子どもたちを守 り育てている民

宮城県石巻市渡波地区で、東日本大震災での被災にもめげず、子どもたちを守
り育てている民間の保育所がある。震災のあと、水をこわがるようになったり、
転居が重なり集中力がなくなったりした子どもたちも、震災から1年半すぎて、
元気を取り戻したという。保育所から見た被災地の現況を伝える。
この保育所は、石巻市塩冨町の「たんぽぽ保育園」で、認可外の民間保育所だ
が、保育時間を6時まで延長していることなどで、市の補助対象施設に位置づ
けられている。園長の千葉初美さん(72)が1988年に自宅の庭で開設し
た。
大震災の日
大地震の起きた昨年3月11日午
後2時46分、たんぽぽ保育園は、
千葉さんを含め4人の保育士が、
当日休んでいた3人を除く27人
幼児を預かっていた。地震ととも
に、子どもたちは、先生たちの周
りに車座になって地震がおさまる
のを待った。木造プレハブの保育
所の建物は、梁に鉄骨を使ったこともあり、地震では壊れなかった。揺れがし
ずまるや、千葉さんはこどもたちを外に出した。
「まだ津波警報も出ていなかったけれど、大きな地震でしたから、津波から逃
げるため、山のほうに逃げることにしました」
2歳児から5歳児までの園児に、服を着せ、くつをはかせ、避難するには時間
がかかる。しかし、非常時に避難するときのことを想定して、日頃から、服を
早く着たり、くつを早くはいたりする競争をときどきゲームのように取り入れ
ていた。この「避難訓練」が役に立ったという。
地震直後から次々に親が子どもを引き取りにきて、12人が残ったところで、
子どもを迎えにきた親のワゴン車と保育士の車に先生たちを含めた全員が乗り
込み、山に向かった。あとから迎えに来る保護者のために、黒板には「全員無
事、山に逃げる」と書き込んだ。
早く逃げたために、渋滞にはまることなく、渡波の裏手にあたる根岸という地
区にたどり着いた。逃げる車で渋滞になり、逃げ遅れた人たちが多かっただけ
に、この決断が幸いした。渡波地区は、石巻湾から入り組んだ万石浦という入
り江に面している。万石浦は、入り口が狭く、奥が広い形状をしていて、その
ために津波は、高くならなかった。しかし、石巻湾から押し寄せた津波は、万
石浦の周辺から渡波地区まで流れ込み、ほとんどの住宅が冠水した。
「お泊まり保育」!
たんぽぽ保育園も津波が20∼30センチほど流
れ込み、水が引かなかったこともあり、園児たち
は根岸の民家や神社で2晩過ごすことになった。
「泊めていただいた民家は知り合いの家ではなか
ったのですが、子どもたちのために、地域の人た
ちみなさんが毛布や食べ物を運んでくださいまし
た」と千葉さん。
3月13日、水が引いたところで、園児を車に分
乗させ、自宅や避難所にいる保護者に引き渡した。
根岸向かう道中のあちこちに「たんぽぽ保育園は
根岸に避難」の紙を貼ってきたこともあり、子ど
もたちが無事なことを知っていた親もいたが、何の情報がなく心配していた親
もいた。親の顔を見た子どもたちの第一声は「お泊まり保育してきたよ」。それ
までの親の心配は吹き飛んだ。
地震直後に親に引き取られた園児たちも、保護者もみな無事だった。3月19
日には、いったん開園したが、子どもを預ける親が少ないことがわかり、1週
間で休園を決めた。
「震災を体験した親が子どもを手放せなくなったからでしょ
う。それに仕事を失った人がほとんどでしたから、子どもを預ける必要もなく
なったのでしょう」。
渡波地区は、地震による地盤沈下で、満水時には地域全体が冠水するようにな
ったため、保育所に通う道も通れなくなることがあった。冠水対策で地域にポ
ンプが設置されたこともあり、6月1日に保育園を再再開した。遠くの避難先
に移ったり、仕事が見つからなかったりする親も多く、戻ってきた園児は13
人だった。
「地震ごっこ」「津波ごっこ」
戻ってきた子どもたちは、トイレでも、水道でも、雨のぬかるみでも、アニメ
で出て来る水でも、水がこわくて逃げ出した。昼寝の時間になっても、寝付け
ない子どももあり、保育の先生が添い寝したこともあった。積み木で遊ぶ、絵
を描く、お話を聞く、絵本を見る、といった動作に集中できない子どももふえ
た。
「地震ごっこ」や「津波ごっこ」という遊びが出てきた。地震ごっこは、子
どもたちを乗せた毛布を別の子どもが揺らして遊ぶ。津波ごっこは、
「津波が来
たぞ」と叫んで、室内を走り回る。おびえる子もなく、みんな楽しんでいるの
で、そのままにして、かまわないことにしたところ、やがて、この遊びはなく
なったという。子どもたちなりの震災の克服法だったかもしれない、と思う。
秋になって、修復した家に戻ったり、保護者が仕事に戻ったりするにつれて、
園児たちは落ち着いてきた。
「お母さんが元気になると、子どもたちも元気にな
った」。子どもたちが笑顔で、先生たちに見せてくれるようになったのは母親の
手作りのお弁当。救援物資の支給が減り、おにぎりと牛乳、バナナの弁当から、
自家製に戻ったのだ。
「震災前は、もう年を取ったし、閉園しようかと思っていましたが、震災後の
子どもたちを見て、本来の子どもの姿に返すのが私たちの使命だと思うように
なり、続けようという意欲が出てきました」
もののありがたさを教える
ちょっと困ったのは、救援物資の生活に慣れた子どもたちが、先生たちの机に
おいてあるノートなどの文房具を黙って持っていこうとするようになったこと。
たしかに避難所などでは、置いてある救援物資は自由に持っていくことができ
たし、食料などの配給でも、お金を払うという行為がないので、
「もののありが
たさ」が親も子どもたちも薄れることにもなった。
「救援物資は、いただいたものだから、粗末に扱ってはいけない、感謝の気持
ちを忘れないようにと、何度も言い聞かせるようにしました」
近隣に市立保育園
1年半たった現在の園児は21人まで戻った。震災という存亡の危機を乗り越
えた「たんぽぽ保育園」だが、実はいま、新たな危機を迎えている。渡波地区
でも、この保育所から離れたところにあり、震災後は休園していた石巻市立の
ふたつの保育所が統合して、たんぽぽ保育園からすぐのところに移転して、開
園することになったのだ。
認可外保育所の需要は、公立の保育所が少なく、子どもを入れようとしても待
機になったり、保護者が働いているといった条件にあてはまらなかったりとい
うところにある。震災後、渡波地域では、人口流出が激しいため、ふたつの保
育所を統合しても、待機児童が発生するかどうかわからない。また、公立のほ
うが割安になるケースが多いため、ベテランの保育士による保育、年齢別では
なく2歳児から5歳児までを一緒にケアする縦割り保育、といったこの保育所
の質が地元の母親からどれだけ評価されるか、わからないという。
「子どもたちを本来の姿
に戻すという信念で、来年
度も募集しようと思いま
す」と、千葉さんは言う。
遊び場がほしい
行政に何か要望はありま
すか、と水を向けたら、
「子
どもたちの遊び場を確保
してほしい」と答えた。公
有地の多くは、仮設住宅の
敷地になっていて、公園も広場も少ない。新しい保育所が出来る場所も、これ
までは、たんぽぽ保育所の児童たちを含め、地域の子どもたちの遊び場になっ
ていたところだ。まだまだ野に咲いてほしいたんぽぽの花だ。(高成田享記)