~蓮田の大山講~ お お や ま で ら え ん ぎ え ま き お お や ま ふ ど う れ い げ ん き に広がり、各地で「大山」や「石尊」の名を冠する講が続々 大山は神の降臨する山として信仰され、山頂の巨石に こう そ しき 講とは、特定の目的をもって民衆の間で作られた組織の い せ こ う ふ じ こ う じ し ゃ す。有名な「伊勢講」や「富士講」といった遠方の寺社に さんけい 関しては神の依代である岩磐(御神体)と考えられてき かいざんそうりょ がありました。『大山寺縁起絵巻』では、開山僧侶である 良弁と大山の関係を物語の中で説き、大山の霊験を描いて れが「大山参詣」と呼ばれるものです。そして、その参詣 み ず ご り れいすい かぶ けが います。その中には大山にて水垢離(冷水を被って罪や穢 おおやまみち かいどう ったと考えられています。これは山頂から中世の祭祀遺 の盛況を示すように、各地には「大山道」と呼ばれる街道 れを洗い落とす行為)をしている修行者の様子なども描か みちしるべ や道標が存在しています。特に伊勢原市では、近世におけ 物が発掘されているこ かんゆう の配下にある宗教者の布教と勧誘によって民衆が結成した た人々が関東各地から大山を訪れるようになりました。こ さんがくしんこう たのです。それ故に、大山は古くから山岳信仰の地であ い せ じ ん ぐ う せんげんじんじゃ 参詣するための講は、その聖地である伊勢神宮や浅間神社 と組織されるようになります。そして、信仰と観光を兼ね よりしろ いわくら ごしんたい ことです。これは信仰的なものと経済的な講に分けられま こうりん ー はじめに ー て、『大山寺縁起絵巻』や『大山不動霊験記』などの書物 れています。『大山不動霊験記』では、大山を霊験あらた みちじょういこう かみ かな場所であるとし、ただ願うだけでなく、実際に大山へ る大山道の道状遺構が「上 と か ら も 分 か り ま す。 か す や い し く ら な か い せ き ものになります。 平安時代になり、神と 粕屋・石倉中遺跡」の発掘 足を運び、行動することによって、現世利益を得ることが 近世において、こ 仏を同体とする神仏混 調査によって確認されてい 出来るという内容が書かれていました。したがって、大山 のような講による信 淆 の 時 代 を 迎 え る と、 ることから、大山参詣のた 参詣者が水垢離をしていたことや、参詣に熱心だった理由 仰の旅とは、幕府が 大山は神道・仏教・修験道の影響を受けて、神と仏が等 めの街道整備が行われてい には、御師がこれらの書物を利用して大山信仰を布教し、 公認した唯一の旅で しく存在する山になりました。人々はその大山に御利益 たことが分かっています。 あり、それが人々の 写真 1:蓮田市役所屋上から見える大山 ( 左↓) と富士山 ( 右 ) 写真 3:大山阿夫利神社 を求め、中世以降には、源頼朝をはじめとした武士から お し 表1:大山道と他街道の道幅比較 写真 4:江戸時代 (17 世紀)の大山道の発掘調査 (3 号道状遺構) (公益財団法人かながわ考古学財団 「上粕屋・石倉中遺跡 ( 伊勢原市№40)」) 庶民の大山参詣を勧誘したからであると考えられます。 明治時代になると、神仏分離の影響を受けて、大山では 楽しみでもありました。講における寺社参詣の旅は、道中 信仰を集める山になります。近世以降には、御師と呼ば の有名地域を観光できる数少ない機会でもあったからで れた宗教者の布教活動によって、関東とその近隣の庶民 す。そこに着目したのは参詣道中の地域で暮らす人々でし はん た。彼らは参詣者を客として迎えることによって商売を繁 からも深く信仰される山になりました。 街道名 時代区分 道幅 参考 大山道 近世 約8~10m 神奈川県伊勢原市「上粕屋・石倉中遺跡」 国土交通省 関東地方整備局「東海道へ 東海道 近世 約10.8m の誘い」webページ 東山道 古代・中世 約9~12m 埼玉県吉見町「西吉見条里遺跡」 なお、現在の大山阿夫利神社では、明治の神仏分離(神 仏混淆を否定して神道と仏教を切り離した政策)以降、 その後も彼らは先導師として大山信仰の布教活動を行っ 【御師という宗教者】 要素は付き物だったのです。そこで今回の展示では、信仰 ふくぎょうか 大山参詣が大流行した裏には、大山御師と呼ばれた宗教 しゅ おおやまつみのかみ おおいかずちのかみ たかおかみのかみ り、名称も「先導師」に改めさせられたのです。 って、御師は大山阿夫利神社の支配下に置かれるようにな せん ど う し お お や ま あ ふ り じ ん じ ゃ し ん ぶ つ ぶ ん り じょう 盛させようとしたのです。つまり、信仰の旅に観光という 大山寺と阿夫利神社の切り離しが行われました。それに伴 㦞 (摂社前社) 「大山祇神(本社) ・大雷神(摂社奥社) ・高 神 」 者の活動があります。彼らは元々大山の山中に居住する修 ていましたが、時代の変化と共に衰退し、現在では副業化 はいぎょうか が続出し、廃業化も進んでいます。 げんしゃ と観光が結びつき、江戸後期に大流行したといわれる「大 を祀っています。神仏混淆の時代であった近世までは、 お お て ん ぐ こ て ん ぐ 山参詣」と、それに関して蓮田地域で組織された「大山講」 「石尊大権現(現在の本社) ・大天狗(摂社奥社) ・小天狗(摂 験者でした。それが江戸時代になると、徳川家康に下山を 命ぜられ、修験者としての権限を剥奪され、大山寺支配下 まわ について紹介したいと思います。 社前社) 」として祀られており、阿夫利神社は大山中腹 おおやましんこ う にある雨降山大山寺(通称:大山寺)の管理下に置かれ 【蓮田地域の大山講】 だん の御師となりました。その後、彼らは諸国の村を廻り、檀 か あ ぶ り さ ん お お や ま で ら おおやまでら 《大山信仰》 《蓮田の大山講》 はくだつ 家を獲得して大山信仰の布教と講の結成に携わりました。 蓮田地域の大山講は、主に講員の間で一定額のお金を積 だいさん 立て、クジ引きで選ばれた代表者を大山に送るという代参 こう そして、大山への参詣を勧誘し、参詣者には宿泊の提供と 講の様式を採っていました。蓮田地域は近代まで主に農業 寺社への案内をしていました。 を生業とする人々の地域であったため、雨降り山とも呼ば 御師は参詣者のため、道中の宿泊施設も用意し、大山に れる大山を農耕の神として信仰し、雨や水に関することを 到着した際には、自身の家に参詣者を泊めていました。そ 祈願すべく代参していました。ただ、その祈願内容は必ず 岸部の人々は、雨乞い、五穀豊穣、大漁祈願のために、 こで彼らは加持祈祷を行って収入を得ていたのです。つま しも「雨乞い」というわけではありませんでした。例えば、 大山を山の神や農耕の神、大漁の神とする信仰がありま り、御師とは宗教者の側面と観光業者の側面を合わせ持っ 南新宿などの水が湧いていた地域では、水不足に悩むとい した。江戸時代になると、職人集団をはじめとする江戸 た存在であったといえます。 うようなことが少なかったからです。そのような地域では、 時期によって大山に参詣できない村には、御師自らがそ むしろ大雨や台風による水害対策の一つとして大山に祈願 の村に足を運び、檀家を集めて加持祈祷を行い、札や土産 していたようです。 ていました。 【神と仏の山】 い せ は ら めいほう あ ふ 現在の神奈川県伊勢原市にある名峰「大山」は、 「阿夫 り あ め ふ 利山(雨降り山) 」とも呼ばれ、その昔、関東とその近隣 大山信仰は人々の生活地域と生業によって異なります 地域の人々から信仰を集める霊山でした。大山信仰とは、 なりわい さ ん ろ く ぶ へ い や ぶ か い れいざん それいしんこう し ぜ ん す う は い 【様々な大山信仰】 さんがくしんこう しんぶつこんこう が、まず古くからあるものとして、山麓部や平野部、海 日本古来の祖霊信仰と自然崇拝(山岳信仰)を基盤として、 が ん ぶ あ ま ご ごこくほうじょう たいりょうきがん せきそんだい 大山という山そのもの、または神仏混淆の時代に「石尊大 ごんげん し ぜ ん せ き し ん せ い か 権現」と呼ばれた山頂の巨大な自然石を神聖化したもので しんとう ぶっきょう みっきょう し ゅ げ ん ど う あり、そこへ神道・仏教(密教) ・修験道が混入すること みんぞくしんこう ふどうみょうおう 庶民が、石尊大権現や不動明王を盛んに信仰しました。 か によって形成された民俗信仰です。 たんざわ とうたん じ し 大工や鍛冶師は仕事に「石」を使用することから、それ に因んで石尊大権現を信仰したともいわれています。不 大山は丹沢山地の東端に 動明王は、加持祈祷すれば願いを叶えてくれることに加 神に献上する稲穂)を貰うという活動をしていました。 あ や せ が わ み ぬ ま だ い よ う す い なお、地域によっては、綾瀬川や見沼代用水などで水垢 かまくら 離をしてから大山に向かったとされ、帰りの道中では鎌倉 し だ ん か ん け い やくさい え の し ま べんてんじんじゃ 御師は自分と講員(檀家)の間で結んだ関係(師壇関係) の大仏、江ノ島の弁天神社などに立ち寄りながら観光して ことから、庶民による除災招福の信仰対象となっていま は特に重要視していたとされます。何故なら講員の賽銭や いたとされています。この大山参詣の時期は主に春先でし した。つまり、庶民が大山に求めていたのは自身の生活 初穂などは彼らの収入源でもあったからです。つまり、講 た。これは村の耕作開始に合わせたものと考えられます。 えて、厄災を払ってくれるという存在と信じられていた なり、美しい三角形を描い を配り、その返礼として賽銭や初穂(秋の収穫に先立って い な ほ か じ き と う 位置し、周囲の山々とは異 さいせん は つ ほ ちな じょさいしょうふく たような姿から、古くから ようはい 人々の遥拝(遠く離れた場 写真 2:天狗の鼻突き岩 所から神仏を拝むこと)の対象にされる霊山でした。 げ ん せ い り や く に密接した現世利益であるといえます。この他に、大山 員は御師にとって信者であることに加えて生活収入源でも ミニコラム 【山中他界観】山中他界観とは、山岳信仰に基づいて、 山中を神聖視し、 死者の霊が集まる場所とする考えです。仏教伝来後は、 仏教の浄土観と結びついて、各地にある霊山信仰の基本的な考えにな また、蓮田地域では、15 ∼ 16 歳の男子を代参者と共に はつやま じょうどしゅう せ いしょう ざん ちゃとう で ん ね は んじ ちゃとうでら にある浄土宗の誓正山茶湯殿涅槃寺(通称:茶湯寺)へ あったのです。このようなこともあり、御師が互いの檀家 大山へ行かせる「初山」という風習があったといわれてい 死後 101 日目に参詣すると、途中で亡くなった方に逢え に手を出すことは禁止されていました。 ます。これは大山へ行って帰ってくるという一連の過程を さんちゅうたかいかん るという、山中他界観の濃い信仰が存在しています。 【御師の布教と参詣勧誘】 経て、男子を成人として認めるというものです。この年頃 りました。仏教伝来後は山中浄土観ともいいます。 江戸時代中期以降、大山信仰は御師によって関東一円 御師が大山信仰の布教と参詣勧誘に使用したものとし ふじさわ の男子がいる場合、代参者は彼らを連れて藤沢や江ノ島の なつやま ゆうらく ち 遊楽地に立ち寄ってから帰路に着いたとされています。そ また、蓮田の大山講を考える資料として、 も が して村に帰ると、男子は成人として扱われ、藻刈りをはじ わ だ い わ だ ゆ う しゅくぼう まず御師の和田岩大夫氏が宿坊にて配布し また蓮田地域では、大山が夏山の期間(7月 27 日∼8 おおやまとうろう せきそんとうろう 月 17 日)に講の代参者が大山灯籠(石尊灯籠)と呼ばれ こうふだ ちんじゅ ひでり めとした村の共同作業に参加するようになりました。ちな た『講札』と呼ばれる江戸時代の文書史料 る灯籠を村の中心とされていた場所や鎮守の近く、旱の影 みに、このような風習は蓮田地域だけでなく、埼玉県下の があります。これは御師が作成した札であ 響を受けている田の近くに設置するといった行事がありま 他地域にも多く存在していたようです。 り、大山寺が配布していた札とは異なるも 明治以降には、交通手段の発達などによって、蓮田から のです。このことから御師という存在が、 き し ゃ した。この期間の大山は近世まで特別な意味を持っていま せきそんしゃ した。それは山頂の石尊社(現在の大山阿夫利神社本社) とは い まで登拝が許される唯一の期間だったからです。主に大山 大山へ移動する手段として汽車やバスを利用するようにな 自身で札を作って配布できるという権限を りました(図1参照) 。これに伴って、それまでの代参と 持っていたと分かります。この「和田岩大夫」 灯籠は、4本の青竹と注連縄を用いて四角で囲った聖域を という名前は、蓮田村などを担当していた 作り出し、その中心に灯籠を設置し いう形式だけでなく、個人的に大山に参詣するといったこ 写真6:大山御師 和田岩太夫の講札 あおだけ し め な わ せいいき わ だ よ ねじ ろ う とも行われるようになっていきました。 先導師である和田米次郎氏の先祖が しかし、1930 年以降、蓮田の大山講も姿を消し始めます。 近世まで用いていた名前とされてい ました。そして、地域の人々は夏山 は か い こうとう その1つは、戦争による交通網の破壊や物価の高騰といっ た理由です。2つ目は、人々の生業が農業から工業に移行 け い き こうど けいざいせいちょう えい する契機となった 1954 1973 年に及ぶ高度経済成長の影 響です。これに伴って人々が村外へ働きに行くようになり、 一方で、大山信仰は今も存在しており、商売繁盛の御利 していました。この灯籠の意味は「道 ます。なお、 「大夫」という言葉は、 益を求める企業や組合などが大山へ盛んに参詣しているよ け ん か 仏教的用語とされ、明治の神仏分離 標」や「大山の神々への献火」など、 に関する御師制度の変革によって使 様々な考えがあるとされています 用禁止になったとされています。 が、明確となっていません。この大 きょう 図 1:蓮田からの大山参詣∼江戸時代 (1845 年)と大正時代(1918 年) りんばん とも の期間中に毎晩輪番で灯籠に火を灯 うです。ちなみに、蓮田地域では 1995 年まで代参講が行 われていたとされています。 写真 9:大山道の道標 (蓮田市閏戸 久伊豆神社) 村における農業の衰退を招きました。そして農耕の神とし 次に『大山永代講中帳』と書かれ 山灯籠は、高虫・井沼・貝塚などでは現在も見ることがで て信仰されてきた大山への信仰も薄れていったのです。 た明治時代の文書史料が存在してい きます。なお、蓮田地域の中でも閏戸の地域では、大山を 「初山」と聞くと、多くの方は、7月1日に赤ちゃんを連れて富士塚のある神社にお参 りするという行事を思い浮かべるかもしれません。しかし、この「初山」の意味は近世以 降の富士山信仰によるものです。本来「初山」とは、「その年に初めて霊山に登ること」を 意味します。そして、大山信仰の「初山」のように、霊山に登拝することを成人儀礼とす る習俗が各地に存在していました。これらの共通点として、成人を迎える年頃の男子が斜 面や岩肌の険しい霊山に登り、寺社に参詣したという点があります。この行為は試練であ 深く信仰していたようであり、久伊豆神社に「大山道」と 督者が、彼らを引率する代参者などであったと考えられます。そして帰村後、蓮田地域の 場合には、村全体から一人前の大人として扱われるようになったのです。 【御師と講員】 せきぞうぶつ たいだいだいこう 代太々講」と書かれており、この講 飯野家文書「大山永代講中帳」 が太々神楽(高い金額を納めること によって舞われる最上級の神楽)を もんじょしりょう 時代の文書史料から判明しています。しかし、蓮田地域に 存在したとされる村の講員(檀家)と御師(先導師)の師 壇関係が成立した時期に関しては明らかになっていませ し き お り お り ーおわりにー れる人もいます。 大山は人々の様々な願いに応える山でした。これを庶民 このように、大山は現在も賑わいを見せています。ただ に布教し、大山参詣を大流行させたのが御師という存在で し、それは過去に大流行した大山参詣とは少し異なります。 した。近世以降、大山道という街道も整備され、大山は神 現在の大山は、大山信仰の信者に加えて、レジャーを目的 や、坊入り(先導師の宿坊に泊まり、 や仏に現世利益を求める参詣者で溢れました。そして、参 に大山へ訪れた人々も含めた賑わいとなっています。 加持祈祷にあたること)についての 詣者が道中に立ち寄った地域もその流行に便乗し、観光地 奉納することを念頭にしていると分 し ほ う こうきん かります。次に、仕法 (講金の使い道) ぼ う い きさ い 記載が続き、この講の活動を知るこ とができます。また、先導師の講員 写真 7:「登山五十五度」記念 に対する言葉も書かれており、先導 石碑 ( 伊勢原市宿坊「いわ江」) として栄えることになったのです。つまり、庶民の大山参 も の み ゆ さ ん 詣は、現世利益の祈願と物見遊山という2つの要素を持っ 参考文献 : 上尾市『上尾市史 民俗編』、板橋区郷土資料館『特別展 旅と信仰−富士・大山・榛名への 参詣−』、浦和市『浦和市史 民俗編』、大井町郷土資料館『企画展 民間信仰−講のかたち−』、加藤 みち子『「かみ」は出会って発展する−神道ではない日本の「かみ」史・古代中世編』、鎌田東二『神 道とは何か 自然の霊性を感じて生きる』、川口市『川口市史 民俗編』、川越市立博物館『第 18 回企 画展 川越の大山信仰』、関東民具研究会『相模・武蔵の大山信仰』、圭室文雄 編『大山信仰』、原淳 ていたと考えられます。 一郎『近世寺社参詣の研究』、福田アジオ・宮田登 編『日本民俗学概論』 うかが 師と講員の関係を窺い知ることができます。 蓮田地域の大山参詣も例外ではあり わ だ い わ え え ちなみに、先導師である和田岩衛氏の宿坊『いわ江』の ん。た だ『開 導 記』に そ の キングやスポーツ登山をする人も多く存在しています。ま ほうのう ねんとう 石 ( 碑の下 の部分︶ かいど う き います。その気軽さから、今の大山には参詣者の他にハイ た、四季折々で様々な顔を見せる大山を行楽地と考えて訪 蓮田地域を担当した先導師は『開導記』と呼ばれる明治 で中腹の大山寺や大山阿夫利神社まで行けるようになって 書かれた石造物の道標が確認されています。 写真 6:埼玉県立文書館所蔵 だ い だ い か ぐ ら きんがく り、それを乗り越えることによって一人前の男子として認められたのです。この試練の監 ひ さ い ず じ ん じ ゃ おおやまえい ます。この資料には、まず「大山永 ミニコラム【初山】 現在の大山はケーブルカーも設置されているため、数分 おおやまえいたいこうちゅうちょう ませんでした。蓮田地域の人々も講に 図2: さ い た ま け ん は す だ ま ち と ざ ん ご じ ゅ う ご 庭には、1937 年に建てられた「埼玉縣蓮田町 登山五十五 師壇関係が記載されていた 所属し、代参者に選ばれたなら、信仰 ど い い の う き ち ななじゅうさんさい こうめい せ き ひ ことを考えると、少なくと 度 飯野宇吉 七十三才」と刻銘された石碑が現存しており、 表紙 大山にて蓮田地域で暮らす方の信仰心が見受けられます。 も江戸末期には成立してい たと推測できます。 の旅という名目で観光しながら大山へ 写真 5: 開導記 『開導記』によると、蓮田地域を担当した先導師は高尾 幸弓氏、内海雅雄氏、和田米次郎氏、沼野一路氏、三村深 雪氏、神埼富江氏の6名でした。高尾幸弓氏は上閏戸・中 は黒浜・長崎・笹山・川島・井沼・駒崎の村、和田米次郎 蓮田地域における大山講の行事として、講の代参者が大 係を持っていたことが分かっています。 に伴い、各地の大山講が続々と解散さ 山から村に戻ると、頂いてきた札や も れることになりました。その影響によ 辻札と共に現地の土産である箸や杓 じ り、先導師も宿坊を運営できなくなっ 文字を講員に配り歩いたといわれて かみ だな こう ていきました。さらに近年の著しい交 います。その配られた札は家の神棚 つうもう はさ きょう 通網の発達と周辺地域の都市化によ に置かれ、辻札は竹に挿んで村の境 かい み ち き 三村深雪氏は江ヶ崎の村、神埼富江氏は高虫の村に師壇関 を基盤としていたコミュニティの崩壊 つじふだ はし し ゃ 氏は蓮田・城・南新宿・貝塚の村、沼野一路氏は馬込の村、 き ば ん ほうかい ふだ 閏戸・下閏戸・根金・根金新田・上平野の村、内海雅雄氏 御利益を求めに向かったのです。 しかし、1930 年以降になると、村 【大山講の行事】 り、日帰りで大山に訪れる人も増え、 界に面する道路に道切り(村外から や く よ の厄除け)として建てたようです。 写真 8:大山灯籠 ( 蓮田市高虫 ) 宿坊の副業化・廃業化が進んでいます。 仮
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