脇野沢の鱈漁業の始まりは、1700年代と見られて います。この地で鱈漁と呼ばれるのは、スケソウタラ ではなく、マタラのことをいいます。 毎年12月∼2月にかけて魚群をなして産卵のため 陸奥湾にやって来るのです。その定期的な回遊を待 つところに長い歴史と伝統を持つ鱈漁が成立してい るのです。 【脇野沢鱒漁の歴史】 【近年の鱈漁の現状と復活に向けた取り組み】 タラ漁は、江戸時代より脇野沢を代表する漁業として、滝 山地区でのヒバ材と共に、村をうるおす交易品として、遠く 江戸表まで出荷されていました。当時は、延縄による釣漁で、 出タラを対象に漁が行われてきましたが、明治18年、九腹 泊の櫛引福蔵の発案によって、主として入りタラを対象とし た底建網による漁法が開始され、漁獲量が大幅に上昇しま した。 タラ漁は、その後も、大漁不漁を繰り返しながら続けられ てきましたが、昭和7∼9年、昭和18∼20年に大漁があっ たものの昭和24年には、通常は1万トンも獲れるところ、こ の年は採算ギリギリの3千本しかタラが揚らず、このような 状態が昭和29年ぐらいまで続き、漁業不振から、脇野沢の 男性たちの多くが、他県への出稼ぎを余儀なくされました。 近年の、漁獲量の推移を見ると昭和61年∼平成元年が ピークで年間約1.300トン∼1,500トン(昭和63年約 720トン)で推移していましたが、その後は減少の一途で あり、ここ数年は10トン前後で推移し、平成22年度の数量 は11.3トン、金額で870万円程度となっています。 鱈漁を行う漁船はピーク時の65隻から、平成22年度は わずか21隻となっています。 また、漁業協同組合では、昭和54年、とれた鱈の卵に白 子をかけて海に戻す受精卵放流に着手しました。昭和58 年からは、人口膵化稚魚の放流を行って、鱈の里復活をめ ざしていますが、思うような成果が上がらず、値段も高値で 推移しています。 【脇野沢の頴はここがすごい】 奴. ̄ト㍉ 脇野沢で獲れるマタラは、毎年12月∼2月にかけて陸奥 湾内に産卵のためにやってくるもので、そのため、メスの子 は大きく熟し、オスの白子は、口に入れると溶ける感じがし ます。 また、身は新鮮なこともあり、一枚一枚はじける感じがし ます。 ■■ ̄一一■一一一一一一一■−■一一一一一一一■−■Y一一一一一一一一一 ■■−■一一一一 積載■ ぎ冬の脇附代表す欄土料理じやっぱ汁喧; . 鱈の食べ方の主なものは、肝と味噌を酒で溶き、身にまぶして: :一晩漬け込んだミソ鱈を焼いたり、刺身、共和えなど色々な食べ方: :がありますが、中でも「じゃっぱ汁」は昔から脇野沢を代表する郷: _、「F _ _■_  ̄一■一「_⊥∼ 【場とり】 場とりは、共同の漁場における漁師間の機会均等を守る ための厳正な規則です。 海上に横一線に並んだ漁船が合図の旗が振られると、各 自の漁場をめざして一斉にスタートします。 鱈の魚道が毎年比較的安定しているため、その場所へい かに速く到着し、網を入れるかが、その年の漁獲高を決定 的に左右するのです。 土料理として食べられています。 「じやっぱ汁」は身を取って残っ たアラと内臓に大根、長ネギ、豆 腐等を入れた鍋に味噌(又は塩) をいれて煮込むもので、内臓の中 でもっとも珍重されるタツ(白子) を入れた「じゃっば汁」は絶品です。 また、好みによってアラと一緒 に身を入れることで、さらにおいし くいただけます。 改):痔へう茅、挿8番_g お問い合わせ先/脇野沢村漁業協同組合 √0175−4み2211
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