郎君行記末尾の契丹小字と漢語訳

古代文字資料館発行『KOTONOHA』140 号(2014 年 7 月)
郎君行記末尾の契丹小字と漢語訳
吉池孝一
1. 序言
契丹小字の解読はいまだ半ばという状況にあるが、この文字の解読を原字(文字の最小表
音単位)の音の推定によって大きく前にすすめたのは、中国の清格爾泰先生と劉鳳翥先生を
中心とする契丹文字研究小組であった。このグループの成果は 1977 年にでた。解読に用い
られた主な方法は契丹小字で音写された漢語音によって契丹小字の音を決定するというも
のである。契丹小字の文章のなかには、契丹小字で音写された漢語の固有名や漢語の役職
名が思いのほか多量に含まれていた。この漢語の発音を利用して契丹小字の原字の音を推
定したのである。もっとも、この方法すなわち漢語から借用した単語を契丹文字の音の推
定に利用することは、早くは日本の山路廣明(1943)によって示されており、1958 年には厲鼎
煃氏によって借用漢語音を使用して次々と芋づる式に他の契丹小字の音価を定めていく手
法が試みられ1、1963 年にはロシアの研究者シャフクノフ氏によりある程度の成果が得られ
た2。しかしながらこの解読方法が大きな効力を発揮して期を画すような成果に繋がること
はなく、契丹文字研究小組(1977)を待たなければならなかったのである。画期的な研究と評
価された契丹文字研究小組(1977)は、増補改訂を経て、清格爾泰・劉鳳翥他(1985)『契丹小
字研究』として結実し、契丹小字研究の金字塔として広く世に問われることとなった。本
稿では清格爾泰・劉鳳翥他(1985)によって、解読の端緒が如何に開かれたかということにつ
いて確認をする。
2. 「郎君行記」末尾の契丹小字と漢語訳
清格爾泰・劉鳳翥他(1985)は、契丹小字の原字の音の推定を「郎君行記」と称される碑文
から始めた。
「郎君行記」を拓本によってみると、契丹小字文が右半分を占め、左半分には
“右譯前言”として漢語がある。“右譯前言”と言うからには、漢語が契丹小字文の翻訳である
ことは間違いない。その契丹小字文の末尾には、本文に比べて小さなサイズの文字で記さ
れた次のような一文がある。清格爾泰・劉鳳翥他(1985)はこれを解読の突破口とした。なお
下には当該契丹小字文を 2 行で示したが、原文では 1 行となっている。【 】は字間の状況
の説明。
-
-
-
-
- - -
- 【1 字空き】
- 【半字空き】 -
【2 字空き】
【1 字空き】
1
吉池孝一(2012)参照。
2
シャフクノフ(1963)は未見。契丹文字研究小組(1977)および長田夏樹(1984)にみえる内容紹
介による。
3
*
-
-などハイフン-でつながれた 2 つの原字は左右に配されていることをしめす。
以上は契丹小字文である。この契丹小字文に対応する漢語訳の末尾にも小さなサイズの漢
字の一文がある。以下に示す。これが上記の小さなサイズの契丹小字を漢語に翻訳した部
分であることは一目で瞭然となっている。
尚書職方郎中黄應期/【改行】
【 空き
】宥州刺史王圭从行奉【空き】命題
*意味は“尚書職方郎中の黄應期と宥州刺史の王圭が従行し命を奉じて題す”となる。
さてここで、先に挙げた小さなサイズで書かれた契丹小字の一文を丹念にみると、
・・・・・
-
という繋がりが次のように 2 箇所に出てくることがわかる。
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
【1 字空き】
-
【2 字空き】
- - - 【半字空き】 【1 字空き】
この 2 箇所に重複して現れる
・・・・・
が漢語訳の何に相当するかという
ことが問題となる。漢語訳をみると“从行奉命題 従行し命を奉じて題す”は“黄應期”と“王
圭”の 2 人にかかっている。そうであるならば、
-
・・・・・
行奉命題”に相当するはずであり、それ以外の下線部分の
と
は漢語訳の“从
は職名と人名より
なる「尚書職方郎中(以上職名)黄應期(以上人名)」と「宥州刺史(以上職名)王圭(以上人名)」に相当
すると推測をすることができる。もっとも 2 つの職名・人名の漢語訳のいずれが契丹小字
文のいずれに相当するかということについては、更なる検討の後に判明する。
以上の基本的な推測については、清格爾泰・劉鳳翥他(1985)に明示されていないけれども、
このような事実は誰の目からも明らかであり、同書で行われた原字の音の推定作業の前提
となっているはずである。次に清格爾泰・劉鳳翥他(1985)の当該部分を確認する。
3. 清格爾泰・劉鳳翥他(1985)
清格爾泰・劉鳳翥他(1985)には次のようにある。
「郎君行記」の末行の末字は
末行の末字もまた
となっている。
「故耶律氏銘文」と「粛仲恭墓誌」の
とする。これを「郎君行記」の漢文と結びつけることによって、
王静如氏がこの字を訳して“書写”とした見方(
『考古』1973 年第 5 期 311 頁参照)の
正しかったことを証することができる。
「郎君行記」では、
文字を
-
- - -
-
- - -
の前に出てくる一群の
とする。漢文の様式によると、
に隣接した部分は人名のはずであり、「郎君行記」を書いたのは王圭と黄應期の2人で
ある。そうであるならば、この一群の契丹文字のなかで取り上げたのは 2 人の名であ
ろうかそれとも 1 人の名であろうか。もしも 1 人であるとしたならば王圭であろうか
それとも黄應期であろうか。
「郎君行記」末行の第 5 字【ママ】も
4
であることから、
2 人の名は一緒に置いてはないということを見て取ることができる。先に推定したよう
に
- -
の音価を huang とすること、山路廣明氏が
こから析出した
として
-
を宣懿と解釈し併せてそ
の音を i とすること(
『契丹語の研究』第 1 輯,1951 年油印本)を根拠
-
を黄應期の音写であるとしたならば、第 1 番目の字と最後の字の末
尾の音はちょうどうまい具合に我々が既に知っている音と符合することになる。漢文
中の黄應期の役職は尚書職方郎中であり、
【尚書職方郎中という役職名の】第 1 字目と
-
第 4 字目と第 5 字目の韻母は ang である。契丹小字の
第 1 と第 5 字の末尾の原字はちょうどうまい具合に
-
-
- - -
- - -
-
とする。これで
の
- -
を尚書職方郎中黄應期の音写とする可能性は一段と増すの
3
である 。
上に挙げた文章の検討に入る前に二点ほど確認をしておきたいことがある。一点目は上
に挙げた文章中の「
「郎君行記」末行の第 5 字【ママ】も
であることから」の「第 5 字」
は誤りで「第 11 字」とすべきである。清格爾泰・劉鳳翥他(1985)が基づいた契丹文字研究
小組(1977)も「第 5 字」としているだけでなく、その後に契丹文字研究小組(1977)を転載し
た諸資料も未訂正のままであるので注意が必要である。二点目は、
「郎君行記」末行の
-
-
を黄應期の音写とするのは早くは山路廣明(1956)に見えるということである。
さて、清格爾泰・劉鳳翥他(1985)は、
-
-
ang-
を役職名の尚書職方郎中の音写として、 sh
zh
ung-
ing-
huang-
q
-
の直前の
sh
u-
- - zhi- fang- l
ang-
i というように原字の音を推定した。
sh と
sh
が同音となるなど課題もあるが、この推定は的を射たものであり、あとは遼代の漢語音と
して修正を加えればよいというものである。これを清格爾泰・劉鳳翥他(1985)は、漢語音を
-
利用した契丹小字の原字音の推定の端緒とした。しかしながら、
- - -
-
を尚書職方郎中の音写として見定めた経緯については前出の文章によるかぎり明瞭で
はない。すなわち、
3
-
・・・・・
の間にある
-
-
- - -
“ 《郎君行记》末行末字为「
」
。
《故耶律氏铭石》和《萧仲恭墓志》末行末字亦作「
」,结合《郎君行记》的汉文,证明王静如把该字译为「书写」的意见是对的(见《考古》
一九七三年第五期,三一一页)
。
《郎君行记》中「
-
-
-
」字上面的一段字为「
- -
- - -
」。据汉文款式,靠近「
」字的应为人名。汉字部分说,题写
《郎君行记》的为「王圭」和「黄应期」二人。那么这段契丹字里提到的是两个人的名字还
是一个人的名字呢?如果是一个人的名字,那么是「王圭」呢,还是「黄应期」呢?从《郎
君行记》末行第五字也是「
值为「huang」和山路广明释「
」看,两个人名没有放在一起。根据上面推定的「
- -
」为「宣懿」,并从中析出的「
」字的音
」的音值「i」
(见《契丹语之研究》第一辑,一九五一年油印本)
,倘若「 - 」为「黄应期」的音
译,则第一个字和末一个字的尾音恰好与已知的音值相符。汉文中「黄应期」的官衔为「尚
书职方郎中」
,第一、四、五字的韵母都是「ang」
。契丹小字「
」的第一和第五字的字末原字恰好也均作「
- - -
」。这更增加了「
-
- - - - -
」是「尚书职方郎中黄应期」的音译的可能性。
”
(58 頁)
5
-
- - - -
のうち、
-
-
を黄應期の音写としたならば、
-
-
-
の中に役職名の尚書職方郎中があるということになる。ここまでは良い。
しかしながら、役職名が漢語を音写したものか或いは契丹語であるか、それとも両者の混
合であるか、3 つの可能性のいずれであるか分からない。第 2 番目と第 6 番目に
があるけ
れども、これだけでは 3 つの可能性のいずれであるか判断はつかないはずである。漢語を
音写したものという判断の拠り所は他にあったと私は考える。
4. 漢語役職名の契丹小字による音写
-
-
- - -
-
の中に役職名の尚書職方郎中があるということにな
るが、役職名が漢語を音写したものか或いは契丹語であるか、それとも両者の混合である
か、3 つの可能性のいずれであるかを、清格爾泰・劉鳳翥他(1985)は何らかの拠り所により
見定めたはずであるがそれを明示しない。思うに、その拠り所は
う。
-
の
であろ
の音は小林行雄・山崎忠・長田夏樹(1953)で la とされ、シャフクノフ(1963)で l とさ
れている。 が l という音であることを認めるならば、
は l であり
-
-
-
は ang であると推定することができる。次いで、
- - -
-
の第 2 番目の文字
は郎中の音写であり、
を ang としてよいならば、
を尚書の尚 shang の音写とする
- であるが、契丹小字の原字は1音節もしくは1子音を表すと想
定することができるから、漢語の職方の音写に相当するとしてよい。これで
- - のうち、第 2 字目以降の
- - を漢語の尚書
こともできる。最後に
職方郎中の音写としてよいことになる。
5. 結語
清格爾泰・劉鳳翥他(1985)は、①“漢語を音写した例”により契丹原字の音を推定し、②
次いで他の“漢語を音写した例”により推定音の是非を検証するとともに、③検証した音を
別の“漢語を音写した例”と思われるものに応用する。このようにして、芋づる式に音を解
明した原字の数を増やしていくわけであるが、
“漢語を音写した例”であるか否かの認定に
おいては、先人の精粗様々な研究成果を利用したことを見て取ることができる。
それとともに、
-
- - -
-
が尚書職方郎中の音写であるという例によ
り、契丹小字文の中には固有名以外の職名においても、思いのほか広範囲に渡って漢語の
音写がなされていることを認識することとなったはずであり、漢語音を利用するという解
読方法を徹底して推し進める契機ともなったと想像する。
【参考文献(発行年順)】
金毓黻編録(1934)『遼陵石刻集録』(上冊)奉天圖書館。
山路広明(1943)「契丹大字考」『浮田和民博士記念 史學論文集』(早稲田大学史学会編纂)東
6
京:六甲書房,313-322 頁。
小林行雄・山崎忠・長田夏樹(1953)「接尾語として用いられた契丹文字の類別表(1)(2)」『慶
陵 東モンゴリアにおける遼代帝王陵とその壁畫に關する考古學的調査報告』(上巻本文
册) 田村實造・小林行雄著,京都大學文學部 座右寶刊行会。
山路広明(1956)『契丹製字の研究』東京:アジヤ・アフリカ言語研究室。
厲鼎煃(1958)「《漢語拼音方案》帮助了我考釋契丹文字」,『語文知識』第 72 期 1958 年 4
月号,41-42 頁。
中国社会科学院民族研究所・内蒙古大学蒙古語文研究室契丹文字研究小組(1977)「關于契丹
小字研究」『内蒙古大学学報』1977 年第 4 期契丹小字研究専号。
長田夏樹(1984)「契丹語解読方法論序説」
『内陸アジア言語の研究Ⅰ』神戸市外国語大学,1-49
頁。
清格爾泰・劉鳳翥・陳乃雄・于宝麟・邢復礼(1985)『契丹小字研究』北京:中国社会科学出版
社。
吉池孝一(2012)「厲氏 1958 年の契丹小字研究―漢語音を利用した先駆的研究として―」
『KOTONOHA』(古代文字資料館)第 120 号,1-5 頁。
*本稿は平成 25 年-平成 27 年度科学研究費助成事業基盤研究(C)課題番号 25370488「遼金
元清文字資料の研究―電子データ化を中心として―」の助成による成果の一部である。
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