首 里 城 物 語 首 里 城 物 語 首 里 城 物 語 首 里 城 物 語 「「「「 電 子 版

首里城物語 「「「「電子版あとがき」」」」
真栄平 房昭
時の流れとともに歴史は移り変わり、街の風景も変貌していく。1992(大
正11)年に沖縄・台湾を旅した詩人、佐藤惣之助 (1890~1942年)
の『琉球諸島風物詩集』に、
「宵夏」という詩がある。
「しづかさよ、空しさよ、
この首里の 都の宵 のい ろを誰に見 せやう 、眺 めさせやう 」とい う一 節は、自動
車やバイク 等の喧 騒と は無縁であ った時 代の 街の静寂さ を偲ば せる 。民芸運動
を提唱し、沖縄文化を広く紹介した柳宗悦 (1881~1961年)も、その
ような風景に魅せられた一人である。
「日本にある殆ど凡ての城下町を訪ね歩いた吾々にどの町が最も美しいか
問われる方があるなら、私達はためらわず直ぐ答えるでしょう。沖縄の首里
が第一であると。(中略)那覇の町から、漸く半道ほど街道を進めば、城壁を
抱く首里の丘が早くも視野に入るのです。王城は美しい丘の上に礎を置いて
いるのです。なだらかな斜面を下に控え、ゆるやかに起伏する丘を左右に侍
らし、遠く白波の立つ那覇の港を望みながら、都は静かに今も立っているの
です。小高い城壁に佇んで眺めるなら、その景観の美にして大なること譬え
ようもないのです。
」(
『沖縄の人文』
)
その美し い景観 は、1 945年 の戦争 でまっ たく灰燼 に帰し た。戦 後68年
の長い歳月 が過ぎ た今 となっては 、戦前 の風 景を覚えて いる人 も少 ない。本書
は、旧首里 城や中 城御 殿の様子に ついて 古老 の伝承や自 身の見 聞体 験などをも
とに詳しく述べている。1920 (大正9)年生まれの著者は、93歳の高齢
で余命いく ばくも ない 病床の身に あるが 、あ りし日の首 里城の 記憶 を若い世代
に伝えたいと願っている。「平和」への願いをこめた 「遺言」として、この 「増
補版」あとがきを代筆している。読者のご一読をいただければ幸いである。
『ある昭和史』(中央公論社、1978年)を著した歴史家の色川大吉が、ふ
つうの庶民がそれぞれに「自分史」を書くことを提唱したことはよく知られる。
「人は誰しも歴史をもっている。どんな町の片隅の陋巷に住む“庶民”といわ
れる者でも、その人なりの歴史をもっている。それはささやかなものであるか
もしれない。誰にも顧みられず、ただ時の流れに消え去るものであるかもしれ
ない。しかし、その人なりの歴史、個人史は、当人にとってはかけがえのない
“生きた証”
、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡なのである」(中公文庫版、
38頁)
。
時代は1944 (昭和19)年7月、サイパン島陥落後、米軍の進攻に備え
て沖縄に第32軍 (司令官牛島満中将)が創設され戦火が迫るなか、同年8月
14日付で 発信さ れた 、伊波普猷 から京 都の 河上肇あて の書翰 は次 のようにい
う。
「(前略)近着の沖縄新報によりますと全島要塞と化して、〇万かの軍隊が駐
屯し、17歳以上の男子は悉く兵役につくやうになったとのことですが、多分
決戦はその線で戦はれませう。私は、愛する墳墓の地がアルサスローレンと運
命の類似者にならないことを祈って居ります」(文中○は引用文ママ)
。
アルプス 山脈に 近いア ルザス・ ロレー ヌ地方 はよく知 られる ように 、ドイツ
とフランスの戦争で領土争いの犠牲となった。沖縄がそれと同じ 「運命の類似
者」となることを伊波は、心配したのである。その不安は、やがて現実となる。
1952年 4月2 8日 発効のサン フラン シス コ講和条約 により 沖縄 は日本から
分離され、米国の施政権下におかれることになったのである。
1972 年の沖 縄返還 後もなお 撤去さ れるこ となく存 在する 米軍基 地という
現実。その 発端は 太平 洋戦争に起 因する 。1 945年4 月1日 の夜 明け前、米
軍は沖縄島中部西岸に上陸する直前、 117
隻の砲艦から一斉に集中砲火を浴びせ
た。米軍戦 史によ ると 、撃ち込ま れた砲 弾数 は、5イン チ砲以 上4 万4825
発、ロケッ ト弾3 万3 000初、 臼砲弾 2万 2500発 、合計 10 万325発
だった。上陸地点から900メートル以内の陸地は 「平均30平方メートルに
発の割で毛布を敷くように砲弾が撃ちこまれた」という。軍隊と住民を区別
25
しない無差別攻撃、3カ月余りもつづく砲煙弾雨の 「鉄の暴風」の始まりであ
った。
日本軍司 令部は 首里城 の地下深 く壕を 掘り、 持久戦の 構えを とった 。米軍の
本土上陸を できる だけ 遅らせる作 戦であ った 。慶良間に 上陸し た米 軍は那覇沖
の無人島チービシ (神山島)に砲台を設け、首里に激しい砲撃を加えた。艦砲
と空爆によ って城 壁は 崩れ落ち、 建物も 満身 創痍となる 。そし て、 4月のある
日の夕暮れ 時に南 殿な どが次々と 炎上し てい く様子が、 近くの 防空 壕からも見
えたという 。米軍 の主 力部隊は4 月7日 ごろ から首里を めざし て総 攻撃を開始
し、日本軍 の退却 とと もに多数の 住民が 南部 に避難した 。5月 1日 夜、本書の
著者も次兄 ととも に首 里の防空壕 から東 風平 方面へ移動 中、艦 砲の 破片が右肩
に当たり負傷するが、そのまま歩き続けた。家族は島尻の戦場を転々としたが、
6月4日長 兄の家 族三 名が戦死。 猛砲撃 が続 く6月20 日頃、 糸満 の米須にあ
った野戦病 院壕を 脱出 した房敬は 、海岸 沿い に敵の前線 を突破 して 国頭方面を
めざす。
「自決」する覚悟で海に入ったのち、摩文仁海岸をさまよう。そのとき、
艦砲弾が至近距離で炸裂して九死に一生を得るが、爆風で右耳の聴力を失った。
6月23日 、摩文 仁の 崖下で米軍 に発見 され 捕虜となっ た。丘 の上 で駆動する
「戦車」が見えたが、海上からの艦砲射撃はなく、不気味な沈黙を守っていた
という。
その日未 明、摩 文仁の 司令部壕 では牛 島司令 官らが自 殺し、 第32 軍の中枢
部は壊滅。 その前 後に 、ひめゆり 学徒隊 など の大半も摩 文仁で 凄惨 な死をとげ
る。小規模 な戦闘 はな お止まず、 将兵・ 住民 の戦死者が あいつ いだ 。房敬の妹
千代子も摩文仁で砲弾の犠牲となった。
南部戦線 で捕虜 となっ た多くの 住民が 解放さ れたのは 194 5年秋 ごろであ
った。10 月30 日知 念半島の収 容所か ら解 放された房 敬は、 家族 の生存安否
を訪ね歩くが、まったく消息不明であった (のちに母と妹静子の生存を知る)。
翌46年3月3日の日記に、「われは筆舌につくしがたき烈しき戦の最中、生き
地獄の中に ありて 一旦 死を決せし 者なれ ど、 不可思議な る神の 御手 によりて救
い出され」たと、回想している (
「ちぎれ雲の記」
)
。
翌年ふる さとの 首里へ 帰ってみ ると、 一面真 っ白な瓦 礫と化 した首 里城に、
米軍の 「星条旗」が翻っていた。その光景を見た時、ありし日の首里城の姿が
脳裏に甦り、世のはかなさを痛切に感じたという。
◆米兵のみた首里城
次に視点を変えて、アメリカ海兵隊員の手記『ペリリュー・沖縄戦記』(講談
社学術文庫 、2008年)から沖縄戦の一面をみよう。著者ユージン・ ・
Bス
レッジ (1923~2001年)はアメリカ南部アラバマ州の医師の家に生ま
れ、 1942
年に志願兵として海兵隊に入隊。1944年秋には中部太平洋パラオ
諸島のペリリュー島の攻略戦に、続いて1945年春には沖縄戦に従軍した。
苛烈きわ まりな い戦 場体験をも とに書 かれ た本書は、 通例の 公刊 戦記に比べ
て資料的価値が高い。兵士が自ら体験した 「日記」をもとに書かれているため
である。翻訳者によれば、「敬虔なクリスチャンである著者は戦場に一冊の聖書
を携えてい た。熱 帯性 の暴風雨と 泥と汗 と血 にまみれた 戦場で 、著 者は戦死し
た日本兵が 所持し てい た小さな緑 色の防 水性 ゴム袋にこ の聖書 をい れた。海兵
隊の兵らは 日記を つけ ることを禁 じられ てい たが、著者 は小さ な紙 片に日々の
体験を書き 付けて は、 この聖書の ページ のあ いだに挟ん でいっ たと いう。その
膨大なメモが、本書の詳細かつ鮮烈な戦場の描写の骨格を成している。」(訳者
あとがき、469頁)
。それを示す一例として、首里城攻略前に海兵隊が仲間の
遺体を収容する様子などもリアルに書かれている。
「わが第五連隊が大規模な首里進攻に出る前の穏やかなある日、戦死者記録所
の連中が 遺体を 収容す るために やって きた。 すでに担 架にの せてあ る遺体は
ともかく 、着弾 跡の穴 やぬかる みで腐 りはじ めている 死体は 厄介だ った。わ
れわれは ヘルメ ットに 腰かけて 、回収 兵がぞ っとする ような 任務を 果たそう
とするの を、陰 鬱な思 いで見守 った。 回収兵 はそれぞ れ大き なゴム 手袋をは
め、先端に硬いべろのついた長い棒 特(大のフライ返しのような代物 を)持ち歩
いていた 。手順 として は、まず 、死体 の横に ポンチョ を一枚 広げて 、それか
らフライ 返しを 死体の 下にいく つか差 し込み 、ポンチ ョの上 にごろ んと転が
す。二度 、三度 やって もうまく いかな いこと もあり、 死体の 一部が もげるた
びにわれ われは たじろ いた。と れた手 足や頭 は生ゴミ のよう にすく ってかた
づける。 なんと いう任 務かと同 情を覚 えた。 腐乱した 遺体は 、動か されたこ
とで、前にも増して (増すことが可能ならの話だが)強烈な悪臭を放った。」
(同書141 1~48頁)
。
まさに陰惨な光景である。戦場で泥にまみれ 「腐乱した遺体」、その 「死臭」
は戦争の血 なまぐ さい 現実をリア ルに伝 えて いる。こう して、 海兵 隊は死んだ
仲間たちを遺体袋に回収しながら、日本軍司令部の首里城をめざす。
「5月29日午前9時ごろ、第五連隊第三大隊は首里高地に攻め込んだ。 中
L隊
が先陣を切り、すぐあとに 中
K 隊と 中
I 隊が続いた。その少し前には第五連隊
第一大隊の 中
A 隊が東進して首里城址に突入、南部連合軍の旗を揚げていた。
日本守備軍 の抵抗 拠点 に南部の旗 が揚が った ことを知っ て、南 部出 身者はそろ
って歓呼の声をあげた」という。
日本軍主 力はす でに首 里城から 島尻に 撤退し た後であ った。 最初に 突入した
部隊名は、別の戦史からも裏付けられる。すなわち、「5月29日午前10時1
5分、ジュリアン・ ・
中
Dデューゼンベン大尉に率いられた海兵第5連隊の
A
隊が首里城 址突入 の先 陣を飾った 。首里 は、 もと米第7 7歩兵 師団 の攻撃担当
区域であったが、 A
中隊が首里占拠の栄誉をみずからのものにしたのである。
こうして、沖縄守備軍の象徴ともいう首里は、あえなく陥落した」という (大
田昌秀編著 『総史沖縄戦 写真記録』岩波書店 、137頁)
。
これらの資料が示すように、最初に首里城に乗り込んだのは 「海兵隊第五連
隊 中
A 隊」であった。そのとき掲げられた 「南部連合軍」の旗はおそらく南北
戦争の歴史に由来する連隊旗ではないかと思われる。
◆廃墟とととと化化化化した首里城
さて、海兵隊員スレッジの戦記に再び戻ることにしよう。「その夜、首里城付
近に壕を掘 って休 むわ れわれの心 は、達 成感 に満ちてい た」と いう 。その理由
は、日本軍 の本拠 であ る首里を制 圧する とい う戦略がい かに重 要か 、誰もが知
り抜いていたからである。砲撃で破壊された首里城とその周辺の 「廃墟」に足
を踏み入れたときの光景について、次のように記している。
「今は廃墟と化しているけれど、アメリカ軍の絶え間ない砲爆に破壊されるま
では、首 里城の 周辺が 風光明媚 な土地 だった ことはう かがい 知れた 。城その
ものは惨 憺たる ありさ まで、元 の外観 はほと んど想像 もつか ない。 辛うじて
わかるの は古い 石造り の建物だ ったと いうこ と、それ にテラ スや庭 園らしき
ものと外 堀に囲 まれて いるとい うこと だけだ 。瓦礫の あいだ をぬっ て歩きな
がら、私 は石畳 や石造 物、黒焦 げにな った木 の幹を見 つめた 。以前 はさぞ美
しかっただろうに、と思わずにはいられなかった。
」
(
『ペリリュー・沖縄戦記』
416頁)
。
廃墟と化 した戦 後の荒 涼たる首 里の光 景につ いては、 仲宗根 政善の 回想記に
も書き残されている。
「終戦直後、県民の口をついて出たのは、国破れて山河なしということばであ
った。捕虜になって、トラックに乗せられて、那覇を通ったことがあった。
那覇は十十空襲で敵の波状攻撃を受けて灰燼に帰して、さらに戦争で砲弾を
ぶちこまれて死の瓦礫の街と化していた。トラックの上から東の方を見やると、
東の方に見なれない雪で覆われたような白い丘があった。私は自分の眼をうた
がった。緑したたる旧都首里の変貌した姿であったからである。
天文学的数量の砲弾をぶちこまれて、首里城も吹っ飛び、岩石は打ち砕かれ
て粉をふき、まるで白雪に蔽われたように真っ白くなっているのであった。私
は 世 界 の 人び と が沖 縄戦 は こ う だっ た とい う惨 状 を 見と ど け るま では 草 よ 茂
るな、木も伸びるなとさけんだ。後で正確な数字がわかったのであるが、二十
万発の砲弾と、千ポンドの爆弾、数千発の砲撃砲がぶちこまれて、首里は壊滅
した。戦後はじめて、遠くから雪山のように見えた首里に足をふみ入れた。一
軒の建物も残っていなかった。硝煙にくろずんで、破壊された石垣だけが残り、
至るところに屍が散乱していた。ただ首里教会の十字架ばかりが、青空につっ
たっていた。龍潭の池は幾万の将兵の地でよどんでいた」
(
『ひめゆりと生きて
仲宗根政善日記』(琉球新報社、2002年、271頁)
。
戦前、柳 宗悦が その美 しさを称 賛した 首里の 街はこの ように 白い岩 肌がむき
出しの廃墟となった。どこを見回しても無数の弾痕でおおわれ、屍骸が散乱し、
みどりひとつ無く、荒涼として世のはかなさを感じたという。
◆首里城のののの復元
それから幾星霜、首里城はようやく復元された際に、 NHK
の「プロジェクト
」
Xという番組で、首里城復元の番組が放映されたことがある。そのときの証言
にもとづく放送ナレーションの一部をここに本書の結びとする。
「廃墟の丘には星条旗がひるがえっていた。崩落したときの首里城を、間近で
見ていた男がいた。国民学校の教師だった真栄平房敬。当時、二四歳だった。
「夕暮れどきでした。私は首里城から四〇〇メートルほど離れた自宅近くの防
空壕に避難していたのですが、井戸まで水を汲みに行こうと思って壕から出ま
した。そしたら、南殿が真っ赤に燃えているのです。炎に包まれたなかで、柱
だけが少し黒く見えていた。ショックでしたね」
。
戦前の首 里の町 には、 王国時代 のたた ずまい がたくさ ん残っ ていた 。石垣が
遠くまで連 なり、 その 内側には防 風林を 兼ね た深い緑が 植えら れ、 赤い屋根瓦
が見え隠れする。「本当に美しい光景でした」と、真栄平は回想する。しかし、
その美しい 首里の 町は 、激しい爆 撃と艦 砲射 撃の標的に された 。と りわけ首里
城のある丘は、「アリ一匹残らないくらい撃ち込まれた」。首里城には地下陣地
が掘られ、日本軍 (第三二軍)が司令部を設置していた。主坑道は約二キロに
及び、そこ には一 〇〇 〇人もの将 兵が立 て篭 もった。そ のため 、城 はアメリカ
軍の最大の 攻撃目 標と なり、宮殿 だけで なく 、城壁や石 段まで もが 砲弾によっ
て吹き飛ばされた。
「戦争が終わって首里に戻ってみたら、町は瓦礫に埋めつくされていて、道も
残っていませんでした。あるのは軍用道路だけ。首里城も、廃墟の丘になって
いましたよ。城のいちばん高いところは、東(アガリ)のアザナという遠望台
でしたが、遠望台は破壊されて、その場所には星条旗がひるがえっていました」
◆◆◆◆戦後復興への歩歩歩歩みみみみ
戦後、石 川の難 民キャ ンプに収 容され ていた 住民たち が、そ れぞれ の故郷に
戻ることを 許され た終 戦の翌年で ある。 台湾 の疎開先か ら出身 地の 首里に引き
揚げてきた儀間進氏は、次のように回想している。首里に着いたとき、「そこが
首里だと気 づいた 人は 誰もいなか った。 そこ には、ある べきは ずの 丘陵がなく
て、無かったはずの道が中央を走っていた」(
「故郷を失うことでものが見えた」
『思想の科学』第158号)
。
激しい砲 爆撃を 受けて 町は壊滅 し、地 形さえ も変わり 果てた 当時、 首里に戻
った房敬の回想によれば、「(道端で)屍骸を素手で抱き上げ、何やら語りかけ
る人の姿も 見られ た」 という。赤 平町か ら汀 良町へ至る 道沿い の丘 の上には米
晴天
軍の MP
(憲兵隊)警備所が設けられ、米兵たちが銃を手に保安監視にあたって
いた。住民地区の 「復興作業」は昼夜を問わず、月夜の晩にも行われたという。
「不発弾」の危険にさらされながら散乱する瓦礫や戦死者の屍骸を片付け、無
数の 「弾痕の穴」を埋めていく。カヤ刈りや農作業中に不発弾の爆発事故が起
ることもあり、危険と背中あわせの復興作業が続いた。
少 年 時 代 か ら 通 っ た「首 里 教 会 」も 戦 火 を 浴 び 、無 惨 な 姿 と な っ て い た 。
戦 後 初 の ク リ ス マ ス が 首 里 教 会 で 開 催 さ れ た の は 1 9 4 7 (昭 和 2 2 ) 年
頃かと思われるが、当時の日記に次の一節が見える。
「十 二 月 二 十 五 日 、 水 曜 日
とこやみの世の中照らすクリスマス
こぞりてうたひ御子をたゝへよ」
戦 後 、旧 都 首 里 の 初 ク リ ス マ ス の 目 出 度 き 日 、未 明 三 時 半 に 起 き 出 で て
市 内 を め ぐ り 、ク リ ス マ ス 聖 歌 を 合 唱 し 、戦 に 疲 れ し 魂 を い や し 、厳 そ
か な る 恵 の 御 代 の の ど け き 歌 を 常 闇 の 世 に 響 か す 。願 は く は 御 代 と こ し
へに安らけくして恵みの光、世に光り輝かんことを。
翌 4 8 年 春 、 首 里 教 会 で 開 か れ た 「復 活 節 」 (イ ー ス タ ー ) の 祝 日 、 3
月 2 8 日 の 日 記 に 「破 壊 さ れ た る 会 堂 に て 、 ワ ン プ ル 米 牧 師 外 、 四 外 人 と
と も に 日 曜 学 校 の 合 間 の 特 別 礼 拝 」 が 行 わ れ た と あ る 。 4 月 8 日 「新 制 中
学校」が開校され、新たな世代が焼け跡に芽吹き始める。同年12月29
日 に は 、 戦 死 し た 父 を は じ め 家 族 六 名 の 「慰 霊 祭 」 を 自 宅 で お こ な っ た 。
二〇一三年六月
多くの命を奪い去る戦争は、生き残った人びとの心に忘れ難い悲しみを
刻 印 す る 。 そ の 悲 し み に 堪 え て 「戦 後 を 生 き る 」 と は 、 暗 闇 の 中 に 希 望 の
光を求める日々であった。戦争の惨禍を二度と繰り返さないために、現在
を生きる者たちは、過去の事実をけっして忘れてはならないと思う。
【参考文献】
沖縄タイムス社編『鉄の暴風』朝日新聞社、1950年
大田昌秀編著『総史沖縄戦』岩波書店、1982年
首里城復元記念誌『甦る首里城 歴史と復元』首里城復元期成会、1993年
藤原彰『沖縄戦・国土が戦場になったとき』青木書店、1987年
林博史 「沖縄戦と民衆―沖縄戦研究の課題―」三谷孝編『戦争と民衆ー戦争体
験を問い直す』旬報社、2008年
ユージン・ ・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』講談社学術文庫、2008年
B
真栄平房昭 「遺骨の黙示録」(
『歴史地理教育』第542号)
。
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真栄平 房昭 (まえひら ふさあき)
1956 (昭和31)年沖縄県生まれ。
琉球大学法文学部、九州大学大学院文学研究科博士課程で歴史学を専攻。
日本学術振興会特別研究員等をへて、現在 神戸女学院大学文学部総合文化学科
教授。