中 央 情 報 通 信 社

発行日 毎月15日
大日本生産党機関紙
第1321号 平成27年7月15日
7 月 号
「日韓五十年」から未来は見通せるか ………………………………………1
法輪功に関する考察 ……………………………………………………………2
潜入?レポート
「南北統一」の広告塔女性が訴える狙い ……………………………………3
七三一部隊「中国人生体解剖」の嘘が暴かれた …………………………5
中国が「民用船軍事転用」を通達 ……………………………………………6
新 連 載
或る運動者の回想録〈第1回〉…………………………丹 野 寛 親………6
本部、地方本部活動報告 …………………………………………………………9
発 行 所
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中 央 情 報 通 信 社
主幹/杉 山 清 一 編集長/谷 田 透
﹁日韓五十年﹂から未来は見通せるか
本紙編集部
去 る 六 月 二 十 二 日、東 京 と ソ ウ ル で﹁日 韓 国 交 正 常 化 五 十 周 年﹂の 式 典 が 開 か れ、
安倍首相と朴槿恵大統領がスピーチした。内容的に取り上げる部分は少ないが、現在
の韓国が置かれている状況が﹁過去の姿と類似﹂していることが重要なポイントであ
る。
朴正煕大統領は元日本軍人の高木正雄︵写真︶だが、彼はアメリカと日本に配慮し
て共存共栄することこそ韓国の生存保障だということを知っていた。ただし、韓国の
民族性はメンツを重んじる処にあるため、それに対する配慮はアメリカと日本の義務
だ と 訴 え て い た。朴 正 煕 は 顧 問 団 と し て 旧 日 本 軍
の 士 官 学 校 同 窓 を 多 数 招 聘 し、日 本 と 韓 国 の 外 交
関 係 を 永 続 さ せ る 秘 訣 と し て、親 密・険 悪 を 五 年
周期で繰り返す戦術を採用したと考えられている。
微 妙 な バ ラ ン ス と 緊 張 感 が、両 国 の 間 に は 重 要 な
要素だと心得ていたのである。
今 で も 両 国 に は、相 手 国 お よ び 相 手 民 族 を 嫌 悪
す る 感 情 が 根 強 く 存 在 す る が、そ れ が 世 論 に 対 し
て の 比 率 を 一〇% 未 満 程 度 に 抑 制 す れ ば﹁親 密﹂に な り、四〇% を 超 え れ ば﹁険 悪﹂
になるようだ。そのきっかけは比較的単純な理由しかない場合が多く、アメリカに言
わせれば﹁近親憎悪に近い﹂と見えるらしい。
朴正煕の時代にも、アメリカ国務省が調整役をしていたのだが、﹁日本が兄なのだ
から、兄弟喧嘩は兄が折れるように﹂ということで、椎名悦三郎の謝罪談話で韓国の
メンツを立て、その後は宮沢談話・河野談話・村山談話・小泉談話と定期的に﹁韓国
のメンツ立て﹂が続けられた。そのうちに、日韓両国の政治家たちの質が低下したのか、
昭和二十八年当時の両国政府やアメリカ国務省の苦心が理解出来なくなったようだ。
﹁韓国のメンツ立て﹂という安物の芝居が持つ意味合いに、政治的な重要性を求め始
めたのである。
我が国が戦後復興した頃、アメリカは朝鮮戦争に参戦して疲労困憊し、吉田茂に対
し て ﹁憲 法 改 正 ・ 軍 備 復 活﹂ を 申 し 入 れ た。ア メ リ カ 軍 に 協 力 さ せ る た め で あ る。
その時、吉田は﹁日本は未だ発展途上に在る。経済活動が順調になればアメリカの要
望に応えることが出来るので、今は経済活動に専念して戦後復興が完全なものになれ
るようアメリカの支援を望む﹂と言って、上手にやり過ごしたのである。これはある
種の﹁政治テクニック﹂だが、裏の意味が理解出来ない後続の政治家たちが﹁吉田ド
クトリン﹂ともてはやしつつ、表面的な事象を政争の具としたのである。それに巻き
込まれて国論は二分し、賛否や善悪に意見対立したのである。
さて朴正煕と岸信介は相互信頼関係にあったが、両国は﹁反共﹂の世論を喚起して
ソ連や中共の思想的侵略を防ぐことで一致し、朴正煕がキリスト教の反共牧師として
1
日本で運動させるように紹介したのが文鮮明であり、反共運動の資金作りを依頼する
ために岸信介が文に紹介したのが笹川良一である。それで始まったのが﹁勝共連合﹂
であった。
現 在 の 韓 国 世 論 は、財 閥 系 の 不 祥 事 に 我 慢 の 限 界 が 近 いところへ、MERS騒ぎ
で自虐的﹁鬱状態﹂に陥り始めている。上海でのアジア芸能フェスティバルに中国政
府は﹁韓国人の芸能人は入国禁止﹂だと決めたことで、韓国世論は中国に対して一気
に 反 感・嫌 悪 を 強 め て い る。﹁鬱 病﹂が 逆 噴 射 し そ う な 状 況 に な っ て き た の だ。ア メ
リカや日本と険悪な上に、中国とも険悪になれば、韓国は完全に孤立して崩壊すると
いう危機感が、反政府運動・政府転覆運動に結びつく危険性が出て来ているようだ。
国教はキリスト教の韓国だが、儀式や儀礼はすべて儒教式で行なわれる。この儒教
式を受け入れている者を﹁保守派﹂
﹁右翼﹂と見ているが、それらが政権を支えている。
それらが政権に後ろから圧力をかけ続けているのが韓国政界の姿である。儒教式に反
対 す る 者 や 自 由 主 義 者 を﹁革 新 派﹂﹁左 翼﹂と 呼 び、 南 北 統 一 を 選 択 す る 者 は﹁危
険分子﹂と呼ばれる。
我が国で神道式の儀式や儀礼に賛同する者は﹁保守派﹂や﹁右翼﹂とアジア諸国で
見られているのと同様の価値観的なことが、世界中どこにでも存在しているのである。
そうして考える時﹁日韓五十年﹂から未来を見れば、両国の国民世論の成熟度が上
がらねば、単純な問題で﹁親密・険悪﹂を繰り返すだけになり、国民世論が成熟しな
ければ﹁適当に都合良く付き合える﹂関係にはなれないだろう。
韓国は昔から﹁事大主義﹂の国であり、支那の﹁科挙﹂を受け入れていた国だとい
うことを理解しておかねば、百済と新羅の争いや朝鮮通信使の交流などの背景を錯覚
してしまう。
日韓両国が、お互いに﹁都合の良い友人﹂の関係になれれば、大陸支那の野望も防
ぐことが出来る。日韓の未来は、この一点にかかっている。
法輪功 に関する考察
日本の保守陣営に深く食い込んでいる中国人の気功集団﹁法輪功﹂は、聞くところ
では吉林省の朝鮮族出身の李洪志︵写真︶が始めたもので、その信者︵学習者と称する︶
は世界中にいる朝鮮族の中国人が大半であるとのこと。江沢民を指導していると宣伝
したために、江沢民政権から弾圧を受けて、教祖も幹部信者もアメリカに亡命した。
彼らは当初、中国共産党に対する﹁人権弾圧﹂を批判する材料としてCIAの庇護
の資金援助を受けていたと言われているが、テレビ局や新聞などのメディアを運営す
る よ う に な っ て﹁反 共 宣 伝﹂の 組 織 と な り、CIAが 切 り 捨 て た 頃 か ら ア メ リ カ の 金
融界が支援し始めたと噂されている。
﹁法輪功信者の臓器狩り﹂﹁中国共産党の離党者が数千万人﹂などという東京スポー
ツ新聞みたいな与太記事の大宣伝を続け、紙面では江沢民だけを悪魔のように罵って
いるが、問題の習近平に関してはひと言の文句も言わないという不思議な集団である。
最近では、北京の裁判所に﹁江沢民に対する告訴状﹂を提出し続けているのだが、そ
2
れがアメリカやオーストラリアから信者が郵送するという非常識なものとなっている。
さて、アメリカ国内の分析家の間で言われていることだが、法輪功は温家宝に利用
され、国務院と近い関係にあったようだ。その温家宝の一族は資産をアメリカに移し、
しかも総べてJ Pモルガンに預けている。一族の者も数人J Pモルガンの社員となっ
ている。そのJ Pモルガンが現在、法輪功のスポンサーになっていると言われている
のだ。
温家宝と江沢民の仲の悪さは有名で、その江沢民と華
僑の頂点の李嘉誠が仲良しであることも有名である。李
嘉誠の行動を見ていれば中国がわかると言われている
が、彼は習近平が政権に坐ると同時に大陸や香港に所有
していた資産を処分し、その資金をすべてロンドンのイ
ングランド銀行に預けた。つまり、鄧小平・江沢民・李嘉誠のラインは﹁イングラン
ド銀行系﹂だという意味である。温家宝・法輪功・習近平のラインは﹁J Pモルガン
銀行系﹂だということかもしれない。これはロンドンとニューヨークによる﹁中国覇
権争奪戦﹂の一局面なのかもしれない。
ここで問題は、国務長官としてアメリカと中国を結びつけたキッシンジャーの存在
である。キッシンジャーは中国のどのラインと親しかったのかという分析が、そろそ
ろネットで飛び交い始めているが、キッシンジャーやロックフェラーと親しい人脈が、
香港自由化を端緒として支配を強めようとするイングランド銀行勢力に﹁待った﹂を
かけているのが現状ではないかと見られている。今年の香港デモの際に、民主化学生
たちにトイレを使わせたり飲料水を供給していたのは香港上海銀行︵イングランド銀
行系︶だった。
ニューヨークのモルガン銀行やチェースマンハッタン銀行などのロックフェラー系
は、キッシンジャーが結んだ中国人脈を﹁北京からの締め付け強化﹂という方向性で
使い始めているようだ。
﹁法 輪 功 に は、な ぜ あ れ 程 の 資 金 力 が あ る の か﹂と い う 疑 問 は、中 共 国 務 院 や 中 共
中央宣伝部との関係性にポイントがあると思われていたが、どうやら本命はJ Pモル
ガンにあるようだ。
中国の支配権を西欧列強が求めて、清朝末期に大陸各所に拠点を置き、地方軍閥を
利用して権益拡大してきた二百年来の侵略統治の戦術が、今また繰り返されると思わ
れる。
あの時代、我が国がどのような状況で、どのような経緯を辿り、どのような結末に
至ったかを再考する必要があるだろう。日本にとって中国および中国人は﹁底なし沼﹂
のように危険である。
潜入
︵?︶
女
﹁南北統一﹂の広告塔
性が訴える狙い
レポート
北朝鮮と韓国の民族統一はかなり以前から語られていたが、金大中と金正日の劇的
合意︵六・一五共同宣言︶からは後退を続けている。韓国は政権が代わる度毎に方針
李洪志
3
も変わり、以前の政権が合意していた内容も平気で覆す。北朝鮮はと言えば、約束はほ
とんど効力を持たない。いずれにしても、
半島の南北は﹁相互信頼﹂が皆無の民族である。
今年は﹁六・一五共同宣言﹂から十五周年を記念して、
我が国内で全国的に﹁南北統一﹂
講演会が開催されているが、それは朝鮮総連が主催しているものに限られている。つま
り、韓国側︵民団︶は望んでいないという意味である。
朝鮮総連は、韓国人のシン・ウンミという女性︵写真右から二番目/アメリカ在住︶
を広告塔として、東京・横浜・京都・大阪・神戸などで講演会を続けている。そこで彼
女が訴えていることは、子供の頃から韓国では北朝鮮を悪魔の国であり、そこの国民は
飢え死に寸前だというものだったという話から始まり、北朝鮮を実際に訪問してみると
実態は全く違っていた と
…いう内容である。
彼女は、民族は南北とも同じであり、愛情も同じであると強調する。それは正論では
あるだろう。政治的な対立が国民教育︵洗脳︶に反映され、
不必要な民族対立を生み出し、相手を殲滅することを目
的とするような卑しい感情に支配されることは避けねば
ならない。しかし、相手を﹁自分たちと全く同じ﹂だと
考 え て﹁全 て 受 け 入 れ る﹂と い う の は 具 の 骨 頂 で あ る。
そのような優しさにつけ込むのが﹁政治﹂なのである。
彼女の講演会は、在日で、しかも事前に申し込んだ者
しか参加できない。日本人はマスコミであっても参加は
拒否される。理由は不明だが、講演会は韓国語だけで行
なわれる。在日で韓国語の分からない者も多いが、シン・
ウンミが韓国語しか話せないのだから仕方がない。
講 演 会 の 内 容 を 紹 介 し て も 無 意 味 な の で 省 略 す る が、
重要なことは、果たして在日社会にとっての﹁南北民族
統一﹂という意味は何かということだ。
在日は既に四世の時代に入っている。商売の関係、親
の遺言、頑固な敵愾心の者を除いて、在日に南北は無意
味な時代である。既に﹁在日﹂という一つの新しい民族
が完成されており、混血し融け込むことを望めば、いつ
でも﹁血消る︵ちげる︶
﹂ことが出来る﹁観念的民族﹂に変貌している。要するに、当
事者が日本国民であることを望めば、在日社会からは脱皮することが許されている。そ
れでも過去の同和運動のように、融け込んでいる者を引き込むために、出自をことさら
強調して逃がさないようにする卑劣も存在する。
さて、シン・ウンミの南北統一講演会を主催する朝鮮総連の幹部に対して、重要な質
これまで、こ
問をぶつけてみた。
﹁南北統一は日本にとってメリットがあるのか?﹂ …
の質問に誰も自信をもって答えてはくれなかった。しかし某幹部は突然の想定外の質問
に驚きながらも﹁一つだけ日本にメリットがあるのは安全保障の問題です。隣の半島が
南北に分裂して敵対する不安定がなくなれば、経済活動がやり易くなるでしょう﹂と微
笑んでいた。
4
七七三一部隊
の嘘が暴かれた
国民党と中国共産党が声を揃えて訴えていた﹁日本軍七三一部隊の中国人生体解剖﹂
というのは、証拠写真だとするものが妙に説得力を持っていた為か、長年に亘りしばし
ば論争が繰り返されてきた。森村誠一の﹁悪魔の飽食﹂に使用された写真や証人のほら
話で新聞騒動になった事件を覚えておられる人も多いことだろう。
ところが五月十四日に突然、中国のネットに中国人歴史学者がこの写真の分析を発表
したのである。それによって今、習近平政権に激震が走っている。
本﹁中央情報通信﹂読者の多くは、一度はこの写真を何かの本や資料で目にされたこ
とがあることだろう。外科医のような人物が検死台の上
に横たわる惨殺死体を点検しているように見える白黒写
真である。この写真を、台湾も中共も﹁七三一部隊の人
体解剖実験﹂だと非難してきた。
今回の中国人歴史学者は、写真を鮮明に処理して足許
に注目したのである。その死体は﹁足袋﹂を履いている。
一九二〇年代の中国人で、足袋を履いていた者など皆無
だと断定できる。
歴史学者が分析したところ、この写真は一九二八年五
月に国民党軍の蒋介石が﹁北伐﹂を進めた時に、済南に
居住していた日本人の一般人たちが蒋介石軍によって大
虐殺された遺体を、日本軍の軍医が検死している時の記
録写真だということが判明したのである。
自分たちの犯した蛮行を﹁全て日本軍の仕業﹂だと訴えるのは、中共も国民党も同じ
で﹁支那人の習性﹂がなせることである。カニは自らの甲羅に似せて穴を掘るというが、
自分たちがやるのだから相手もやるに違いないという論法で、プロパガンダは形成され
ているのである。
人種や民族をステレオタイプで見るのは問題だという意見もあるが、例えば、日本人
は几帳面、ドイツ人は頑固、イタリア人は遊び人、ギリシャ人は怠け者 な
…どという聞
き慣れた軽口を考えれば、あながち的外れでもなさそうだ。ステレオタイプとは、ざっ
くりと言い表わす平均値なのかもしれない。
そうして考えれば、支那人は嘘つきという概略があり、それを細かく見ると、四川人
は狡猾、福建人は泥棒、潮州人は乱暴、三江人は金が全て な
…どというステレオタイプ
が出来上がる。
ステレオタイプは小話や悪い意味で使用することが多いのだが、我々日本人を外国人
が見たステレオタイプには、
﹁日本人は騙しやすい﹂
﹁日本人ははっきり主張しない﹂
﹁日
本人は穏健にすませることを望む﹂などが挙げられよう。これは改善の余地があるもの
で、我々日本人が今後の国際社会で政治的に立ち回る上で心得ておかねばならないこと
は確かだと思う。
5
﹁
中
国
人
生
体
解
剖
﹂
丹 野 寛 親
第
一
回
︶
6
中国が﹁民用船軍事転用﹂を通達
六月四日に習近平の命令で、国家交通戦備事務室・解放軍交通運輸事務室などが中心
となって、民用船を軍事転用する設計や徴用の規定を作った。
﹁新造民船貫徹国防要求
技術標準﹂という名称で、一三〇人の専門家が集められて訓練がスタートしている。
習近平の命令の中には、当然﹁漁船の武装化﹂も含まれており、六月十一日には武装
漁船団が尖閣諸島海域に現われ、勝手放題に密漁している。
中国の漁獲量は、
EU委員会の試算では年間四六〇万トンだが、中国政府が国連に報
告しているのは年間三十六万トンほどである。つまり、年間四〇〇万トン以上が密漁と
いうことになる。
インドネシア海軍は、中国の武装漁船団を拿捕して、その漁
船を爆破沈没させた。無視して穏便に済まそうとしているのは、
世界中でどうやら日本だけのようだ。
﹁解放軍報﹂は六月八日に﹁民用船を軍事転用する訓練﹂を実
施したことを発表した。二万トンの客船に瀋陽軍区の空軍兵士
と武器弾薬を満載し、韓国や日本の周辺海域を回ってから華南
の軍港に到着している。六月十一日には、大型コンテナ船に戦
車を満載して運搬する訓練も行なわれている。
中国海軍の軍艦は、手抜き工事や設計ミスによって使い物に
ならないことは周知の事実であり、この民用船の軍事転用とい
うのは苦肉の策と受け取れる。しかし、
なぜ周辺国を軍事的に挑発することを急ぐのか?
これは習近平政権の孤立化が深刻になり、中共崩壊の足音が聞こえ始めたことの裏返
しと見ることが出来る。いよいよ瀬戸際に追い詰められた習近平が、潔く降参する確率
は低い。最後に形勢逆転の一発勝負を狙うのが﹁支那人の民族性﹂であることを承知し
ておかねば、平和ボケの日本政界が後手を踏むことになるだろう。
或
る
運
動
者
の
回
想
録
︵
今月号より﹁或る運動者の回想録﹂と題して、私の入党以来現在に至るまでの、様々
な記憶を回想しながら党生活を振り返りたいと思う。内容に関しては、多少記憶違い
もあるかもしれないのでご寛恕願いたい。
この回想録は、今後しばらく連載として続けるよう考えており、私の次は杉山党首
代行へとお願いする予定である。是非この機会に全国の同志諸兄も、編集部から指名
が来たときにはぜひ寄稿して頂きたいと思う。
◇
私の入党した時期は、昭和五十七年の春頃だったと記憶する。当時は某保険会社の
社員で、入社間もない頃であったと思うが、採用されたあと静岡県南箱根で約一カ月
余りの社員研修があり、その後、佐賀支店に所属することになった。
新連載
7
ある時、損害センターの上司から示談交渉への同席を命じられたものの、気が進ま
ず何かと理由を言っては免れていたが、遂に自分一人で行かされる事となってしまっ
た。その担当した事故の案件が右翼団体であった。
今振り返ると、これが大日本生産党との出会いであった。
先輩や同僚からは情報として雑音は聞かされていたので、半分やけくそで指定され
た事務所を訪ねてみた。
ま ず 雑 音 通 り に 玄 関 に 出 迎 え て き た の は、坊 主 頭 の 厳 つ い 男 で﹁な ん や ー、誰 や、
何の用や﹂と凄んでくる。一瞬、いや間違えましたと言いそうになるも、気をとり直し
て﹁○○保 険 会 社 の 者 で す。△△さ ん の 示 談 交 渉 に 参 り ま し た﹂と 答 え る。す る と そ
の坊主頭、どでかい声で﹁オヤジー、保険屋が来ました﹂と三軒隣まで聞こえるほど
の勢いで吠えるので、私は思わず玄関の外に逃げ出しそうになった。そのまま直立不
動でいると、これまた三好清海入道みたいな大柄な﹁オヤジ﹂と呼ばれた男が出てき
て﹁お う 上 が れ﹂と 奥 の 部 屋 へ 通 さ れ る。黒 板 張 り に 正 座 し て 暫 く 周 り を 見 渡 す と、
壁に今上天皇と書かれた掛け軸や、尊皇攘夷・達磨絵・黒竜画など多く掛けられていた。
何
仕事とはいえ、とんでもない所に来てしまった …
とか適当に話して、この場を切り抜けようと考えてい
た。このオヤジと呼ばれる人こそ、当時の佐賀城東支
泰 彦 氏 だ っ た。岑 氏 は 約 四 年 前 に
部 長 で あ る 岑︵みね︶
他 界 さ れ た が、本 当 に 良 く も 悪 く も 國 想 い、党 想 い、
人想いの面白い人であった。話を戻すが、この日、適当
に話した事から、その後事務所通いになろうとは露知
らず、それどころか後日入党するきっかけとなった。
ある日のこと岑氏から﹁丹野君よ天皇陛下とは何か?﹂と聞かれたので、私は﹁日
本の歴史的象徴な方ですかね?﹂と答えた。当時の私の知識で、自然に考えるままに
答えたのだ。
すると﹁いやそうではない、天皇とは國の父親であり皇后は母親である﹂と真顔で
とそう思った。そ
言われると、なるほど納得ではないが、そういう考えもあるのか …
れからが天皇の歴史やら古事記の話、明治・大正・昭和の近代日本史について、業務
時間など忘れて俄然、談義に熱が入り始めるのである。
数回ほど事務所に出向き、見かけの割には國・天皇
陛下・古事記・歴史観をよく話す岑氏の人柄に、私は
興味を持ち始めていた。そんな私の個人的事情を知ら
ぬ 上 司 か ら は、﹁ど う だ ね 示 談 交 渉 は?話 は で き そ う
かね﹂と、そ ろ そ ろ 堪 り か ね て 、 ど う せ 報 告 書 す ら 書
けないだろうと思われていたようだ。
これに対し私は﹁そうですね、もう暫く対談してみます﹂と、上司の予想とは相反
する答えに、不思議そうな面持ちで見られていたことと思う。
それから他の仕事は後回しにして、何かと岑氏の事務所に立ち寄り右翼思想談議を
聞くようになり、それまでの雑音とは違った価値観に聞き入ってしまった。だが、こ
。
れから後、人間煩悩を津波のような勢いで見せつけられていくことになろうとは …
中央が岑泰彦氏、左は堤 現・九州本部長、
右が筆者
先に人間煩悩と書いたが、岑氏の他力本願が炸裂し始めたのは、この頃からだった
ろうか、何かにつけては呼び出されるようになったのだ。当時は連絡形態というと会
社から持たされたポケットベルの時代なので、度々ピーピーと呼び出しベルが鳴る。
会 社 に 電 話 す る と﹁岑 事 務 所 へ 電 話 し て く だ さ い﹂。連 絡 し て み る と﹁天 下 の 一 大 事
が起きた、すぐ来てくれ﹂と言うわけだ。
行けば数人ガラの悪そうな男衆が、﹁なんや、お前がオヤジが気に入ってる若僧か﹂
と言わんばかりに威嚇してくる。堪りかねて﹁お取り込み中みたいなので出直しま
…
す﹂ と 言 え ば ﹁お ー 来 た か、ま ぁ 座 っ て く れ﹂ と 引 き 止 め、何 や ら 街 宣 車 が ど う の
こうの、何処かへ行くには資金がどうやらと、私の業務とは無関係な話になり、帰ろ
うとすると﹁そこでだ、君に相談がある。今から行く活動費を肩代わりしてくれないか﹂
え っ 何 で 私 が?と 訊 け ば、真 顔 で 笑 い な が ら﹁同 志 と し て 当 然 じ ゃ な い か﹂と …
。
…
何をこの人は言っているんだろう
…
私はこの人たちは、一体何を考えているのか …
と呆然としていた。しかし、岑氏は
話が上手かったのである。当初の示談交渉の話を引き合いにしながら﹁何とか用立て
。その話に乗ってからは
してくれないか。明日には返すし示談もしていいから﹂と …
毎日が物事相談である。事あるごとに呼び出され、少額ではあるが、お金を工面せよ
と言うのだ。
さすがにサラリーマンの私に、そう度々用立てできる訳がない。適当に断るとしつ
こくは言わないので、別の談義をしながら対応していた。
ある時、福岡の党幹部との懇談会があるので参加しないかと言われ、休日なので同
行することにした。そこで初めてお会いしたのが当時、党九州本部長だった阿部右善
先生︵現・党最高顧問︶であった。当時は阿部先生も五十歳前後ぐらいで、岑氏から
紹介されたので名刺交換をした。よく見てみると﹁亜細亜文武学院ひもろぎ道場館長﹂
とあった。
右翼の方ではないのか? そう思い、色々と考えた。後日、どうしても気に
あれっ …
な り 電 話 し て み る と、﹁君 は 岑 君 の 支 部 員 な の か﹂と 聞 か れ る。お 会 い し た い と 伝 え
ると、数日後に会っていただくことになった。福岡市東区の小高い丘に、広い道場風
の平屋建ての門構えで立派な屋敷だった。応接間に通され書斎を見ると、多くの本が
立 ち 並 ん で い た。先 生 と 色 ん な 話 を し な が ら﹁筑 前 玄 洋 社﹂﹁國 士 内 田 良 平﹂や 中 央
情 報 通 信 の 小 冊 子 を 頂 き、﹁君 が 党 に 興 味 が あ る な ら 読 ん で み な さ い﹂そ し て﹁ま た
来なさい﹂と言われたので、御礼を言ってその場を辞した。当時はまだ鴨田徳一先生
とはお会いしておらず、それは翌年の九州ブロック研修会まで待たなければならない。
さて暫くして岑氏から電話があり﹁阿部さんの所に行ったのか?なぜ俺に黙って行
くのか﹂と、怒りだす。さて何か悪いことでもしたのかと思っていると、何を阿部先
生と話したのか気になっていたようだ。これは後々理解していくが、当時は素朴に意
味が分からず過ごしていた。
そのころ、岑事務所に行くと数人ほど党員とは違うような人たちと度々会うように
な っ た。そ の 中 の 一 人 が あ る 日 の こ と、﹁君 は ど う し て こ こ に よ く 来 て い る の か﹂と
小 声 で 聞 い て き た。そ こ で 名 刺 を 渡 す と、﹁こ ん な 所 に 居 て は い け な い、早 く 帰 り な
さ い﹂と 言 う。﹁何 故 で す か?﹂と 聞 く う ち に 岑 氏 が 部 屋 に 入 っ て 来 た の で 話 は 中 断
した。まぁその日は、今度は街宣車を何処に持って行くのか、人数は何人とか聞いて
8
いた。後で分かったことだが、この人は警察官であった。
また暫く経った日に、真面目そうで余り話をしないでメモ書きしている男性が居た
ので気になりチラチラ顔を見ていると﹁頑張ってますね。お若いのにご苦労様です﹂
?意味の分からないことを言う人だなぁ、と思っていると、公安調査事務所の人
と …
であったのである。まだ、この時期は警備・公安警察と公安調査庁との区別や違いが
知識として無い頃なので、不思議な人達が数多く出入りする事務所だなぁ、とのんび
り思う私であった。
その後、岑支部長の党運動の行動や、理解しがたい党︵公︶私混同のハチャメチャ的
な 活 動 を 見 て い く こ と に な る が、そ れ を 理 解 す る ま で 少 し 時 を 待 た な け れ ば な ら な
かった。
ここで一つ断っておくが、私は岑泰彦氏が決して悪い人物だったとは思ってはいな
い。逆に、煩悩岑支部長の人間離れした行動と愛国心が理解できずに、生産党とは何
かを真剣に学習する要因になったと言える。
この話は入党して十年以上経った北上清五郎党首の時代であるが、ある党総務会の
時、岑氏に北上先生が﹁岑君は、党に色々と迷惑を掛けた事もあったが、一つ党に大
き く 貢 献 し た な あ﹂と。苦 笑 い し な が ら 岑 氏 が 何 で す か と 聞 く と、﹁君 は 丹 野 君 を 党
汗顔赤面のエピソードである。当時私は、党九州本部
に連れてきたではないか﹂ ……
長に就任していた︵九州党務局長の時期もあった︶頃だったと記憶する。
こ れ か ら 連 載 を 始 め る 中 で、波 瀾 万 丈 な 出 来 事 を 紹 介 し て い く が﹁生 産 党 の 理 念﹂
を 学 習 す る に あ た り、 ま ず﹁國 を 生 み 人 を 産 ま せ し 神 業 に 神 習 ひ し て 世 を 救 は ば や ﹂
﹁生み産みて万づの物を育くまば足らはぬことのなにあるべしや﹂という内田良平党
祖の詩を詠むことで、内田党祖の魂を継承していく決意が出来るのである。
そのことを少しでも理解していただけたらと思う。私は、入党以来、さまざまな諸
先生、諸先輩、同志の方々とお会いしてきた。また数多の方々が、これからという時
に他界されてしまった。その先覚者の、党運動にかける魂の継承が大切であると思う
今日此の頃である。︵次号に続く︶
本部、地方本部活動報告
■本部・関東東北本部
◇六月十三日︵土︶
・正午より、東京・青山墓地にて﹁無名烈士九十一年忌墓前法要﹂
︵施主
頭山興助氏︶
。大正十三年に制定された米国の所謂﹁排日移民法﹂に抗
議 し、同年五月三十一日赤坂米国大使館裏に於いて割腹自刃された無名
烈士の尊い志を顕彰、慰霊する催しである。党本部・花田書記長代行、
内藤幹事長、山田関東東北本部副本部長が参列。
︵写真下︶
◇七月五日︵日︶
・ 午後三時より、 東京 ・ 西武新宿駅前﹁花車﹂にて﹁故 信岡幸典氏︵元青年思想研究会副議長︶を
偲ぶ会﹂。杉山党首代行・書記長、内藤幹事長が出席。
■関西本部
◇六月十二日︵金︶
・午後六時三十分より、 尼崎市内において ﹁むすびの集い勉強会﹂
。 出席者は、党員党友七名。 資
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料は﹁沖縄が危ないポイント﹂
﹁那覇市﹃龍柱﹄の建設計画を中断﹂
﹁反対派は外から来る﹂
﹁西部邁ー
なぜ日本は米国の属国になったのか﹂ほか
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