の遺言書を作成した。この 10 年後にオケゲムは没す
クシミリ、Giraudet, 1885 所収、原資料は散逸)に基づくつ
るが、その死去は当時の最も才能ある詩人や音楽家から惜し
づり方である。
まれた。クレタンは、フランス語による長大な < デプロラシ
オケゲムの歌手としての活躍に言及する最初の記録は、ア
オン > を、ジャン・モリネはラテン語とフランス語による詩
ントウェルペンのノートル・ダム大聖堂の聖歌隊記録である。
をささげている(後者《森のニンフ Nymphes de boys》には、
それによるに、オケゲムは 1443 年 6 月 24 日から翌 44 年 6
ジョスカンによって曲がつけられている)
。また、人文主義者
月 23 日まで同聖歌隊に「代理歌手 vicaire-chanteur」
(聖職
エラスムスもラテン語による「挽歌 naenia」
《偉大なる者は
者聖歌隊員の代理を務める歌手)として奉職していた。
黙し Ergone conticuit》を著し、
これも後にヨハネス・ルピ(※)
オケゲムはバンショワの死(1460)を悼んでデプロラシ
によって曲がつけられている。
オ ン < 死 よ、 お 前 は 傷 つ け た Mort, tu as navre/ ミ ゼ レ レ
※ 1547 年にスザートによってヨハネス・ルピ作として
Miserere> を作曲しているが、同作品は両者が知己以上の間
出版されたが、様式的に見てルプスの作品と思われる。
柄であり、バンショワがオケゲムの師であった可能性を示唆
クレタンは < デプロラシオン > において、オケゲムの美
している。また同時期に、オケゲムはビュノワからモテット
声や作曲家としての傑出した才能ばかりではなく、すぐれた
をささげられている。モリネやティンクトリスのような当時
人物を失ったことを嘆いている。文献資料から知ることがで
の著名な著述家は、ほとんどの場合オケゲムをバンショワと
きるオケゲムの人物像は極めて魅力的である。すなわち、実
ビュノワに、そしてデュファイに結びつけている。これら 3
直で高潔、親切で思慮深く、寛大で慈悲深く、信仰心あふれ
名の作曲家、特にバンショワとビュノワは、ブルゴーニュ公
る人物として描かれている。フランチェスコ・フロリオは、
の私的礼拝堂と関係があったため、オケゲムは同宮廷の音楽
1470 年にトゥールにおいて次のように記している。
を熟知していたと考えられる。したがって、オケゲムはこれ
この人物が嫌われることはないでしょう。その高潔な人柄
ら同時代の著名な作曲家と共通する音楽体験を持ち、様式や
はまことに好ましく、穏やかな話しぶりや道徳観や気品は、
作曲技法の点で同じ基盤に立っていたといえよう。
注目に値します。すべての歌手のなかで彼のみが、悪徳から
おそらく、ブルゴーニュ公の礼拝堂に奉職するこれらの音
解き放たれており、徳にあふれているのです。
楽化との親交を通じて、オケゲムはブルボン公シャルル 1 世
オケゲムと同時代の作曲家の交流については全く不明であ
に仕えるようになった。オケゲムは 1440 年代中頃にブルボ
るが、彼がブルゴーニュ宮廷とカンブレ大聖堂の音楽的伝統
ン宮廷の中心ムーランに移った。この時点から、オケゲムの
に親しんでいたことは明らかである。しかし、オケゲムの音
フランス文化圏での活動が始まり、以後数回、短期の旅行に
楽は、おそらくバンショワやイングランド人の音楽家から何
赴いたほかは、ここで生涯を過ごすことになる。
らかの影響を受けながら確立された。また 1450 年代初期に
オケゲムは 1459 年 7 月 28 日に、サン - マルタン - ド - トゥー
は、デュファイと親交を結ぶ機会があったと考えられる。オ
ル教会の名誉修道院長でもあったシャルル 7 世によって同教
ケゲムはフランスで長年にわたって活躍したが、その間ムー
会の財務官に任命され、続く 11 月 17 日には、彼自らが会計
ランにも宮廷にも、彼に匹敵する才能を持った音楽家は一人
係と公示している。ただし、パリの高等法院から正式な承認
として現れなかった。オケゲムは、同時代の音楽家と同様に
が下りたのは、62 年のことである。61 年 7 月 22 日にシャ
伝統に固執したが、彼ほど冒頭動機、定旋律、カノン風の模
ルル 7 世が没し、その葬儀にオケゲムは、国王の従者の一人
倣などの手法を自由に操り、ミサ曲やモテット、シャンソン
として黒いローブとフードを身に着けて葬列に加わっている。
などの確立された曲種に創意を発揮することができた 15 世
その後、ルイ 11 世の治世にもオケゲムはフランス宮廷に
紀の作曲家はいない。さらに、オケゲムは革新的な技法の発
仕えている。ルイ 11 世はプレシ - レ - トゥールの居城で過ご
展にも貢献した。すなわち、歌詞の内容の表現、旋法の変更、
すことが多かったため、オケゲムは王室礼拝堂における職務
低音域における新しい響きの開拓などの分野においてである。
を遂行しつつ、以前よりも容易にサン - マルタン - ド - トゥー
中でも最も重要なのは、各声部を対位法的にも旋律的にも対
ル教会の会計係としての職責を果たすことができた。そして
等に扱うことに成功した点である。オケゲムは対位法に熟達
1463 年 8 月 8 日にはパリのノートル・ダム大聖堂の参事会
し、芸術的にも卓越しており、こうした彼の功績なくしては、
員に、また 70 年 8 月 22 日からはサン - ブノワ教会の司祭に
続く世代の巨匠たち、すなわちオブレヒト、ラ・リュ、ジョ
就任している。
スカンらのすぐれた作品は、生まれえなかったといえよう。
ルイ 11 世が没した後のオケゲムと王室礼拝堂の関係を知
ることは困難である。宮廷に奉職していた音楽家に対する支
「ニューグローヴ世界音楽大事典」
(講談社)より抜粋
払い記録は、1476 年からオケゲムが没する 97 年以降まで失
われている。したがって、その間のオケゲムについて言及し
— —
歌詞対訳
O magnum mysterium /おお、大いなる神秘
Tomas Luis de Victoria /トマス・ルイス・デ・ビクトリア (c.1548-1611)
O magnum mysterium, et admirabile sacramentum,
ut animalia viderent Dominum natum,
jacentem in praesepio.
O beata Virgo, cujus viscera meruerunt
portare Dominum, Jesum Christum.
Alleluia,
おお、大いなる神秘よ、驚くべき秘蹟よ
かいば
飼葉おけに横たわる、お生まれになった主を
生きている生きているもたちが見ることは。
おとめ
たいない
おお、幸せな処女(マリア)
よ、あなたの胎内は、
あたい
主である
(イエス・)
キリストをもたらすことに値したのだ。
アレルヤ。
Missa Mi-Mi /ミサ ミ - ミ Johannes Ockeghem /ヨハネス・オケゲム (c.1410-1497)
Missa de Apostolis /使徒たちのミサ Heinrich Isaac /クラウディオ・モンテヴェルディ (c.1450-1517)
Kyrie
Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison.
キリエ・・・あわれみの賛歌
Gloria
Gloria in excelsis Deo,
Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.
Laudamus te. Benedicimus te.
Adoramus te. Glorificamus te.
Gratias agimus tibi
propter magnam gloriam tuam.
Domine Deus, Rex coelestis,
Deus Pater omnipotens.
Domine Fili unigenite, Jesu Christe.
Domine Deus, Agnus Dei, Filius Patris.
Qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
Qui tollis peccata mundi,
suscipe deprecationem nostram.
Qui sedes ad dexteram Patris, miserere nobis.
Quoniam tu solus sanctus.
Tu solus Dominus.
Tu solus altissimus,
Jesu Christe.
Cum Sancto Spiritu,
in gloria Dei Patris. Amen.
グロリア・・・栄光の賛歌
しゅ
あわれ
主よ、憐んでください。
あわれ
キリストよ、憐んでください。
しゅ
あわれ
主よ、憐んでください。
栄光が、高い所で、神に。
地では、平和が善良な意思のある人々に。
あなたを私たちは賛美します。あなたを私たちは祝福します。
あが
あなたを私たちは崇めます。あなたを私たちはほめたたえます。
あなたに私たちは大いに感謝します。
あなたの偉大な栄光によって。
しゅ
神なる主よ。天の王よ。
全能の父なる神よ。
ご
しゅ
神のひとり子として生まれた、息子なる主よ。イエス・キリストよ。
しゅ
神なる主よ。
(あなたは)
神の小羊、父の息子。
あわれ
世の多くの罪を取り除くあなたよ、私たちを憐んでください。
世の多くの罪を取り除くあなたよ。
私たちの願いを受けとめてください。
あわれ
父の右に座るあなたよ、私たちを憐んでください。
かた
なぜなら、唯一のあなたこそ聖なる方。
しゅ
唯一のあなたこそ主。
かた
唯一のあなたこそ至高の方。
イエス・キリストよ。
聖なる霊とともに、
父なる神の栄光によって。アーメン。
— —
Credo
Credo in unum Deum,
Patrem omnipotentem factorem coeli et terrae,
visibilium omnium et invisibilium.
Et in unum Dominum Jesum Christum,
Filium Dei unigenitum.
Et ex Patre natum ante omnia saecula.
Deum de Deo, lumen de lumine,
Deum verum de Deo vero.
Genitum, non factum, consubstantialem Patri:
per quem omnia facta sunt.
Qui propter nos homines,
et propter nostram salutem,
descendit de caelis.
Et incarnatus est de Spiritu Sancto
ex Maria Virgine:
Et homo factus est.
Crucifixus etiam pro nobis:
sub Pontio Pilato, passus et sepultus est.
Et resurrexit tertia die, secundum Scripturas.
Et ascendit in coelum,
sedet ad dexteram Patris.
Et iterum venturus est cum gloria
judicare vivos, et mortuos:
cujus regni non erit finis.
Et in Spiritum Sanctum, Dominum, et vivificantem:
qui ex Patre Filioque procedit.
qui cum Patre et Filio simul adoratur,
et conglorificatur:
qui locutus est per Prophetas.
Et unam sanctam catholicam
et Apostolicam Ecclesiam.
Confiteor unum baptisma
in remissionem peccatorum.
Et expecto resurrectionem mortuorum.
Et vitam venturi saeculi. Amen.
クレド・・・信仰宣言
Sanctus
Sanctus, Sanctus, Sanctus,
Dominus Deus Sabaoth.
Pleni sunt coeli et terra gloria tua.
Hosanna in excelsis.
Benedictus qui venit in nomine Domini.
Hosanna in excelsis.
サンクトゥス・・・感謝の賛歌
聖なる、聖なる、聖なる、
Agnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
miserere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
dona nobis pacem.
アニュス・デイ・・・平和の賛歌
私は信じます。この唯一の神を。
全能の父を。天と地の創造者を。
すべての見えるものと見えないものの
(創造者を)
。
しゅ
また、
(私は信じます、
)
この唯一なる主、イエス・キリストを。
神のひとり子として生まれた息子を。
かた
あらゆる世代の前に父から生まれたその方を。
神からの神を。光からの光を。
まこと
まこと
真の神からの真の神を。
かた
かた
造られずに生まれたその方を。父と一体のその方を。
かた
つく
その方によってすべてのものは創られました。
かた
その方は、私たち人間のために、
この私たちの救いのために、
天から降りて来ました。
かた
そして、聖霊により、その方は肉体となりました。
おとめ
処女マリアから出て
(肉体となりました)
。
かた
こうして、その方は人となりました。
のち
かた
その後、私たちのためにその方は十字架に打ちつけられ、
ポンティウス・ピラトゥスのもとで、苦しめられ、葬られました。
そして、聖書に従い、3 日目に彼は復活しました。
かた
そして、天にその方は昇り、
父の右に座っています。
かた
そして、再びその方は来るのです、栄光とともに、
さば
生きている人や死んだ人を裁くために。
かた
その方の国
(支配)
の終わりはないでしょう。
しゅ
せい
かた
また、
(私は信じます、
)
聖霊と主と生を与える方を。
あらわ
それ
(聖霊)
は、父と子から現れます。
あが
それ
(聖霊)
は、父と子とともに崇められ、
たた
讃えられます。
とお
かた
それ
(聖霊)
は、預言者を通して語りました。
また、
(私は信じます、
)
この唯一聖なる公教徒と
この使徒の教会を。
この唯一の洗礼を私は告白します、
つみびと
ゆる
罪人たちの赦しのために。
そして、諸死者の復活を私は待ち望みます。
らいせ
また、来世の生命をも
(待ち望みます)
。アーメン。
ばんぐん
しゅ
万軍の神である主。
天と地は、あなたの栄光に満たされます。
高い所で、オザンナ。
かた
主の名によって来るその方は祝福されます。
高い所で、オザンナ。
神の小羊よ、世の多くの罪を取り除くあなたよ。
あわれ
私たちを憐んでください。
神の小羊よ、世の多くの罪を取り除くあなたよ。
私たちに平和を与えてください。
対訳:中川 創一
— —
これまでの主な活動
※《数字》は、ラルテ・フィオレンテ主催演奏会を示す。
1993 年 2月 ヴォーカル・アンサンブル《ラルテ・フィオレンテ》結成。
1994 年 2月 第《1》回演奏会 島之内教会
1995 年 8月《2》
クレオ大阪北
1996 年 7月〈3〉
守口市生涯学習情報センター〈MOVE21〉土曜ステージに出演
1997 年 8月《4》
クレオ大阪西
12 月《5》
クレオ大阪西
1998 年 4月《6》
南大阪教会 ♪ オブレヒト 『マタイ受難曲』
6 月〈7〉
守口市生涯学習情報センター〈MOVE21〉土曜ステージに出演
8月
亀岡カトリック教会のミサに出演
8月《8》
高槻市立総合市民交流センター ♪パレストリーナ 『ミサ「永遠の、キリストの贈り物」』他
11 月《9》
同志社大学今出川校地・礼拝堂(チャペル)
12 月《10》
南大阪教会 ♪ビクトリア 『ミサ「おお、大いなる神秘」』他
1999 年 4月《11》
南大阪教会 ♪ラッスス 『エレミアの哀歌』
9月《12》
南大阪教会 ♪ラッスス 『「懺悔詩篇」より 第1~4の懺悔詩篇』
9月〈12〉 津公演
津教会(曲目は同上)
12 月《13》
伊丹市立生涯学習センター(ラスタホール) ♪パレストリーナ 『ミサ「おお、大いなる神秘」』他
2000 年 4 月《14》
カトリック高槻教会 ♪ラッスス 『聖ペテロの涙』
8 月〈15〉
守口市生涯学習情報センター〈MOVE21〉土曜ステージに出演
9 月《16》
堺カトリック教会 ♪ラッスス 『死者のためのミサ(レクイエム)(5 声)』
♪ビクトリア 『死者のためのミサ(レクイエム)(6 声)』
12 月《17》
カトリック高槻教会 ♪ラッスス 『シビラの予言』他
2001 年 4月《18》
カトリック阿倍野教会 ♪ビクトリア 『テネブレ・レスポンソリウム』
♪シェッパード 『人生の半ばで』
♪タリス 『エレミアの哀歌』
9 月《19》
カトリック阿倍野教会 ♪パレストリーナ 『ソロモンの雅歌』
12 月《20》
カトリック阿倍野教会 ♪モラレス 『幸福であれ、海の星よ』他
2002 年 4 月《21》
カトリック阿倍野教会 ♪ビクトリア 『エレミアの哀歌』他
おとめ
8 月《22》
カトリック阿倍野教会 ♪パレストリーナ 『聖処女(マリア)』
『ミサ「マリアは天に向かって引き上げられた」』他
12 月《23》
カトリック阿倍野教会 ♪ジョスカン 『自然の連なりを超えて』
♪パレストリーナ 『おお、大いなる神秘よ』他
2003 年 2月
カトリック箕面教会のミサに出演 ♪ジョスカン 『ミサ「パンジェ・リングァ」』他
4 月《24》
カトリック阿倍野教会 ♪ジョスカン 『ミサ「パンジェ・リングァ」』
『シャンソン「はかりしれない悲しみ」』
♪モラレス 『ミサ「はかりしれない悲しみ」』
8 月 イタリア公演
ローマ Curia generale dei Frati Minori Cappucini(カプチン教会)
ローマ San Clemente Papa al Laterano(サン・クレメンテ教会)
おとめ
♪パレストリーナ 『聖処女マリアへの祈り』
ひと
♪ビクトリア 『ミサ「美しい女を私は見た」』他
8月《25》
カトリック阿倍野教会 ♪(イタリア公演と同じ)
おとめ
12 月《26》
カトリック阿倍野教会 ♪ローレ 『聖処女[宗教的マドリガーレ]』
♪ジョスカン 『ミサ「父の母よ」』他
2004 年 4月《27》
カトリック阿倍野教会 ♪ラッスス 『「懺悔詩編」より 第 5 ~ 7 の懺悔詩編』
♪パレストリーナ 『エレミアの哀歌 第 3 巻』他
9月《28》
カトリック阿倍野教会 ♪ラッスス 『預言者ヨブ〔の書〕による 9 つの聖なる朗読(レクツィオ)』
♪モラレス 『諸死者のためのミサ(レクイエム)』他
12 月《29》
カトリック阿倍野教会 ♪ジョスカン ♪モラレス ♪パレストリーナ
おとめ
『アヴェ・マリア』『聖処女マリアのミサ』他
2005 年 4 月《30》
カトリック阿倍野教会 ♪ホワイト 『エレミアの哀歌』
♪ジェズアルド 『聖週間の聖務日課のためのレスポンソリウム集』他
8 月《31》
カトリック阿倍野教会 ♪ロボ 『ミサ「マグダラのマリア」』
♪オブレヒト 『ミサ「優しいマリア」』他
2005 年12 月
日本聖公会京都復活教会のチャーチコンサートに出演 ♪モンテヴェルディ 『ミサ (4 声)[1650]』
12 月《32》
カトリック阿倍野教会 ♪ゴンベール 『イエスが話しているちょうどその時』
♪モンテヴェルディ 『ミサ「イエスが話しているちょうどその時」』他
2006 年 3 月《33》
カトリック阿倍野教会 ♪パレストリーナ 『ミサ「ブレヴィス」』諸死者のためのミサ(レクイエム)』他
6 月《34》
カトリック阿倍野教会 ♪フェアファクス 『ミサ「アルバヌス」』
♪パレストリーナ 『教皇マルチェルスのミサ』他
9 月《35》
カトリック阿倍野教会 ♪ラッスス 『5 声の未出版曲集(1571)』
12 月《36》
カトリック阿倍野教会 ♪モラレス 『ミサ「もし多くの善いことを私たちが受けたのなら」』
『ミサ「羊飼いたちと一緒に私たちは探そう」』他
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2007 年 3 月《37》
3 月
6 月《38》
9 月《39》
12 月《40》
2008 年 3 月《41》
6 月《42》
9 月《43》
12 月 合同演奏会
2009 年 1 月
6 月《44》
12 月《45》
2010 年 6 月《46》
9 月《47》
12 月《48》
2011 年 3 月《49》
6 月《50》
9 月《51》
12 月《52》
2012 年 3 月《53》
6 月《54》
9 月《55》
12 月《56》
2013 年 3 月《57》
6 月《58》
9 月《59》
12 月《60》
2014 年 3 月《61》
6 月《62》
9 月《63》
12 月《64》
2015 年 3 月《65》
6 月《66》
カトリック阿倍野教会 ♪フェスタ『預言者エレミアの哀歌』他
カトリック阿倍野教会の黙想会に出演 ♪フェスタ『預言者エレミアの哀歌』他
カトリック阿倍野教会 ♪ゴンベール 『マニフィカト』『ミサ「人生の半ばで」』他
カトリック阿倍野教会 ♪ハスラー 『ミサ「マリアは天使に言いました」』 『天にいます私たちの父よ』
♪レヒナー 『ソロモンの雅歌』他
カトリック阿倍野教会 ♪フェアファクス 『マニフィカト「おお 良きイエスよ」』
『ミサ「おお 良きイエスよ」』
♪ホーウッド 『奉献応答頌歌 よろこべ、乙女の花なる方』他
カトリック阿倍野教会 ♪タヴァナー ♪タイ ♪シェパード 『ミサ「西風」』他
カトリック阿倍野教会 ♪カルパントラス 『預言者エレミアの哀歌』他
カトリック阿倍野教会 ♪バード 『三声のミサ』『詩の内容からそれと呼ばれる聖なる曲集』他
夙川カトリック教会 ♪ノン・パパ 『ミサ「羊飼いたちよ、いったい何をあなたたちは見たのですか」』他
♪(合同演奏)ビクトリア『アヴェ・マリアよ(8 声)』他
ニューイヤーコンサート 池田五月山教会 ♪ビクトリア 『諸死者のためのミサ(レクイエム)(6 声)』
カトリック阿倍野教会 ♪バード 『四声のミサ』『聖歌集第 1 巻』他
カトリック阿倍野教会 ♪ザルリーノ 『ソロモンの雅歌』他
カトリック阿倍野教会 ♪リシャフォール『レクイエム(ジョスカン・デ・プレ追悼)』他
カトリック阿倍野教会 ♪ジョスカン 『ミサ「ロム・アルメ」』他
カトリック阿倍野教会 ♪オケゲム 『ミサ「プロラツィオーヌム」』『レクイエム』他
カトリック阿倍野教会 ♪ラッスス『音楽の守護 第 1 部〈全 21 曲〉』他
カトリック阿倍野教会 ♪タヴァナー 『茨の冠のミサ』他
カトリック阿倍野教会 ♪ジョスカン ♪ビクトリア 『ミサ「私たちは喜ぼう」』他
カトリック阿倍野教会 ♪ジェズアルド 『聖歌集』他
カトリック阿倍野教会 ♪ A・ガブリエーリ『ダヴィデ詩篇(6 声)』他
カトリック阿倍野教会 ♪マンシクール『ミサ 来てください、聖霊よ』他
カトリック阿倍野教会 ♪ジョスカン『スターバト・マーテル』他
カトリック阿倍野教会 ♪バード『5 声のミサ』
♪タリス『7 声のミサ「私たちに御子がお生まれになった」』他
カトリック阿倍野教会 ♪オブレヒト『マタイ受難曲』 ♪クローチェ『7 つの懺悔詩篇』
カトリック阿倍野教会 ♪ジョスカン ♪ローレ『ミサ 望みを絶つフォルトゥーナよ』
カトリック阿倍野教会 ♪パレストリーナ『ミサ 私は黒い』他
カトリック阿倍野教会 ♪ラッスス『第 1・2懺悔詩編』他
カトリック阿倍野教会 ♪ラッスス『マタイ受難曲』他
カトリック阿倍野教会 ♪シュトルツァー『ドイツ語詩篇集』他
カトリック阿倍野教会 ♪ラ・リュ『ミサ「祝福された処女マリアの七つの悲しみ(苦しみ)」』他
カトリック阿倍野教会 ♪タヴァナー『ミサ「おおミカエルよ」』他
カトリック阿倍野教会 ♪アネリオ『諸死者のためのミサ』
カトリック阿倍野教会 ♪パレストリーナ『ミサ ほめたたえよ シオンよ』『パンジェ・リングァ』他
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メンバー紹介
◆ ソプラノ Soprano
赤 司 真 智 子 あかし まちこ
2000 年 5 月に入会。火曜・木曜の練習に、演奏会前の合宿、その演奏会も年 4 回あり、ラルテづけの充実した 14 年半
でした。指導いただいた中川創一氏にはもちろん、こまごまお世話をかけたメンバーの皆さんに感謝します。
石 橋 聖 いしばし さとり
2001 年入団。
橋 本 郁 子 はしもと いくこ
2012 年 3 月の定期演奏会を聴き、加入しました。本日も、ラルテの響きの中に身を置くことができた事に感謝し、精一
杯歌いたいと思います。3 年半という短い間でしたが、誠に有難うございました。
◆ ア ル ト Alto
今 泉 弘 美 いまいずみ ひろみ
高校生の頃、助っ人で誘われた合唱部で味わったハーモニーの心地よさが忘れられず、'98 にラルテに加入する。
木 田 郁 子 きだ いくこ
学生時代にルネサンス音楽に出会ってからウン十年。歌とリコーダーアンサンブルで、至福のハーモニーの瞬間を追い続
けています。滋賀県在住。
西 澤 美 砂 にしざわ みさ
集える有難さと集っていただける有難さを胸に歌います。
本日は誠にありがとうございました。
渡 邊 け い こ わたなべ けいこ
ラルテに入りあっという間に 10 年経ちました。この間、ルネサンス音楽の一端に触れる事が出来、たいへん貴重な経験
をさせて頂きました。一緒に歌って下さったラルテの皆様と演奏を聴きに来て下さった皆様に深く感謝します。
◆ テ ナ ー Tenor
石 堂 能 成 いしどう よしなり
◆ バ ス Bass
川 野 史 博 かわの ふみひろ
ルネサンスの音楽が好きでラルテに入りました。心地よい音楽をお届けできるよう頑張って歌います。
— 10 —
お客さまへ
カンパの 御 礼 と ご 報 告
本日は演奏会にご来場いただき誠にありがとうございます。
私どもは 2000 年 12 月の演奏会より、有志の皆さまからカン
パをいただいております。この場をお借りして、ご報告させて
いただくとともに、皆さまの暖かいお心遣いに一同、心から感
謝を申し上げます。
ご報告
第 66 回演奏会('15.6.20)¥8,750
なお、いただきましたカンパはラルテ・フィオレンテの活動に
役立たせていただきます。本当にありがとうございます。
2015 年 10 月
ヴォーカル・アンサンブル ラルテ・フィオレンテ一同
— 11 —
Vocal Ensemble
,
L Arte Fiorente
ラルテ・フィオレンテ プロフィール
ラルテ・フィオレンテは、関西では珍しく、ルネサンス宗教音楽に特化したヴォーカル・アンサンブルです。
1993 年に結成し、現在は年 4 回の定期演奏会を行っています。
2003 年にはイタリア・ローマの修道院と教会で演奏しました。
2012 年にはプロムジカ女声合唱団の前座演奏をいずみホールで行いました。
その他、依頼があれば出張演奏などしています。
私達の頑張りはいつか誰かに届くと信じ、メンバーを信じあい、自立した心を持ち、絆を高め合い、美しいハーモニーを
築き上げるべく、日々精進しています。
L’Arte Fiorente は、イタリア語で「花咲く芸術」の意味です。
よろしくお願いします。
ヴォーカルアンサンブル「ラルテ・フィオレンテ」及び
中川創一の音楽活動を応援してくださいます皆様へ
私ども「ラルテ・フィオレンテ」は、1993 年の結成以来、中川創一を中心に活動して参
りましたが、今夏、本人からの申し出があり、中川創一はラルテ・フィオレンテを退団し
ました。
中川創一あっての「ラルテ・フィオレンテ」でしたので、
今回の演奏会を以て「ラルテ・フィ
オレンテ」の活動はひとまずの区切りとさせて頂く所存です。
中川創一ともども、これまでの皆様のご愛顧に深く感謝いたしますとともに、今後ともわ
たしたちの活動にご理解ご支援賜りますれば幸甚に存じます。
本日のご来場、誠にありがとうございました。
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