平城宮跡でボランティア活動をしている私たちの広報紙です。 2015 年 12 月発行 57 号 そして、 杉山 洋 奈良文化財研究所 企画調整部長から ガイドの能力向上めざし 展示物の説明の後、質疑応答に移り、杉山部長から 「復原情報館」で研修会 多岐にわたるガイドからの質問に、丁寧な回答・解説 国土交通省 国営飛鳥歴史公園事務所は、本年の春、 「平城宮跡第一次大極殿院」建造物復原事業の情報を がありました。内田和伸 同研究所 遺跡整備研究室長 が「第一次大極殿院の設計思想」のテーマで、研修会 発信する展示施設を設置しました。この施設は、長期 の主題講演を熱弁。古代中国の宇宙観と天道思想に基 間にわたる整備事業を、広く市民に周知できるように づき設計されたのが、 大極殿院であるとの持論を展開。 建設されたものです。 NPO 平城宮跡ガイド登録者は、 5 月 1 日の開館以来、 ここに展示、紹介されている事業や古代建築などに ついて、休館日の月曜日を除き、毎日、ガイドを 行っています。この半年間、様々な経験を積み、 来館者が一層深く理解されるように、ガイドの能力 向 上 に 資す るため の 研修 会 を 開 催 し まし た 。 高御座は、記紀神話を具現化するため、天地の中心 軸に置かれたと説明。そして、大極殿前の磚積擁壁が 研修会は、奈良文化財研究所 平城宮跡資料館講堂 特異な平面形を造っているのは、高御座を中心とする で 53 人とほとんどの登録会員が集い、10 月 26 日午後 三つの同心円と正三角形の重心が、擁壁の各変化点の の 3 時間、熱心に受講し、大盛況となりました。 基点に一致するとの解説に、 参加者が皆、 驚きました。 宮岡功一理事長の挨拶、各部会長の活動報告の後、 これらに対し、参加者から、 「三つの同心円の意味」 コーヒーブレイクを挟み、研修会となりました。 などの質問が出るなど活発で充実した研修会となり、 まず、 「国営公園事業の概要」について、村田直磯 同 参加者は意義深い講演内容に、満足した様子でした。 事務所副所長が登壇。我が国を代表する歴史文化遺産 である平城宮跡の、一層の活用と保存を図る目的に、 平成 20 年度に国営歴史公園に指定された事業 であること。そして、「奈良時代を今に感じる」 空間を創出し、往時の平城宮の壮大・壮麗・荘厳さを 体験できるようにするとの、主旨説明がありました。 続いて、日下慎二 同事務所 工務第二課長から、 「復原事業情報館ガイドマニュアル・VER.1(27.10) 」 5 月開館以来 13,500 人が入館 により、活用法などの解説をしていただきました。 1 船に乗っていた鑑真、古麻呂、真備らは日本にたどり 「藤原清河をめぐる人々」 着きました。唐でもスーパースターといえる高僧だっ 寺崎保広・奈良大学教授 た鑑真は、日本の仏教の衰退を憂いて、自ら日本へ渡 第 27 回歴史講座は 9 月 27 日 平城宮跡資料館 講堂で開催 「律令体制の成立と遣唐使」 ――遣唐使を語る―― シリーズの第 2 回目です。 ることを志願し、5 度の渡航に失敗した後に、薩摩に 到着したのです。 天平勝宝 5(753)年 4 月、東大寺 大仏殿の前に戒壇院を築き、聖武太上天皇ら 400 人に 戒を授け、のちに、大和上の称号を授けられました。 真備は霊亀 3(717)年、留学生として僧・玄昉らと 異例の若さで昇進 唐に渡り、帰国後、橘諸兄に重用されました。遣唐副 藤原清河は奈良時代の貴族で、天平勝宝 4(752)年、 使として再び唐に渡り、清河たちと活動して、鑑真の 遣唐大使として唐に渡りました。副使は大伴古麻呂と 来日に尽力しました。恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で、 吉備真備です。 押勝追討に活躍し、右大臣の地位に進みました。 清河は、その前年 34 歳という若さで参議に昇進して 地方・吉備の下級官吏としては異例の出世です。 います。祖父が藤原不比等、父が藤原北家の祖・房前 という権勢並びなき家系とはいえ、異例の抜擢です。 唐に仕え、帰国ならず 遣唐使の大使を務める為の布石だと思われます。 清河は、名を河清と改め、唐朝に仕えて重用され帰 唐に到着した清河らは、翌年の元旦朝賀で玄宗皇帝 国ならず、秘書監になりま 不 比 等 に拝賀しました。そのとき〝事件〟が起きました。 した。日本政府は清河を 「使者の席次がおかしい」と日本がクレームをつけた 呼び戻すため、天平宝字 のです。席次の1番が新羅、そして吐蕃(チベット) 、 (麻 京 家呂 ) (宇 式 家合 ) (房 北 家前 ) (武 南智 家麻 )呂 (759)年、高元度を大使 大食(イスラム)で、日本は 4 番目になっていたから とする迎入唐使を派遣する です。 「日本へ朝貢している新羅が何故、日本より席次 という異例の措置を採りま 百 川 広 嗣 清 河 真 楯 永 手 仲 麻 呂 内 麻 呂 が上なのか」と血相変えて唐の役人に抗議、結局、 冬 したが、唐朝は安禄山の乱 日本が新羅に代わって1番になりました。これが、 嗣 など、治安悪化を理由に、 日本と新羅が険悪化する、きっかけとなりました。 清河の帰国を許さなかったのです。高元度は、清河を 迎えに行くことと共に、唐・新羅連合の侵攻等の懸念 南ルート航海で遭難 や唐情報を入手する目的も、あったようです。 その年の 11 月、遣唐使船 4 隻は帰国の途につき 光明皇太后の歌に清河は、 《 春日野に 齋く三諸の ました。第1船には清河、阿倍仲麻呂ら。第 2 船には、 梅の花 栄えてあり待て帰り来るまで 》 (万葉集巻 古麻呂、日本渡来を目指す僧・鑑真や弟子の思託ら。 19、4242)と返歌を詠みましたが、帰国はかなわず、 第 3 船には、真備、普照らが乗船して、日本を目指し 宝亀4(773)年頃、唐で客死しました。唐の女性と ました。第4船は記録になく不明です。4 隻は、揚州 結婚し、その娘・喜娘が遣唐使に伴われ来日します。 から出航。東シナ海を横断して、北九州から瀬戸内海 清河は、日本不在のまま文部卿に任命され、没後、 を経て大阪湾の住吉津に至る、「南路」と呼ぶ 従二位を賜わりました。 ルートをとりました。7 世紀頃は、北九州から朝鮮半 島の西岸沿いを経て、遼東半島から南海岸を山東半島 へ至る、比較的安全な「北路」を航海しました。 しかし、新羅と険悪になったことなどから、清河は 「北路」を避け、 「南路」をとりました。ところが、 清河や仲麻呂が乗った第 1 船は、逆風にあって唐南方 の安南(現在のベトナム)に難破して漂着しました。 乗船約 170 人の大半が土民に殺害され、清河と仲麻呂 は辛うじて逃れ、長安に引き返しました。一方、別の 2 遺跡見学会 平城宮跡の保存と復原を学ぶ 飛鳥・藤原地区・飛鳥川左岸をめぐる ――海外の学芸員たち―― 10 月 25 日、当日は秋晴れの好天に恵まれ、 奈良文化財研究所・和田一之輔研究員の解説で総勢 アジア太平洋地域の博物館館長や学芸員ら 6 人が、 18 人が、ゆっくり飛鳥の歴史散策を楽しみました。 11 月 23 日、平城宮跡を訪れ、文化遺産の保護の実態 を学び、平城宮跡内の遺跡を見学しました。 散策コースは、下ツ道、本薬師寺、田中廃寺・ 公益財団法人 ユネスコ・アジア文化センター (ACCU) 田中宮、和田廃寺、豊浦寺・豊浦宮、古宮土壇、更に が取り組んでいる文化財保護協力事業で、ネパール、 健脚の方は、植山古墳、菖蒲池古墳、五条野丸山古墳 スリランカ、モルジブのヒマラヤ山脈や、インド洋に まで足をのばしました。このコースは、今まで散策し ある国々の博物館関係者が参加、 当 NPO 平城宮跡では、 た方が多いと思いますが、現地で発掘調査をしている いつものように、解説と案内を担当しました。 研究員の方からの解説には、新しい発見があり、とて 舒明 8 年(636)飛鳥岡本宮火災後の田中宮の変遷、 も有意義な見学会となりました。 大野塚土壇の塔基壇、古宮土壇が小墾田宮(推古朝) 推定地とのこと。豊浦寺では、寺院のご好意により、 中に入り解説を聞き、種々新たな飛鳥の発見でした。 研修会では、 「宮跡の発掘調査には 100 年以上かかる」 「100 年前に苦労された人たちがいたからこそ、今の 復原がある」 、 「私たちは、この文化遺産を後世に伝え なければならない」と保存の大切さを強調しました。 参加者たちから、 「草取りやごみの除去を NPO 平城宮 平城宮跡探検隊 跡会員等がしているのですか?」 と驚いた様子でした。 平城宮跡でドングリ拾い 「古代瓦の拓本作り」を皆さんで体験し、この後、 平成 27 年 11 月 1 日、 「秋の天平祭」が賑やかに 雨の中、4 時間かけて宮跡内の施設を巡りました。 開催された当日、50 人の皆さんが参加して、NPO 会員 の案内で、平城宮跡内のドングリを拾いました。 「奈良に住んでいた。平城宮跡が大好き」と神戸から ドンリ 8 kg を送って下さった方、 「離宮ヶ丘子供会」 と平城宮跡解説ボランティア有志からも、ドングリが 寄せられました。当日拾った分と合わせて、210 kg のドングリは、子ども達から「奈良の鹿愛護会」に、 贈呈しました。 3 奈良文化財研究所 “新 天平人” 待ってます“新しい仲間” やまもと よしたか 平城宮跡を楽しみませんか。NPO 平城宮跡サポート 山 本 祥 隆 さん(32)史料研究室研究員 ネットワークでは、あなたの余暇を過ごす場を提供し ます。環境美化に興味がある人(環境部) 、歴史を勉強 宇都宮高校から東大文学部に進学、同大学院博士課 したい人 (文化部) 、 IT経験を生かしたい人 (広報部) 、 程を経て 2011 年の春に、奈良文化財研究所に就職。 人の為に何かしたい人の知見と行動力を求めています。 当初は関西弁に戸惑ったという。 ◇ 随時、ご参加を大歓迎いたします。 新しい会員 24 人が加わり、現会員数 123 人です: 学生時代は古代社会の「税の仕組み」に関心があり、 八・九世紀の地方官衙が行っていた出挙(すいこ)の 阿部 浩、石橋伸之、磯 三男、 大西信男、 岡田義道 落合和紀、越智容道、川崎芳枝、小松砂知子、坂本義信 島田健治、竹中 武、武田信子、津田保行、田中いずみ 中島常元、仁木美津子、長谷川秀隆、平田清、松村春記 水谷正治、宮崎孝義 森川利之、吉澤定之。 (敬称略) 実態や律令国家の地方財政のあり方などを課題に研究 してきたが、 中央財政や木簡学などの研究に取り組み、 研究の幅を広げたいと考えている。 ――――――・――――――・―――――― 東大寺東塔院跡の発掘調査では、奈良時代の創建時と 「大きいことは、いいことだ」という テレビ CM が昭和 40 年代に大ヒットした。 鎌倉時代の再建時の塔基壇の大きさを確認し、一辺が 24m から 27m に拡張していたことなど、貴重な成果を CM で、指揮者の山本直純が気球の上から 森永製菓が売り出した大型のチョコレート 挙げることができた。塔本体の高さなど未解明の問題 1,300 人の大群衆にタクトを振るシーン。 も残るが、文献史料からのアプローチも含めて研究を 深めたいとのこと。 (右欄「もっかん」参照) 日本が、経済大国の道を歩みつつあった時代を反映し たものと話題になった▼東大寺の大仏さまを引き合い に出すのは、いささか気が引けるが、東大寺は、 なにもかもがケタはずれに大きい。奈良文化財研究所 見つかり、11 月 21 日開かれた現地説明会で、奈文研 などが発掘調査している東塔跡で、鎌倉時代の基壇が 基壇は奈良時代の創建よりも一回り広い 27m 四方。 研究員の箱崎和久さん、山本祥隆さんらが報告した。 調査団長の鈴木嘉吉 元奈文研所長は、 「奈良の寺は、 今後、東塔院跡をどのように整備・活用してゆくか 『天平回帰』で、同じ規模構造に再建するのが常識 は大きな課題だが、平城宮跡における史跡整備のあり だが、ここでは、ひっくり返っていて、珍しい」と 方は大いに参考になると語る。傍ら、調査のため囲い コメントするなど、貴重な発見もある▼基壇の上に から追いだされた鹿がかわいそうだという、優しい一 現存する塔では日本一高い京都・東寺五重塔 55m の 建っていた東塔は高さ 70m~100m と推定され、 2 倍程というから、途方もないスケールである。現地 面も見せる。 説明会に集まった人数約 2,000 人で、奈文研の現地説 昼休みにはサッカーで汗を流す一方、NPO 平城宮跡 明会としては、過去 5 年間の最高記録の 2 倍という と楽しく歴史散策も行っている。万葉集から続日本紀 まで多彩な史料を駆使しつつ奈良時代史を読み解いた 講演「長屋王邸と木簡」はよく知られている。 ▼「大きい」といえば、神秘的で「永遠の処女」とも 趣味は、手ぬぐい集め。ネクタイ代わりに首に巻く いわれた「大女優」原節子、 「憎たらしいほど強く」 ことも多く、 「一期一会」の機会を大切にしながら旅先 相撲協会理事長としても功績大であった、 「大横綱」 で掘り出し物を探すのが楽しみとのこと。もう一つは 北の湖理事長の名前も忘れられない。サイズだけで、 お酒で、種類を問わず愛飲するそう。平城京右京八条 「大」とは言えない。 (仁) 二坊十一坪(西市跡推定地)のマンションで、新妻と ―――――――・―――――――・――――――― 暮らし、平城宮跡・奈文研まで元気に出勤している。 国内外とも、多難だった平成 27 年も、あとわずか。 (聞き手:編集部) 4 来年こそは、良い年でありますように…… (編集部)
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