偏極キセノン原子を用いた体にやさしいMRI造影剤の開発

偏極キセノン原子を用いた体にやさしい MRI 造影剤の開発
Hyperpolarized Xenon Solutions for Medical MRI with Spin Enhancement
1051002
研究代表者
兵庫県立大学 大学院物質理学研究科
助教授
石川 潔
[研究の目的]
101
MRI 画像診断の造影剤を開発するため,半導体
偏極 Xe 溶液が可能になれば,例えば,体に負担
ρ [s -1]
液のスピンダイナミクスを調べた。 造影剤として
100
10-4
10-1
10-5
の少ない MRI による消化器系の検査が可能にな
る。 放射線を使わない MRI 診断と金属を使わな
い造影剤。 これら2つの組合せは,先端医療機器
と人間の調和につながるアプローチである。 以上
10-2
10-3
150
η /T [ Pa s/K]
レーザーにより核スピン偏極したキセノン (Xe) 溶
10-3
10-6
200
250
300
Temperature [K]
のような夢を実現するため,本研究は,高偏極 Xe
原子を液体に溶かし,溶解度,化学シフト,偏極
図 1: 磁場 5.4 mT におけるガラス容器中の核スピン緩
の持続時間などの温度・磁場依存性を調べ,Xe 溶
和レート。 それぞれ,純粋なエタノール中の 1 H (ρH , ),
D (ρD , ◦),エタノール-h6 中の 129 Xe (ρhXe , ),エタノー
ル-d6 中の 129 Xe (ρdXe , •) である。実線はエタノールの
η/T ,破線は ρD = 7.40ρH (T ),ρhXe = 1.03 × 10−2 ρH (T ) +
2.87 × 10−3 ,ρdXe = 9.53 × 10−4 ρH (T ) + 1.06 × 10−3 であ
る。 ここで, ln ρH (T ) = 3.313 − 5.39 × 10−2 (T − 158.5) +
1.4 × 10−4 (T − 158.5)2 である。
液の造影剤としての性能を検討した。
[ 研究の内容,成果 ]
1. 研究背景
偏極 Xe 原子を気体として吸引すると,肺の画
像診断ができる。 当初,肺から血液に溶けて全身
の循環系までも MRI 診断できると期待されたが,
電解質溶液中のスピン緩和時間が短く,全身にい
きわたるころには造影剤としての性能の大半を失
う。 そこで,溶液中の偏極 Xe 原子のスピン緩和
機構を詳しく調べ,濃くて長持ちする偏極溶液を
開発できると,とても役に立つ。偏極 Xe 溶液を
飲むことができれば,消化器系の MRI 診断も体に
やさしいものになる。これまでの研究をまとめる
と,図 1 に示すようなスピン緩和レートの温度依
存性が得られる。 4 種の核スピン緩和レートと粘
性率 η を比較すると,エタノール中のスピン緩和
の原因のほとんどが,Xe 原子とエタノール分子の
磁気双極子相互作用であることがわかる。 重水素
化エタノール中では,偏極が約 10 分持続するこ
とが見て取れるが,室温付近で,ある下限値に漸
近している。 Xe 原子の偏極を長持ちさせるため,
この下限値の原因について調べた。
2. 実験装置
気体を流しながら連続的に Xe 原子を核スピン
偏極する装置を,図 2 に示す。特に,光ポンピング
(a)
laser 795 nm
He, N2, Xe
(290 kPa)
Xe, N2, He (b)
(c)
250 K
Rb trap
偏極Xe原子
0.5 T
77 K
固体Xeの蓄積
図 2: Xe 原子の核スピン偏極装置。 緩衝ガスを除く場
合,Xe 原子を固体にする。 混合ガスのまま使用する場
合,連続的に偏極 Xe 原子を取り出すことができる。
する容器の両側から高出力半導体レーザー光を照
射したので,スピン偏極の効率がよい。まず,Xe
ガスに緩衝ガスであるヘリウムと窒素を加え,Rb
金属を入れ暖めた容器に導く。 Rb 原子が吸収す
る波長の円偏光を照射すると,光から Rb 原子を
経て Xe 原子に角運動量が移り,核スピンが偏極
する。 そののち,氷点温度で Rb 原子を取り除き,
液体窒素温度で Xe 原子を固体にすると,緩衝ガ
スを除くことができる。 偏極 Xe 原子の固体を暖
めて気体にし,実験で使用する。
図 3 に,核スピン緩和レートを測定するための
ガラス容器を示す。 偏極 Xe 原子がエタノールに
溶解していくようすを MRI 観測すると,Xe 原子
は,吹きつけるだけでエタノールに溶け,また,溶
解した原子が容易に気相に戻ってくることがわか
る。これは,偏極 Xe 溶液を作るのに適した性質
である。 しかし,Xe 原子が,緩和時間内にさま
ざまな環境間を移動するので,スピン緩和の原因
を調べるのには適さない。そこで,図 3 のように
ガラス容器の上部にくびれを作り,Xe 原子が長時
間にわたり溶液中の観測領域にとどまるように工
夫した。 くびれにより Xe 溶液の対流を抑え,ま
た,気−液境界面を観測領域内に存在しないよう
にできた。 この容器によって,スピン緩和の舞台
は,エタノール中または壁表面に限定される。
eicosane
coating
ethanol
liquid
eicosane
+
ethanol
solenoid coil
Rb
380 K
solid eicosane
+
liquid ethanol
図 3: くびれのあるガラス容器。 Xe 原子はエタノール
に容易に溶け,液体内だけでなく液相と気相を行き来
する。 くびれにより,Xe 原子の移動を抑制する。 容
器の内径は 9 mm で,長さは 21 mm である。(a) 容器
の内壁を重水素化エイコサンでコートした。 コートの
平均的な厚さは 0.16 mm である。(b) エイコサンの融点
より温度を上げると,エイコサンはエタノールに溶け
る。 あらかじめエイコサンを秤量し,均一なエタノー
ル溶液を得る。(c) 冷窒素ガスでガラス容器を急冷する
と,容器はエイコサンの微小な結晶でみたされる。
3. コートのない容器
図 1 に示す Xe 原子のスピン緩和レートの一部を
拡大して描くと,図 4 のようになる。 低温側の温
度依存している部分は,エタノール分子 (ethanol-
d6 ) との磁気双極子相互作用による緩和である。室
温付近で,容器の内径を 9 mm () から 18 mm (♦)
に変えると,容器が大きいほど緩和レートが小さ
くなっている。 しかし,その変化はわずかなので,
Xe 原子が拡散で広がっているのではないことがわ
かる。 磁場依存性が見られないのは,B0 = 5.4 mT
と 0.1 T のどちらの共鳴周波数も,原子の運動に
よる磁場揺動の周波数より小さいからである。以
降では,内壁をコートしていないガラス容器中の
緩和レートと比較しながら,コート容器中の緩和
レート,そして,溶液中の核スピンのふるまいを
議論する。
4. コート容器
ガラス容器の内壁を,図 3(a) のように重水素化
エイコサン (eicosane-d42 ) でコートした。 このと
き緩和レートは図 5 のようになり,どの温度でも
コートした方が緩和が抑えられている。 また,温
2.0x10-3
Decay rate [1/s]
Decay rate [1/s]
2.0x10-3
1.8x10-3
1.6x10-3
1.4x10-3
1.8x10-3
1.6x10-3
1.4x10-3
1.2x10-3
1.2x10-3
240
260
280
300
240
図 4: コートのないガラス容器内における偏極 Xe の重
水素化エタノール中の核スピン緩和。容器の内径と外部
磁場は,それぞれ,13 mm と 5.4 mT (◦), 18 mm と 0.1
T (♦), 9 mm と 0.1 T () である。破線は,磁場 5.4 mT
の観測値を内挿した曲線である。 エタノール分子との
磁気双極子相互作用による緩和レート ρet
dd は,260 K で
4.7 × 10−4 1/s である。 点線は,ρetdd + 1.06 × 10−3 ,実線
−6
T + 2 × 10−4 である。
は,ρet
dd + 3.5 × 10
度 260 K 付近では,緩和レートに極大が見られる。
このような実験結果を説明するため,Xe 原子とエ
タノール分子,Xe 原子とエイコサン分子との磁気
双極子相互作用について考察する。 相互作用が球
対称であると仮定し,磁気双極子緩和レートを次
のように表わす。
ρdd
2 2 2 2
μ0
= ( )2
γ γ S (S + 1)τc
(1)
4π 15b6 Xe D
× J(ωXe − ωD ) + 3J(ωXe ) + 6J(ωXe + ωD ) ,
260
280
300
Temperature [K]
Temperature [K]
図 5: 磁場 0.1 T における偏極 Xe 原子のスピン緩和レー
トの温度依存性 ()。内径 9 mm の容器の内壁を重水素
化エイコサンでコートし,Xe 原子を重水素化エタノー
ルに溶かした。 エイコサンの融点付近では緩和が速く
なっている。 破線は,図 4(◦) の磁場 5.4 mT における
−6
T である。
緩和レートの内挿値,実線は ρet
dd + 3.5 × 10
気体−固体界面の相関時間に 8 μs という報告があ
るが,我々のエイコサン表面に吸着した Xe 原子
は,エタノール分子と頻繁に衝突している。 した
がって,得られた相関時間は妥当な値といえる。
さて,外部磁場を 0.33 T にして緩和レートを測
定すると,図 6 のようになる。 つまり,260 K の
盛り上がりは 300 K あたりの高温側へ移動したよ
うに見えるものの,極小値は,0.1 T の場合と同程
度である。 磁気双極子緩和は,式 (1) に示すよう
に磁場の自乗に反比例して小さくなるはずである。
コートにより緩和は多少抑えられたが,大部分は
ここで,τc は揺動磁場の相関時間,J(ω) = 1/(1 +
壁による磁気双極子緩和ではないことがわかった。
ω2 τ2c ),γXe (< 0) と γD (> 0) は,それぞれ,キセ
また,磁場とともに緩和が速くならないので,溶
ノンと重水素核の磁気回転比,ωi = γi B0 ,μ0 は真
液中の化学シフト異方性による緩和でもない。
空の透磁率, b は Xe と重水素核の平均距離,そし
て S は重水素の核スピンである。実際に観測する
5. 混成媒質中の緩和
緩和レートは,Xe 原子が液体・界面それぞれのサ
図 3(c) に示すような混成媒質に,偏極 Xe 原子
イトに存在する確率で重みがつけられる。 実験で
を溶かし,緩和レートを測定した。 この媒質の特
は緩和レートの温度依存性を測定するが,温度変
徴は,微小結晶の集合体なのでエイコサンの表面
化により壁への吸着量が変化するとともに,運動
積が,コート容器に比べ非常に大きくなっている
の激しさ,つまり τc が変化する。ここで,τc J(ω)
ことである。 また,壁のコートがはがれているも
を τc の関数と見ると,τc = 1/ω で極大となる幅
のの,結晶の集合体により容器全体にわたる対流
広の共鳴が存在する。 そこで,260 K における増
は減衰し,ガラスの壁による緩和は一部の Xe 原
大を共鳴と仮定すると,τc = 0.3 μs が得られる。
2.0x10-3
Decay rate [1/s]
Decay rate [1/s]
2.0x10-3
1.8x10-3
1.6x10-3
1.4x10-3
1.8x10-3
1.6x10-3
1.4x10-3
1.2x10-3
1.2x10-3
240
260
280
240
300
260
280
300
Temperature [K]
Temperature [K]
図 6: 外部磁場 0.33 T における内径 9 mm のガラス容
器内の重水素化エタノール溶液中 Xe 原子のスピン緩和
レート。 コートなし () とコートあり () を比較した。
破線は,図 4 (◦) の磁場 5.4 mT における緩和レートの
−6
T である。
内挿値,実線は ρet
dd + 3.5 × 10
ノールの混成媒質に溶けた偏極 Xe 原子のスピン緩和
レート ()。 エイコサンの融点付近では緩和レートが
大きい。 破線は,図 4 (◦) の磁場 5.4 mT における緩和
レートの内挿値である。
子にしか及ばない。 この媒質の構造は,1回の測
[今後の研究の方向,課題]
定に要する1時間程度では崩れない。以上のよう
な特徴を持つ媒質中でスピン緩和レートを測定す
ると,図 7 のような温度依存性が得られる。 つま
り,エイコサンの表面積が格段に増加したにもか
かわらず,緩和レートはせいぜい 20 % の増加で
ある。 したがって,緩和の大部分はエイコサンで
はなく,エタノール分子との相互作用によるもの
である。
図 4 に戻ると,緩和レートの温度依存性のうち
室温付近の平坦な部分は,実は温度とともに増加
する成分が隠れていると考えた方が,実験値をう
まく説明できる。その成分は,スピン―回転緩和
であると予想される。 以上のような緩和レートの
温度,磁場,容器サイズ,そして,表面積依存性
を総合すると,有限サイズの容器をみたしたエタ
ノール溶液中のスピン緩和は,
et
ei
glass
ρet
(uncoat) },
dd + ρSR + { ρdd (coat) or ρ
(2)
と表わすことができる。ここで,第 1 項はエタノー
ル分子との磁気双極子緩和,第 2 項はエタノール
分子とのスピン−回転緩和,第 3 項はコート剤の
エイコサン分子との磁気双極子緩和,そして,第
4 項はガラス表面での緩和である。
図 7: 外部磁場 0.1 T におけるエイコサン結晶とエタ
エタノール溶液中の Xe 原子の核スピン緩和は,
主に,エタノール分子との磁気双極子相互作用と
スピン−回転相互作用によって生じることがわかっ
た。それに加え,壁をパラフィンでコートするこ
とによりスピン緩和を抑制できることを示した。
また,溶媒分子との磁気双極子相互作用では高温
ほど,スピン−回転相互作用では低温ほど,緩和
レートが小さくなる。 つまり,溶媒ごとに緩和
レートが最小になる温度が異なることが予想され
る。しかし,本研究で使用したエイコサンの融点
は約 36 ℃なので,緩和レートを広い温度範囲で
調べることはできなかった。 今後,偏極 Xe 原子
の保存に最適な温度を求めるため,エイコサンよ
り融点の高い,分子量の大きな重水素化パラフィ
ンでコートし,緩和レートを測定する。
[成果の発表,論文等]
1) K. Ishikawa, T. Yamamoto, and Y. Takagi : Surface relaxation of polarized Xe atoms dissolved in deuterated ethanol, J. Magn. Reson. 179/2, 234-240 (2006)
2) T. Yamamoto, K. Ishikawa, and Y. Takagi : Spin relaxation of polarized Xe atoms at the liquid-solid interface, The 8th International Conference on Magnetic
Resonance Microscopy, P38 (2005)