外国為替の 外国為替の歴史 ④ 1980 年代 プラザ合意 プラザ 合意と 合意 と ル - ブル合意 ブル 合意 変動相場制移行後もドルの信認低下は止まらず、経済成長の鈍化、貿易収支の悪化、労働生産 性の低下、またオイル・ショックの影響もありインフレは長期化することとなりました。同時 に米国からの資本流出が始まり、急激にドル安(1978 年、1 ドル=177 円)の流れが強まりま した。 このドル安の流れを阻止するため、1978 年 11 月当時のカーター大統領は、公定歩合を 1.0% 引き上げ 9.5%とし、為替介入などを盛り込んだドル防衛策を実行しました。その結果、高金 利政策が功を奏し海外からの資本流入を呼び起こし、ドル高への流れに転換しました。このド ル高政策は、次期レーガン大統領へと引き継がれていきました。 1981 年にレ ーガン大統領が発表した経済政策はレーガノミクスと呼ばれ、物価安定のための通貨抑制、大 幅減税による生産力の増強、規制緩和、小さな政府の実現の 4 大テーマからなり、「強いドル 政策」を継続することになりました。しかし、結果的にこのドル高政策は、米国の輸出競争力 を低下させ貿易赤字の拡大を招き、更に、大幅減税策による財政収支の悪化を招くことになり、 1985 年の米国経常赤字は史上最高となる 1177 億ドルを突破し、米国を 71 年振りとなる純債 務国へと転落させることとなりました。 経常赤字が史上最高となった 1985 年 9 月、NYのプラザホテルでG5(日本からは当時の 竹下登大蔵大臣が参加)が開かれ、問題となっていたドル高を是正するために協調介入(G5 各国通貨の 10~12%切り下げ)を実施する事に合意しました(プラザ合意)。プラザ合意の 最大の目的は、ドル安政策によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減少させることにあ りました。 G5声明時 1 ドル=240 円台だった円相場は、日・米・西独の 3 国協調介入により、一年半後 の 1987 年 2 月には、1 ドル=140 円台まで円高ドル安が進みました。しかし、今度は行き過ぎ たドル安に歯止めが効かなくなり、1988 年 2 月 22 日、ドル下落を抑制するためパリのルーブ ルでG7が開かれ、為替レートを当面の水準周辺に安定させるための合意が成されました(ル ーブル合意)。 1 提供:SBI リクイディティ・マーケット株式会社 お客様は、本レポートに表示されている情報をお客様自身のためにのみご利用するものとし、第 三者への提供、再配信を行うこと、独自に加工すること、 複写もしくは加工したものを第三者に 譲渡または使用させることは出来ません。情報の内容については万全を期しておりますが、その 内容を保証するものではありません。 また、これらの情報によって生じたいかなる損害について も、当社および本情報提供者は一切の責任を負いません。 本レポートに表示されている事項は、投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、勧 誘を目的としたものではありません。投資にあたっての最終判断はお客様ご自身でお願いしま す。 2
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