『言国卿記』文亀元年五月十七日の記事を読む

『言国卿記』文亀元年五月十七日の記事を読む
―「葦曳御絵」
、
「諸職人絵」をめぐって―
藤田紗樹
はじめに
本報告では、室町時代の公家山科言国(1452-1503)の日記『言国卿記』の文亀元年
(1501)五月十七日条に登場する「葦曳御絵」、「諸職人絵」という二つの絵巻について、
現存作例や史料上の作品との関連を考察する。記事の内容は、禁裏に所蔵される両絵巻を
後柏原天皇(1464-1526)が室町幕府十一代将軍足利義澄(1480-1511)に貸し出すのに際
して、絵巻の外題を新調したというものである。
「葦曳御絵」は稚児と僧侶の恋愛譚を描
いた絵巻である「あしびき絵」を、
「諸職人絵」は貴族が職人に仮託して詠んだ和歌を歌
合の形式にした「職人歌合絵巻」を指していると考えられるが、両絵巻の先行研究におい
て本史料に言及しているものはなく、新史料として注目される。
「あしびき絵」と「職人歌合絵巻」の概要
「あしびき絵」は、室町時代を通して公家や武家、寺院社会で享受された絵巻であり、
『看聞日記』
、
『御湯殿上日記』
、
『実隆公記』、
『後奈良天皇宸記』、
『寛政重修諸家譜』とい
う五つの史料に登場することが先学によって明らかにされている。現存する「あしびき
絵」は逸翁美術館所蔵の絵巻のみであるが、現存本とそれぞれの史料に登場する「あしび
き絵」の関係性は明らかでない。『看聞日記』には二つの「あしびき絵」が登場し、一つ
は粟田口隆光という絵師によって描かれたもの、もう一方は隆光本を後花園天皇(14191470)が模写したものであるが、現存本は両者の画風とは異なり、加えて料紙が非常に薄
いことから、敷き写しの手法で制作された可能性が梅津次郎(1939)によって指摘されて
いる。以上のことからは、複数の「あしびき絵」が制作されたことが想定できる。「職人
歌合絵巻」は、現在五作品が伝来しており、室町時代制作のものには「三十二番職人歌合
絵巻」と「七十一番職人歌合絵巻」がある。いずれも原本は紛失しており模本のみが伝わ
る。
研究の目的
発表者は、中世宮廷社会における絵巻の制作、享受のあり方に関心を抱いており、現在は
「あしびき絵」に着目して研究を行っている。ゆえに、本史料の解読は今後の研究に不可
欠なものである。また、足利将軍家がその権威や正統性を主張するための文化政策の一環
として、絵巻の制作およびコレクションの形成を行っていたことが高岸輝(2004,2008)に
よって指摘されている。その活動の中で、天皇と将軍間において絵巻の貸借が行われてお
り、室町時代の公家の日記にはその様子が散見される。本報告で取り上げる『言国卿記』
の記事は、その一端を明らかにするものとして、さらには「あしびき絵」、
「職人歌合絵
巻」の研究を行う上で注目すべきものである。そのため、本史料を読み解き、記事に登場
する絵巻と現存および史料上の絵巻との関連性を考察し、今後の研究の一助としたい。
考察
「諸職人絵」は「三十二番職人歌合絵巻」あるいは「七十一番職人歌合絵巻」の原本を指
していると考えられる。両絵巻の制作時期について明確に示す史料は見当たらないが、
「七十一番歌合絵巻」が明応九年(1500)末~文亀元年(1501)初頭の制作である可能性
が岩崎佳枝(1987)によって指摘されている。「諸職人絵」は文亀元年に貸し出されてい
ることから、おそらく完成して間もない両絵巻のいずれか、あるいは二本ともが貸し出さ
れたものと推測される。また、
「葦曳御絵」は後花園天皇による模写本を指していると考
えられる。
「御絵」とは、単に将軍や皇族などの高位の人物が所有している作品を指す場
合もあるが、記事の前後の文脈からは「諸職人絵」も禁裏に所蔵されていたことが判明
し、
「葦曳御絵」の一方のみに「御絵」という表記を用いていることから、ここでは高位
の人物の所有であることを示すのではなく、天皇宸筆の意味で「御絵」としていると考え
られる。以上のことから、
『言国卿記』の記事は、
「あしびき絵」の後花園天皇による模
本、そして「三十二番職人歌合絵巻」あるいは「七十一番職人歌合絵巻」が、後柏原天皇
から足利義澄へ貸し出されたことを示すものとして読み解けると考える。
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