喜 多 床 百 四 十 四 年 史

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喜多床百四十四年史
―喜多床
夏目漱石
森鷗外
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新渡戸稲造
島崎柳鵜(日本画家)
佐佐木信綱(歌人、国文学者)
山本有三(小説家)
上田萬年(国語学者、言語学者)
桜井錠二(化学者)
桜井省三
桂弁三(金属工学者)
三上参二(文学博士、江戸時代史の専門家、宮内省御用掛)
姉崎潮風(本名・姉崎正治、宗教学者)
内丸最一郎(工学博士)
大森洪太(司法官僚)
入沢達吉(医師、大正天皇のための宮内省侍医頭)
穂積陳重(日本初の法学博士、最高裁判事)
鳩山秀夫(法学者)
福島行信(貿易商)
芳澤謙吉(外交官、政治家)
新海竹太郎(彫刻家)
大島義清(応用化学者、帝大燃料研究所所長)
内藤鳴雪(俳人)
三浦謹之助(医学者、宮内省御用掛)
服部金太郎(服部時計店、セイコー創業者)
渋沢栄一
堀田恒則
近衛文麿
石原修(衛生学者、労働・社会衛生学実践の草分け)
伊藤博文
前田利為(加賀藩前田家十六代目当主)
伊沢多喜男(台湾総督)
目賀田種太郎(専修大学・東京芸大の創立者)
阿部正直(理学博士、気象研究所長)
中島久萬吉(古河コンツェルンを創立)
大橋新太郎(博文館創立者)
永田秀次郎(第八・十四代東京市市長)
弘(官僚、政治家)
町田忠治(政治家、閣僚を歴任)
小村欣一(外交官)
原嘉道(司法大臣、日本倶楽部四代会長)
有田八郎(外交官・政治家)
南
幣原喜重郎(第四十四代総理大臣)
中松潤之助(日本プロ野球コミッショナー委員会)
岩田宙造(司法大臣、日本倶楽部代七代会長)
斉藤実(第三十代総理大臣)
山下太郎(アラビア石油創業者、満州太郎)
内田嘉吉(逓信官僚、台湾総督)
星島二郎(政治家)
山岡萬之助(法学博士、日本大学第三代総長)
平沼亮三(横浜市長、日本における市民スポーツの父)
畠山一清(荏原製作所創業者)
三島海雲(カルピス創業者)
千葉三郎(労働大臣、東京農大学長)
阪谷芳郎(大蔵大臣、東京市長)
大河内正敏(物理学者、理研の三代目所長)
橋本圭三郎(官僚、実業家)
山下寿郎(建築家、日本初の超高層建物・霞が関ビルを設計)
内藤久寛(新日本石油初代社長)
正力松太郎(読売新聞社社主)
沢田廉三(外交官)
緒方益雄(衛生学者)
三好学(植物学者、日本植物学会長)
緒方規雄(細菌学者)
佐藤尚武(外交官、政治家)
緒方清喜
片山国嘉(日本医学の開祖)
金丸重嶺(写真家)
福田赳夫(第六十七代総理大臣)
石原修(衛生学者)
長野護
山川健次郎(物理学者、東京帝国大学総長)
三枝代三郎(ギンザのサエグサ創業者)
坪井正五郎(人類学者)
重田忠保(戦災復興院次長、特別調達庁総裁)
渋沢元治(電気工学者、名古屋帝大初代総長)
南郷三郎(日本ゴルフ協会初代チェアマン)
関屋貞次
下田武彦
高木健夫(読売新聞論説委員)
下田武三(プロ野球第七代コミッショナー)
船田中(自民党副総裁)
下田次郎
高木陸郎(中日実業副総裁)
黒金泰美(大蔵官僚、政治家)
高木貞治(数学者)
久保田政周(東京府知事、内務次官)
黒金泰義(内務官僚、政治家)
太田清蔵
中島滋太郎
宮井仁之助(社会経済生産性本部理事長)
廣田弘毅
吉田茂(第四十五・四十八・四十九・五十・五十一代総理大臣)
若槻禮次郎
小山健一(太平洋汽船社長)
志水廣典(極洋社長)
(以上敬称略順不同)
第一部
1871年 明(治四年 、)まさに断髪令が施行された年に喜多床は開業した。
創業の地は、現在の文京区本郷、加賀藩前田邸(のちの帝国大学)正門の前。当時は文化の中
心地であり、喜多床もまた、西洋理髪の先駆けとして日本の文明開化の一端を担っていった。
創業者・中邨喜太郎(なかむらきたろう)は、旧姓名を舩越喜景(ふなこしよしかげ)といい、
嘉永四年、牛込竜土町の旗本 舩・越景輝(ふなこしかげてる)の子として生まれた。
何故、中邨姓になったかというと、当時、42歳の二つ子 2(歳児 は)、一度捨て児として他人
に拾わせるという武士の風習があり、それによって喜景も捨てられ、改めて拾い主の家から舩越
家に迎えられた。その拾い主の役を引き受けたのが、本郷の加賀藩前田家御用の米屋 中
・邨常吉
であり、のちに喜太郎はその娘 美
・津を娶った。
維新後に、喜太郎はその養家のつてで、加賀前田家の軍隊に入った。そこで、前田侯の髪結方
をおおせつかった。元来、髪結いと傘張りについては、武士が副業として行うことが幕府から許
されていた。髪結いが副業として許可された理由については、当時次の様に言われていたという。
関が原の合戦の折、茶臼山の戦いで、真田幸村の奇襲を受けた徳川家康の手を引いて逃げたの
が、髪結い方の某という人だったという。当時、武将の髪結いは旗本がおおせつかうものであっ
たし、こういう事由もあり、徳川幕府も武士が髪結いを行うことを許したというのである。維新
後も、武士の中には、再び徳川幕府が政権を握ることを信じ、そのときには武士に戻れるように
と、とりあえず、許可されていた髪結いの仕事を始めた者が多かったという。旗本出の喜太郎も、
そのうちの一人だったのかもしれない。
その頃、前田家には軍事顧問のフランス人達が出入りしており、喜太郎は彼らから西洋風の散
髪技術を学び、それを習得した。明治四年に養家が火災で消失したこともあり、喜太郎は、前田
家赤門前に、当時としては珍しい洋風の三階建て店舗を建てた。屋号の 喜
「多床 は」、前田家の殿
様の命名である。そのご縁から、現在の前田家十八代目当主利祐(としやす)氏も喜多床の顧客
である。
加賀百万石十三代目藩主・前田斉泰の断髪は、喜太郎の手で行われた。美しく威厳を誇る武士
の象徴である髷が切り落とされた後、斉泰公は一筆したためて、喜太郎に手渡した。そこには、
こう書いてあった。
本
「日、髪を洋夷にす。涙燦然として降る。 」
*断髪について*
前田斉泰公
断髪令が施行されたからといっても、日本人のすべてが一斉に髷を切り落としたわけではなか
った。まず軍人、そして髷を結った姿は欧米人から蔑まれていると知った文化人 知
・識人達が、
断髪をし始めた。岩倉具視が、その一人である。
明治四年に、岩倉具視は、諸外国との不平等条約の改正と西洋の制度などを視察する目的の使
節団の正使として、欧米各国を訪問した。かつて英国に留学していた伊藤博文が副使であったが、
伊藤は既に断髪姿であった。帰国後、伊藤は喜多床の顧客となった。
岩倉は、アメリカに上陸してすぐにサンフランシスコで撮影された写真を見ると、まだ髷姿に
羽織袴で靴を履いている。
左の写真の中央が岩倉、その右に伊藤の姿がある。
それが、アメリカ大陸横断後、ワシントン入りした後の写真では、髷はなく、断髪に洋装であ
る。その断髪の理由は、髷姿が見世物になって恥ずかしかったからというだけでなく、日本の国
益の為でもあった。使節団の最大の目的である条約改正の交渉の場で、正使自身が文明開化して
いると見せる必要があったのだ。岩倉の断髪は、彼が公家出ということもあり、断髪を逡巡して
いる日本人に範を示した。
そして、明治六年 1(873年 3)月20日、明治天皇がご自身の意志で断髪され、日本人に断
髪が普及する大きなきっかけとなった。
「ちょんまげ」 高村光太郎著 暗
「愚小伝 よ
」り
おぢいさんは ちょんまげを切つた。
旧弊々々と二言目にはいやがるが、まげまで切りたかないんだ、ほんたあ。
官員やおまはりなんぞに
何をいはれたつてびくともしないが、禁廷さまがおつしやるんだと聞いちゃあ、おれもか
ぶとをぬいだ。
公方さまは番頭で
禁廷さまは日本の総本締だ。
そのお声がかりだとすりや、なあ。
いめえましいから、
勝の野郎が大事そうに切ったまげなんぞ、
おっぽり出してけえつてきた。
(仮名遣い原文のまま)
当時は、こんな俗歌も流行ったという。
「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする。
ちょん髷頭をたたいてみれば、因循姑息の音がする。
」
断髪の普及率は、左記の通りに急激に増加していく。
十四年
十年
90%
80%
60%
10%
20%
40%
明治 八年 断髪25% ちょん髷75%
十六年
開「化した犬ちょん髷を見ると吠え 」
そして、明治十五年には、こんな狂句が詠まれるほど断髪は普及し、明治二十一、二十二年頃
には、ちょん髷はほとんど見られなくなった。記録によれば、最後のちょん髷は銅山王の古河市
兵衛で、明治三十三年に断髪をしたという。
*夏目漱石の小説の中の喜多床*
夏目漱石「吾輩は猫である」より
「主人はエビクテタスと言う人の本をひらいて見て居った。もしそれが平常の通りわかるなら
一寸えらい所がある。五六分もするとその本を叩き付けるように机の上へほうり出す。大方そん
な 事 だ ろ う と 思 い なが らな お 注 意 し て 居 る と、 今度 は 日 記 帳 を 出 し て下 の様 な 事 を 書 き つけ
た。・・・寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩、池の端の待合の前で芸者が裾模様の春
着をきて羽根をついて居た。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似て居た。
何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって、喜多床へ行
って顔さえそってもらやあ、そんなに、人間と異った所はありあしない。
」
夏目漱石「三四郎」より
初版復刻本より
「野々宮君の先生の何とか言う人が学生の時分馬に乗って、此処を乗廻すうちに、馬が言う事
を聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。下駄の歯が鐙
に挟まる。先生は大変困っていると、正門前の喜多床と言う髪結床の職人が大勢出てきて、面白
がって笑っていたそうである。」
(以上、原文は歴史仮名遣い)
初版復刻本より
左の写真は、帝大卒の医師であった行徳氏と漱石。
第二部
開店当時の喜多床は、流行り始めの洋風の三階建の店構えで、店内の壁には大きなガラス製の
鏡、従業員は揃いの洋装で決め、使う道具はフランスからの輸入品とあって、「東京の新名所」
として知られていたという。
旧来の「髪結い床」でも断髪を行う所はあったが、職人は高下駄をつっかけ、着物に前掛け、
たすきがけの姿で、店の造作も浮世床から変わらなかった。店主を親方と呼び、職人は剃刀を懐
に入れ、出入りのときには「お控えなすって」と仁義を切るという慣習が、まだ残っていた。し
かし、喜太郎は自らを「理髪師」、職人を「アーテスト」と呼び、
「理髪を紳士の正業たらん」と
した。
「理髪」
(髪を整える)という言葉自体は、もともとは「中古以来、宮廷 武・家の元服の際、子
供の髪型を大人のものに改める儀式の名」であったという。その儀式の名を、髪を切って整える
という現在と同じ意味に用いたのは、喜太郎が初めだった。武家の出である喜太郎にとって、そ
れは馴染みのある言葉であったのだろう。
創業当時に使われていた洗面器
一般的に「理髪店」という名称に統一されたのは、明治十一年頃とされている。
*お客様のプロフィール*
「夏目漱石先生がお見えになったときに、
『先生、良いお天気です』というと、
『大きなお世話
だ』と叱られたことがあります。理髪店というのは、ああいう方は頭を休めにいらっしゃるとこ
ろなんです。頭を刈りながら、よい気持ちそうに寝ている。終わっても起こすのがちょっと悪い
ような気がする。そのままにしておくと、目を覚まして『終わったのか。遅いぞ』と言われたこ
とがあります。
」
「石川啄木という人も覚えております。後にあれ程有名になるとは思いませんでした。何しろ
美少年という感じだけの方でございましたから・・」
(二代目景輝(かげてる)談)
金
「田一京助先生は、その姿や容貌と同じように優しく音声も会話も、女性のようなとても親
しみやすいお方でした」
(景輝の妻・のぶ談)
創業当時、喜多床の店内で、ひときわ人目をひいたのが、
「鏡」であった。
江戸時代からガラス鏡も製造されてはいたものの、当時の国産のガラス鏡は、和鏡の伝統を継
いだ小型の、手に持って使うものだけであった。そのため、西洋から入ってきた大きな鏡は、非
常に珍重された。絵馬の代わりに、神社に奉納されることもあったという。実用に使われたのは、
喜多床が「はしり」であった。
また、喜多床の店内での大鏡の配置には、一工夫あった。当時の顧客であった内田百閒が、こ
う記している。
「本郷の赤門と正面の間の丁度真中辺りの向こう側に、喜多床と云う大きな床屋があった。喜
多床は老舗であって昔から続いていたらしく、漱石先生の「三四郎」の中にもその名前が出て来
る。
初めて上京した当時は落ちつかなくて頻りに下宿を変わったから、その時分は床屋にもどこと
きまった記憶に残る様な店もない。只行き当たりばったりに転々していた様である。
その内に大分東京に馴れて落ちついて来て、下宿も正面前の森川町にあったから喜多床に行き馴
れた。店に這入って行くと、喜多床の鏡は左右の壁を一ぱいに潰してはめ込んであるので、その
前に起った自分の身体が、右にうつっているのが左にうつり、それがそのまま右のもっと奥にう
つり、それが又左のもっと奥にうつり、何処まで行ってもきりがない。(中略)喜多床の鏡は左
右だけだから、鏡抜けの桝とは趣きが違うけれど、どこ迄行ってもきりがない点は同じであった。
創業当時に使われていた大鏡
散髪されながら考え込んだ。」
(原文は歴史仮名遣い)
創業当時のサインポールを復元したもの。
喜多床の顧客であった漱石の短編小説「夢十夜」の第八夜に、こんなくだりがある。
「床屋の敷居を跨いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと言っ
た。真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開いて、残る二方に鏡が懸っている。
鏡の数を勘定したら六つあった。自分はその一つの前に来て腰をおろした。すると、お尻がぷく
りと云った。よほど坐り心地が好くできた椅子である。」
(原文は歴史仮名遣い)
椅子もまた、当時は珍しいものであった。椅子座を、日本人に普及させたのは、写真館、西洋
料理店、そして西洋床という商売だったという。ただし、椅子は高価であったため、西洋床とい
う看板を掲げていても、
「樽」を椅子代わりに使うところが多かったという。
西洋理髪には、ちょん髷を切るU字型の握り鋏(和鋏)ではなく、舶来の理髪鋏が必要であっ
た。舶来の理髪鋏は、一丁が三円という高価なものであった。ちなみに、喜多床の、当時の理髪
料金は、一階が十銭、高級な二階が二十銭であった。
バリカンは、鋏以上に、破格に高かった。明治十八年頃に、一挺十二、三円したという。
バリカンが初めて輸入されたのは明治十六年のことで、フランスのパリ日本公使館書記官が帰国
の際に「トンズーズ」という斬髪機械を持ち帰り、それが「バリカン」という名で呼ばれるよう
になった。この、バリカンの語源にまつわるこんな話がある。
言語学者の金田一京助氏は、喜多床の顧客であった。その金田一氏が三省堂にいた頃、上田万
年氏らの「日本外来語辞典」の編集をすることになったが、バリカンの語源だけが調べてもわか
らない。
金田一氏 「:三年ばかり悩みましてね。本郷の大学前の喜多床へ行って刈ってもらいながら『この
バリカンだな。どっかでバリカンというところはないかなあ』と一人言をいいましたら、
『あり
ませんよ』という。それは舩越景輝という若主人でしたがね。
英語ではヘヤ・カッター、アメリカではヘヤ・クリッパーズ、フランスではどう、ドイツでは
どう、イタリーではどうというんで吃驚しまして、偉いもんだなと思ったら、彼は調べたばかり
だった。
当時、(景輝は)床屋の副会長で床屋の雑誌を出していたので、理髪道具の各国の呼び方をず
っと調べて雑誌に書いたばかりだったそうです。
『はてな、どこでもバリカンというところはないんだな。何か、バリカンの機械か箱かなんか
に、バリカンとは書いてないものかな』というと、
『ありましたよ』という。
『bariquar
d、フランス語ですからdはサイレントでしょう。』という。刃の刻印の中にフランスの何とか
いう町のバリカン・アンド・マールという名前があったものですから。」
=座談会「語源を語る」より
器具の箱に印刷されていた「バリカン・アンド・マール商会=製造会社」の名が、機械そのも
のの名前と勘違いされて、広まったのであった。
金田一氏は、石川啄木が上京する際の世話役であった。喜多床二代目舩越景輝に天宗という天
ぷらやで、啄木の下宿先を相談し、啄木は一時、喜多床の三階に下宿していた。その後、喜多床
がのれんわけした本郷喜乃床に移っていった。
明治十七年、前田邸が帝国大学となる。赤門前の喜多床は、一階は学生、二階は博士・文士な
どの知識人の集まるサロンとなった。喜太郎は、お金に困った学生には料金をツケにしたり、時
にはお小遣いまで貸してあげたという。
妻・美津の内助の功もあり、明治二十年頃は、本店の椅子は十八台、従業員は二十人程おり、
市内各地に出した支店も含めた全店が繁盛し、有縁無縁の者で喜多床を名乗る店は全国にわたっ
た。
「帝大の存在がぼけて、冗談に『喜多床前の大学』じゃないかというほどで、帝大のおかげで
有名になったといえますね。明治十九年に蔵を建てたら、『その資産四十万円なり、床屋にして
蔵を建つるとは前代未聞の出来事』とか何とか、都新聞に書かれたという話です。
」
(三代目景一
談)
創業当時からの長火鉢。今は喜多床ゆかりの本が納められている。
喜太郎には、常太郎とおくまという二人の子があった。常太郎は長じると舩越家に戻り、舩越
景輝(祖父と同名)と名乗るようになる。喜太郎が中邨家に養子にいった際に、子が生まれたら
舩越家に戻し、家督を継がせるとの約束があったのである。
二代目舩越景輝は、明治十一年に生まれ、築地中学を卒業後、喜多床を継ぎ、理容業界全体の
発展に力を尽くした。
景輝が二十代の頃に、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリーの各国を回ってきた宗教学者の
姉崎嘲風(名は正治)文学博士に、アメリカの理髪店が一番発達していると聞き、アメリカから
「バーバージャーナル」という雑誌を取り寄せて、勉強を始めた。
当時、景輝が米国より輸入した、理髪道具商kokenのカタログより。
美しい絵柄のシェービングマグ。
明治三十八年、本郷森川町の景輝宅に、理髪業界の向上と啓蒙という同じ志を持った小坂巳之
助、大場秀吉ら六名が集まり、「大日本美髪会」を創立。翌三十九年には、日本初の理容の機関
誌「美髪」を発行する。
それと同時に、大日本美髪会の創立とほぼ同じ顔ぶれで、
「一会」
(はじめかい)という研究団
体を結成。
「一会」は、明治四十年五月には、喜多床の二階で、日本で初めての理髪師の勉強会を実施す
る。書生の頃から喜多床の顧客で、景輝の友人でもあった帝大医学博士の古瀬安俊氏が「生理解
剖衛生学」を教え、その後も、帝大の俵國一博士による「冶金学」などが続いた。当時は珍しか
った顕微鏡を十台も借りて、帝大の教室で研究を行ったこともあったという。
「一会」会員は、正式の会合には必ず、シルクハットにフロックコートを着用し、業界を代表
する紳士として、威儀を正しくしていた。あるとき、福島県の理髪師大会に参加した帰りに駅に
行くと、景輝たち一行を県知事、警察署長などが、直立敬礼して出迎えた。高貴な方と勘違いし
ているのだと気づいたが、「なまじっか打ち明けて恥をかかすより、どこまでもとぼけてやれ」
と、冷や汗をかきながらも、一等車に乗って立ち去った。あとでわかったことだが、この日、宮
様が福島市においでになっていらしたとのことだった。
明治四十三年、大日本美髪会の一般募集による第一回理髪講習会が開かれた。それまでの徒弟
制度の「見て盗んで覚えろ」だけの技術の継承が、日本で初めて、講習会形式で行われたのであ
る。学科に加えて、シャンプーなどの技術も教えた。景輝は、二百五十円を支払って横浜で教わ
った、美顔術を担当した。講習生は日本全国から集まった。半年間の講習を終えて、卒業すると
「トンソリアル・アーチスト」の免状が発行された。
大正二年発行の大日本美髪会理髪師年鑑によると、日本のみならず、当時統治下にあった台湾、
朝鮮、清国、ロシア領ウラジオストック、アメリカ領ハワイにまで会員が広がっている。
下の写真の右の人物が、主幹の太田重之助、左が理事だった喜太郎。
景輝は、理容師は、技術に加えて、これからは学問も必要であると考えており、大正三年には
私財を投じて、
「帝國通信理髪大学」の通信講座を始めた。
*五黄の寅の会*
吉田茂
景輝は、総理大臣を務めた吉田茂が、帝大の学生であった頃から、親しくしていた。
二人は同じ明治十一年生まれで、その生まれ年が「五黄の寅」であったことから、
「五黄の寅
の会」の会員となった。
「五黄の寅の会」とは、明治十一年生まれの、各界で活躍する著名人の集まりであり、名簿には、
吉田茂をはじめ、貴族議員であった大河内正敏、画家の鏑木清方、百五銀行頭取であった川喜田
久太夫、衆議院議長であった岡田忠彦、極洋捕鯨会長であった山地土佐太郎、カルピスの創業者
三島海雲、京浜電鉄の社長であった生野団六、毎日新聞の会長であった高石真五郎、日産の社長
であった下河辺建二などの名前が載っている。
喜多床には、「五黄の寅の会」の会合で記念品として配られたという、トラを模った真鍮の文
鎮と、会員が揃いで作った羽織の裏地(トラの絵を織り込んだもの)が、今も残っている。
*徳田秋声「大日本繁盛記」より*
「本郷名物で、今一つ思い出すのは通りの『喜多床』という床屋である。
この床屋の古いことは勿論だが、その先代が彰義隊時分のことなどをよく知っていて、いまの大
学の鉄柵が、まだ、前田邸の塗塀であって、小さな門が赤門から以北に幾個もあって、武者窓が
ついていた頃のことから、森川町あたりも、未だ草深い未開地で、一帯の茶畑に狐が出るくらい
であった事や、伝通院が、見通しに見えたことなどを、自分は、最近まで喜多床の主人であった
第二代目から聞いたことがある。
先代は、子息に店を譲って、自分は大横町の方に別に店を出していたこともあったが、啄木が
いたのは確かその二階、或は屋根裏であったように記憶する。
この喜多床には博士連が沢山来たようである。自分もお馴染みであったので、時時、そういう
人の顔を見たことがあるが、主人は食べもの道楽で義太夫に凝ったりしていた。
」
(原文は歴史仮
名遣い)
左の写真は、関東大震災の直後、東京の床屋への義捐金を集めるために日本中を回った
景輝が、当時の朝鮮にまで足を延ばしたときに購入したという福禄寿と、大正時代の営
業時間のお知らせ。
第三部
大正十一年、本郷の喜多床本店は、区画整理により姿を消すこととなる。その年の7月2日の
読売新聞には、閉店を惜しむ記事が掲載された。
立ち退きの話が決定された大正九年に、景輝は、丸の内の日本倶楽部ビルの地下に出店し、長
男の景一に店をまかせた。日本倶楽部は、政財界人の社交場で、入会するにあたっては多数の推
薦人が必要で、なおかつ厳しい審査があり、会員となることは大変な名誉であった。日本倶楽部
への出店を機に、喜多床は、渋沢栄一をはじめ、歴代の政財界人のご愛顧を賜るようになる。顧
客となった諸名士の斡旋で、外務省 文
・部省 拓・務省・鉄道省・士官学校・・・など、ほとんどの
官庁の理容室を喜多床支店が占めるようになった。当時の最先端の集合住宅であった同潤会江戸
川アパートにも支店を出していた。
第二次世界大戦の敗戦で、喜多床を取り巻く環境は一変した。GHQが出した財閥解体の指令
により、数多くあった支店は全て人手に渡り、舩越家には日本倶楽部の店のみが残された。又、
封建時代を彷彿させるからという理由で、GHQにより「床」のつく名前は廃止され、
「喜多床」
から「舩越理容室」へ改名させられた。
終戦直後には、当時の顧客だった幣原喜重郎氏が自身の著書「外交五十年」に喜多床のこんな
話を綴っている。
「米兵と床屋」*あらすじ*
終戦後、アメリカの兵隊が進駐して来たが、当時の日本人はアメリカ兵が来たら、どんな悪さ
をされるかと戦々恐々としていた。三代目景一が、戦災で焼け出され移った先の朝霞にも、進駐
軍の兵営が出来た。付近の人々は、もしアメリカ兵が家の中に入ってきたら、いきなり鐘をジャ
ンジャン叩き、その音で近所の人達を集め、アメリカ兵を棒や鍬で打ちのめそうと申し合わせて、
各々の家に鐘を用意していたという。
ある夜、景一が帰宅すると、自宅前でアメリカ兵が英語で怒鳴っている。早速、鐘を叩こうと
思ったが、まず妻子を裏口から避難させた後、和英辞書を持って英語で話しかけたところ、アメ
リカ兵は、自分は兵営に帰らなければならないが、道がわからないから教えてくれと言う。とこ
ろが、景一の英語では、道を教えるだけの自信がない上に、真っ暗なところに雨が降っていて道
が悪い。そこで、アメリカ兵を景一の家に泊めるとになった。
翌朝、味噌汁とご飯の朝食をたいらげたアメリカ兵は、宿泊代としてお金を渡そうとしたが、
景一は江戸っ子だけに怒って、
「好意でしてあげただけだ。私は宿屋じゃないんだから要らない。
」
と言って受け取らない。
そこで、アメリカ兵は翌日、お礼にと子供たちにアメリカ製のチョコレートを持参し、家族と
もすっかり親しくなった。その後も、アメリカ兵の洗濯物を、景一の妻が近所の奥さん方と協力
して洗ってあげたりといった「日米親善」始まった。
ある時、アメリカ兵が、
「貴方のご商売はなんですか」と聞いてきた。景一は、
「私は床屋です。
しかも、東京で有名な床屋(famous・barber)です。
」と威張って答えた。「どうし
て“famous”なんですか」と聞かれ、ご贔屓は偉い人ばかりであるからで、例として時の
総理大臣・幣原喜重郎の名前をあげた。感心して聞いていたアメリカ兵は、次に来たときに日本
の国旗を出して、自分の記念にしたいので、幣原さんに、これにサインしてもらいたいと頼んで
きた。引き受けた景一が、日本倶楽部に散髪にみえた幣原氏にお願いしたところ、「国旗に字を
書くことは、国旗を汚すことであるのでだめだ。」と断られた。続けて幣原氏は「しかし、君は
実に善い事をした。外交官が何年一つ場所にいても、それほど親善の心を現すことはなかなか出
来るものぢやない。君のやった事は非常に僕の心を打つ。こんな美談に対しても何かしてあげた
いと思うから、まあ僕に任して置きたまえ。
」と言って、国旗を押し返した。
その数日後に、幣原氏は用事で大阪に行った帰りに京都に寄り、扇子を二本買ってきた。その
扇子に、自分が好んで暗誦している、シェークスピア「ヴェニスの商人」の第四幕人肉裁判の場
で、ポーシャがシャイロツクに申し聞かせる一節「慈悲ということは、強いらるべき性質のもの
ではない。ちょうど柔らかな雨が天からシトシト降って、地を潤すと同じようなものである。そ
れが慈悲の本質だ。慈悲というものは二重に人に恩恵を施す。すなわち、与えた者も受けた者も
どちらも天の恵沢に欲するのだ」という韻文を原文のまま書き、景一とアメリカ兵に一本ずつ下
さった。アメリカ兵が大喜びして、兵営で皆に吹聴したらしく、話が大きく拡がり、日本倶楽部
の喜多床に外国人の記者が押しかけ、アメリカの新聞雑誌に、このことが記事として載ったとい
う。
そこで、景一は言葉通り、
「有名な理髪師=famous・barber」となった。
昭和三十九年、日本倶楽部ビルが取り壊しとなり、店は、同じ丸の内の三菱電機ビルに移った。
このときから、四代目一哉が店主となる。
昭和五十年、顧客だった当時の東邦生命社長の故太田清蔵氏に誘われ、渋谷の東邦生命本社ビ
ルに出店。
「舩越理容室」を改め、再び「喜多床」という看板を掲げた。
平成十一年、沢山の方に惜しまれつつも、丸の内店を閉店。
現在は、五代目千代も加わり、渋谷の地で、喜多床ののれんを守っている。
参考資料
「道具が語る生活史」小泉和子著
「断髪 近代東アジアの文化衝突」劉香織著
「理容資料館細見」竹内蔵之助著
日本経済新聞文化欄に掲載