西山本門寺・信長の首塚 横島 利明 静岡県富士宮市西山に富士五山の一つに数えられる西山本門寺という古刹がある。 ここには歴史上、人の口伝により今日まで伝えられている信長に関する伝説がある。 本堂 埋められているという伝説である。 こ の 寺 の 裏 に 在る 樹 齢 四 百 年 余 を 経 た 静 岡 県 指定 天 然 記 念 物 の 柊 の木 の 下 に 信 長 の 首 が 西山本門寺 天正十年(一五八二)六月二日、信長は「本能寺の変」により明智光秀に討たれる。 その信長の首が何故ここにあるのであろうか? 信長が本能寺で自害した時、その渦中に下総(千葉)の原家出身の原胤重とその子清安・ 宗安兄弟が居た。 父 胤 重 と そ の 兄 孫 八 郎 清 安 は 、 信 長 に 殉 じ 自 害 して し ま う が 、 志 摩 守 宗 安 が 、 本 因 坊 算 砂 の 指 示 に よ り 、 父 ・ 兄 の 首 と 共 に 炎 上 す る 本 能 寺 よ り 持ち 出 す 事 に 成 功 し 、 は る ば る 駿 河まで逃げ、西山本門寺に納め、首塚を築き、柊を植えたとされる。 本 因坊 算 砂 と は 、 京 都 顕 本 法 草 宗 寂 光 寺 本 因 坊 の 住 僧 で 、 本 因 坊 算 砂 を 名 乗 る 以 前は 法 名 を 日 海 と 称 し 、 仙 也 に 師 事 し 囲 碁 を 習 い 、 天 正 六 年 ( 一 五 七 八 ) に は 信 長 に 「 そち は ま ことの名人なり」と称揚された人物である。 本 能寺 の 変 前後 に も 信長 の 御 前で 鹿 塩 利 玄 ( 鹿 塩と 利 玄 は 別 人 の 説 も あ る ) と 対 局 し 、 滅 多 に 出 来 な い 三 コ ウ が 出 来 、 そ の 直 後 に 信 長 が 光 秀 に 討 た れ たこ と か ら 、 以 降 「 三 コ ウ は不吉」とされる。ただしこれは後世の創作という説が有力である。 信 長 の 遺 体 が 本 能 寺 の 焼 け 跡 か ら 探 し 出 さ れ 、 ど こ か に 葬 ら れて い れ ばこ の よう な 話 は 当然無い筈である。 し か し 信 長 の 首 は 炎 を 上 げ る 寺 の 内 部で 、 何 者 か に よ って 持 ち 出 さ れ た の か 、 消 え て し まい、地上に存在しないとされる。 「織田軍記」には、 「御殿御焼失の後、御死骸求むといえども遂に尋ね出さず」 「当代記」には、 「焼死に給うか、ついに御死骸見え給わず」 等と記述されており、いずれにしても信長の遺体は本能寺から発見されなかったとされる。 こ れ は 信 長 を 討 っ た 光 秀 と して も 大 誤 算 で 、 お そ ら く 信 長 の 首 を 晒 し 、 信 長 を 討 っ た 事 を天下に知ら示す手筈であったろうが、それが見つからないのは困ったであろう。 その時の 状況は 述べ ら れて いる 史料があま り 無いと思わ れるが 、小瀬 甫庵の「信長 記」 には、 「 そ の 後 御 首 を 求 めて も 更 に 見 え ざ り け れ ば 、 光 秀 深 く 怪 し み 、 最 も そ の 恐 れ 甚 だ し く 士 卒に 命 じて 事 の 外 尋ねさ せけ れ ども 何と かなら せ給 いけ ん 骸 骨と 思しき さ え 見えざ り つ る」 と記している。 そ し て 、 羽 柴 秀 吉 が 光 秀 を 山 崎 で 討 っ た 後 、 十 月 に 信 長 の 子 息で 養 子 の 御 次 秀 勝 を 喪 主 と して 盛 大 ・ 荘 厳 な 葬 儀 を 京 都 紫 野 大 徳 寺 で 行 い 、 肝 心 の 遺 体 が 無 い ので 仏 像 を 棺 の 中 に 安置して行った、と「織田軍記」に記述されている。 そ して 秀 吉 は 大 徳 寺 の 中 に 惣 見 院 を 建 て 、 そこ に 大 き な 五 輪 の 塔 を 立 て て 供 養 し た 、 と される。 戒 名 は 「 惣 見 院 殿 贈 大 相 国 一 品 泰 厳 尊 義 」 で 、こ の 信 長 の 戒 名 が 原 家 出 身 の 西 山 本 門 寺 第十八代日順上人の内過去帳に書かれている。 こ の 過 去 帳 は 寺 代 に 伝 わ る 大 過 去 帳で は な く 、 日 順 上 人 の 私 的 な 控 え と さ れ て お り 、 更 に 日 順 上 人 は 慶 長 七 年 ( 一 六 〇 二 ) 生 ま れ と さ れ て い る ので 、 世 代 的 に は 関 係 な い 信 長 の 戒名が 一段 目に 記されて いる のは 、原一族の 出身で あ る 以 上に 信長 と西 山本 門 寺 に深 い法 縁があったとも考えられる。 日順上人は、後水尾天皇の息女である常子内親王の深い帰依を受けている。 常 子 内 親 王 は 両 親で あ る 後 水 尾 天 皇 と 新 広 義 院 門 の 尊 牌 を 西 山 本 門 寺 に 納 め 、 そ れ 以 後 当 山は下馬下乗の禁札が許されている。 また朝廷・公家の支持を得て江戸幕府相手に寺格復権の大運動を繰り広げた傑僧である。 原一族が残した「原家記」には、原一族は西山と仏縁があると記載されている。 西 山 本 門 寺 は 、 日 蓮 六 老 僧 の 一 人で あ る 日 興 の 高 弟 日 代 が 康 永 三 年 ( 一 三 四 四 ) 地頭 大 門 安清の援助を受けて開山した。 以来、皇室や江戸幕府、水戸徳川家等の外護を受け、盛衰の歴史をたどった。 ことに先の日順は、 「織田信秀の宿将原越前守の孫にて、徳〇に高く、公卿堂上に知支多く」(「芝川町誌」) 京都へも布教し、寛文年間(一六六一~七三)に京都・大坂に末寺を建立している。 日 順 の 出 自 と 京 都 へ の 布 教 活 動 が 、 西 山 本 門 寺 に 伝わ る 「 信 長 の 首 塚 」 の 伝 承 が 無関 係で はないとも考えられる。 ま た 先述 の本 因坊 算 砂( 日 海 ) は 、 京都 寂 光寺本 因坊 の住僧で 、 同寺は 京都 妙 満寺を本 山とする日蓮宗什門派の寺である。 妙 満 寺 は 日 什 上 人 の 開 山で あ り 、 日 什 上 人 は 富 士 郡 の 生 ま れで 、 最 初 は 富 士 門 徒で 修 業 し た が 、 転 じ て 一 派 を 立 て 、 京 都 に お いて 富 士 門 徒 要 法 寺 と は 親 し い 交 渉 を 持 っ て い た と さ れる。 その要法寺の広蔵院日辰が、弘治二年(一五五七)から再三富士門徒合同の為、 「本因坊 日秀」を同行し、西山を訪れていた。 算砂(日海)は日秀の二代目とされ、西山と算砂は早くから関係があったとされている。 こ の よう な 関 係 から 、本 能寺 の 変 の 前夜 、 以後 の対 局 を した算 砂 は翌 朝まで 本 能寺に留 ま り、戦乱 に 巻き込ま れ 、信長 の 死を 知り、 旧知の原 志摩 守に 信長 の首を西 山 本 門寺に運 ぶように命じたともされる。 こ れ は 算 砂 が 本 門 寺 境 内 に 本 因 坊 と い う 坊 舎 を 作 って 住 んで い た 事 や 、 原 一 族 の 日 順 を 弟子とし、寺の十八代商人としている事からも考えられるともされている。 ま た 西 山 本 門 寺 は 近 衛 家 と の 関 係 が 深 い と さ れ 、 五 摂 家 筆 頭 で あ り 、 信 長 と は 極 めて 親 密 な 関 係 に あ り 、 前関 白 太 政 大 臣 で あ る 近 衛 前 久 の 命 に よ り 、 算 砂 が 原 志 摩 守 を 使 い 、 西 山本門寺に信長の首を西山本門寺に運ばせたとも言われている。 信 長 は 本 能 寺 の 変 の 僅 か 一 ヶ 月 藩 程 前 に 生 涯 で 初 めて 富 士 山 を 見 物 し て い る が 、 日 本 一 の富士の麓に自分の首を埋めるよう指示したのか? 「 信長 公 阿 弥 陀 寺 由 緒 之 記 録 」 に よれ ば 、 洛 中 の阿 弥 陀 寺 の 清 玉 上 人 が 本 能寺 の 変 直 後 に 信 長 の 遺 骨 を 本 能寺 か ら 持 ち 出 し たと の 記 録 も あ り 、 西 山本 門 寺 の 首 塚 に 関 し て 、 証 拠 を 並べて史実を立証する事は難しいであろうが、伝説として伝えられていくであろう。 最 後 に 、 こ の 信 長 の 首 塚 の 上 に 植 え ら れ て い る 柊 の 木 は 、 古 代 密 教で 「 呪 い 」 を 意 味 す ると言われ、また魔除けとして使われている。 法華を弾圧した法敵信長への「呪い」か、それとも極秘に葬った場所を永く供養する為、 人を寄せ付けない為なのか、またはその両方の意味が込められているのであろうか? それも疑問である。 現 在 、 西 山 本 門 寺 に は 日 順 上 人 の 頃 の 物 で あ る 梵 鐘 、 更 に 信 長 の 首 塚 の 二 代 目 柊 が 存 在す る。
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