(ι]) 1弾琴緒の出版事業1 ﹁神楽の舎五百首﹂ はじめに 列"覇は歌人として利歌社中を湾呂しながら、汀時代の技術であ 物である。 る活版印刷よって歌儒寸円の出版社を収符するという、商才ある人 管 宗 そのために贅沢な必小版の俳凶か多いということとなったようであ 興味深いが、弾琴緒の歌染繁凹は腕のいい職人は不要で比岐的安い る。巧緻籍な挿絵もあるという俳穫文明開花娚の出版物として 短歌・俳句系ねており、一背円の俳人たち(月居や1)にも和 歌短冊を時折見力けるか、短洲という料紙は和歌染筆のために始 和歌俳諧の両様に手を染めるというは、新派の正岡子規にしても 費用で出版にあたるということか大切であった。 ^悼W^壮^と^鼎^^にあった向、^に出^^を^山き、^人として^ まったために、飯文として染竿した場△口、短冊には和歌か最も座り 歌条山ドを掲げ﹁大阪束永厶椛橋通中橋筋西入南側卦舜平邸内 故も使い、自北出版の委託も受けて、歌梁だけでなく点数は少ない がよい であったし、石版も職人の技術四侵な洗練が求められるもので 銅板出版は美術的に重きを避くものに向き、費用のかかる出版物 0 が俳句架の出版にもあたっている。歌f俳荏一行に一首(一 雌入客も和歌と俳和の両様に手を染める人が小ノなくないからであっ 句)を胤むという、鍾十に組む際の技術が同じであることと、寺側 樋口璽は職人の世界に通じていたようであり、また出版に興昧が あった。索人上かりの者でもかかわれるのは、イ翠印刷であった。 この時期(明治二十年S四十年)には、木版・釧板・活版・石版 い半端者の三五郎が、活版所をもすぐに辞めてしまう。その程度の あったようでもある。﹁たけくらべ﹂では何をやっても長机きしな た、注文W版には和歌俳珀の両杜を菊け負っている。 第版下がNぱれ、京都の俳辨は銅板の俳書に注目すべきものが少な とあらゆる出版日刷技術が行われたなかで、伝統的な繁、様冉は自 るが、はじめは﹁官令出版△粒﹂を興し、ヱ目令出版﹂は時代の必 素人もかかわった活字印刷にょって和歌出版をおこし為獣緒であ 要もあって亊業の成功を得た。﹃桐図馨十附録﹄の巻末には﹁桐園 くないか、文明開花翔の新技術として、版而を整版に仕上げるとい めに賓刑か新技術出版力法のなかで於も収芥のかかるものであり、 う力に馴れた木版職人たちか流れたものらしいが、銅^を用いるた -59- 次 ︹庄2︺ 出版の歌集類﹂郡舜平編纂の雑小姑﹂という目録があり、そのな ﹃杣楽の介五百首﹄についてあげたい。佐佐木信綱編﹃伴林光平 一、﹃神楽の舎五百首﹄ 全架﹄かあって、伴林光平の和歌集の最もまとまったとされている ^に^^^^^^ヨリ一^^^小^昌^ア出^^エ^ヲ^メ醤^棚^一ゼ、^<^ 方ニテ悉皆印刷製木シテ発行スト開ク﹂とあり、明治十一年から明 ︹ιι 冶二十年までは法規関系は棚呼肖兵衛て珂郡製本して﹁計六十八割 が、他者の作が泥じて載せられていることを指摘する研究名は少な め﹃御楽の人吉五百首﹂のことを取りあげたものは皆無に近いようで くないようである。いずれにせよ現在は﹃伴林光平<士架﹄があるた ︹n-J︺ 冊数七1 冊出版﹂にもおよび ^^^^^^^U^^。^ま^、・側ΥJ^^^^も。^^.オ^^紅^け^。^ ある。木稲では、列琴紘の桐係社出版物という視点で﹃判楽の<舌五 規規則の改廃にょりて。今は実川になりかたく。恰も反故にひ とし。されども興羽のわかきほどに物せられしものにて、冉訂 百ツ則一をとらえたい。 杣築叉ささのや)は光平の号の一つである。 ﹃判楽の介汎百首しの卞謀力らあげる。布係は乳今緒の邪号で、 (吐.) なりともと思ひて。赤﹂末にしるす としており、法規関係の難耕発行を始めたのも、艸以霜が大阪市の 攸人を玲期は短いなガらに勤めており法規規則に通呼してしたこ ︹庄7︺ こよ 大阪削日新朋の 伴林光平と列琴絲は、伊丹という地縁をもつて深いつなかりか あった。西村天囚・磯野耿洛編﹃古今歌話﹄ とにょるが、難■にはかなりの成功をおさめたようである。因み (庄ι に、風雅の歌当を扱う場合は﹁訓牙霜﹂を●乗り、法規規則冉を扱 統者投稲のなかから選んで一仰にしたものである。脚琴緒は、弾琴 木和であげる﹃杣楽の含五百首﹂は、明治二十.一年を初刊行して 紺また桐剛の投稲者名を使い投稀しているガ、付林光平のg丹での う場合は﹁烈茶﹂を名乗り、卯と俗との使い分けをしている。 て、露命をつなぐ社なるに古兒を好み近傍伊丹町なるヰ村,艮臣 弾琴締 全△行傍火 澤塑得せている。汰にあげる。 商業ルートに釆せたようにみぇるが、実際は私家版の木か定佃を表 も^く^,^所^MΠと^リ^^^^^^^^^、]^小工^^^川^J^^、リ 半林亢平は"右年の時は真・尓の僧侶となれども一寺什職する資台 7補金参拾姦﹂として 尓することもままあることであった。私・一議として出版し、販路に 明竺十'h年に鳥された 歌 染 で あ る 。 のゼて好苅の様子の流れをみて力ら垪刷にあたるというg在でも小 占{^^^^を^^^^ム^^^^^^^^に^^、^^^^^^^ に、初めて歌学びを為すに譜物なけれぱ、備兄するに夜は燈火を 長形四県の除に身を瞥かめ工雨したりとぞ文久二年頃中山付 説杖出仮礼か使う千段が仙われたのが﹃熱木の舎五百首﹄であった 再版されていることや、讐,緒の出版事業のなかで再版にまで及 ようである。 んだものは^点に過ぎないのでのんびりとして出^^^^剛出^^^ 従忠光卿の南山暴耶に制し軍破れて、岩m山に五に抽はれし "司 には、まずまずの本であったことかと老えてょいであろう。 -60- 維新の勤王僧の遺勲にょり従四位を贈られたるは、彼の堺純屋 樹をなみ乗てのかれむ世ならねば岩船山もかひなかりけり 0丁数 0'土 中本 一冊、上下二巻一 辧 ﹂ 二 鉱二丁(副五十四 二十五年六月十四H再阪印例竣功 定価余ノノ拾一益 伊丸詣月1^註F舮^^ 弾舜平 大阪,用東区U燃世一丁目五十九番屋敷 L上h 瀬 邨 ヨ小"汎人耶 ^^勧^^ロ^r口^.^瓢圦^^田^^﹂^,^寸凱・、刀こ^小寸 ジ捗^訓ψ^^乱内師^出^引 大阪東区肌橋通中橋筋西入南側 印刷名 大阪府西区うつぼ下通一丁目四十八番屋敷 緩者 編纂兼 プ阪府師仏岡衣行剖捌国.勿寸、白﹂ヒ番 発行名 詞 岡 ^・^^陟^一一、^一^^^月一一^^日心^^m 丁) 膨四丁・上ニト六丁・一トニ十一 の行超の光師の顕れたり、といふべくこそ この歌話は"4銘の一っ話(ひとつばなし)であったらしく、"今 締の家業は伊打の造触業(,穫では酒造業とも瓣油造業とも)で、 和歌は中判良炉の養子である小村・艮顕の門人であったから、中寸良 顕から直話で削かされたものでもあったろうか。﹃十口△歌話﹄は、 も和歌のH芽に埀きを逃したとV、つ力 J1町の﹂文阿七こ子問こ丁ち 四村天囚・磯野秋渚が投和力ら洪祭に、歌逸活のおもしろさより しい。 込む打年僻の姿かかすかに浮かぶ揣写など﹁歌廼とよぶにふさわ ,丹か近綜象領であり、徐務な酒業永たちの熱心な文化舌動も あって、幕末朝鼎瓢歌の盛んな士地であった。その堅お会場や 古Ⅲ<討義の場となったのが、土院であった。基耶は勤モ僧が多く登 場したことは知られているが、准門跡で宮中則の立、勿であり、近衛 家は摸関{.系.撃あって一焚も一.雄すべきところであったJ而杓 0 に統一しておくこととする。 稟﹂(届どなどに)と謎し述べるが、書名は題答名﹁五1﹂ ﹁五1﹂﹁五良﹂と冉名が裟、外題で異なり、編者は﹁五 双松呼"成版 さ、の屋五,ロ"愉 ル田義頃師^燒西鳧¥^篭罰第 見返僻従四位伴林光平大人家染 の'上ずのもとに蔵されてしたことや、人阪町人学問所の管叢こ に白由な上地であったことは、山片蟠桃茗翻お代﹄の写本が多く .(止り){JⅢ) 学ぶ者や懐鯵土版出版の支援者か多くいたなど、伊丹の暫ナの気風 は地域の経済的<碕から生まれたものだけと竺岡い切れないものが ^^巾オ^^﹂口y^ロ^闘^^、^^^^^ぐ^^^^^^^・^^Wこ^^ ある。 返し)・﹁箔房稟﹂(内題) 9U名﹁判楽の<1百首﹂興会)・﹁さ、の男百首﹂(見 Ⅱ凶型である。次に1詠をあげる。 ルー上心 ﹂ノ.一 Π -61- ニ、﹃神楽の舎五百首序文践文 捗韻芋に藤井千郵荒か三﹂、紗けてヰ村良顕の,序文丁、jかある が、門人讐需は誇らしい思いで出版にあたったことであろうが、 中村良顕の斥文は意外とあっさりとしたものである。 ぬか、るすちは早く人も*桧たれとてをとたかくもす金のこ忽 地をつらぬく玉のひ、きはいまた文箱の底にうつもれはて、老 この家々に秘めもたる歌ともをうつしとりてかく物したる西尾 翁かみやひたる和魂の光くまなくあらはさるをなけきこ、かし 義障ぬしかまめなる心のいたつきもまたたくなきいさをににむ この﹂序文オリジナルの記述は無い。序文は箔付けという色合いか強 この序文には、伴林光平の峡鞭や学統など纓々と述べているが、 小一、良顕 よにをのことあれいてたらむものは荒魂利魂のふたつ売そなへ く 糾抑のノ﹂云白牙片 もてことあるをりはさかしき正をもふみなひけ荒ふる浪をもく 担にょるものであり、西尾猫那と中村・艮顕とは、深い﹂荒があったと ﹃杣楽の舎五百首﹂の出版費用は資産家であった西尾■釜の負 えはら、かしてたけく雄々しきいさをあらはさむことをねかひ はぢぇにくいのではないか。西尾義郵としては、伴林光平のパトロ であるが、しかるべき茗名の歌人の庁文は備えたいところであった ンであり、迫門器りがあ0て無ポの会百首﹄を上梓するわけ 、 に舟はたをた、きて国ふたりをうたひ、心なこやかにこそあらま またのとやかなる世には野山の花梨来にうそふき河瀬のつき雪 ほしけれこ、に共人あり氏を伴林といひ名を光平とよへり此ぬ 都旨 ^、^^﹂、^刀^る。^^^^^る。 小村良冴序文の次に、じ響西尾条(兵一郎)にょる届、巳 ろう0 し若きほとは六久琉川の流におり立てあかをくみまめの打の光 をしのひてしきみの小路にそほちたりしを"倒のおのつからなる 小迫と見みなし忠梁の衣をとりさりすつさうの数珠をきりすて 尊き杣遊の大路をうか、ひさとりてょり仏の道は新はりなせる 桑の戸さしをあひなれて八雲の道の英かき分人り人々をうまし ハ必ス此道二志サン上義去ル明治二十将久ノ頃アリ余二和 余血二思へラク和歌ハ県国ノ国風ニシテ学問ノ一助トモナレ 二日ク故件林光平、宍際慨悲禎ノ士ニシテ安政ノ末深ク皇威ノ 歌ヲ従通ス故二初テ此誓入レリ熟々老フル一豆旦六Xノ言 りしもかの大和なる五条の館のた、ならぬさわきを剛き詞の為 にとやかて心の駒打すにむち、みて人におくれす小卦の峰の雲 道にいさなひ道引て詞の花の林にあそひ心静けくⅢをおくるを 霧をしのきてす、吹風に身をさらし中津河の流にひそみてはう シテ囚トナリ身終二獄中二死セリ然りト挑トモ鷲一ハ、永ク千 一発ヲ歎キ且ツ幕府ノ導枇ヲ側ミ南山ノ●業二予セシモ不1 二遊ヒ蛍火雪光ノ苦ヲ稙ミ万ヲ風骨二擬シ一首以テ気概ヲ顕 歳ノ後二香シク誰力之ヲ浦階セザラシ翁初メ南紀加納詣平ノ門 なしきゆつかはくちけ矢はつきつひにとらはれの見となりてつ るきの血しほとなりはてにたれと獣J逐き国を思ふ心の花は草 きせ浪を渡り岩をもさくへきちからをつくしたりしをあはれか むすかはねにかくはしき名をと、めて土に落す世に裁一りみてり -62- ハ翁ノ{系ノ世二伝ラサルヲト此二於テ四力二散布セル一験ヲ 規矩ヲ自在二使用、尋山鰕学者流ノ及ハサルヲ所多モ唯借ラク ^Y^^一^シ一^^^L^^^^^^リ^削^ノ^却^^^^^一^黄^印^ノ スアリ古今染二倣ヒ詞華優艷一亘<森ヲ含ムアリ逝U今ヲ模シ せてその歌の腫をしらへ歌をわかちけるにや、山Wと、のひて まほしきよしをおのれ§叩られけるゆ悲けにまめやかなる志な にせんもほいなけれはこれをすり探﹂にして世の歌ひと述に見せ 数つもりて一千首の半にあまれるを吾はかり見てなとして埋木 へにおきて共歌の風格を味はひてたのしみとせりかくてその歌 本文は廼十版で、中村良顕の斥と山田我顕の駮は白第版下の木版 、 りとめでたく思ひてをりく西尾氏の家にかよひ共に心をあは これにょって、明竺十年代になって伴林光平の直円で存命の人 山田義顕 たことが西尾巽坤に深診りであったことが察せられる。摸津伊丹 は小ノなくなり、 Uほしい人は山田攻顕だけということがわかる。伴 やし村に布近く住るかし原の里なる 其ゆゑよしをひとこと書しるすものは翁のあらせたる志紀のは かりし時翁のをしへをうけし身なれはいと、妓しく思ふまに ふ会﹂となりぬ題してさ、のや五百集と名つけたりおのれも若 集メ笹乃屋五酉集卜題シ四季雑長歌ノ六種二部類シ今回刊行シ ヲ慰メントスルノミ 編著識 テ之ヲ公ニス浅学ノ生編纂二堪へスト靴トモ卿力翁力在天ノ霊 明治二d二年二月四日 これにょって、﹃神楽の会百首﹄は、西尾家二代に渡る好劣 から河内国分村を通り奈良までの街一瓣いの要衝の士地に点を落と 林光平の遺鷲献というと北畠■保男爵の極めが多く、光平亡きあ ・颪が上梓に至ったことがわかるが、先代が伴林光平の門人であっ したように門人白宅があり、それを象徴するようにして﹃杣楽の<吉 との伴林家に関ったようだが、天詠組のメンバーとして厨位ミ契 ゆ裳し述べる西尾家の出資出版を示している。僧侶として赴任した というのは桐園出版四一吊ながらも当時の歌人逕の喜ひぶりもよくわ 北畠仏四房は人望かなく、慕っ人も無かったようである。 五百首﹄の見返しには﹁甥従四位伴林光平家集山田裟顕師校開 先々で地域倫家倫束をまとめるという職務を果たすなかで、 和 わかるのは、一番年長の山倒攻顕の鉱である。この頃、旧派歌人で かることである。また、﹃袖楽の舎五百首﹄の出版餐U牙文飾なく 西尾義璋一器﹂とされている。因みに﹁双鴛工緩﹂とあるのは、 歌打並会の淫呂、古典誠釈のほうに情效芽征がれた結果といぇぱい そして、巻末は山田義顕の駮が付されて、同書は締めくくられて 並交厶原稲をこの地域の梨お際には時折みかけることがある。 も、この地力月並歌会のΥ箭をつとめているようで朱点の入った月 奈良から河内、堺の一帯の和歌{一徐として山田義顕は細々ながら いかもしれない。 いる。次に山鑾顕の駮文をあげる。 となる西星吸蹄ぬしかねて翁か愛国心のふかきをしたひて其か ともはやし翁の笹の屋集なれり此集はしも河内の国安布部のさ き残されたる短さくしきしあるは懐紙なとくさ、をあつめてな ほ其うへに翁の歌を見きくことにかきとめて常に文つく恵のう -63- さと人のさひらきいそくこ恵すなり山ほと、きす今や来なかん 蝉 いL川のかはらましろにみつかれて柳にさやくせみのこ恵かな 雨はる、かた山はやしかせすきてゆふΠにさらす蝉の羽ころも 三﹃神楽の舎五百首﹄所収和歌 ﹃袖楽の舎万百首﹄は、西尾義障と山甲我顕との収架点検にょっ 述山雪 いさや子筆和おほひせよはなれやの軒のたちはないろ付にけり 冬のはしめ黒に 久テカ 八千草さき野の耿はむかしにて御陵のまつにしくれふるなり 奈良へゆく述すから超昇寺のわたりにて 補るへきかたとたのみしハ介の戸の火影はきえてきつねなくなり 南山を出て都に赴んとする時平群の山中にて夜深く ほことりてゅふこえくれは秋やまの箪券制より村そきらめく 九打十三夜の夕かた十津川郷長殿山をこゆとて たき河の瀬々の慕あゆ÷ろせよはては木巣にうもれもそする 十津川にありける頃思ふことありて のとかにもすめる君かなしら菊の千とせを殿の八重かきにして 菊の花さかりに中宮女王へよみ畢りける くちはてむ垣根のきくも君か手になれて千年のいろやそふらん 太田芳内か菊受徒せりけれは は?知は,身に愈けれとしらきくのまかきに、ほふ河もこそあれ 児あかき夜人のもとへ 仕の江や松はらこしにょる浪のしろきを見れはあきたちにけり 海辺立秋 秋部 て編まれたものということで、個性や特色が必然と生じてくるので を笄した序文鉱文の仰々しく並んだ私宏小版が少なくないのも小・失だ あろうが、旧派歌染繁臼は、ややもすれぱ家柄を誇り、過剰な器叶 が、この点も吟昧しつ?詞冉や和歌題に一晋して烈木の舎五百 首﹄から和歌を拾いたい。巡yにそってあげていく。 立赤 春部 たつ判のはるつけわたる雲のーにまつ大きみの千代そ兒えゆく 水郷早赤 "陵候 はるをしる桁津のさとに朝つく夜かすみかねたる空ものとけし こからしにもすか音さえL耳はらの御陵のまつもかすむ赤かな 吉野に物しける時下田の限にて 八木の里にて かりのなく下網とこそはおもひしかはなに袖ふる蝶もありけり とまるへき銘ならなくにたをやめかこ、ろひくなり両棚のさと 香H<山のほとりにて 立ましるこすゑの花はちりはて、晢かくやまにはるさめそふる 西行法師のすみし一壽水の庵をとひて '﹁託 花ならてしるひともなきたにかけにいまも衞もる水のおとかな 夏のはしめに二句は大和国の方一言にて早苗開と云ことなりとか -64- 南Ⅱを出て駒塚にこもり居けるほと ひろせ川きしの尾はなはちりはて、葛城しろくゆきふりにけり みやこへといそくこ、ろのこま塚を雲に埋みてしくれふるなり 吉野郷麻1の里にて 沙隆二、西園惨にて 下もえのふきの里わのふゅこもり春まちてこそつむへかりけれ ゆめ殿はあらしのすゑに明そめてしもに友よふいかるかのさと 八尾にありける頃としのくれに 三十あまりやつ尾の椿つら、におもへははやき月Πなりけり 詠史 雑部 柴かきのみやこの小笹そよとたに風た、ぬ世をしろしめしけん 摂津国池田より多 田 へ ゆ く 道 に て 駒塚に住けるころ 石はしる瀧やまつたひこえくれは、つき世に似たる,"か音もなし 八尾に往ける時 たのしみのあるへき世とは思はねとうきを忘る、時のまもかな 加納大人若山にかへられける時花下別人といふことを うきふしもひとつ二つと数へ?この笹の屋も四とせへにけり わかれても忘らるましき面かけのわりなくたとふ花のいろかな 有柄川の曾に召されける時 本願寺の門跡主此国に下向ありし時よみて奉りける 冷栖川清きみきはにたちょりてふるきむかしのなかれくまはや 易往寺をとひけるに義顕師にあらさりけれは無量寿経の語に も、とせの後まてにほへ一滕のはな淋かみけしのいろをと、めて よりて ルホ繁枯翁七寸負に寄松祝 其名さへゆき易しとてこしかとも人なしといひ五そなかりき しけ岡の松のしけみは世の人の千代をかさぬるところなりける る、しらへいとあさやかなり 松本光消ぬしを訪ひけるに愛女何かしに琴をひかせなとせら ^<曲^^1 玉1なりけ^は 山高美隆か身まかりけるをいたみて 引ならす袖のかをりにさくらはなちりての後もはるそのとけき 一響えし夕やみからす又さらにけふの名残のをしくやはあらぬ 人のありけれは 南山に在ける時あらされん此世の外の心かけいかなりやと朋 天の川辻の陣にて わ奈心はなほ識に茂るみさ、きの小笹の上におかんとそ思ふ 中Ⅱ倩従君へよみて奉りける かやの尖のあらしに羨一るおとつれにましるもさむし山からの声 ときのまに荊からたちかり除てうもれし御世のみちひらきせん 銀峰山の陣より民・家の焼るを見て ブ屶打の哉に畊力の兵史ムカリけれは よしの山みねの水すゑやいかならんもみちになりぬ谷の家むら 風屋の陣にて思ふしありて みめくみのふかき氷川の神かきはうつやあられの玉もさはらす 市の山御陵 大かたはうはのそらにて思ふらんおくれし雁のこ、ろつくしを まつ杉はしけりもゆくをいちの山いつよりあせし池のこ、ろを -65- 大和国法隆寺の辺なる古陵"寺おほかた畑にひらきてもの作る むすびに 伴林光平は、和歌織埜速笵、紙かあるとすぐに書き制けたと よしき、て 田に畑につくるとすれと御陵やま千代のすかたはなほ残りけり いう。突然に劼れた家に詩興が河かぶと、ことわりなしに參牟する 一気阿成なものは和歌詠みぶりとも ︹珪謄) いにし年の八月はかりすさましう野分吹いて、山も県もいた 林光平の一心致をみると、 ために、短Ⅲや懐紙は撒したということがよく伝えられてしる伴 版を記念にするのが一般的ななかで、掻き架めた師匠の利歌の本を ことの<裟が、本来の業人が長い和駿荏の最後には自作歌染の出 な対応ぶりか社小雜持には大切なことであったろうガそういっ大 相俟って人気を博したことか伝わる。多くの門人かいるのに細やか 雄沌 うあれぬるを後にきけは大和鼎Π原の伏見の御陵に盗人いり ほえて て御柏をあはきけるとなん里人の物かたるもいとかしこくお ふきた、す祁の気吹のひとあらひ山のこ、ろもうこきいてけり たて並ていけも御陵につかへしをなと白なみの夜はにこえけん 王の志士の歌集ならば商品としても期待ができるという出版社の思 出版するということ希足を剣るということと什林光平という剃 共後また楯並池の御陵も賊のあはきけるよしき、て ししるしおかんとする姉の次手に 1一 一十六Π出版御届﹂﹁明治二十五年六月十五日再版届﹂とあるので、 j 手元にある﹃神楽の舎五1﹄の奥付をみると﹁明治二十二年四 惑があって成立った出版物と吾えそうである。 法雀寺の東南なる駒塚は立Ⅲ園辺の御陵なるへく考出て其よ 八千くさの剛辺のはかはあれ果ていたつらになくくつわ虫かな 外囲の船よせこむなといひさわく年の正村はしめつかた よせくとも何か誓んか晶の真帆ふきおくれはるのはつかせ はありがたい木であった。また、勤王の志士であり歌人として茗名 川版したとしても在庫の山に価引きまですることがあった讐覇に な伴朴光平との緑を色濃く匂わせた本を上梓したことは出版小業の 五百首より秀歌とおぼしきもの、鼎郎や恕に目立つものを選んだ が、山田義顕との﹂需の窺えるものが、"師と少ない。伴林光平の こうした旧派和歌の出版物は、旧派歌人たち四荒を廻って成立 信川怖威刊けに有効な効果あることであった。 の新開^の広告力を利用したのも弾琴緒であった。 ち、それらの出版惰報は明治の御世の新開紙にょって広げられ、そ さまざまなものから染めた歌染といぇるが、短冊や懐紙から染めた 戦記文学作口Ⅲとして著名な﹃南山踏北孫﹄から引いた和歌もあり、 というのも文飾ではないようであり、多くの社小をあちこちに持 新刊紹介 ようなものがある。 ﹁朝日新開﹂(明治四十二年二月十二日付)に掲城の記亊に汰の 伴林光平が墓陵鯛査研究した折の和歌もめだつが、国学者の和歌 と拾い集める材か浮力ぶ ち、門人獲得に熱心であった光平の門人たちが師の和歌をこつこつ では墓陵と﹁松﹂は取り合わせの題材にょく用いられるものである。 -66- ^票、^打^勺L^丁 弾 沃,消ルー注 乎林儿1 込稿 怖匂はん頃になりぬれば橘ならぬ普の人の袖の香を偲ぱんの心 このことは、昭和十午代のことで、"嘉の預かり知らぬことであ も﹁コギト﹂にょる人々は、愛倒粘神の鱗路とした者も多かった。 至り典女政二年の紀行は明治四ト.一午の若栴と引比べて心の旅路 れた明治二ーニ年の頃の伴林光平の人気ぶりかわかるものである。 ^^月ヒΠ旧^さ^^しる^^^^^^珀^^^訂^^白咲目^^^^さ ﹃南山難姦﹄の光平自笵木を石版におこした本が、明治二十九 る。 の伴にせんもまた一入の興なるへし好文木の古Ⅲ何くれとなくぢ のだが、伴林光平のものか川版物としてさま、ざまなものが出された 石版卯一南山謝工孫气大烈軟社立で光平陶第の自杉を互している にや井嘉ぬしの標註にて、光平翁の繁のあとの再びルに出づるに へたれは只勺礼行とのみ見るべきものかは一定価二十五鉞、火喫叩 この頃には、伴朴光平仙門の古老ル田義顕も没しており、標註を ていたと考えてょいかと思われる。 としうことは孔6緒にも出阪社咲1者としてのしたた力さ力働い わけである。そうした機運のなかで﹃熱お舎五百首﹄が出された ︹Jn︺ 一篇三丁U井平八" "<薪か制けることにクレームか寄せられることもなかったであろ 一刊契吉の西西凹﹄を上梓できたことは誇りであり、数は多くとも - 0年二月六Π刊) "今緒1明治刈旧派歌人にょる出版那業﹂(笈尓次著﹃京 注 、つ。また、脚琴緒白身も、明仏四十二年(四十三歳)に伴朴光平の 誤人形人述にょる歌条砂古の訥負出版とは重みが述っていた。普樂 ^^も^^を^^^^利^^L、Π^^^H^N^^^る^、^^^^^^^半 ﹁9 豆獣摘英﹄父北行兼編条工島繋や大正五午トニ月刊) (1)三九頁 大坂の文人梦々﹄和泉山院・二0 2 1 Πに、七十一歳で引琴緒は没しているが、八嘉か興した歌集繁お 3 た頃では、有底打裳の薄い木となってしまう。大正六午十二打十三 林光平全染﹄か、始痢十九年に太平洋伐予という時*時勢を反映し 山^^^^^^^^^^^^^フ^^^^一"^^^じ^^、ノぐ^^当U^^L 0年^ ^川^^^〆子^^ω^一^^^一^勺^^^^飛一^^ロ^、、^0 管ι^ソ^^一^^フ^^、^内^^^^ー^^^0^^^^^^^^^ ^仏オ仟^知^平^^平^、^^^佑村^^^^打一^1日剖 ^ 引き糾ぐ名か川かったというだけではなく、Ⅲ派歌人はひっそりと 4 管誤﹁6伴林光平とNの誤﹂粂美坂の文人梦﹄ - 00頁、和,訂奔院・二00二年岡月二十日刊) 湯川弘文社) 5 一打卜六Π刊) 静力に拶洞しつつぁった。也代交代というものが、和歌の世界に も近代化のなかでめまぐるしくあった。 ^^^一^^ψΨ一、﹂Ⅱ^^^^^Ⅱ^[^.^^^^ト一^Π﹂^^ー^^^、^^ 和十七年刊、動玉闇)は上司家の人々か伴林光平門人で奈良の杣・、Π 家であったからである。それは、一伴林光平全集﹄が出阪される時 fの'迎にのって岱典重N市h跿,亙(W痢1六午、■゛) -67ー 6 小、邑^^・水^^^、小^^^^^、^^、名・^^.^^羽^^^一^^﹂^^ ^^^^^^一^^^^^^^^^^・^^^河^↓日^、^^ U、思文剛) 西村天囚・碕秋洛緬否今歌壁明治三寸九年十月寸Π刊) 和五十九年二乃一 7 一何剣巾史﹂一 ^^^^^^^匠^一^^ー^^リ一り^^J^^^一一^^^一、一而^^^、^^ 冉島冊条目録1万蒸子名と、々蕭歌人﹄(平成六年牙 二十八日刊武市1女子火学嗣属図卞県文学剖国文科) (村■)本稿をなすにあたり、こ教尓暢った菊蚕¥氏には咸糊印し 園﹂の印記や碧名、箱冉きがほとんどのものにある。筆城の数点に 上げます。伴林,家に残る資料にはことごとく北畠治房﹁布穀團﹂の ートー﹄﹁﹁ーヨ L﹂ 1Lイ,伊jⅡ 、 SⅡ石j 日・↓ 箱小日きがあり。辻ザ、古美術市場にあらわれる遺鷲山吼だも﹁布穀 河三十一 末小哲夫﹃山片蟠桃の研究﹁器代﹂箭﹄(昭和四卜六作ご S江(伊州小史暫玉只会編仔W十川郁 8 9 天詠都の誉れとともに生きたかのようである。弭琴緒には、杣器屋 の行船の下に冉物を靜む、1畢修行の何丹時代の件林光平こそ慕わ 、 しくなつかしい伴林光平であったのであろう。それは、-4緒が 打 も﹁葱牧園﹂の箱習きがある。男爵の胴位を得た北畠治房の晩年は 西村け彦﹃懐ψ勇'(大正十四年 鈴不純孝一伴林光平の沸究一(平成十三年1 一刈二十八Π川、 徳堂四岑ご 蝕臥村庁版サービスセンター)、天研繊の乱に生き残り男 木学教授) 感ぜられたのであろう。 その数少な畢兵参加門人の一人であった。 ﹁大烈業1を偲ぶ1勤皇歌人伴林光平﹂(﹁古筆と しゆうじ 会ったことのない什朴光平だか、琴締には地禄では深い結び付きが は、 多W 刊) 短冊﹂第八号、占工・短冊研究会、唱劉三十七年六打三十H (すが 次男で、煉"十屋(きせるや)と屋号をいい、小片專に出入り 区冨=そ 林光平の門人で天詠紳の乱に加わった岩は小ノなく、北畠治一房 刊 -68- 13 U尹竹J、ーノ抄 伴大 婿の厨位まで得た北邑冴はもともと紘唯d村の*岡永重の 四曲人であった。のちに、﹁布殻倒、王人﹂の邪号署名で伴林 ・家に残る巡劉に斜皆きを多くしている。明治1七年刊羽の 治 一大和国 ﹃大羽回名流邑の﹁0志上﹂の項の築野に﹁塁四テ罰歌 一柔 明 法降寺従W北,品治房﹂と減せられている(﹁N 1゛_1. ^司名片斗山^^'H^習珍・^000圷西月寸Π"ソH,^ 名群器について﹂﹃京大坂の文人 窮τ ]0 Ⅱ W
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