実用化が視野に― 「多能性幹細胞」の可能性と課題

Special Features 1
「幹細胞」
の現実と未来
巻頭インタビュー
構成◉飯塚りえ composition by Rie Iizuka
京都大学名誉教授
中辻憲夫
イラストレーション ◉ 小湊好治 illustration by Koji Kominato
実用化が視野に―
「多能性幹細胞」
の可能性と課題
幹細胞とは、自己複製能と分化能の 2 つをあわせ持つ細胞のこと。例えば胚性幹細胞(ES 細胞)は、どん
な細胞にもなることができる
「多能性幹細胞」
である。一方、失った部位を再生・修復する
「成体幹細胞」
は、
失われた細胞だけを再生する「多分化能」を持つ幹細胞だ。そして人工的に作られた「多能性幹細胞」が iPS
細胞である。様々な種類の幹細胞の研究が進み、再生医療がいよいよ現実味を帯びてきた。
生物を見渡すと、例えばイモリは足の先端が切れて
細胞ができると同時に、分化して皮膚や血液といった専
しまっても、しばらくするとまた足ができてきて元に
門の機能を果たすための細胞になっていきます
(図 1)
。
戻ります。しかし鳥やほ乳類になってくると、再生、
これが他の細胞と大きく異なる点です。通常、分化を
修復できるのは、血液や皮膚、骨、筋肉、肝臓など限
終えた体細胞は他の細胞に変化することはありません。
られた部位です。
逆に言えば分化能を持っている幹細胞は、分化の前の
この組織の再生時に登場するのが、幹細胞と呼ばれ
状態に留まっていると考えることができます。
る細胞です。あたかも木の幹のようにいろいろな枝に
体の中の幹細胞は、特に成体幹細胞あるいは組織幹
分かれて、花が咲いたり実がなったりするイメージか
細胞と呼ばれています。組織幹細胞には、造血幹細胞、
らでしょうか。英語でも
「 stem(幹)cell」
と言います。
間葉系幹細胞、
神経幹細胞、
表皮幹細胞などが見つかっ
自己複製能と分化能を備えた幹細胞
ています。
幹細胞の大きな特徴は、自己複製能と分化能をとも
に持っている点です。幹細胞は分裂して自分と同等の
例えば造血幹細胞は、大人では骨髄の中にあって、
必要が生じると分化して幹細胞から、前駆細胞となり、
最終的に、赤血球や NK 細胞、B 細胞といった具体的
な機能を果たす成熟血球となります。このような、分
中辻憲夫
(なかつじ・のりお)
1977 年京都大学大学院理学研究科
博士課程修了。ウメオ大学、マサチ
ューセッツ工科大学、ジョージワシ
ントン大学、ロンドン大学を経て明
治乳業ヘルスサイエンス研究所主任
研究員・研究室長。91 年より国立
遺伝学研究所教授、2003 年より京
都大学再生医科学研究所所長、07 年、
同大学物質−細胞統合システム拠点
拠点長などを歴任。日本で初めてヒ
ト ES 細胞株を樹立するなど、多能
性幹細胞において先駆的な研究に携
わる。編書に『再生医学の基礎:幹
細胞と臓器形成』
(名古屋大学出版
会)
、著書に『ヒト ES 細胞 なぜ万能
か』
(岩波書店)
など。
2
化を完全に終えて機能が特殊化した体細胞は、ほとん
どの場合、増殖能力を失っています。血球やリンパ球
など血液の細胞は、働きを終えると脾臓で分解されま
す。
なくなった細胞を補充する機能を担っているのが幹
細胞で、担当する特定の臓器を維持、修復するのに重
要な役割を果たしています。切り傷によって出血をす
れば、造血幹細胞と表皮幹細胞が修復のために動き出
すわけです。
しかし造血幹細胞や表皮幹細胞といった組織幹細胞
は、血球細胞や皮膚を作るというそれぞれの場面で必
要な特定の細胞を数種作るといったように、その機能
■図1 幹細胞
は限定されています。
組織幹細胞が何らかの理由で機能しなくなると、組
分化
織を維持することができなくなったり、逆に必要以上
に細胞を増やして腫瘍になるなど、不具合が生じるの
他の細胞に
変化する細胞
です。
最上位にある多能性幹細胞
分裂
分裂
一方で、さらに広く能力を備えた幹細胞があります。
ほ乳類では、受精卵ができて分裂を始め、5 日ほど
もすると、ボールのような形をした胚盤胞と呼ばれる
状態になります(図 2)
。この時、細胞の数はおおよそ
100 個程度になっていますが、この細胞には、胎盤を
幹細胞
幹細胞
幹細胞
分裂して、自身のコピーを作ると同時に複数種類の機能細胞に分化
する。
はじめ、胎児の体を支える組織を作る外側の細胞と、
内部に数個、将来の胎児を作るもとになる細胞が存在
した。1954 年、アメリカのリロイ・スティーブンスが、
しています。この細胞が分裂し、胎児の様々な臓器、
ある系統のマウスを作ったところ、精巣や卵巣に、毛
組織等、体内のあらゆる種類の細胞になっていくので、
や骨、脂肪など様々な組織があったり、肝臓があった
最もおおもとの幹細胞と考えられます。そこでこの幹
りという非常に不思議ながん、テラトーマという奇形
細胞を特に多能性幹細胞と呼んでいます。あらゆる細
腫ができることを発見しました。その後の研究者がテ
胞になり得るということから、
「万能細胞」
などとも呼
ラトーマから、盛んに増殖を行う未分化の細胞株を分
ばれているものです。しかし、この幹細胞は、胎児の
離することに成功し、この細胞は EC 細胞
(Embryonal
時にだけ存在する細胞で、成体内には存在しません。
Carcinoma Cell =胚性がん腫細胞)と名付けられまし
この幹細胞が存在する期間は初期胚が子宮に着床す
る前後の一時期に限られており、分裂が次の段階に進
た。
んで、体の中軸、背骨ができてくるあたりでなくなっ
EC 細胞が様々な細胞に分化することも確認でき、
さらにはマウスの胚盤胞に注入すると、EC 細胞由来
てしまいます。この時期に存在する多能性幹細胞を培
の細胞を持ったキメラマウスが誕生するという実験結
養すると、数回の分裂があって、細胞は次の段階に変
果も得られました。しかし、この EC 細胞はがん細胞
化していきます。つまり多能性幹細胞ではなくなるの
から得られた細胞ですので、高い確率でがん腫瘍を発
です。
生していました。とはいえ、この EC 細胞を通じて、
ところが 1981 年に、イギリス、ケンブリッジ大学
のマーティン・エヴァンズと、もう一人カリフォルニ
研究者に
「多能性幹細胞」
の存在を示したのは、大きな
貢献です。
ア大学のゲイル・R・マーティンとがほとんど同時期
ES 細胞は、初期胚の多能性幹細胞の特徴が維持さ
に、ある方法を用いてマウスの胚盤胞の中の細胞を培
れたもので、不思議なことに、半永久的に増殖を繰り
養し、増殖し続ける細胞株の作製に成功しました。自
返します。いくらでも増え、質の良いものはがんのよ
然界の中に一時存在したものを、特殊な培養方法で永
うな異常もありません。通常、多細胞生物の細胞増殖
続的に増えるようにした細胞株ということができ、
は、安全装置のようなものが働き、どこかのタイミン
ES 細胞(Embryonic Stem Cell)、日本語では胚性幹細
グで止まるように厳格にプログラミングされています。
胞と名付けられました。
細胞で増殖が止まらないのは、がん細胞の特徴なので
実は、それ以前に似たような細胞が見つかっていま
すが、ES 細胞の場合は、適切な培養をしていると、
3
正常と思われる細胞がいくらでも増えて
いきます。
私たちも 1985 年ごろには、マウスの
■図2 ヒト胚の初期発生
受精卵
桑実胚
(4日)
胚盤胞
(5日)
着床した10日胚
15日胚
胚盤胞から ES 細胞株を作ることに成功
しました。ES 細胞株は染色体の形や数
にも異常がなく、しかも体外で培養した
ES 細胞を胚盤胞に戻せば胎児の体を作
る役割を果たしていく光景は、感動的で
した。さらにこの ES 細胞から生まれた
キメラマウスの子どもが、時に、ES 細
受精卵は細胞分裂して、胎盤など胎児を助ける細胞組織を作ると同時
に、胎児のもととなる多能性幹細胞に分かれていく。
胞由来の卵子や精子からできることがあ
りました。このことは、ES 細胞が培養
によって異常化せずに、正常な生殖系列細胞の機能を
ます。ES 細胞株でも iPS 細胞株でも、いったん増殖す
持っていることを示唆していました。
る品質の良い細胞株を作れば、その後半永久的に増殖
ヒトES細胞は
「余剰胚」
を使う
分化
を続けます。しかしながら問題は、同じ細胞株を、例
他の細胞に
変化する細胞
1995 年には、ウィスコンシン大学のジェームズ・ 分裂
トムソン教授がアカゲザルの ES 細胞株樹立に成功し、
98 年には不妊治療で不要となったヒト受精卵からの
幹細胞
ES 細胞株樹立に成功します。受精卵を使用する ES 細
えば数カ月間、別の研究者が培養すると、少し異なる
分裂
性質を持った細胞株になることも起きる、ということ
です。ただ、それでは医療に使うことはできません。
ES 細胞にせよ、iPS 細胞にせよ、再生医療など実用化
幹細胞
幹細胞
への高い期待がありますが、そのためには、性質が安
胞の研究には倫理的な問題があるとされ、米国では連
定していて多数の担当者が扱っても、同じ操作をすれ
邦予算の使用に制限があったので、彼はヒト ES 細胞
ば同じ結果が出るというロバストネス(Robustness)
、
の研究に関しては、NIH(アメリカ国立衛生研究所)
つまり頑強性とか安定性といった視点が必須なのです。
の予算と関連のない施設で研究を行いました。その後、
ヒト ES 細胞株は我々を含めて世界のあちこちで樹立
され、研究者に分配されて、広く幹細胞研究に活用さ
れました。
多能性幹細胞の研究、実用において、日本では誤解
があるように思います。
まず ES 細胞は、確かに受精卵や初期胚から細胞株
を作り出しますが、それは不妊治療の際に使われず廃
その後、2006 年に山中伸弥教授が「マウスの皮膚細
棄されることが決まった
「余剰胚」
です。日本では、廃
胞に 4 個の遺伝子を導入して多能性幹細胞を作った」
棄される余剰胚が年間 1 万個とも数万個とも言われて
と発表しました。ご存じの iPS 細胞です。
います。
iPS 細胞の発見は、ES 細胞が発現している遺伝子の
以前、ある日本の新聞で「ES 細胞はお母さんのお腹
中に、何か多能性を獲得するための因子があるのでは
の中から受精卵を取り出し、
そこから細胞を取り出す」
ないかというアイデアが発端になり、細胞の初期化因
というような記述を見つけ、愕然としました。そんな
子として働く 4 個の遺伝子が見つかったのです。
iPS 細胞の他にも、体細胞から多能性細胞ができた、
■表 多能性幹細胞と組織幹細胞
という発表がありましたが、再現できずに忘れられて
多能性幹細胞
ES細胞
EG細胞
(胚性幹細胞)
いくということがよくありました。幹細胞研究の分野
4
iPS細胞
組織幹細胞
では、しばしば起きることです。物理実験、化学実験
由来
初期胚
胎児生殖細胞
体細胞
成人由来
では、同じ材料をそろえれば同じ結果を出すことはさ
分化能
高
高
高
低∼中
ほど難しくないそうですが、生物実験では事情が違い
増殖能
無制限
無制限
無制限
低∼中
Special Features 1
「幹細胞」
の現実と未来
■図3 ヒト胚由来のES細胞株
適正なインフォームドコンセントのもとに提供を受け
ています。
やはりES細胞研究は重要
同様に、誤解があると思われるのが、
「iPS 細胞が
できたので ES 細胞の研究は不要だ」という一般的、政
策的な認識です。しかし、iPS 細胞の作製は、ES 細胞
研究の積み重ねがなくては実現しませんでしたし、実
際、iPS 細胞と ES 細胞は、どちらも同じ多能性幹細胞
であって、実験技術も、実用化に結びつけるための技
術も共通しているのです。研究者は、多能性幹細胞と
フィーダー細胞(目的とする細胞の培養、増殖を促進する補助的な細
胞)
を使わずに培養されたヒト ES 細胞コロニー。
いう研究に従事しているのであって、日本も含め世界
中で、iPS 細胞研究の最先端で活躍しているグループ
は、ほぼ全て、ES 細胞の研究を先進的に行って経験
ことがまかり通るはずはありません。私が ES 細胞株
を積んできたグループです。
を作る研究を始めた時、それを可能にした条件は、恐
世界的には ES 細胞を使って、いくつかの病気の治験、
らく世界のほとんどの研究者も考える条件だと思いま
臨床試験が進んでいます。実用化が見えているのです。
すが、もし ES 細胞を作るために新しく受精卵を作っ
ところが、日本では同じことを iPS 細胞でやろうとし
て細胞を取り出す必要があるのなら、私も ES 細胞株
ています。しかしこれによって多能性幹細胞を用いる
の樹立は始めなかったでしょう。
再生医療において世界的な貢献ができるのかという点
日本では ES 細胞の作製に受精卵を使うことから、
は懐疑的にならざるを得ません。というのも、品質の
生命倫理的にどうなのかという問題が、情緒的、感情
安定している ES 細胞株を使って、臨床に耐え得る移
的に語られる傾向があり、ES 細胞の研究、実用が難
植用の機能細胞を作製し、治療の技術・ノウハウを完
しくなっています。しかし、生命倫理問題に厳しい意
成させ、正式な臨床試験・治験をフェーズ 1、2、3 と
見が多い米国などにおいて、ヒト ES 細胞を使った難
行って実用化するまでの技術を確立していれば、いつ
病治療の研究が大きく進んでいることに矛盾を感じて
でも元材料の多能性幹細胞を iPS 細胞に替えることが
います。
できます。多能性幹細胞を活用するための全ての技術
現在、日本の倫理規定は非常に厳しく、ES 細胞の
は同じだからです。
研究も難しくなっています。他方、世界的にはクロー
iPS 細胞が素晴らしい発見であることは、間違いな
ン胚の研究なども着々と進んでおり、2013 年には、
いのですが、ただ実用にはまだ越えるべきハードルが
アメリカ、オレゴンの大学で、世界で初めてヒトの体
いくつもあります。
細胞核移植のクローン胚由来の ES 細胞株樹立に成功
ES 細胞にせよ、iPS 細胞にせよ、多能性幹細胞は、
したとの論文が発表されました。この研究では日本の
培養下での増殖を続ける中で遺伝子の変異が起きます。
研究者が重要な役割を果たしています。手先が器用な
その時に増殖の速度に違いが生じれば、増殖が速い細
日本人は、核移植実験の技術は非常に高いのですが、
胞が増えてしまいます。ところが、増殖が速い細胞株
それを活かせる場所が過剰規制の日本になく、アメリ
には発がん遺伝子が増えていたり、あるいはがん抑制
カの成果になっているのは皮肉と言わざるを得ません。
遺伝子が減っていたりすることがあります。つまり
合理的に考えれば、年間何万個も廃棄される余剰胚
ミューテーション
(突然変異)
による発がんのリスクで
を医学の貢献に使うことが倫理に反するのかというの
す。生体内でも DNA が複製すると、わずかですが、
は疑問です。もちろん ES 細胞株樹立に使う余剰胚は、
ある確率で間違いが起きます。これがミューテーショ
5
ンです。成人の体細胞には数百という数のミューテー
ションが蓄積しているという報告がありますが、問題
多能性幹細胞は再生医療よりも新薬開発
を起こすような部分でなければ、それまで通り生体は
多能性幹細胞が最も重要な役割を果たすと思われる
維持されますし、逆にミューテーションが全く起きな
のは、再生医療よりも新薬開発の場面です。新薬を開
ければ生物の進化もありません。多能性幹細胞の場合
発しようという時に、ある病気、ある体質のゲノムを
は、実用に際して品質検査を繰り返し、細胞株の選択
持つ心臓や神経の細胞があれば、病気の仕組みの解明、
を慎重に行わなくてはなりません。
新薬のスクリーニング、あるいは、心臓、肝臓などに
いずれにせよ、iPS 細胞でも ES 細胞でも増殖させる
対する毒性、副作用などの安全性テストに用いること
過程でミューテーションが起こりますが、初期胚や卵
ができます。パーキンソン病の患者さんの神経細胞を
子、精子といった生殖系列細胞のゲノムは、次の世代
研究開発に使うことはできませんが、皮膚細胞から
にゲノムを渡すという非常に重要な役割があるからか、
iPS 細胞株を作製し、そこから神経細胞を作れば、パー
なるべく増殖を避けてゲノムを保護する酵素を高発現
キンソン病の治療薬の開発に役立てられるというのは、
しているという性質があります。したがって、初期胚
iPS 細胞の合理的で確実な活用方法です。そのような
由来の ES 細胞の場合は比較的ゲノムが正常だと考え
場面では、多少がん関連の遺伝子などに異常があって
られます。しかし皮膚などの体細胞の場合は、紫外線
も大きな問題にはなりません。そこで例えば EU では、
の影響を受けたり毒物を処理する過程などで、ミュー
各国政府、企業、大学研究機関が合同で、数千株の
テーションが起きやすい細胞です。体の中では、体細
iPS 細胞株を作って、それをパブリックリソースとし
胞としての役割を果たしていれば、多少のミューテー
て活用しようというプロジェクトがすでにスタートし
ションがあっても問題ないということなのです。しか
ています。
し iPS 細胞となった時、皮膚の細胞や肝臓の細胞とし
多能性幹細胞による再生医療での応用に関しては、
て機能していた時には問題を起こさなかったミュー
欧米など世界的には、網膜疾患や 1 型糖尿病などで、
テーションを引き継いでいる可能性があります。iPS
まずは ES 細胞を用いて治験を進めており、近い将来
細胞が持つ別のリスクとしては、分化細胞のエピゲノ
の実用化を目指しているのが現状です。他方日本では、
ムを完全に初期化できないため、メチル化などを詳細
2014 年、iPS 細胞を使って網膜色素上皮細胞を作り移
に調べると、分化細胞とも ES 細胞とも異なる DNA
植するという予備的な臨床研究が始まりました。これ
メチル化が起きていることが分かります。初期化とは
は iPS 細胞を使ったという点は世界初ですが、実用化
いえ完全に白紙には戻っておらず、分化細胞のエピゲ
という点では、多くの課題が残されています。
ノムを断片的に受け継いでしまいます。そういう意味
最も大きな問題はコストです。もしも、患者さん由
では、樹立した iPS 細胞株の品質にばらつきが出てし
来の iPS 細胞株を用いて移植する細胞を作製する場合
まうのです。
は、治療実施までに、移植に必要な細胞株の培養生産
細胞核の初期化については、核移植クローン胚でも
完全ではありません。100 個の核移植クローン胚を作
などに要する相当の期間と数千万円以上という費用が
必要になり現実的ではありません。
製して、4 割程度が着床、胚盤胞まで進んでもマウス
世界で最初に行ったということは意義のあることで
として生まれてくるのは、数匹程度で、残りはどこか
す。しかし
「実用化」
とは、多くの人が享受できる治療
の段階で遺伝子発現に異常があって流産したのだろう
であって、求められるのは手の届く治療費、安全性、
と思われます。
それに必要としている患者さんに継続して提供できる
基礎や前臨床研究ではエピゲノムが多少乱れていた
という持続可能性です。実用的にサステナブルな治療
ところで問題ないこともありますが、臨床、実用化と
法を届けることが本来、最も優先されるべき事項で
なると、やはり解決しなくてはならない問題です。
あって、そこには臨床研究とは別のスキームが求めら
れます。
6
Special Features 1
「幹細胞」
の現実と未来
■図4 培養バッグとスフェア培養したヒトES細胞
5㎝
中辻教授の研究チームと民間企業との協働
で開発した浮遊培養法による培養バッグ
。
(左)とスフェア培養したヒト ES 細胞(右)
ヒト ES 細胞株のスフェア培養を、ガス透
過性膜で作った 200㎖容量の培養バッグで
行ったところ、1 億∼ 2 億個の ES 細胞への
増殖に成功した。
例えば、網膜の治療では、1 回の移植に必要な網膜
世界を見ると、アメリカでは ES 細胞からインスリ
色素細胞数が 10 の 5 乗程度と非常に少なくて済みま
ン産生細胞を作り、それを細胞自体は通過せずインス
すが、心臓や肝臓では 10 の 9 乗程度必要と言われて
リンや血液の栄養成分だけを透過させる特殊なカプセ
います。臨床研究で使用する程度なら前者の場合は培
ルに入れて皮下に埋め込む、という手法が開発されて
養皿で作ってもまかなえますが、後者では不可能です。
います。毛細血管中のグルコースの量によってインス
さらに実用化するとなったら品質の安定した細胞を大
リンが分泌され、しかも免疫細胞は入り込まないので
量に作って供給できる体制が必要です。つまり研究と
拒絶反応も起きません。万が一、異常増殖が始まって
は異なる、高品質の細胞を低コストで大量生産する技
も、細胞がカプセル内に留まっていれば問題はありま
術や生産システムが必要なのです。
せんし、あるいは半年に 1 回取り替えるというような
多能性幹細胞を大量生産するシステム
方法も考えられるでしょう。インスリンを注射する現
私の研究チームでは、実用化に向けての技術をいく
つか開発しています。
大量に培養するには、
「皿」
で培養していては追いつ
きません。そこで細胞を培養できるガス透過性のバッ
グを企業と一緒に開発しました。培養が閉鎖系バッグ
在の 1 型糖尿病治療では、血糖値を完全にはコント
ロールできず合併症が起きるのですが、体液中の血糖
値に応じて、分泌するインスリンの量を適切に調節す
る細胞塊を血流と触れるところに置けばいい、という
細胞デバイスの考え方です。
現在、幹細胞を使った医療として確立しているのは、
の中で完結するので汚染を防ぎ、搬送も容易です。さ
厳密には白血病の骨髄移植だけです。それでも治癒率
らに、ES 細胞や iPS 細胞を平面的に接着培養するので
は 50% 程度に過ぎず、その他の間葉系幹細胞による
なく、三次元で浮遊培養することにより一度に大量の
治療などはまだ実験的な先端医療の域を出ていません。
細胞を調製することができ、実験室内で試しただけで
しかしながら、新しいタイプの多能性幹細胞の発見が
も、1 つのバッグで 10㎝シャーレ 100 枚分の幹細胞培
あったり、再生医療を可能にするための様々な新規技
養が可能でした。また、特殊な高分子を培養液に添加
術が発表されたりと、世界中で研究開発が進展してい
することで、細胞塊の沈降、融合を防いだ、新しい三
ます。ES 細胞、iPS 細胞などの幹細胞の種類にとらわ
次元の培養方法
(スフェア培養法)
を確立しました。多
れず、様々な病気の治療に各々最適な方法を探索する、
能性幹細胞を大量生産するシステムに向けた前進です。
実用化に向けた現実的な取り組みが必要なのです。
(図版提供:中辻憲夫)
7