「ジャン・ジャック・ルソー」になりたかったエドゥアール・セガン 学習院大学 川口幸宏 1. 1831 年頃、パリ、ダンフェル通り 7 にオネジム=エドゥアール・セガン(以降、たんに 「エドゥアール」と表記する。 )という名のパリ法学部学生が住んでいたという。現在のパ リにはないこの名の通りは、 『1855 年の通りと記念建築物の歴史事典』によれば、「サン・ ミッシェル広場を起点としてリュクサンブール宮殿の脇を通り過ぎ、サン・ジャック通り と交差する地点が終点であり、総長 1591 メートルあった」とある。現在のサン・ミッシェ ル大通りという名の通りの大部分を構成する街路である。 リュクサンブール公園口を右手にして大通りは左折し南に向かう。道路左側の建物の壁 の数字7を探して歩く。公園口からまもなくの門口に7の数字の建築物を見いだした。こ の建物のいずれかの階に彼が居を構えていたのだろうか。しかし、5 階建ての屋根裏部屋つ きの立派なオスマン様式建築である。このあたりも、歴史的記念建築物-たとえばソルボ ンヌ、リセ・サン=ルイ、医学部等々-を除いて、1850 年代の、ナポレオン III 世による パリ大改造の手がかけられていたことを示している。だとすれば、この建築物はエドゥア ールの時代のダンフェル通り7の位置のままなのか、それとも若干にせよ位置が異なって いるのか。180 年ほど昔の都市空間のままであるはずはないと思いつつも、一方では、今日 も昨日も、そして数年前も変わることのない「物乞い」風景に、一縷の望みを抱く私がい る。 私は踵を返し、サン=ミッシェル大通りをセーヌ川に向かって歩を進めた。右手にソル ボンヌ広場、左手にリセ・サン=ルイをやり過ごし、エコール通りと交差する。交差点を 左手に曲がりエコール・メディシン通りを進む。バス 1 台がようようのこと通ることがで きる小道の視界がぱっと広がると、通りの両側が現在のルネ・デカルト大学すなわちパリ 第 5 大学(医学部)である。この前身の医学校はエドゥアールの父親ジャック=オネジム・ セガンが医学を学び、医学博士号を得たところである。エドゥアールとも縁がないとは言 えない。1843 年 1 月末に時の公教育大臣が視学長官に宛て、エドゥアールに医学博士号取 得のために4年間の医学部学籍登録させるようにと命じる文書を出しているのだから。し かし彼は実質就学を拒否し、1850 年頃フランスを去るまで、ついにフランスの医学機関で 医学を学ばなかった。このことが、後の時代までもフランスにおける彼の業績に対する評 価を低からしめることになるなど、もちろん当のエドゥアールは知るよしもない。 しかし、 こうした評価に変化の兆しがある。エドゥアール没後 100 年の 1980 年ごろから、 フランス社会で彼の「復権」を求める動きが確かに進んできている。その動きは、知的障 碍教育・福祉の分野を超え、彼を「子どもの精神医学の開拓者」として高い評価を与える 精神医学者と社会史研究家との共同労作が著される形で、見ることができる(Y. Pélicier et G. Thuillier: Un pionnier de la psychiatrie de l’enfant Edouard Séguin(1812-1880). 1996. Comité d’histoire de la Sécurité sociale. 邦題『子どもの精神医学の開拓者 エドゥ アール・セガン(1812-1880)』未邦訳.) 。また、2003 年 10 月に出版されたドミニク・ルク ール(Dominique Lecourt)監修になる Dictionnaire de la pansée médicale, puf. (邦題『医 学思想事典』未邦訳)でも、’IDIOTIE(白痴)’の項目において、「初期精神病医」の一人 として、 「まだ医学博士ではなかったが」という但し書きがつけられて、その名が挙げられ、 パリ南郊外のビセートル救済院(現クレムラン・ビセートル市ビセートル病院)での生理 学 的 教 育 理 論 と そ れ に も と づ く 方 法 の 成 果 が 紹 介 さ れ て い る ( IDIOTIE の 項 目 は pp.617-621)※。 だが、医学界での「復権」を当のエドゥアールは望んでいるのだろうか。1861 年にニュ ーヨーク市立大学からの医学博士号授与を受けている事実から見れば、彼が医学そのもの を拒否していたと言えるはずはない。だとすれば、彼は、フランス時代に、なぜ医学博士 号を得ようとしなかったのか。そもそも、時の教育行政の最高権力者が何故に、知的障碍 者を対象として教育による人間発達の成果を出し高く評価する声も挙げられていたとはい え、一介の若者に対し医学部就学・医学博士号取得の命を出したのか。このことさえも大 きな謎と思えてくる-時に彼は 30 歳であったが、彼の最終学歴は中間職の役人か弁護士に それ以外の項目、ALIÉNISME と GYMNASTIQUE にも彼の名と業績とが挙げられている。 前者では作業療法(リハビリテーション)によって「idiot の発達が見られた」こと、後者では 「発達の遅れた人、虚弱者、その他の身体障碍のある患者」に有効であったことが触れられてい る。 ※ なる程度にしか道が開かれていなかった法学部在籍であり、しかも法学士の学位を得てい ない-。 2 おそらく私の問いは、近代精神医学史と近代教育史・近代福祉史との接点にあたるのだ ろう。いずれも時期的には草創期に属する。あまりにも漠としたこの問いの手がかりは、 やはり IDIOTIE(白痴)をキーワードとせざるを得まい。サン=ミッシェル大通りとエコ ール通りとの交錯するところにある書店ジベール・ジョセフでこの日求めた関連書物は 2 冊。一冊は、先に紹介した『医学思想事典』を医学関係の書棚から探り当てた。もう一冊 は Gineste Th., Victor de l'Aveyron, dernier enfant sauvage, premier enfant fou, Paris, Hachette, col. pluriel, 1993(ティエリー・ギネスト著『アヴェロンのヴィクトール 最後 の未開の子ども、最初の狂った子ども』未邦訳)である。後者は、書店のリファレンス係 によって、文学書の棚にあることを教えられた。同書は 650 ページもの大部であるが、154 ページまでが、 「アヴェロンの未開の子ども」すなわち我が国で定着させられた固有名詞で 言うところの「アヴェロンの野生児」を主題とした評伝であり、以降は「アヴェロンの未 開の子ども」をめぐって様々に論じられたドキュメント類(諸史料)が収録されている。 周知のようにエドゥアールは知的障碍者に対する研究史を記述している( 「1856 年論文」他) 。 本書はそれを検証するに十分に値する資料として意味を持つものである。 それにしても、同書のサブタイトル「最後の未開の子ども、最初の狂った子ども」に強 く心惹かれるものがある。 18 世紀後半は「人間学」が盛んであった。 「人間とは何か」という問いの前提にあるのが 「文明化が可能なのが人間である」ということであった。「文明化」とは「文明社会」に共 通する感情、意志、知性、道徳、社会性を修得し実践すること、すなわち近代的な「文明 社会」にあって「文明化」修得とは、いわゆる「近代的個人」として「自立する」こと( 「文 明社会」とは、当然、その時代のフランス社会が強めていた植民地主義に基づく支配社会 でもある)であったが、その探究対象として、とくに「文明化が未修得の人間とりわけ子 ども・青年」が選ばれた。 「未開の子ども」とは「文明化修得の条件から長く疎外された存 在」であった。 「文明化」が不可能だと判断される人間を人間の亜種とまで呼ぶ者もいるほ どで、人間的環境( 「文明環境」 )から隔離収容していた。 18 世紀もまさに終わりの年、南フランスのアヴェロン県で「発見」された一人の尐年は 「未開」の状態であった。彼を隔離収容するか、それとも「文明化」のための訓練の場- école:エコール-に移すかが、 「発見」の当初から議論されていた。尐年は、「人間学」の 好個の対象として、内務大臣の命によって、パリに移された。「文明」の最先端を行ってい ると自負しているパリっ子たちにとって、「未開」の子どもは非常に強い興味の対象であっ た。それはまた、かのローマがオオカミによって育てられた二人の兄弟によって建国され たという伝説信仰から来る興味の現れでもあったろう。しかしながら、とりあえずはパリ 聾唖学校で訓練を受け始めた未開の尐年を見て、ほとんどのパリっ子たちは、衣服を脱ぎ 捨て窓から脱走しようとする様子に、ある者はうんざりし、ある者は嫌悪感さえ抱いた。 「文 明化」に対する強い「信仰」は、このように、「非文明」の排斥と裏返しの関係でもある証 左である。 「人間学」は、この尐年を「永遠の未開」的存在すなわち idiot(イディオ:白痴者)と 理解し訓練の場を不必要とする救済院に移すべきか-その当時、救済院には école が設置さ れていなかった-、 「文明化が可能な未開」的存在と見なし訓練を続けるかに、二分されて いた。そして、やがてパリ聾唖学校の保健医となるジャン=マルク=ガスパル・イタールは、 尐年を後者であると推断し、 「文明化」の訓練を開始する。この「文明化」の訓練をイター ルは l’éducation と意味づけている(以降、l’éducation を本稿では、しばらくの間、 「訓練」 と表記する) 。その当初から尐年を idiot と判断しイタールに強く反対していたのが、当時 医学校教授でありビセートルの主任医師をしていた、「狂人を鎖から解き放った」という近 代精神医学の魁フィリップ・ピネルであった。 「文明化」可能と「文明化」不可能との間には、超えがたい深い谷がある。イタールは、 「文明化」のための「訓練」のさなか、ふと、尐年を「文明化」不能ではないかと疑いを 抱く。そして彼は言う、 「なんてこった! 私の苦労は無駄になり、おまえの努力は実らな い。そうだとしたらおまえ自身もとの森に帰りそれまでの未開の暮らしを送りなさい。さ もなくば、もしおまえが新しい欲望によって社会に依存したいというのなら、無益の人間 としての処罰を受けなさい。つまりビセートルに行き、みじめな状態の中で死になさい。」 と(イタール「アヴェロンの未開人の新しい発達と現状に関して内務大臣閣下に為した報 告」1806 年、ティエリー・ギネスト著『アヴェロンのヴィクトール 最後の未開の子ども、 最初の狂った子ども』前掲書、535 ページ、所収。 )。 イタールは、尐年ヴィクトールすなわち「文明化されていない未開人」を、「『訓練』に よって文明化可能な、未開の存在者」から「文明化不能な存在者」へと、いったん立ち戻 ることになる。しかしながら彼は、かの尐年への「訓練」を停止することなく 4 年間続け た。イタールは、その間に捉えたヴィクトールの「感情能力系統に起こった変化の出来事」 を「我が生徒の発達に関わる諸事実」として、内務大臣に報告した。そして彼は、ヴィク トールへの「訓練」の成果を、1.知的能力の発育、2.要求表現能力など自身を快適な 状況に置き換えていく幅広い発達、3.社会性への喜び、という観点で捉え、結びとして、 4. 「一人の未開人への体系的訓練」として、つまり「生まれつき障碍を持ち、社会から投 げ出され、医学からも見離されたこの種の人々の一人の生理的精神的療法」として、前向 きに捉えるべきであるとしている(イタール、1806 年報告書、前掲書、564-566 ページ)。 かくして、イタールのヴィクトールに対する「訓練」の成果は、ヴィクトールを一時ビ セートル救済院に追いやろうともしたが、「一人の未開人」を、その「未開」状態は「生ま れつきの障碍」によるものだと理解する可能性も含め、彼を「文明化」不能に陥らせてい るのは、他ならぬ社会による隔離収容であり、あるいは「訓練」 (教育)の放棄である、と いう着地点を発見したのであった。イタール自身、この「発見」を、終生、研究課題とし て抱き続けたようだが、具体的な実験・実践をヴィクトール以降には行っていないのだろ う、残された記録を見いだすことができない。 「人間学」において存在する「文明化」をめぐる超えがたい深い谷を、あたかも越えた かに思えるイタールの「ヴィクトール実践」をめぐっては、それがヴィクトールという個 別事例なのかそれとも idiot と見なされた人々に普遍できることなのか、フランスの思想界、 医学界ではあとしばらくの間、逡巡を繰り返すことになる。しかし、イタールが残した足 跡は、着実に、とりわけ精神医学者によって踏査がなされていったのである。「イディオは 教育によって発達する」 という、 明らかにイタールを超克した新しい医学理論の提言が 1824 年にベロームという医学博士によってなされ、斯界が確かに前進する兆しを見せるに至っ たが、そこで言う「教育」とは医学的「訓練」の域を出ず、普遍的教育論として確立され るには、まだ時を要することになる。 ベロームの出現からおおよそ 10 数年後、医学的訓練から自立した教育的営みの成果が発 表され、ヨーロッパ世界を驚嘆させるに至る。その人エドゥアールは、精神科医でもなく 資格教師でもない、一介の文学者としてデビューしたばかりであった頃、偶然の機会を得 て、すでに老年期にいたイタールと出会い、イタールのかつての「未開人に対する訓練」 を学んだ。そして、世界の知的障害児者教育史における大きな足跡を残す第一歩に歩み出 すのである。イタールが「訓練」成果を内務大臣に報告してから約 30 年後のことであった。 3. さて私はどこに向かおうか。ジベール・ジョセフ書店を出てサン=ミッシェル大通りを もと来た道、すなわち右手に進めば、エドゥアールが 10 代後半に学んだコレージュ・サン =ルイ(現リセ・サン=ルイ)があり、通りを隔てたすぐ向かいには 7 月革命と言われる 1830 年の激動の社会変革への一つの舞台となったソルボンヌ広場がある。広場では様々な 弁士が社会変革の必要を学生・生徒に訴えた。若者たちは熱狂した。エドゥアールの姿が その一群の中に見出されたはずである。彼はとりわけ、アンファンタンなどのサン=シモ ン主義者の演説に心惹かれた。サン=シモン主義者がモンシニ街(現パリ 2 区。当時の街 の様子をほとんどそのまま残している)で、サン=シモンによって提唱された新キリスト 教にもとづく宗教的戒律とヒエラルキーとを持つ一つの家族共同体を組織し、布教・伝道 そしてキリスト教らしく博愛主義にもとづく貧困者等に対する医療・教育などの奉仕活動 を始めたことを知ると、居をその近くのサンタンヌ通り 24(現パリ 2 区)のアパートに移 した。彼はそのことによって、約束されていた超エリート・コースを放棄し、身を法学部 へと預けることになる(1830 年) 。その「転身」の契機となったその跡地を訪問することに しようか。 いや、今日は、それより数年後のこと、すなわち、いったんは故郷クラムシー(ニエヴ ル県)に戻るがすぐに再びパリに姿を見せ、法学部に籍を戻しながら、ささやかながら執 筆活動をし、サン=シモン主義者の「左派」の人たちと共によりラジカルな秘密結社「家 族協会」の活動に参加(1835 年) 、しかし大病を得てすべての活動を休止し療養生活に入っ ていた時のことを温ねることにしよう。エドゥアールが、その人生、その人格のすべてを 捧げることになる「教育」 (l’éducation)の世界へと踏み入れる諸要素を形成した跡地の訪 問である。 ところで、ジャン=マルク=ガスパル・イタールは 1836 年に入って、パリ西郊外パッシー・ コミューン(現パリ 16 区)のボーゼジュール庭園の中の一軒家を借りる。すでに罹病して いた強直性脊椎炎(リウマチ)の激しい痛みを抑えるための鉱泉水がそこで得られたから である。家屋正面の庭にはバラやオレンジなどの花々が咲き誇り、応接間に面した裏手の 庭はイタールの好みでイギリス風庭園に作り替えられたという。ここでイタールは、1838 年 7 月初め、永遠の眠りにつく。その死の1ヶ月ほど前の 6 月頃、庭を眺めることができ る応接間に大きな安楽椅子、折りたたみ式の小さな机、それに肘掛けのない椅子が運び込 まれた。やや小康を得たイタールが特別な所用で訪問する来客の相手をするためである。 その来客とはオネジム=エドゥアール・セガンであった。 イタールとエドゥアールとを結びつけた人物は、エドゥアールの回想によれば、当時病 弱児施療院(現ネッカー子ども病院、パリ 15 区)の院長であった J. B. ゲルサンであると いう。エドゥアールとゲルサンとの関係については不詳である。一方イタールとゲルサン との関係は、ゲルサンがパリ市中で開いていたクリニックの患者の一人アドリアンという 尐年にたいし、医学的「訓練」による発育の必要を感じたゲルサンが、その開拓者である イタールに相談に赴いたことにある。イタールは前述のようにリウマチに苦しんでおり、 しかも高齢であった。彼はゲルサンに対して「誰か若い人が取り組むのなら自分がその若 い人を指導してもよい」と答えた。それに対してゲルサンはエドゥアールの名をイタール に告げた。 学業にも意義を見いだせず、社会活動も身を入れることができない-たとえそれが死に 瀕するほどの病のせいであったとしても-25 歳の青年に、一人のすでに名をなしている小 児科医が彼の前に一つの道を指し示した。 「ゲルサンが私に、イタールの未完成の仕事を継 承するという栄誉を、しかもそれがうまくいくかどうかも分からないにもかかわらず、提 供して下さった時には、私は、一時は命さえ危ないほどであったが、病気からやっと回復 したところであった。 」 (エドワード・セガン「白痴者の療育と訓練の起源」1856 年)との 回想に示された一文に、人生の曙がその兆しを見せているのかもしれないという予感を得 た喜びが強く感じられる。ゲルサンよって引き吅わされた老イタールと青年エドゥアール は、ジャック=オネジム・セガンという名を共有しあい、「意気投吅」した。エドゥアール の父親とイタールとは、陸軍病院(現ヴァル・ド・グラース病院、パリ 5 区)で、それぞ れの立場は違えども「同じ釜のメシを食った仲」であり、しかも小さな仲間集団を構成す るメンバーであったという-セガンの父親は医学生として医学訓練を、イタールは最下位 の外科医として勤務を-。イタールは、 「非文明」の尐年アドリアンに対するエドゥアール による「訓練」の指導を行うことを約束する。その指導がたびたび行われたことは、エド ゥアールが「遅れた子どもと白痴者の訓練の理論と実践 第 2 期」(1842 年)に綴ってい ることで推測することができる。指導ばかりではない。イタールは、彼がもう決して必要 とはしない「ヴィクトール実践」のために使用した様々な資料を、エドゥアールに「引き 渡した」のである。彼は、こうして、医学博士ではないということも含めて、イタールを ほぼそっくり継承した。第 2 のイタールの誕生であった。 パリ 16 区のボーゼジュール大通りを起点から歩く。右側路線は草木がほとんど手入れの ないような状態で生い茂っている。起点にはもと鉄道の駅舎であった建物がレストランに 転用されている。草木のところは外環鉄道跡なのだ。大通り左側は、明らかに 20 世紀に入 ってから建てられた、じつに高級な造りと構えの共同住宅が続いている。安楽椅子に身を 預け、その傍らの折りたたみ式の机にノートを広げてアドリアンに対する「訓練」経過を 語るエドゥアールに助言を与えたイタールの、終の棲家はいったいどの辺りなのだろう。 本文中に引用したセガンの回想はアメリカに移住して後に執筆されたものである。文中に 「イタールの未完成の仕事」とあることについては、尐々検討を要することがらであると 思う。セガンは、ヴィクトール尐年に対するイタールの実践を「失敗」だったとみなして いる。そして、セガンは、自身の「白痴教育」はイタールの「弱点」を乗り越えて体系化 に成功したと自負をしている。そうした「成果」を収めた時点における「回想」であるこ とが「未完成の仕事」という評価をなさしめているのである。 イタールが「アヴェロンの未開の尐年」の「訓練」を手がけた時、かれは、無学位医師で あった。イタールは、当時、聾唖学校の保健医、陸軍病院の第3位外科医(解剖等の助手)、 そして医学校在学中の学生であった。 偉人を顕彰するパネルや歴史的建築物を案内する歴史標識を探したが、イタールの名はつ いに見出し得なかった。だが、大通りに面し、奥への広がりを持つヴィラ・ボーゼジュー ルという一角だけは 19 世紀の名残を残す一軒家がのぞき見られた。緑の木々に囲まれたそ の歴史空間が知的障碍者の「訓練」を継承する場であっても不思議ではないとイメージ形 象をし、カメラファインダーを何度も何度も覗いたのである。 4 1838 年 2 月 15 日から取り組まれたアドリアンに対する「訓練」は 1839 年 4 月 15 日ま での 14 ヶ月間行われた―実際はそれ以上の長期にわたるものであった―。 「訓練の場」が どこであったのかは分かっていない。だが、先に紹介したエドゥアールの回想では「私の 最初の仕事はイタールの仕事場で遂行された」とあるところから、その回想が正しければ、 パリの聾唖学校であるとほぼ断定できるのだが・・・。 「白痴尐年」アドリアンとセガンと は聾唖学校で起居していたのだろうか? 1838 年に入った頃には、イタールはすでに、校医勤務もままならないほどに病気が悪化 していたから、イタールが常にセガンの教育・訓練の側で直接指導・助言をしていたとは 考えにくい。エドゥアールは、ラ・ショッセーダンタン通り(パリ 2 区)に当時居を構え ていたし、聾唖学校とはセーヌ川を挟んでかなりの距離があることを考慮に入れなければ ならない。 とすれば、アドリアンは、エドゥアールのアパートに生活と教育・訓練の場を移したの であろうか。セガン「1843 年論文」には、この時期、アドリアンの他にも白痴の子どもの訓 練にあたっていた記述があり、その子どもはセガンの手元に置かれていたと読むとること ができる。このことは決してあり得ないことではなく、精神病患者等と医師とが共同生活 を送る「健康の家」がパリ市中に多くあったし、何よりも、ヨーロッパ社会には患者と医 師(宗教者)とが共同生活を送ることによって治療を進める精神療法の伝統が強くあった のだから。そうであれば、セガンがアドリアンをつれてイタールを訪問した可能性は高く なる。しかし、パッシーのイタールのあずまやに二人が泊まり込んだ可能性はありえない。 ビセートル救済院を候補に挙げる者もいるが、ビセートル救済院にはまだ知的障碍者を「文 明化可能」として「訓練」に移す準備は整っていなかったし、もとよりその場は設備され ていなかったから、やはりイタールの指導を得ての「訓練」の場の候補からはずしてしか るべきだろう-ビセートルに知的障碍者の「訓練の場」すなわち l’école が創設されたのは 1839 年のことである-。 こうした消去法で推測されることは、エドゥアールは、アパートなどしかるべき施設で 日常的にはアドリアンの訓練・療育を行い、ある一定の段階(結果)を得るたびに、単身 で、イタールがパッシーに移り住むまで(1838 年 6 月)は聾唖学校に、移り住んで以降は パッシーに、イタールを訪問したことが考えられる。 アドリアンの「訓練」に対する成果は、『我々が 1838 年 2 月 15 日から 1839 年 4 月 15 日まで 14 ヶ月間でなしたことについての概略』と題して、イタールの死後エドゥアールの 「指導」を引き受けたとされる精神科医ジャン=エティアンヌ・ドミニク・エスキロール -かれもまた、精神病者を鎖から解きはなった-との公刊同意署名付で公刊された(1839 年 5 月) 。続いてエドゥアールは、イタールを乗り越えるための一つの戦いに挑んでいる。 それはイタールが 1806 年に内務大臣に対して報告したヴィクトールに対する「訓練」の普 遍化の示唆を具体化することであった。それを示す一通の文書を紹介しておこう。 「18 ヶ月で、セガン氏は、生徒に、感覚を使うこと、覚えること、比べること、話すこ と、書くこと、数えること等々を教えた。この『訓練』は、セガン氏によれば、氏が感化 を受けた故イタール博士に倣ってなされたものである。その知性、その認識力によって、 エドゥアール・セガン氏は他の事例をこの『訓練』システムに適用することを可能にして いる」 (下線部は引用者) これはエスキロルとゲルサンとの共同署名が為された文書である。文書末尾の一文こそ、 エドゥアールが、イタールが示唆しただけでしかなかった地平へと実際に突き進んでいた ことを証すものであった。アドリアンへの「訓練」が、もはやイタールの示唆をもって「こ の種の人々」に対する「文明化」の可能性を語る必要性のない、新しい歴史段階に入った 時期であるということを、知ることができるのである。 エドゥアールの「訓練」成果を伝え聞いた人々は、我が子の「非文明」状態を「文明化」 状態に改善したいという願いをもって、次々と「訓練」依頼の問い吅わせをした。これに 意を強くし、エドゥアールはさらなる挑戦に向かった。それは、後年、エドゥアールが「イ タールの限界性」を批判したことと深く関わっている。エドゥアールは言う、「彼(イター ル)は、 ・・・白痴状態から精神の悪化状態までの広い範囲におよぶ事例に適応する『ある 種の私的教育』を目指した。我が野卑な生徒(引用者注:ヴィクトールのこと)は前者に 属していた。このような非本質的で特異な事例に限定したため、イタールは、白痴者の療 育のための観点を体系化することも、白痴者の療育のための学校を設立することも、その 可能性をほのめかすことさえしなかった。」と(エドワード・セガン『白痴。ならびに生理 学的方法によるその療育』1866 年) 。 エドゥアールは、生理学的方法にもとづく知的障碍者のための教育施設すなわち「学校」 (l’école)の開設を求めて公教育大臣に直訴した。公教育大臣は、直訴を受け、視学長官に、 次のように諮問した。 「感覚がなく、知的能力もほとんどないイディオ児の教育に適用可能な教育のやり方の 発明者であると自称するセガン氏が、氏の方法に適った公的な授業を開くこと、及びそ れを氏自身の手で為し、それによって得られるであろう結果について特別委員会で証明 されることを許可されたいと、私に申し出てきております。私は、本状に添付した氏の 要求を試み、請求者の方法が提示されうる有効性に関する報告を私になされることを、 貴殿に要請するものであります。 」 (1839 年 10 月 31 日付) エドゥアールの挑戦は実った。1840 年 1 月 3 日、すでにピガール通り 6(現パリ 9 区) で知的障碍者のための私塾を開設していた彼のところに、 「医学博士セガン氏によって提出 されていた、白痴の子どもたちのための教育施設をパリに設立許可を得たいという要請 を、 ・・・・初等程度の教師一人をその施設に雇用する条件で彼が願い出た許可を認めてし かるべきであると、決定する。 」との公教育大臣の決定文書(1839 年 12 月 27 日付)が届 けられた(注: 「医学博士」という肩書きは、もちろん誤りである。しかし、単純な誤りと してすましてしまうことはできない。「非文明」の「文明化」は医学界の占有事であったこ とに対する教育行政側の思いこみから生じたということができるし、その一方で、教育行 政側の新しい教育課題がエドゥアールの実績の中に見出されたことから生じたということ もできる) 。 ここに、医学博士による医療的「訓練」による「文明化」課題のみ委ねられていた時代 の扉が、人としての発達のための「教育」に向けて開かれ、その専門的機関のための公教 育施設-私立学校-が史上初めて開設されたのである。そして、この快挙とそこで実践さ れた成果の知らせはヨーロッパ各国に届き、私設であれ公設であれ、知的障碍教育のため の教育施設・学校が順次に設立されていくようになる。 もはや l’éducation を「訓練」 、l’école を「訓練の場」と称する必要はなくなった。 5 「医学博士」ではなく「白痴の教師」という称号を「パリ施療院・市民救済院及び在宅援 助のための理事会」によって与えられたオネジム=エドゥアール・セガンは、その実践の場 を、フォブール・サン=マルタン通りの男子不治者救済院(現パリ 10 区レコレ国際交流セ ンター) 、続いてパリ南郊外のビセートル救済院に移す。しかし、医療的訓練にこだわり続 ける医学博士たちと生理学的方法による「教育」を目指す「白痴の教師」エドゥアールと の間にある溝を埋めるには時代が早すぎた。公教育大臣を通じて彼に医学博士を取得させ ようとしたビセートル救済院の医師たちとそれを断固として拒否した彼という二つのメタ ファーが、その時代を象徴はしている。しかしながら、前者のメタファーがフランス社会 の「非文明」の「文明化」論をまだまだ支配していた。1843 年の暮れ、エドゥアールは同 理事会によってビセートル救済院を罷免されたのである。 彼は言う。 「できることなら、白痴たちの教育というたった一つの可能性を解決しようとする中で- 私はその条件を十分に見出していたのだが-、普通教育に適用可能な解決策を得るために こそ、その可能性を普及させることが必要だろう。つまり、私は慎ましやかな領域でささ やかな仕事に従事したいだけではなく、人間のための生理学的教育法のための原理を創り 出したいのだ。」(エドゥアール・セガン『白痴者とその他の発達遅滞、あるいは不随意運 動の興奮、虚弱、聾唖、吃音を持った子どもの精神療法、衛生および教育』1846 年) 1830 年の社会動乱に遭遇して以来、彼は、宗教的結社活動続いて社会改革を目指す結社 活動に参加することによって、 「あらゆる手段と制度とによってもっとも低くもっとも貧し い者のもっとも速やかな向上」が求められると確信していた(エドワード・セガン『白痴。 ならびに生理学的方法によるその療育』1866 年)。通常社会の中で貧困に喘いでいる大多数 の者たちは、一種の「文明化」から遠ざけられた存在であり、彼らは解放されなければな らない。その一方で、大多数の民衆を支配することが約束されている階層の子どもたちも また、コレージュ等の共同生活に幽閉され、社会から隔離されていた。その現実を、エド ゥアールは「非常に小さな覗き穴を通して、尐年や子どもではなく、サルが飛び出る怖れ から、つまりそれは人間らしい可能性を見せることができないという、抑圧のネットワー クが張り巡らされている。 」と厳しく批判する(エドワード・セガン『教育に関する報告』 1875 年) 。恵まれた社会階層の子どもたちも、ある意味「文明化」を妨げられている。そし て彼自身がそうした子ども時代を送っていたのである。 オネジム=エドゥアール・セガンは、1866 年著書において、ジャン・ジャック・ルソー の『エミール』を「その目的が国民ではなく人間を創造することであった教育に関する最 初の物語(the first treatise on education whose object was to create, not a subject, but a man) 」と評し、「近代教育の指標」であると位置づけた。これは、まさしく、エドゥアー ルが通常社会に見られる一般的な教育状況を批判し、その一方で白痴教育を通して具体的 な成果を出した「文明化」のための教育論の根拠を与えた思想の抽出であると言ってよい。 さらに彼は、ルソーが、ジャコブ=ロドリーグ・ペレールの聾唖教育実践の成果などに学 びながら「人間を創造する」教育論すなわち普遍的な教育論を打ち立てたことを、力を込 めた文章で、説明している。聾唖教育を白痴教育に置き換えて見れば、「人間のための生理 学的教育法のための原理を創り出したいのだ。」というエドゥアールの「願い」の本質が透 かし見えてくるのである。 もはや、オネジム=エドゥアール・セガンを精神医学界にとっての歴史的存在として位 置づける必然性はなく、the ‘education whose object was to create, not a subject, but a man’ を探究する者にとっては避けて通ることができない歴史的存在として捉える必然性 があるように思うのである。ようやく世の中の「セガン研究」はその地平に立ったばかり である。そして、ルソーの教育論に賛否両論があると同じように、「セガン」の教育論にも 賛否両論が出るようになることを、私は強く待ち望んでいる。
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