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患者中心医療 person centered medicine について
宮城県医師会常任理事
藤 盛 啓 成
本年4月 21 日から 24 日までロンドンで開催された第 20 回 IFQSH(International Forum on Quality and
Safety in Healthcare,米国 IHI と英国 BMJ 共催)に参加してきた。今回の主要テーマは,「患者中心の医
療」であり,各国の活動の紹介・レクチャーと参加者同士でディスカッションして理解を深めるという
セッションに参加した。私は,拙い英語で,日本では地域包括ケアシステムという,住民にとってより
よい医療・ケアを目指した仕組みの整備が始まりつつあること,「説明と同意」の医療は相当に浸透し
ているが,患者が医師に診療方針を任せてしまうことが多いこと,一般外来では患者が多すぎて説明す
る時間が十分にとれないことなどを紹介した。同じテーブルでは,患者中心と言っても,患者は医療を
正しく理解はしておらず,結局 emotional なものではないか,という意見がでていた。
「患者中心の医療」とは「患者さんの治療方法を最終的に決めるのは患者さん自身である」という考
えに基づき,医療者側が患者さんに十分な説明・教育を行い,患者さんの人間性を尊重して医療を行う
というものである。議論となる背景には,医療が医療者や行政の都合で行われ,本当に患者さんのため
に行われているのかという反省がある。医療倫理では,原則論(米国型:自律尊重・無危害・恩恵・正
義,欧州型:自律性・尊厳・不可侵性・弱さ)の適用,判断を下す際の検討手順に重きをおく方法,そ
して患者の物語(narrative)を中心に据えた物語論 narratology からアプローチする方法があり,患者の
最善となる医療を行うことが正しいとされている。しかし,実際には患者さんの最善を判断することは
非常に難しいケースがある。本稿では筆者が経験した事例を紹介する。患者中心の医療とはどうあるべ
きか,最善の医療とは何かを考えるきっかけにしていただければ幸いである。
事例:8年前に甲状腺左葉の乳頭癌(PTC)の女性(20 代後半)で,すでに径3 cm 程度の頚部リン
パ節転移があるが,手術を拒否していると,他県から紹介された患者がいた。初診で,PTC の生物学的
特性(手術をすれば一般的に生命予後がよい,若年ほど予後がよい)や合併症について説明し,甲状腺
を全摘し,頚部リンパ節を郭清すれば,根治可能であるからと速やかに手術治療を受けるように勧めた。
しかし,彼女は頑として手術を拒否し,経過を見たいというのであった。数か月後母親と一緒に受診し
てもらい,再び PTC について説明し,今なら手術治療で根治が期待できるが,ひとたび肺や骨への転移
が生じれば,長く生きるためには手術後に放射線治療も必要になること等々を説明した。同席した母親
は「本人が手術は受けたくないと言っているので,このまま経過をみたい」と言い,手術説得の試みは
宮医報 833,2015 Jun.
失敗した。当日の CT では甲状腺乳頭癌の原発巣も転移巣も全く変化
していなかった。その後2年間,半年毎に CT を撮影し,変化のない
ことを確認して帰宅する,を繰り返した。
3年目に患者自身が,九州の福岡で癌を治すという鍼灸院で治療
を受けており,その治療が有効であると確信していると告白した。
私は,鍼灸院名を問いただし,直ぐに鍼灸師に向けて,患者に手術
を受けるように説得して欲しいとメールを送った。結局,メールへ
の回答はなかった。数か月後に再度,患者が受診した際の触診,超
音波検査では,やはり腫瘍の進行・変化は認められず,血液検査で
腫瘍マーカーである血中サイログロブリン値は横ばいで,抗サイロ
グロブリン抗体価はむしろ低下傾向が認められ,甲状腺癌の進行は認められなかった。それで,私は患
者さんに,「毎回,CT で経過を見ているのでは,不要な放射線被曝を与えているだけで,余計な医療費
を使っていることになる。鍼灸師の言うことを信じて,私の言うことを信じないのならば通院する意味
がないので,再来予約はしない」と告げた。その後患者は当院の外来を受診せず,紹介元にも受診して
いない。8年間いつも気にしてきたが経過は不明である。癌に対する代替医療の延命や腫瘍縮小効果の
エビデンスはないが,鍼灸が免疫力を高めるなどの基礎研究結果は報告されている。また,若年の PTC
は手術治療・放射線治療で極めて良好な予後が期待できることが知られ,このようにリンパ節転移があ
る症例でも遠隔転移がなければ,頚部の手術のみで 20 年生存率で 90 %以上の生存率は期待できるが,
放置した場合の予後は不明と言わざるを得ない。
現在の患者の状態が不明であるので,手術しないことを理由に結果的に私が診療を拒否したことの是
非は判断できないが,再来予約をしなかったときに「心配なときはいつでも受診してよいこと」をはっ
きり告げなかったことは反省すべきことと思える。癌の代替療法に向かう患者は,甲状腺癌で最も多い
と言われている。おそらく甲状腺分化癌はその進行が遅いため代替療法が効いているようにみえるから
ではないかと推察される。
患者さんの物語として,手術を受けたくない理由は,体を傷つけたくないというもので,癌と診断さ
れていても4年間も変化がないのであれば,経過を見たいという気持ちは理解できないわけではない。
しかし,手術をすればすくなくとも甲状腺癌による不安は解消されると確信があり,手術せずに鍼灸師
に経過を任せることはとうてい承服しかねた。このような患者さんに対し,患者中心の医療はどうある
べきだろうか。私は自分の判断に医療倫理的大きな問題はなかったと考えている。因みに,患者さんの
知的レベルに問題はない。
患者の自律・権利尊重・尊厳そして患者中心の医療が,現代では最も大切な価値であり,最善の医療
の基本と考えられている。多くの場合,患者・医療者を含めた当事者間の対話を通じて本人の意向をく
みながら患者の生命・健康・ QOL を考慮した最善の医療が行われうると信じているが,最近は認知症を
含めた精神障害の患者そして支える家族に問題があるケースがまれならず経験される。東北大学病院で
は最善医療の実現を目指して3年前に臨床倫理コンサルテーションチームを発足させ,患者・家族との
対話により解決を促すシステムを導入した。しかし,対話が成り立たない事例が引き続き発生し,病院
として判断をして診療を進める必要が生じてきた。そこで,より権威を持たせた医療倫理委員会の体制
を整備し本年中に活動を開始する計画である。価値観の多様化の中で,患者中心の最善の医療を実現す
るために大変な努力が必要な時代になったと感じているが,これも医療の使命であろう。