第10回(7/16) 普仏戦争 — 籠城のパリ132日 —

横浜市立大学エクステンション講座
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第10回(7/16) 普仏戦争 — 籠城のパリ132日 —
Ⅰ なぜ今、普仏戦争なのか
(1) 幕末維新の展開への影響
普仏戦争当時、日本は幕末維新の真只中にあり、普仏戦争は日本内の動乱や新政府樹立
の行方に強い影響を与えた。また、普仏戦争は 33 年後の日露戦争(1904~05)の展開お
よび戦法に、ひいては第一次世界大戦のそれにも大きな影響を与えた。
(2) 20世紀の2度にわたる世界大戦の根因
2度の世界大戦の始まりが独仏の確執にあることは周知のとおりである。普仏戦争に敗
れ、アルザスとロレーヌ州を奪われたフランスはドイツに対する報復の機会を窺っていた。
それが第一次大戦の始まりである。この戦争でドイツは英仏連合軍と互角以上の戦いをし
ながらアメリカの参戦によって不利に立たされ、結局は敗退する。こうして今度はドイツ
側に怨念が残り、それが第二次世界大戦を呼び込むことになる。第一次大戦で 2,500 万、
第二次では 5,000 万の死者をだす。第二次大戦後はうってかわり普仏両国は協調路線を歩
み、現在にいたる。
(3) 戦争は死に絶えたのではない
現代の日本人にとって戦争体験はかなり風化している。しかし、戦争は死に絶えたので
はなく、それはとつぜんやってくる。始まり、展開、帰結には古今東西において共通する
要素がある。この講義でとりあげる封鎖・食糧危機・死の恐怖などは今の 70 代以上の年
配者はイヤというほど味わいご存じだろうが、生まれてこのかた飽食一辺倒で育ってきた
今の若者にはまったく理解できないのかもしれない。古今東西の差を問わず戦時下では辛
さ・苦しみを感じる点ではみな同じである。一世紀半前の戦争の中から古今に共通する要
素を一つひとつ洗い出し、その悲惨さと教訓を検証してみるのも意義深いことであろう。
Ⅱ 普仏戦争とは何か
普仏戦争は 1870~71 年、プロイセンおよびドイツ諸邦 4 か国の連合軍とフランスのあ
いだで繰りひろげられた戦いである。
戦争は 1870 年 7 月 19 日の宣戦布告でもって始まり、
翌年 5 月 10 日の講和条約によって終結した。その間にドイツの国家統一がなされ、フラ
ンスではパリ=コミューンという内乱が起きた。
講和条約の結果、①フランスはアルザスとロレーヌをドイツに割譲し、②50 億フランの
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賠償金を払い、③その賠償金を支払い終えるまでドイツ軍によって占領された。これがフ
ランス側に強い怨念を積み残すことになり、第一次大戦の遠因となった。
(1)原因
普仏戦争は、55 年前のウィーン条約がもたらしたヨーロッパの平和に対し、独仏双方が
不満をもったことに発する。ウィーン条約はナポレオン戦争を終結させた講和条約だが、
この戦争で痛めつけられたプロイセンなどドイツ諸国はフランスへの怨念をいだいた。ド
イツが戦争に蹂躙されたのは民族としての一体性をもたなかったからだ、との自覚から統
一国家形成への機運が起こる。一方、敗北国フランスでは、同条約がフランスから奪った
軍事的・外交的自主権を取り戻そうとする思いが残った。
ウィーン体制は戦争当事国双方から歓迎されなかったにもかかわらず、その後百年も続
いたのはヨーロッパで珍しいことである。1815 年から 1914 年までの百年間は不思議なほ
どにヨーロッパで戦争が少ない時期にあたる。大きな戦争はクリミア戦争と普仏戦争ぐら
いしかない。それは、紛争が起こりそうになると、利害関係国が一堂に会して未然に防ぐ
という仕組み(ウィーン体制)による、そして、イギリスが海外進出に余念がなくヨーロ
ッパの紛争にかかわりもとうとしなかったことも影響している。
1815 年から半世紀以上も続くヨーロッパの平和にひび割れを生じさせたのが普仏戦争
である。それはデンマーク戦争(1864)と普墺戦争(1866)に勝利をおさめ、統一国家
ドイツの完成をめざすプロイセンが、それを妨害しようとしてフランスに挑んだ戦いであ
る。13 世紀来の 650 年間におよぶ独仏対立抗争史上、初めてドイツが開戦の主導権をと
った。フランスとの戦争は早晩不可避とみたプロイセンは着々と準備したのに対し、フラ
ンスはヨーロッパの古い政治構図と軍事的優越の思い込みにとらわれ、プロイセンへの警
戒を怠った。
(2)結果
普仏戦争は久方ぶりの大国どうしの一騎打ち戦争だったが、意外なほどに呆気ない結末
を迎える。プロイセン宰相ビスマルクの挑発(エムス電報事件)に乗せられ準備不足のま
ま戦争に突入したフランスは、大方の予想を裏切って大敗を喫した。勝利したプロイセン
は勢いを駆って国家統一を成し遂げ(ドイツ第二帝国)
、強力な軍事国家としてヨーロッ
パおよび国際政治の中央舞台に進み出た。負けたフランスはその後しばらく脇役に甘んじ
ることになる。ヨーロッパの政治地図において新生ドイツと新生イタリアが登場し、ロシ
アとフランスが一時的に退潮し、これらとイギリスおよびオーストリアを含めた列強6か
国体制がしばらくのあいだヨーロッパの平和維持に責任をもつことになった。この集団安
全保障体制は半世紀前のウィーン体制(列強5か体制)に似ているが、明確に異なる点も
ある。国際政治の主役がフランスからドイツに移り、紛争の震源地がバルカン半島に移っ
たことだ。
だが、独仏間の角逐は終わったのではなく、新たな始まりでもあった。一国で戦うのは
もはやむりと悟ったフランスは多面的な同盟政策を展開する。
その努力の甲斐あって 1890
年代から世紀転換期にかけてロシアとイギリスという強大な同盟国を得ていく。一方のド
イツはオーストリアおよびトルコとの同盟で我慢せざるをえなくなる。かくて二分された
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ヨーロッパはその十年後に決戦(第一次世界大戦)に突っ走るのである。普仏戦争の結果
は重要であるため、もう少し細かく見ていこう。
【ドイツへの影響】
① 小ドイツ主義から大ドイツ主義への機運を醸成
・ドイツ統一はオーストリアを微妙な位置におく→全統一への悲願→ヒトラー
・見せかけの統一(集権主義と連邦主義のせめぎあい)→完全な統一へ
① 恐仏病
・対仏予防戦争論
・対仏包囲網(同盟)政策
・対英協調路線
② 内治主義への転換
・牽制策(左派 VS 自由主義;自由主義 VS ユンカー;ユンカー VS 左派)
・普仏戦争の勝利を機に自由主義と民族主義が分裂
③ ヘゲモニー
・国民的自負心
・ドイツ賛美と畏怖
・永続的戦争の必要性とビスマルクの非戦主義の矛盾
④ 工業化
・50 億フランの賠償金により投資・企業ブームの到来
・やがて「大不況」到来と離農現象
【フランスへの影響】
① アルザス=ロレーヌの失陥
・物的喪失
・精神的喪失
・仏独和解の障害
・アルザス=ロレーヌ住民が資産を携えて仏へ大量移住
② 国民の精神的分裂
・コミューン(パリ、リヨン、マルセーユ、トゥールーズ、ナルボンヌ etc.)
・占領地と非占領地における被害感の相違
・戦争世代と戦後世代のあいだのギャップ
③ 対独復讐熱
・
「小国」に成り下がった意識から仏は英・露に接近
・対ドイツ観の急変(途上国ドイツ → 先進国ドイツ)
・憎悪と崇拝というアンビヴァレント感情
④ 反軍国主義が著しく退潮
・軍備拡張と軍制改革
・国論統一の必要性(道徳主義の時代)
・自由主義者の国粋主義者への転向 → ブーランジスムとドレフュス事件
・ミリタリズムの教育への浸透
・戦跡保存、記念館設立、戦友会、戦史出版
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・フランス革命来の精神主義に頼る愛国主義の退潮
⑤ 共和政の安定
・敗戦責任は旧帝政にありという認識
・愛国主義の根本は共和政なりという認識
・国民的和解は軍国主義に改宗した共和主義のもとでしか成り立たないとの認識
・社会主義勢力の台頭により政治諸勢力の均衡点が左に遷移
・
「大不況」からの離脱願望(ベレポックの到来)
⑥ 植民地主義の台頭
・人口圧(アルザス=ロレーヌ住民がフランス国内に大量移住)
・資本過剰と新投資先(イタリア統一とスペイン政情不安定で新市場が必要に)
・アルザス=ロレーヌ失陥の代償を外に希求
【国際政治への影響】
① 普仏戦争の国際的影響度は低い
・イギリスは不干渉主義を継続
・イタリアとロシアは普仏戦争の最中に「漁夫の利」を獲得
・貿易は阻害されず(交戦国独仏が他国に特需を喚起)
・戦前・戦後でヨーロッパ人の対独・対仏観が逆転
・戦争につきもののインフレが暴発せず
② 新たな勢力均衡の出現
・列強6か国体制が誕生
・フランスに代わりドイツのヘゲモニーが確立
・ビスマルク体制(長期平和)
・東欧とバルカンが新たな紛争の震源地になる
・ドイツの台頭によりイギリスの非同盟政策に異変が生じる(日英同盟へ)
・教皇権の失墜
③ 軍国主義の台頭
・ドイツ=モデルの軍拡競争の激化
・自由主義の明らかな退潮
・それまでの民族主義と自由主義の結託から民族主義と軍国主義の結託へ
④ 植民地争奪戦
・資源獲得と製品販路拡大をねらう植民地主義の台頭
・第一次世界大戦の前提条件が出そろう
⑤ 列強による共和政の認知
・共和政は脅威でなくなる(cf. それまでは共和政は諸国にとって恐怖の的)
・ドイツのヘゲモニーの“重石”としてフランスの存在感が増す
Ⅲ 最後の王朝戦争としての普仏戦争
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近代に起こった戦争を王朝戦争と国民戦争に分ける考え方がある。前者の代表格として
18 世紀の絶対主義時代戦争が、後者の代表格としてフランス革命戦争およびナポレオン戦
争が、そしてその究極のタイプとして二度の国家総力戦(第一次・第二次大戦)が挙げら
れる。簡単にいって、王朝戦争は限定戦争で規模は小さく期間も短い。対極的に国民戦争
は大規模で期間も長く、人的・物的資源を消尽するまで続く総力戦になりやすい。
封建戦争 → 傭兵戦争 → 絶対王政戦争(王朝戦争)
・・・国民戦争( → 国家総力戦)
国民戦争のきっかけとなったのはフランス革命である。その後、フランスでは王政ない
し帝政が再興して王朝戦争に戻ったことになる。そうすると、1870 年の普仏戦争は王朝
戦争と国民戦争のうち、どちらに属すと考えたらよいか。
あらかじめ結論づけるならば、普仏戦争は過渡期タイプの戦争であり、いわば最後の王
朝戦争、再現された国民戦争および国家総力戦に行き着く予兆を備えている。これを検証
するためには軍事学の観点から細かく洗ってみなければならないが、ここでは以下の5つ
の観点に絞って分析し、普仏戦争の性格を述べることにしたい。
戦争形態
王朝戦争
国民戦争
(1)最高責任者(開戦・終戦) 国王 or 皇帝
議会
(2)兵力
常備軍
常備軍+徴兵(国民皆兵)
(3)一般国民の関わり方
税負担のみ
全面協力
(4)戦闘形態
単一戦場、肉迫戦
戦場分散、肉迫戦+遠隔戦
(5)ロジスティック
備蓄
備蓄+現地徴発
(1)最高責任者
A.開戦・終戦イニシアティブをだれがとるか
普…・対デンマーク、対墺、対仏戦争のイニシアティブは国王
・普仏開戦に対し首脳部は楽観的かつ積極的だったが、国民一般は悲観的
・終戦については首脳部も国民一般も賛同
仏…・クリミア、イタリア、メキシコ、普仏戦争のイニシアティブは皇帝
・普仏開戦に対し首脳部は悲観的だったが、国民一般は好戦的で楽観的
・終戦については、皇帝が退位しており、国民戦争的な終結法をとる
B.動員令と宣戦布告の順序はどうか
・動員令が出ても戦争に行き着かないことは王朝戦争ではよく起こる
・動員令が出ると必ず戦争に行き着いてしまうのは国民戦争
仏…政府は議会に諮って開戦を決め動員令を出し、2日後に宣戦布告を出す
普…エムス電報事件で戦争不可避と悟った政府は直ちに動員令を出し、敵方の
宣戦布告を受け取ってから宣戦布告を出す
(2)兵力について
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A.避決戦主義の王朝戦争と決戦主義の国民戦争
王朝戦争の兵力はもっぱら常備軍すなわち国家がかかえる専門兵士(傭兵)である。兵
士の数はその国の経済力や国際政治の緊張度合いに依存するが、国民戦争と比べると兵力
は劣る。王朝戦争は 13 世紀ごろから始まり、その典型は絶対主義時代とりわけ 18 世紀の
戦争である。絶対王政期の国軍は次のような特徴をもっている。
① 国家がかかえる常備軍
② 歩兵・騎兵・砲兵の3兵体制
③ 兵站部の独立
④ 貴族のみから成る将校団
⑤ 兵学校での長期教練
国民戦争との比較で王朝戦争の特徴は避決戦主義であることだ。戦争なのに戦争を避け
るとは何ごとか!と怪訝に思われかもしれないが、じっさい、そうなのである。
① 武器発達が著しく破壊力が増し、戦闘での損傷が大きくなった
② 専門兵士の練成に時間がかかる
③ 糧食・飼料・弾薬の供給なしの継戦は不可能になった
これらの理由から、当面する戦争は次の戦闘準備が確保されてからでないと始められな
い。できれば、大きな軍勢を一度に繰り出して敵を威圧し、戦わずして敵を退却させるこ
と、または短期決戦で大勝利をおさめることに重点がおかれた。大量出血を伴う戦闘は正
当化されず、
「有能な将軍とは戦わないで勝つ将軍のことなり」といった格言さえ生まれ
た。たとえ戦っても年に数か月しか会戦しなかった。戦争が専門兵士に任されたというこ
とは民間人(=一般国民)が戦闘に無関係であることを意味した。
王朝戦争が国民戦争に転換するきっかけとなったのはフランス革命である。つまり、軍
隊の民主化が一挙に成し遂げられた。それは 1793 年 8 月の国民公会で「市民はすべて兵
士でなければならない、そして、兵士はすべて市民でなければならない」と叫んだ山岳派
のデュボア・クランセの言葉に象徴される。軍隊は以後、国民の軍隊であることを要求さ
れ、国家・国民の運命と一体のものとなり、軍隊内の貴族特権制は廃され、すべての等級
と業務がすべての兵士の前に開かれるようになった。軍隊内の平等は必然的に兵役義務の
平等に連なり、国民皆兵の原則が採用された。国民戦争の特徴をまとめておこう。
① 国民皆兵
② 死の前の平等
③ 戦争の凶暴化=敵軍民の無差別殺傷と略奪の合法化
④ 戦時統制経済
⑤ 銃後生活の統制
⑥ 科学と文化の軍用転換
そこで、普仏戦争の位置づけはどうなるか。結論からいうと、この戦争は王朝戦争と国
民戦争の中間に位置する。独仏ともに常備軍と徴兵の両方を繰り出しているという点で国
民戦争的だが、徹底的な殺戮や破壊行為を伴わなかった点では王朝戦争的である。
独… 動員 90 万、死者 5 万、負傷者 8 万 ・・・損失率 14% 捕虜 不明
仏… 動員 80 万、死者 14 万、負傷者 14 万・・・損失率 35% 捕虜 52 万!
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ナポレオン戦争以後の 19 世紀中の戦闘で 100 万以上の兵力を繰り出し、戦闘が半年以
上も続いた例は皆無である。普仏戦争に次ぐ戦争はクリミア戦争(動員 40 万)だが、3 年
間も続き交戦国の双方に激しい消耗を強いたが、戦闘そのものは基本的にクリミア半島の
セバストポリ要塞の争奪戦でしかない。この戦闘でロシア軍に 13 万、英仏トルコ連合軍
に 7 万の損失を出した。交戦国双方に損失率が 50%に達している点に注目されたい。
普仏戦争では動員数が大きいわりに損失率は意外と低い。損失というが、戦闘によるも
のよりもチフス、赤痢、インフルエンザなどの病気によるものが多い。最も特異なのは仏
軍の捕虜の多さである。52 万という数値は全兵力の 60%にも相当する。この 52 万という
数値は第一次大戦で仏軍が出した捕虜数 60 万に近い。第一次大戦では仏軍が繰り出した
総兵力は 840 万であるゆえ、捕虜率でみると 7%にしかならない。ここから、普仏戦争に
おいてフランス軍がいかに戦意に乏しかったかがわかる。
要するに、普仏戦争は戦闘規模において交戦国が持てる限りの力をふりしぼって戦う戦
争になっていないという意味でまだ王朝戦争的である。
B.動員方法
王朝戦争で戦うのは常備軍であり、交戦国のいずれか一方に大きな損失が出た段階で講
和となる。戦争の最中に兵の新規募集が次々におこなわれることはない。あっても例外的
で、募集の対象は専門兵士であり、一般国民が募られることはない。
一方、国民戦争で戦うのは常備軍と国民一般から徴兵された兵士の混成軍である。戦争
が長びいたとき、戦争最中にも徴募されるのはごくふつうである。軍隊は現役兵、予備役
兵、遊動兵から成る。現役の前に訓練兵がいる。それは開戦時における動員の順序でもあ
り、兵力の順でもあり、年齢の順でもあるつまり、戦争がないとき、現役兵は奉公期間を
終えると予備役兵になり、さらに加齢すると遊動兵になる。
さて、問題の普仏戦争だが、仏軍が多分に王朝戦争的である ― 途中で徴兵もなされる
が ― のに対し、独軍ははっきり国民戦争的である。
仏軍は現役5年、予備役4年という長い兵役期間に従ったが、この兵役を金銭で遁れる
ことができ、その意味で多分に傭兵に似ていた。軍編成は近代戦争に不向きの軍団中心で
あった。つまり、1軍体制下の 7 個軍団 21 個師団(!)から成った。プロイセンのよう
に総司令官と参謀総長が主宰する軍最高会議が設置されなかったため、情報集中と司令伝
達に遅滞が生じることになった。要するに、半世紀以上も前のナポレオン軍と瓜二つとい
うことだ。否、それより戦力で数段劣るといったほうが適切だろう。
仏軍は動員令がくだっても前線に揃えることができたのは僅か 20 万ちょっとにすぎな
い。予定では 35 万のはずだった。仏軍は過去の栄光に酔い痴れていた。ナポレオン三世
のもとでクリミア、セネガル、ヌーヴェル=カレドニー、イタリア、インドシナ、メキシ
コでの戦闘経験はあったが、これらの戦争は普仏戦争とはまるでレベルが違う。鉄道によ
る大量輸送と高性能の大砲の時代に突入しているのに、仏軍首脳部にそうした自覚が乏し
かった。電撃的な敵の侵入、突撃戦を無効とするような遠距離砲撃、仏軍はこれらをまっ
たく予想していなかった。
対するドイツは違う。独軍で即座に戦場に投入できたのは 48 万人、大砲 1,500 門で仏
軍の数倍に及んだ。ドイツは 4 軍体制下 11 個軍団を組み、機動力に富んでいた。プロイ
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センの場合は全員徴兵制であり、富者も貧者も兵役を遁れることはできない、その意味で
文字どおりの国民軍である。命令一下、全軍がいっせいにライン川をめざすことになって
いた。増援の予定をおりこみ、予備役兵の投入によりすぐに倍増できる手はずができてお
り、後備兵(ランドヴェール)は国内防備に専念できた。
プロイセン軍の強みは軍最高会議(大本営)の設営にある。これは戦後、列強のいずれ
もがこれをモデルとして真似る体制である。国王を長とするこの会議は陸軍大臣と参謀総
長の2極で支えられていた。陸軍大臣は人員補充、物資補給、救護体制、捕虜収容など後
方での支援活動を一手に引き受け、前線が後顧の憂いなく戦闘に専念できるよう配慮した。
参謀総長の役目は各軍の参謀長を統轄し、策戦計画を徹底させ、組織的展開を指令し、臨
機応変の処置を命じることだった。
対仏戦を想定した作戦計画はすでに一年半前に完成しており、事前計画が全軍に行きわ
たり軍隊の動員、集中、展開がきわめてスムーズに進んだ。プロイセン軍で傑出するのは
移動大本営の設置である。大本営には軍人だけでなく、外交責任のビスマルク、運輸・通
信・鉄道関係の官僚や占領地行政官から成る。この軍政・民政・外交を一手に統轄する移
動本部があるおかげで、ドイツ軍は機動力と戦術の柔軟性を維持することができた。
(3)民間人の関わり方
20 世紀の戦争では「前線 front」と「銃後 arrière」という用語がよく出てくる。前線と
は、交戦国双方の兵士が戦場で睨みあうときにできる数キロメートルから数百キロメート
ルに亘る長い線のことである。前線には塹壕がつきものである。味方の前線が敵攻撃で破
られると、背後に廻られ腹背から攻撃を受けることになり、決定的に不利になる。それゆ
え交戦軍双方とも前線を死守しようとするのである。銃後とは軍隊と戦時物資を送り出す
後方根拠地(都市)のことである。銃後と前線を結ぶのが通信線である。銃後を出発した
兵士は道中で通信線によって補給を受けながら前進し、前線に到達し敵と交戦する。
第一次大戦のときははっきり前線と銃後の区別はある。問題の普仏戦争だが、当時はま
だこの区別はなく、言葉さえない。当時の戦闘は野戦遭遇戦や要塞攻防戦が主であり、前
線をつくる必要がなかったのだ。もちろん、塹壕はあったが、それは要塞攻略のためのも
のである。つまり、要塞から射撃を回避すべくジグザグに塹壕を掘り進み、敵本拠地に近
づくのだ。
銃後は兵站基地ともなる処で、都市の場合が多い。そこには編成・給養中の兵士がおり、
民間人が一般の生産活動はむろん、戦争を支えるための生産活動に従事している。特に戦
場が近ければ軍事活動一色になる。守勢一辺倒に立たされたフランス側ではパリを死守す
るために、ドイツからパリに到る街道筋の都市はすべて要塞化されていた。敵が前進した
ときここで応戦する手はずになっていた。だが、首都防衛のための防御ラインはまだ粗略
なもので、ところどころで防ぎようのない裂け目ができていた。
これら防御陣地都市には兵隊だけでなく市民もいたから、前線と銃後の区別はない。パ
リ、メッス、ストラスブール、オルレアンのように要塞化された都市がドイツ軍によって
包囲されたときは軍・民の区別はなくなる。その間、一般の経済活動は麻痺し、軍・民と
もに耐乏生活を余儀なくされ、糧食の消尽が崩壊を早める面も出た。
普仏戦争では戦争一般について共通する要素が顔を覗かせている。つまり、戦闘の悲惨
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を味わったと場所とそうでない場所とでは都市民あいだに戦争観や対ドイツ観をめぐっ
て大きな亀裂が生じたことである。簡単にいえば、戦争体験の有無ということだ。
普仏戦争が前時代タイプの戦いであったことを示す別の特徴もある。
第一に、戦闘に無関係の民間人は身の安全性を保障され、戦場を横切り往来することす
ら原則的に自由だった。その際に身分証明書と証拠さえ携帯すれば身柄を拘束されないば
かりか、通常の経済活動を営むこともできた。これは占領地でも同様である。ただし、戦
場横断はスパイとまちがわれ、検問所に到達する前に銃撃を喰う危険はあったが。
第二に、ゲリラ戦はほとんどおこなわれず、したがって、無差別の殺戮行為もほとんど
なかった。その意味でも普仏戦争は王朝戦争的であった。
第三に、普仏戦争では、かつて大ナポレオンが敵地でおこなったような強制徴発はおこ
なわれなかった。それが皆無というわけではないが、ドイツ軍が徴発したときは必ず徴発
証書を残したため、のちにフランス政府がドイツに代わって弁済することになった。これ
が第一次世界大戦となると、敵地で強制徴発が頻繁におこなわれ、民間人が大きな被害を
蒙った。すなわち、前線と銃後の別は戦場と後方支援基地の区別だけになり、銃後は前線
を支えるゆえに略奪や攻撃してもかまわないというふうになっていくのである。
(4)戦闘形態について
A.戦場連携
王朝戦争では野戦遭遇戦と要塞攻防戦が主な戦闘形態である。各軍司令部は総司令部か
ら大まかな戦略目標を受け取ると、各軍司令官の責任において分散して戦場で戦う。結果
として各戦場は分散し孤立する。通信手段が騎兵・徒歩・伝書鳩しかない状態のもとでは、
戦場を連携させようにもできなかったのだ。
一方、国民戦争では各戦場の情報収集と戦闘の指令を総司令部が統轄する。戦場を連携
させることによって戦いを効率的に進めるためである。20 世紀の第一次大戦、第二次大戦
を例に引いて説明したほうがわかりやすかろう。
各戦場が何百キロ、何千キロメートル離れていても、それらは全体的戦略目標の必要不
可欠な構成部分をなしており、一部で負けても、それの全体に及ぼす影響は甚大であった。
無意味な戦場というのは結果としてならまだしも、目的としては絶対にありえない。戦場
連携を司る総司令部 ― 第一次・第二次大戦を想起されたい! ― には必ず陸・海・空軍
を統轄する参謀本部があり、それらの即座の連携を可能とする通信設備があった。戦場は
原野、海上(中)
、空中、要塞・都市攻撃など、戦力ある処すべてとなった。
普仏戦争ではどうか。結論からいえば、基本的に野戦遭遇腺と要塞攻防戦が主だった。
因みに、それには普仏両軍の戦略上の違いも影響している。つまり、仏軍が要塞防御にこ
だわったのに対し、プロイセン軍は野戦にこだわった。そのため、守る側は兵を外に繰り
出さず、攻撃する側も要塞を包囲するのみで戦闘にならなかったのである。通信技術上の
制約も影響する。電信のために電線を敷設しなければならず、敷設しても敵方によって切
断されがちだった。
とはいえ、仏軍とは異なり、独軍には多少なりとも、各戦場を結ぶ連携作戦の考え方が
あった。モルトケ参謀総長は一つひとつの戦闘を攻撃か、敵戦力の釘づけか、持久戦かの
位置づけを明確にしたうえで戦闘を指導した。モルトケはとかく決戦を急がせるビスマル
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クを差し置いてパリ包囲にこだわったのも、メッス要塞に引きこもったまま動かない仏軍
主力 18 万の動静を気にしていた。パリへの本格的攻撃を3か月も引き延ばしたのは、も
し早まってパリ攻撃に出るとメッス軍の出動を招き、自軍が挟撃される危険性を危惧した
からだ。モルトケに戦場連携の思想があったことがわかる。交戦国に一方に戦場連携の思
想が出ている意味で、普仏戦争は王朝戦争から国民戦争への過渡期タイプのものである。
B.用兵術
第一次大戦で初めて陸・海・空の三次元の戦いとなった。普仏戦争当時、陸軍と海軍は
あっても空軍は存在しない。よって、交戦国双方とも 17 世紀来の歩兵・騎兵・砲兵の3
兵方式で戦った。そこで使われた用兵術はナポレオン戦法のそれである。
(1)まず、砲撃により敵陣形を崩し、
(2)歩兵による前進射撃
(3)騎兵の突撃で敵陣形を徹底的に壊乱する
(4)白兵戦に突入
(5)騎兵による敗残兵の掃討
ドイツ側に用兵術の若干の変化が見られる。砲撃を重視して歩兵による接近戦を節約し、
騎兵を突撃とともに偵察行動にまわした。
プロイセン軍は鋼鉄製の後装螺旋砲クルップをもっていた。射程距離が2~3千メート
ルで恐るべき爆薬砲弾を放り、装填が速く 10 秒ごとに放つことができた。仏軍は後装砲
をもっていたが装填に時間がかかり、30 秒ごとにしか放てなかった。プロイセン軍はすば
やく高所に陣取り、波状攻撃をしかけてくる仏軍を砲撃で撃退した。事実上の決戦となっ
たスダン攻防戦(1870 年 8 月 31 日~9 月 1 日)で、独軍側から 540 発の砲弾が発射され
たが、そのうち 110 発はスダン市街を見下ろす南方のフレノア高地から放たれた。砲兵は
敵歩兵を寄せつけなくなったのである。
仏軍側は白兵戦を決戦ととらえ、それに追い込む手段として歩兵攻撃を重視した。それ
には理由があった。仏軍はシャスポーという新鋭銃を保持していた。それは、ナポレオン
時代の銃の4~5 倍1,000~1,200 メートルの射程距離をもち、
発射時に煙を出さなかった。
プロイセン軍もドライゼ銃という後装銃をもっていたが、その射程は 600 メートルにすぎ
なかった。接近戦では明らかに仏軍側に分があったのだ。
砲兵で独軍に、歩兵で仏軍にそれぞれ分があったが、大砲と銃の闘いでは前者が有利で
ある。なぜなら、歩兵や騎兵が敵兵に近づく前に、独軍が繰り出す大砲でやられてしまっ
たからだ。かくてナポレオン戦法は過去のものとなった。騎兵は山地と畑地を縦横に駆け
巡れる利点を活かし、策敵行動と情報収集に従事することになった。とはいえ、歩兵の役
割が終わったのではないことも事実。十分な装備と訓練を施された歩兵は前線持久力の主
力であるという役割は失っていない。
C.攻撃必ずしも有利ならず — 攻撃と防御の均衡 —
野戦会戦主義と要塞防御主義では戦闘にならない、と前に述べた。ふつう高所に位置す
る要塞を前にして、銃と大砲の両方が備えられており、銃と砲の射程距離の差が倍半分の
差しかない条件のもとでは包囲側が不用意に突入するのは危険だった。籠城側の不利な点
は備蓄に制約があることだ。パリやメッスが降伏開城したのは飢餓のためである。攻撃側
が圧倒的に有利になるのは、大砲の射程距離が何十キロメートルにも延び、新式大砲(臼
122
砲、曲射砲、ロケット砲)が登場し、空からの要塞攻撃が可能となった第一次世界大戦を
待たねばならない。
仏軍はすでに機関銃を備えていたが、それはまだ実験段階で、軍内部でも操作法や利用
法を知らない者が大半であった。ハードができていてもソフトがないとまるで役に立たな
い代表例であった。
とはいえ、要塞を時代遅れの防御手段、過去の遺物と見なしてはならない。要塞は砲兵
隊の進歩に適応することによって十分もちこたえた。第一次大戦でドイツ側がヴェルダン
要塞を過少評価したため、電撃作戦で破竹の勢いを結果的に挫かれてしまったもとを訊ね
ると、この地において地下と地上を縦横に結び難攻不落となった要塞のおかげである。
要するに、攻撃側と防御側がまだ均衡しているという意味で普仏戦争はまだ古いタイプ
の戦争である。
(5)ロジスティック
A.モルトケ作戦と鉄道
ロジスティック(兵站補給)も過渡期にあった。兵と軍事物資の輸送は馬車・徒歩・鉄
道である。鉄道の登場に斬新さがある。そして、それに関連するが、電信も史上初めて実
戦に投入された。鉄道の傍らには必ず電信線が敷設された(それゆえに切断も容易だった)
。
鉄道を実戦に初めて使ったのは意外なことにフランスである。1859 年春のイタリア戦争
(仏墺激突)で、仏軍 12 万は鉄道によって僅か 11 日間でロンバルジア平原に進出し、オ
ーストリア軍の度肝を抜いた。徒歩と馬車での移動ならば 2 か月もかかるところだった。
オーストリア軍の戦闘準備が整わないうちにとつぜん敵が目前に現われたものだから、墺
軍狼狽して大敗を喫してしまう。
イタリア戦争の推移を鋭く追っていたプロイセンのモルトケは鉄道の効用を悟り、鉄道
網の整備を急がせた(フランスに向けて6本も)
。イタリア戦争当時はまだ兵隊と馬の輸
送だけだったが、モルトケは兵馬だけでなく、軍需品の一切を鉄道で運ぶことを考えた。
1866 年の普墺戦争で実験的に試し、来るべき普仏戦争に備えた。モルトケは軍隊内に鉄道
部と電信部を創設した。
高密度のダイヤグラムから成る鉄道輸送計画は電信で暗号化された命令により、関係者
に伝達された。受信者はきわめて複雑な過程を精確かつ迅速に実行に移した。動員令が下
ってから数時間以内に軍隊の移動体制は整った。かくて、独軍の電撃作戦は即座に行動に
移された。独軍は迅速に敵地に侵入し、占領地での鉄道網を自軍の利益に転じさせた。フ
ランスの鉄道員がサボタージュを組織する間もない出来事であった。すべての鉄道線がパ
リに収斂するフランスのネットワークがフランス側に不利に働いた。つまり、どの経路を
辿ってもパリに到達するのだ。
B.鉄道と電信の結合
電信は何百キロメートルも離れた総司令部と前線の交信を瞬時のうちにやり遂げる。そ
れまでの軍太鼓、ラッパ、手旗信号を時代後れのものとした。電信は政府と戦場指導者の
あいだを緊密に結んだだけでなく、前線に派遣された新聞特派員が戦闘のもようを逐次報
告のかたちで銃後および外国に届けるのだ。前線での戦況はたちどころに銃後の知るとこ
ろとなった。
123
ここで2種類の面倒な問題がもち上がった。一つは軍事機密が公然化することであり、
もう一つは世論の動揺である。1870 年 8 月下旬、潰走する敵影を見失ったモルトケが仏軍
の位置を知ったのはなんと!パリから送り届けられた新聞報道によってであった。そして、
前線と銃後が鉄道と電信により密接につながることによって、戦場の現実はたちどころに
銃後の知るところとなった。勝利は銃後の戦意発揚に結びつくが、敗北は銃後の動揺に直
結した。戦争最中にヒト、モノ、情報の交換を通して前線と銃後が共鳴しあう現象がしば
しば戦争遂行上の障害となりうることを為政者に知らしめた。これは第一次大戦でも再現
する。報道管制を敷けば済む問題だが、報道管制を敷けば敷いたで、また別の問題を引き
寄せる。つまり、無報道は敗戦の聴講ではないかという疑心暗鬼がそれである。
C.ロジスティック無視の仏軍
仏軍がロジスティックで重大な欠陥をかかえていたことは改めて述べるまでもない。開
戦決定とともに即座に鉄道を陸軍管轄下においたのはよいが、事前準備がなく綿密なダイ
ヤグラムをつくっていなかったため、たちまち大混乱に陥った。出発駅における車両の不
足、目的駅で有りあまるという事態になった。兵士が目的地についても、将校団が着いて
いない、荷物が着いてない、食糧もないというとデタラメは日常茶飯事だった。肝心の医
療物資はパリに残ったままで、救急医療隊の編成と救急用品の持ち出しが始まったのは戦
闘開始から数日後というような惨状だった。
特に深刻だったのは軍用テント不足、軍用鍋の不足、食糧の不足であった。このため、
仏兵はしばしば飲まず、食わず、休まずで闘わなければならなかった。要するに、仏軍は
半世紀も前の軍隊と変わらなかったということである。戦う前にすでに勝負はついていた
のだ。
Ⅳ 戦争と国民
(1)民衆の反軍思想
戦争と国民の関係を問題にする場合、ふつうは次のような構図になる。国民は為政者が
勝手に始めた戦争に協力させられ、もっぱら受動的ないしは被害者の立場におかれる。つ
まり、本人の意思とは無関係に兵隊として召集され、留守家族は塗炭の苦しみを味わう。
国が勝利したとしても夫・息子を亡くしたりして種々の後遺症を引きずる。敗戦の場合は
それらに加え、重税、物資不足、インフレに悩まされる…。戦争にはたしかにそうした面
があり、しかも、勝っても負けても、戦争は次の戦争を招き寄せる。戦争は国際紛争の解
決手段として限られた役割しか果たさないものである。
だが、ここで敢えて問題にしたいのは、開戦直前の国民というのがはたして受動的立場
に終始したかという疑問だ。つまり、私は「国民=反軍国主義、無垢の受動的民」という
命題に疑いを感じている。実をいうと、普仏戦争における民衆は主戦論に傾いていた。
「軍国主義 militarisme」はフランス第二帝政期に生まれた用語である。帝政の軍隊は擬
似徴兵制に従い、7年間も軍隊で過ごすことは獄中生活にも等しい拘束であり、上官の命
令は絶対であり、一般徴兵に昇進の機会はなく、軍隊の頂上部はすべて貴族出身者に占め
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られていた。軍規が厳しく適用されたのは低い階級の兵士のみで、将校団は軍規なきに等
しく酒色・賭博・遊興に明け暮れしていた。だから、入隊経験者はむろん、兵役を免れた
民衆も軍隊を忌み嫌った。パリ=コミューンのとき軍隊の指揮官を選挙で選ぶ方式を採用
したのもこのような反軍思想による。
(2)為政者に強い意志があるとき、戦争が起こる
戦争は敵対国どうしが満をきたして開戦にいたるとみなされがちだが、実をいうと違う。
普仏関係は戦争直前になるまでそれほど悪くはなかった。為政者においても一般国民にお
いても同じだった。エムス電報事件のショックで開戦に向かうのだが、その経緯も複雑怪
奇である。エムス電報に接したフランス閣僚会議では皇帝も、首相も、他の閣僚の大多数
が開戦に反対だった。理由は戦争の準備が整っていないというのだ。議会野党も概ね戦争
に反対だった。その理由がふるっている。戦争をやればフランスが勝つのはあたりまえ、
それが帝政強化につながるわけで、そうなっては困るのだ。
主戦論に傾いていたのは陸軍大臣ルブーフ元帥と外務大臣グラモンだけだった。この開
戦忌避の空気は僅か2日間で大転換を遂げ、宣戦布告になってしまうのだ。何がそうさせ
たのか? ― 民衆である。主戦論への気運を一気に盛り上げたのは「ベルリンへ!ベルリ
ンへ!」の民衆による街頭デモであり、深夜開会中の議会(ブルボン宮殿)を包囲し気勢
を挙げた群衆の力である。
「戦争反対」を叫んだ者が一人だけいたが、彼は群集に担がれ
てセーヌ川に投げ込まれた。ジャーナリズムのほとんども主戦論を唱えていた。もしジャ
ーナリズムが反戦を唱えていたなら、流れは戦争回避に進んだのはまちがいない。
素人集団の介入、度をすぎた楽観主義の横行といってしまえばそれまでだが、それまで
の「帝政憎し」の感情が一瞬のうちに氷解し、官民挙げての挙国一致態勢が生まれた。
それには背景がある。1866 年来の長期の深刻な経済不況の弱まる気配はいっこうになく、
慢性的な失業状態がパリの製造業・商業・サービス業を覆っていた。開戦決定のニュース
は集団ヒステリーを生んでパリの民衆の上にのしかかる暗雲を一挙に消し飛ばしてしま
う。勝利を確信する民衆は戦端が開かれるのを今か今かと待ち焦がれたのである。
(3)戦争継続のイニシアティブをとったのは民衆(九月四日革命)
戦争は緒戦から仏軍は押し捲られる一方だった。負けるはずのない「栄光のナポレオン
軍」の後裔がいとも簡単に一ひねりにされてしまったのだ。国民は敗北の責任を軍隊指導
部に押しつけた。
「勝つ気のない司令官」
、
「防御だけでは勝てない」
、
「パリ大本営の作戦
計画がなってない」といった活字が新聞、小冊子、ビラの上で踊る。うちつづく敗北は帝
政そのものへの怒りに転じた。
9 月 1 日夕方、スダンで 8 万の仏軍精鋭が敵の猛攻を受けて降伏し、そこに居合わせた
ナポレオン三世とともに捕虜となった。スダンの悲報は外電を通してその日から翌日の夜
のうちにパリに流れた。9 月 4 日、晴天のコンコルド広場を埋めたのは 20 万の大群衆、彼
らは開会中の議会に流れ込み、帝政に幕を引いた。これが九月四日革命、国防臨時政府の
誕生に結びつく。国防政府の閣僚はジャーナリストのロシュフォールを除き、全員がパリ
選出の共和派の議員であった。これがフランスとパリの不幸の上塗りの原因となる。
新政府が誕生したところですぐに問題になったのは戦争の継続か停戦=講和かである。
125
閣僚たちはほとんどすべてが心底で停戦(=講和)を考えていたが、パリ民衆の圧力を感
じてこれを口に出せない。うっかり口を滑らしたなら、たちどころに政府が転覆された可
能性が高い。当時においては「反帝政=共和政=戦争継続」は同義だった。これはその当
時の史料が明確に物語るところである。状況を厳正に観察していればフランスに勝機が残
っていないのは明らかになったはずだが、もともと自尊心強く、愛国主義に凝り固まって
いたパリ民衆に悲観的見通しを受け入れる余地はなかった。愛国主義と共和主義が結合す
れば、ドイツ兵なぞすぐに打ち倒せると信じて疑わない。度を超した愛国主義と精神主義
は楽観主義と結びついたのである。
帝政下で自治をもぎ取られ、政治生活から長く疎外されていたパリ民衆は為政者に対す
る深い不審の念から、
「官」の言うことを端から受けつけず、
「官」以外の発言は何でも受
け入れてしまう。疑い深い人間ほど騙されやすいとはよくいったものだ。勇ましい文言を
並べる革命派のスローガンが民衆のあいだに浸透していく素地はそこにある。
パリに臨時政府が成立しフランスに号令をかけるのは珍しいことではない。これまでの
政変はつねにこのパターンであった。しかし、今度の新政府はすぐに包囲され、籠城状態
に入り、通信手段を奪われたため、地方に号令をかけるにしても地方から情報を得るにし
ても不自由した。戦争遂行といった特殊な状況下でこの異常事態を迎えたのはパリと地方
の双方にとって不幸だった。パリが勝利を信じている間も、地方は次第に敗北感を強めて
いき講和を求めるようになる。こうして首都と地方の思惑違いが大きくなっていく。パリ
はいっこうに援軍を送ってこない地方に苛立ちを覚え、地方は犠牲を増すだけの戦争遂行
に疑問をもちはじめる。戦争の見通しについての見方は、都市と農村のあいだでも、それ
ぞれの地方の支配層と民衆のあいだでも生じていく。かくてフランス世論は四分五裂の状
態になっていく。
パリでも分裂がひろがっていっていた。民衆=楽観論、政府=悲観論は前者の後者に対
する不信に直結する。民衆から見て状況がいっこうに好転しないのは政府の無為無策のせ
いとなった。政府は革命的な民衆への遠慮がある一方で、保守的=和平を望地方の目を絶
えず意識していた。つまり、政府はドイツ軍に包囲されていただけなく、膝元のパリの民
衆によっても包囲されていたのだ。
(4)終戦が潜在的分裂状態を表面化させパリ=コミューンを導く
戦況不利の場合はふつう為政者が楽観論をふりまき抗戦継続を唱え、被支配層が和平を
願うものなのに、パリではこの反応が逆転していた。支配層が早期和平を考え、民衆が徹
底抗戦を主張していたのだ。
このパリの思惑違いは食糧・燃料が尽き、飢えと寒さ・病気が深刻化するとともに抜き
差しならない状態に陥った。食糧は(結果として)2か月分の備蓄食糧があったようだが、
これを食い延ばして4か月半ももちこたえた。有効な食糧統制策がとられなかったため、
パリ市民は藁入りパン、イヌ、ネコ、ネズミまで食べるまでしたが、この怨念はドイツ軍
よりも政府へ向けられるようになった。政府閣僚のだれひとりとして休戦・停戦を申し込
もうとしなかった。かくて外相のジュール・ファーブルが自己の責任において単身でヴェ
ルサイユに行き、ビスマルクと談判して休戦協定を携えて戻ってきた。かくて 1 月 28 日
に包囲は解かれ、食糧や薪が市中に出まわるようになる。パリはホッと一息ついた。
126
事態はここから新たな展開を辿りはじめる。パリ民衆は情報をもたなかったから、とい
うより政府への強い不審感をもっていたから、この休戦を「敗戦への仕組まれた策動」と
受け止めた。パリ開城から 1 週間後に国民議会選挙―休戦協定の信認を問う選挙―が実施
されたが、このとき共和派の候補はこう言った。
「パリが売られなかったら、もっと長く
もちこたえられたのは明瞭だ。弾薬はもとより、食糧も不足していなかったのだ」
、と。
パリの民衆は固く「飢餓の約束 Pacte de famine」を信じていた。つまり、カトリック教
会、大金持ち、買占め商人、政府のあいだで、予め民衆を圧迫し、祖国を降伏に追いやり、
帝政ないし王政を復活させるもくろみが仕組まれていたというのだ。これは 80 年前のフ
ランス革命当時のパリの状況と瓜二つである。違う点があるとすれば、そこに貴族が噛ん
でいない点だけである。
国防政府に気の毒だったのは、過去における専制政治の強権政治の思い出とその後にお
ける革命の恐怖政治の思い出とが重なり合い、なんとしても専制政治を避けようとしたこ
とだった。つまり、国防政府の閣僚たちは帝政の専制政治とフランス革命の恐怖政治の両
方を恐れ、穏健的な政治をめざした。時は戦時下、しかも敵が城門の戸を叩いているまさ
にその時で、いうならば権力集中の最もいちばん必要なときに政権が権力分散の方向に向
かったのはまことに不幸であった。
パリ開城とともに政府の威信は下り坂を転げ落ちていく。その当時の観察者が残した記
録のすべてがそのことを跡づける。2 月 4 日の選挙で国防政府の閣僚で当選したのはファ
ーヴルただ一人というありさまだった。思うに、80 年前の大革命のとき、主戦論を主張し
ながら連戦連敗を喫し、食料政策で失敗したジロンド派が政権の座から滑り落ちたのに酷
似している。
もっと大きな不幸はパリと地方の分裂である。パリがなおも抗戦継続可能だと信じてい
る間も、地方は和平に向かって走る。休戦を通じて、もともとからあった首都と地方の対
立は顕著なかたちで表面に顕われたのである。普仏戦争は ― というより、帝政の始めた
戦争はすべて ― 国民に諮って始まったものではない。為政者の「勝利は確実」といった
軽い気持ちで起こされたものであり、勝利への展望がもはやなくなったのであれば、一刻
も早く平和を取りもどしたいという考え方が地方では大勢を占めるようになる。そもそも
第二帝政は、革命騒動を嫌う人々(圧倒的多数の農民)がナポレオンに輿望を託して始ま
った体制である。彼らの正直な心境は「帝政もイヤ、とかく騒動を起こしがちな共和政も
イヤ」ところに落ち着いた。
地方がいちばん腹を立てていたのは国防政府がひっきりなしに送りつけてくる命令で
あった。法律的な合法性を欠いているくせに、その政府は「戦争を!」
「戦争を!」と命
令するのだ。しかし、地方はパリと対決するほどにまとまる力はない。地方はブルボン王
朝派、オルレアン王朝派、共和派、ボナパルト派に分裂していた。如何なるグループも即
時平和を口にするのを憚った。そこに愛国的矜持があったから、パリ政府に公然と刃向か
うのは止めた。そのため、地方の反発は個別的、ゲリラ的、皮肉を飛ばすだけにとどまっ
た。地方人の隠された不満を端的に表わす出来事が起きた。パリ国防政府が抗戦継続を決
めた直後のことである。ブルターニュ地方の州都レンヌで 9 月 7 日、パリ行きの列車に乗
り込もうとした兵士に向かって、駅員のアナウンスが流れた。
「ベルリン行きのお客様は
ただちにご乗車願います!」
、と。
127
パリはどうか。2 月 4 日に食糧を満載した列車がパリに到着したとき、パリの民衆は初
めて敗戦が現実のものだと悟った。それまでドイツに向かっていた怒りはすぐに為政者に
転じた。勝てた戦いをむざむざ放棄し、人民を敵に渡してしまった、と。耐乏生活に苦し
んだあとだけに、その敵愾心は研ぎ澄まされていた。このときからおよそ 1 か月半後にパ
リ=コミューンが成立するまで、パリは無政府状態に陥る。
「売国奴」
「降伏派」
「裏切り政
府」
「利敵行為」なる文言が新聞、パンフレット、ポスターの中でがなり立てる。
半年前に国防政府が樹立したときから「コミューン」という言葉が民衆のあいだで取り
交わされていた。この言葉はマジックのように、フランス人を苦しめるあらゆる災厄を振
り払う万能薬のような響きをもった。それは過去の諸々の歴史的思い出に起源をもつ。そ
れは既存階級の権力の拒絶を意味し、共和主義の雑多な政治的含意をもつ。それはまた、
自由原則にもとづく民主主義の組織化の意志をも意味する。フランスはコミューンの自由
な連邦にならねばならないと説く。
こうして、パリとフランスはまったく背を向け合ったまま別の方向に進むことになる。
(5)同胞を生贄として差し出すことの意味
ここでいう「同胞」というのはアルザス=ロレーヌの住民である。プロイセン首脳部は
アルザス=ロレーヌの奪取を 8 月中旬に決めていたようだ―ビスマルクの発案ではないが
―。この条項がファーヴルの休戦協定にも、続くティエール政府との仮条約にも盛り込ま
れた。ポール・デルレード(右翼政治家)がボルドー議会に到着したとき、こう述べた。
「群衆が剥ぎ取った一枚の新聞はドイツ軍によって課された講和条件の条文を掲載し
ていた。われわれはその場で読みはじめた。あぁ、なんということだろう! メッス
もそうだ、ストラスブールもそうだ、コルマールもそうだ、ミュールーズすらもそう
だ。われわれはその場にたちすくみ、落胆のあまり身動きできなくなった。
」
パリ市民のだれもがこの条項に反対し 2 月 4 日の国民議会選挙では全員共和派を議会に
送りつけた。条約案は 546 対 107 で可決された。パリと割譲されたアルザス=ロレーヌの
代表は反対にまわった。しかし、圧倒的多数の地方議員は「同胞見殺し」に賛成した。こ
の行動をパリの専断に対する地方人の復讐とみることもできよう。ガンベッタ、ルイ・ブ
ラン、ユゴー、エドガー・キネーは即日議員を辞職した。フランスの国論は真二つに分か
れた。講和を望む以上、宿敵から強制された領土割譲は避けることができないのは自明。
いずれにせよ、敗戦以上に領土を割譲したことはフランス人の心中にトラウマとして残る
こととなった。
だが、別の見方もできよう。むしろ、こうした犠牲によりトラウマが生じたからこそ、
フランスはすぐさま対独復讐という合言葉のもとに再団結することができた。フランス第
三共和政は王政か共和政かで十年間揺らぐが、究極的に安定に向かうのは国民全体がドイ
ツという仮想敵をもちつづけることができたからである。
(c)Michiaki Matsui 2015
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