尊経閣文庫所蔵の杭瀬庄関係文書について [PDF:717KB]

はやしまのほ
じゅうしん じょう
もうし じょう
備 前 国 隼 島 保 の 相 論 に 関 す る 某 重 申 状 案・ 某 申 状
う)
。 つ ま り、 こ れ も 本 来 は 壬 生 家 文 書 所 収 の 杭 瀬 庄 関
扱われた」もののようなので、恐らく某申状案の紙背なのだろ
物や写真を実見できていないが、菊池氏によれば、「裏として
閣文庫に伝来したものと思われる (筆者は今回、文書の現
案の紙背文書として伝来したのであるが、実は「尊経閣
〔研究編〕
くいせのしょう
古文書纂」には某申状案の一部に当たる文書が収められ
そんけいかく
尊経閣文庫所蔵の杭瀬庄関係文書に
て お り、 今 回 紹 介 さ れ た 文 書 三 点 も そ れ と と も に 尊 経
樋 口 健 太 郎
ついて
はじめに
いて検討し、これまで知られていた史料と付き合わせる
係文書と一体的な関係にある文書だったものと理解され
昨年、筆者は本誌一一四号に「壬生家文書所収の杭瀬
庄 関 係 文 書 に つ い て 」 と い う 小 文 ( 以 下、 前 稿 )を 掲 載
ことで、これらから判明する杭瀬庄の伝領について論じ
一 新出文書の内容
るのである。そこで、本稿ではこれら新出文書三点につ
し、宮内庁書陵部所蔵壬生家文書を利用して杭瀬庄の成
たい。
み ぶ
立 と 伝 領 の 過 程 に つ い て 考 察 し た。 だ が、 そ の 付 記 に
も 記 載 し た よ う に、 前 稿 脱 稿 直 後、 菊 池 紳 一 氏 に よ っ
て、これまで知られていなかった公益財団法人前田育徳
今 回 翻 刻・ 紹 介 さ れ た 文 書 三 点 は い ず れ も 仮 名 文 書
・元亨元
で あ り、 鎌 倉 時 代 末 期 の 嘉 元 三 年 ( 一 三 〇 五 )
会・尊経閣文庫所蔵「尊経閣古文書纂」所収の杭瀬庄の
田育徳会所蔵文書(十一)」『鎌倉遺文研究』三三号)
。前稿で
・ 嘉 暦 元 年 ( 一 三 二 六 )の 年 紀 が 記 さ れ て
年 (一三二一)
相伝関係文書が三点翻刻・紹介された (「公益財団法人前
も述べたように、壬生家文書所収の杭瀬庄関係文書は、
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とめておくことにしよう。
(二)」に収録したので、ここでは年代順にその内容をま
い る。 こ れ ら の 本 文 は「 尼 崎 市 史 古 代・ 中 世 史 料 補 遺
更のないようにと述べている。
を知行している「かけもと」の一期の間は、預所職も変
レ
レ
文書等直
」
被渡之
ハほかに候」という状況になったが、杭瀬庄を譲与する
とある。内容は、「おもひのほかなる事」により「わら
ら の う ち 女 」 で、 端 書 に は「 木 屋 女 房 重 譲 状 案
最後に、嘉暦元年七月四日の日付があるのが木屋女房
。 差 出 は「 ふ ち わ
重 譲 状 案 で あ る (以下、文書Cとする)
まず、嘉元三年八月十三日の日付があるのが木屋入道
。本文書の差出は
覚 一 譲 状 で あ る (以下、文書Aとする)
「 沙 弥 覚 一 」 と な っ て お り、「 □ □ 入 道 覚 一 譲 藤 原 氏
二
という意志は今も変わっていないので、文書は全て譲り
二
とって訴訟を行うのも困難なので、杭瀬庄について手継
渡すとし、下地 (現地)において問題が出来した時には
女
文書とともに譲るとし、今後は有能な雑掌 (事務担当者)
鎮めて欲しいということ、一方で年貢や色々の雑物、公
一
号木屋
状 」 と い う 端 書 が あ る。 内 容 は、 覚 一 が 年 を
女
一 房
に任せて訴訟を行うとともに、自分や母御前を扶助して
事用途・臨時課役については、一期の間は (自分が)進
ざっしょう
欲しいと述べている。
で、一期の間にこれに背くようならば、譲与は悔い返す
それでは、これらの文書は杭瀬庄の伝領過程の中で、
ど の よ う な 位 置 づ け に あ る も の な の だ ろ う。 前 稿 で 見
二 新出文書からわかること
退するので干渉してはならないということを述べた上
次に、元亨元年四月二日の日付があるのが木屋女房譲
。 差 出 は「 ふ ち わ ら の
状 案 で あ る (以下、文書Bとする)
一
とされている。
二
うち」で、端書には「木屋女房状譲 内蔵頭家 状案」と
ある。内容は、杭瀬庄について、「二ゐ殿」(二位殿)の
御沙汰として、安堵の聖断に預かったので、約束に従っ
て「くらのかう□との」(内蔵頭殿)に譲与するが、一期
(一生涯)の間は自分が管領し、一期の後は手継証文を進
上するとし、自分の没後は後世を弔うべきこと、預所職
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た よ う に、 杭 瀬 庄 は 小 野 宮 流 の 藤 原 通 俊 か ら そ の 娘 を
入道」の傍書があったが、『尊卑 分 脉 』によれば、経顕
とと考えられる。文書Aでは、覚一の名前に「きや中将
おののみや
通 し て 摂 関 家 傍 流 の 藤 原 経 定 に 伝 え ら れ、 そ の 後、 頼
は正四位下左中将であり、すでに弘安八年の東大寺注進
書所収の杭瀬庄関係文書の中に入れると、文書Aは、弘
暦 元 年 (一三二六)の 年 紀 が あ る の で、 こ れ を 壬 生 家 文
(一三〇五)
、文書Bは元亨元年 (一三二一)
、文書Cは嘉
(経顕女)が 杭 瀬 庄 を 譲 っ た「 く ら の
では、木屋女房
かう□との」(内蔵頭殿)とは何者なのだろう。そこで注
経顕女の処分状ということになるのである。
あった。つまり、文書Aは経顕の処分状、文書B・Cは
そ ん ぴ ぶんみゃく
定 ― 頼 房 ( 頼 宗 )― 頼 俊 ― 経 顕 と い う よ う に、 経 定 の
状 の 中 に も 杭 瀬 庄 が「 中 将 入 道 」 に 押 領 さ れ て い る と
安 元 年 (一二七八)十 一 月、 頼 俊 が 経 顕 に 譲 渡 し た 処 分
目したいのが、文書Bに見えるもう一人の謎の人物「二
(4)
直 系 に 伝 領 さ れ た。 前 述 の 通 り、 文 書 A は 嘉 元 三 年
状と、元亨元年四月一日、藤原氏女の知行を安堵した後
ゐ殿」(二位殿)である。文書Bによれば、杭瀬庄が安堵
そうすると、まず文書Bでは、安堵の聖断に預かった
とあったが、文書Bの日付は後醍醐綸旨の翌日なので、
補任』から、二位で無官、かつ三条の家号をもつ者を探
一 人 物 と 見 て い い だ ろ う。 そ こ で、 元 亨 元 年 の『 公 卿
(1)
醍醐天皇 綸旨案の間、文書Bは後醍醐綸旨案の直後、文
の 聖 断 に 預 っ た の は「 二 ゐ 殿 」 の 御 沙 汰 だ っ た と い う
聖断とはこの綸旨のことにほかなるまい。だとすれば、
すと、三条実仲という人物が見付けられる。この実仲と
りん(
じ 2)
書Cは後醍醐綸旨案と文和三年 (一三五四)八月十日付
知行を安堵された藤原氏女は、木屋女房と同一人物いう
は、実はのち杭瀬庄の領主として確認できる三条実治の
くぎょう
ことになるだろう。また、後醍醐綸旨案には、本家役は
父であった。そこで息子である実治の官職も改めて『公
(3)
の領家職得分注文案の間に位置づけられる。
が、 実 は 後 醍 醐 綸 旨 の 宛 所 は「 謹 上 三 条 二 位 殿 」 と
な っ て い た。 こ の「 三 条 二 位 殿 」 と は「 二 ゐ 殿 」 と 同
「経顕入道請文」に任せ、懈怠なく勤仕するとあるので、
卿補任』から確認してみると、元亨元年六月六日まで内
ぶにん
杭瀬庄を木屋女房に譲った木屋入道覚一とは、経顕のこ
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は後醍醐の側近として知られ、のち後醍醐が挙兵した際
、実は公明
息子がいたが (公明は実治の兄で養父でもある)
の政治的位置である。実仲には実治とは別に公明という
勝利を収めたわけであるが、ここで注目したいのは実仲
女は訴訟を実仲の沙汰とすることで、東大寺との訴訟に
杭瀬庄は実治に譲られたのだろう。前述のように、経顕
を経顕女から直接譲られたものと判明する。だが、なぜ
前稿では、実治がいかにして杭瀬庄の領主職を得たの
か、明らかにできなかったが、以上から、実治は杭瀬庄
ある。
□との」とは息子の実治であったということになるので
実から考えると、「二ゐ殿」とは三条実仲、「くらのかう
蔵頭の地位にあったことがわかる。つまり、これらの事
かわりに、ただ自分たちの来世の平安を託したのである。
に没後の弔いを命じている。彼女は杭瀬庄の経営を譲る
保ったといえる。杭瀬庄の譲与に当たり、経顕女は実治
権勢者である実仲の一族と縁を結ぶことで、荘園の存立を
前 稿で見 たように、経 顕の一族は 公 卿 を 輩 出でき ず、
すでに没落していた。窮地に立たされた経顕やその娘は
たい。
よって譲与するとあるから、血縁はなかったものと考え
の母親は不明だが、文書Bには日頃の「御やくそく」に
故に経顕女は実治に杭瀬庄を譲ったものと考えられるの
ある人物だったからではなかったか。こうしたつながり
娘に杭瀬庄を譲ったのも、彼女の夫が政権とつながりが
たのではないか。そして、だとすれば、そもそも経顕が
(5)『太平記』第三巻「笠置没落の事」。
(4)『鎌倉遺文』一五六五一号。
(3)
『壬生家文書』
「官務所領関係雑文書」二―七三―(七)号。
(2)
『壬生家文書』
「官務所領関係雑文書」二―七三―(六)号。
〔注〕 (1)
『壬生家文書』
「官務所領関係雑文書」二―七三―(五)号。
である。ただ、経顕女と実治との関係については、実治
にも笠置遷幸に供奉し、幕府に捕らえられた人物であっ
(5)
た。だとすると、経顕女が東大寺との訴訟に勝利できた
の も、 実 仲 ― 公 明 と い う 後 醍 醐 側 近 の 縁 を 得 た た め で
あった可能性が高くなるのである。
このように考えると、実仲が何の関係もない訴訟に介
入するとは思えないので、恐らく経顕女は実仲の妻だっ
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