秦の﹁戸﹂ ﹁同居﹂ ﹁室人﹂について

秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
秦における国家と血縁集団
―
―
鷲尾
秦 の ﹁ 戸 ﹂﹁ 同 居 ﹂﹁ 室 人 ﹂ に つ い て
序
祐子
中国社会において人々が日々生きる上での基層的集団として、最初に挙げられるのは家族であろう。﹁家﹂はも
ちろん単独で存在するものではないから、様々な家外の組織との相互影響によって変化するはずである。特に父子
関係の倫理である﹁孝﹂を秩序の根本とする﹃孝経﹄を国家の聖典とするなど、中国の家は特に強く重視され、結
果的に他の集団からの大きな監視と介入とを被ってきた。しかしまた他の集団における人間関係は往々にして家族
関係の擬制とされるのであり、家族が一方的に操作される客体であるとも言い切れないのではないか。つまるとこ
ろ他の集団との関係抜きには、中国の家族を語ることはできない。
国家ぐるみの﹃孝経﹄
・孝倫理の宣揚が最初に展開されるのは漢代であるが、それ以前から国家の家に対する積
極的な介入が確認されるのであり、漢制の源となる秦について言えば﹃史記﹄商君列伝にみえる秦代の商鞅変法に
関する記述が代表的なものである。またさらに献公時の戸籍制度創始を加えるべきではないか。戸籍とは血縁関係
によってむすばれる集団のうち一部分をきりとって制度上の家族単位とする制度であるから、どの部分を戸として
そこに何を義務づけるかは家族のありかたにも影響をおよぼすであろう。こうした記述のうち商鞅変法の記述にみ
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中国古代史論叢 四集
える国家の家族に対する介入の意図については、先学が多くの研究を蓄積しており、佐竹靖彦一九八〇、太田幸男
一九八〇、好並隆司一九八一、稲葉一郎一九八五等に諸研究が総括されている。総括を参考にすれば、諸研究の論
点は、秦制は夫婦ごとの生計の独立・個別小家族の形成を意図していたのか否か、あるいは意図とは別にだが小家
族への分化を促す結果をもたらしたか、といった点を中心にしている。また﹃睡虎地秦簡﹄にみえる秦律において
は﹁ 非 公 室 告 ﹂
︵子告父母、臣妾告主、非公室告、勿聽。●可︵何︶謂非公室告。●主擅殺、刑、}其子、臣妾、
是謂非公室告、勿聽。而行告、告者罪。告[者]罪已行、它人有︵又︶襲其告之、亦不當聽。
﹁法律答問﹂一〇四
∼一〇五︶規定などを通じて父母の強い権限が認められており、法を家庭内に引き入れる媒介者となるのは父母で
あった︵松崎つね子一九八二参照︶
。国法は家族関係倫理を重視しているが、それは国家の監視・介入の一つの現
れでもある可能性がある。秦制は国家の家に対するいかなる意図を反映しているのか。それを知るためには諸研究
︶
。漢の戸は共財範囲でありかつ最小の
でも問題とされているように、戸・室・同居といった基本的な血縁組織に関する語彙の意味を確定することが不可
欠である。
漢における戸については、拙論にてすでに論じた︵鷲尾祐子二〇〇六
同居範囲である。しかし複数の戸が一つの同居範囲を構成することも想定されており、同居範囲の方がかえって扶
養・生計の単位とされていた。つまり国家制度上で血縁集団として複数の範囲が規定されており、各々異なった義
務を負い違う機能を有しているものとされているのだが、それは漢が多く継承している所の秦においても同様であ
る。﹃睡虎地秦簡﹄には戸・同居・室人など、複数の血縁集団範疇の存在を示唆する語彙が見える。従来の秦律解
釈によれば、戸は同居範囲と一致するものとされ、その解釈に沿って次の条文を読むと、戸は共財単位ではなく、
戸内には複数の所有主体が存在することになる。
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b
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
律曰與盗同法、有︵又︶曰與同罪、此二物其同居、典、伍當坐之。云與同罪、云反其罪者、弗當坐。●人
奴妾盗其主之父母、爲盗主、且不爲。同居者爲盗主、不同居不爲盗主。
︵﹃睡虎地秦簡﹄﹁法律答問﹂二〇∼
二一︶
五
―︶
にみえるこれらの用語を再検討し、戦国末秦律に反映された、国家と家との接点をさぐる端緒としたい。
決の問題が存在し、秦制のこうした血縁集団範疇が何であったかは改めて検討に値すると考えられる。本論は秦律
照対象であった可能性もある。次章で紹介するように﹁戸﹂﹁同居﹂
﹁室人﹂の解釈をめぐっては今に至るまで未解
魏律の規定と秦律のそれが同じである必要は無いが、秦の官吏向けの文書に引用されていることから何らかの参
故某慮贅壻某叟之乃婿。
魏戸律︵﹃睡虎地秦簡﹄﹁爲吏之道﹂一六 五
―∼二一
叚︵仮︶門逆呂︵旅︶、贅壻後父、勿令爲戸、勿鼠︵予︶田宇。三㬸 ︵世︶之後、欲士士之、乃署其籍、曰
●廿五年閏再十二月丙午朔辛亥、○告相邦、民或棄邑居ミ︵野︶
、入人孤寡、徼人婦女、
非邦之故也。自今以来、
っている。
なる。しかし秦律ではないが、﹃睡虎地秦簡﹄﹁爲吏之道﹂に引く魏律では、漢と同じく戸が財を所有する単位とな
を有している。つまり秦の同居者集団=戸は所有の単位ではなく、秦と漢の間で戸の性格が大きく変化したことと
この文では奴隷が主と同居する父母から盗むという状況が想定されており、奴隷の主と同居の父母は別個の財
①
82
中国古代史論叢 四集
一章
秦律に見える﹁戸﹂に関する諸説
戦国時代秦制における﹁戸﹂の枠組みについての研究は、一九七五年に湖北省雲夢睡虎地一一号墓より戸の規定
﹁法律答問﹂二二︶
つまり﹁戸を同居と為す﹂を、戸は﹁同居﹂によって構成されると解し、一部の説は同居する成員によって構成
③
盗及者︵諸︶它罪、同居所當坐。可︵何︶謂同居。●戸爲同居、坐隷、隷不坐戸謂テ︵也︶。︵
﹃睡虎地秦簡﹄
について一見明快な説明を与える、次の一文を主な史料とする。
を含む秦律が出土したため、多く蓄積されている。諸研究の﹁戸﹂に関する解釈は、二説に分かれる。第一説は戸
②
される範疇が戸であると結論する。この説に依拠すれば、従来中国史研究において伝統的な家族範疇とされてきた
太田幸男一九八四は、この条文の前段で戸の隠匿と敖童︵成人に達しながら遊んでいる者︶を傅けない︵籍に記
可︵何︶謂匿戸及敖童弗傅。匿戸弗゚︵徭︶、使、弗令出戸賦之謂テ︵也︶
。
︵﹁法律答問﹂一六五︶
第二説は、﹁法律答問﹂の次の条文を重視する。
﹁同居﹂と戸籍に記載される範囲とが、秦律において一致することになる。
⑤
載しない︶という二点につき問うのに対し、後段の回答部分では戸の隠匿を説明するのみであるのは、前段の二点
83
④
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
が実質上同内容であるからであり、男子が成人すると新しい独立した戸籍に登録されるとし、正丁一人を基準とす
る単位を戸とする。また動詞の﹁同居する﹂が見える例は親子が同居する場合に関わるものである事を、﹁戸為同居﹂
の定義と併せて考察し、子が成人して独自の戸に移った後も、なお親と同居する者が﹁同居﹂であると解する。
第一説・第二説それぞれに問題を抱える。第一説の場合、太田幸男一九八四が指摘するように、もし戸の構成員
が同居ならば、ともに戸を構成し夫からみて同居であるはずの妻が、律中において同居と並び挙げられている点が
さらに二説ともに同居について解説している次の一文につき、文に即しかつ﹁同居﹂について説明する他の項目
えないため無理が有る。
しうるが、﹁戸為同居﹂を﹁独自に戸を構成しているのが同居﹂と読むのは、
﹁独自に﹂を意味する言葉が文中に見
一方、第二説に立てば第一説の課題二点︵妻と同居を併挙することの不可解、室人と同居の相違の問題︶を解決
また室を核家族として扱う用例は、秦制に関する記述には存在しない。
堀説の場合、同居は同居しない戸籍のみの関係でもありうるのだが、ならばなぜ同居と称されるのか不可解である。
家族からなる家が戸籍を持ち、単婚家族・核家族が室を構成したと述べ、後者の室を法的な財の所有主体と見なす。
ら、同居と性格を異にする室・室人は、同居内部の真の所有主体である父・父母・もしくは子の各々を指し、同居
奴隷を含むが室人には含まぬとし、冨谷至一九九八 は
a 松崎説を批判した上で、逆に室人に奴婢を含むが同居に
は含まぬとする。一方堀敏一一九八九は、父子同居する場合父子が別個の財を所有している状況が存在することか
この課題を解決する一方法として、奴婢の有無によって両者を区別する説があり、松崎つね子一九八二は同居には
う人々を指す﹁室人﹂と同じく居住をともにする人々を指す﹁同居﹂との相違をいかに説明するかが課題となる。
不可解である。また堀敏一一九八九以外のほぼすべての者が同意するように室=一家屋と解した場合、そこに住ま
⑥
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中国古代史論叢 四集
との矛盾の無い説明を与えるのに難渋している。
可︵何︶謂室人。可︵何︶謂同居。同居、独戸母之謂テ︵也︶
。●室人者、一室、尽當坐罪人之謂テ︵也︶。
︵﹃睡虎地秦簡﹄﹁法律答問﹂二〇一︶
﹁獨戸母﹂の母とは何かについて三説存在する。⑴睡虎地秦墓竹簡整理小組編一九七八の如く、母と解す。古賀
登一九八〇は、﹁獨戸母は戸をひとつにし、母をひとつにするもの﹂と解し得るとし、
﹁一つ戸ぐちの家︵部屋︶に
同居している同母兄弟︵姉妹︶﹂と述べる。一方太田幸男一九八四は同じく母と読むが、
古賀の獨の解釈を批判し、、
ひとつにするではなく単独にするの意味であると述べ、﹁戸を母より独にす﹂とよみ、
親から戸籍を独立させたもの、
つまり成人して正丁になってもなお親と室をともにする男子であるとする。太田説の如く獨をひとつにすると動詞
的に解するのは、他に用例が無い故に難しい。またなぜ母のみに言及して父には言及しないのか、
という点について、
未成年の子は母と一体であり母に養育されていたからと述べるが、では母は妻として父と同戸に属するのではない
のかといった疑問が生じる。⑵母を貫とする説。佐竹靖彦一九八〇は母は毌・貫であり、当該箇所を﹁同居とは獨
の戸貫の謂いなり﹂と読み戸は戸籍上の一単位であることを意味すると述べ 、 堀敏一一九八九もこれに同意する。
しかし先述のごとく獨を一つと解することには太田幸男一九八四の批判があり、さらに Hulsewé
一九八五 , P.179
は貫を以て簿籍の意を表すのは五世紀以降にくだると述べ、秦律の文をこのように解釈することは妥当でないこと
を示唆する。⑶冨谷至一九九八 は母は戊、毋︵貫︶は關に通じ、どちらにしても﹁戸母︵毋︶を独とす﹂と読み、
門鍵をひとつにする居住家屋のことを指し、戸籍は同一家屋に居住する家族︵同居︶を単位として作成されたと述
85
a
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
新安戸人大女燕関内侯寡
十月庚子江陵龍氏丞敢移安都丞/亭手︵丙正面︶
名数、書到為報、敢言之
新安大女燕自言、与大奴甲・乙大婢妨徙安都、謁告安都、受
七年十月丙子朔庚子、中郷起敢言之
例えば、漢代においては戸主を戸人という。
ある。
秦漢の戸を含む成語中には、戸を従来の集団としての意味で解すると、成語としての意味を明瞭にし難いものが
二章 成語中の戸
る戸の語義について考察する。
ているが、この前提そのものに問題はないのだろうか。
﹁ 戸 ﹂ に 関 す る 再 検 討 を 試 み る た め に、 次 に 成 語 中 に み え
秦律の戸とは何かについては不明な点が多い。以上の議論は、すべて戸とは集団を指すという前提のもとでなされ
以上睡虎地秦簡の﹁戸﹂をめぐる解釈を概観したが、戸に関わるすべての文を矛盾無く説明するのは困難であり、
とは解し得ない。
べる。しかし封診式によれば戸とは一室中に複数存在する部屋︵内︶の戸を指し、戸のかんぬきを門戸のかんぬき
⑦
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中国古代史論叢 四集
大奴甲
大奴乙
大婢妨
家優不筭、不|︵=黥︶︵乙正面︶︵テキストは黄盛璋一九九四に従う︶
これは江陵高台十八号墓から出土した木牘に書かれた文書であり、死して後黄泉の世界の住人となる燕という女
③ ︶
︵胡
V1210
性が、この世からあの世への転居手続きをする内容となっている︵黄盛璋一九九四︶。筆頭に書かれる燕は、戸人
と称されている。
又、家財の申告文書においても、戸人が申告の主体として見える。
驪⦅武都里戸人大女高者君、
自實占家當乘物□。□□年廿七□□、
次女□□□□□⋮⋮。
︵
平生・張徳芳二〇〇一︶
こうした例に依れば、すでに裘錫圭が指摘するように︵裘錫圭二〇〇四︶
、戸人とは戸主のことを指すと考えて
よい。
ここでは戸主たることを表す史料を挙げた故に、戸人とは戸の長であることが諒解されるが、
何の文脈も無く﹁戸
人﹂とだけ聞けば、戸の成員すべてを示すように解釈され得る。
﹁集団+人﹂によって成り立つ語彙の場合、その
衛人立晋.衛人者.衆辞也.﹃春秋穀梁傳﹄隠
意味は集団に帰属する一人一人を指すのだから。室人とは一室の成員であり、國人とは國の構成員である。ではな
ぜ戸人でもって戸主を意味するのか。﹁人﹂とは衆人を意味し︵例
87
96
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
公四年︶、長を意味しないことが明らかな故に、戸の方に長が含意されなければこのような意味にはならないだろう。
同様に、戸を集団と考えると解しがたい語に﹁代戸﹂がある。代戸は﹃二年律令﹄をはじめとする出土文字史料
にしか見えない。
死毋子男代戸、令父若母、毋父母令寡、毋寡令女、毋女令孫、毋孫令耳孫、毋耳孫令大父母、毋大父母令
同産。︵﹃二年律令﹄三七九置後律︶
﹃二年律令﹄によれば、﹁代戸﹂することは、財産の法的な所有主体の変更を伴う。
死毋後而有奴婢者、免奴婢以爲庶人、以□人律□之□主田宅及餘財。奴婢多、代戸者毋過一人、先用勞久、
︵略︶。︵﹃二年律令﹄三八二 三八三置後律︶
―
代戸・貿賣田宅、郷部・田嗇夫・吏留弗爲定籍、盈一日、罰金各二兩。
︵﹃二年律令﹄三二二戸律︶
財産を所有するのは戸主のみであるから︵前稿既述︶
、所有主体を変更する﹁代戸﹂とは、具体的には、戸主の
きである。他に同じ実体を有する言葉として﹁代爲戸﹂
︵
﹃二年律令﹄三三七
三三九︵戸律︶
︶が見え、これの省
―
となり、意味をなさない。代戸とは新たな戸主が旧戸主に代わることを意味するならば、戸は﹁戸主﹂を意味すべ
では代戸という成語においては、
﹁戸を代わる﹂とは何を代わるのか?もし戸が集団であれば、
﹁某集団を代わる﹂
交替を意味する。
⑧
88
中国古代史論叢 四集
略形であるとも考えられる。
また﹃二年律令﹄には﹁戸後﹂という成語が見える。
死、其寡有遺腹者、須遺腹産、乃以律爲置爵・戸後。﹃二年律令﹄三七六︵置後律︶
寡爲戸後、予田宅、比子為後者爵。其不當為戸後、而欲為戸以受殺田宅、許以庶人予田宅。毋子、其夫毋
子、其夫而代為戸。夫同産及子有與同居數者、令毋貿賣田宅及入贅。其出爲人妻若死、令以次代戸。
︵﹃二年
律令﹄三八六∼三八七置後律︶
戸後は爵後と並挙されており、戸の後︵継承者︶を意味する。継承される戸とは集団ではなく、集団の長である
と考えられる。
同じく集団を表す語でも、たとえば﹁家﹂などは同時に財を表すなど集団の有する権利を含意しており、
ゆえに﹁當
家人﹂で家を管理する者を指し、﹁國﹂は國の君主たる諸侯を含意しているため︵國者諸侯之辭
﹃詩經﹄節南山箋
に附した孔穎達疏︶、﹁國嗣﹂で諸侯の継承者を指す。もし前掲の成語を文脈に即して解するためには、戸に関して
も単独で戸主を意味すると考える必要がある。
つまり以上の成語は、戸そのものに集団の長の意味を含んでいなければ、文脈の示す実体と合致する意味をなし
えない。ところで戸の最も基本的な語義は出入り口である。
戸者、人所出入︵﹃白虎通﹄五祀︶
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秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
戸、室戸。︵﹃公羊傳﹄宣公六年
何休注︶
また﹁戸﹂は門戸を守る、侵入者をとどめるという意味を有する。
戸、護也︵﹃説文解字﹄十二上︶
坐戸殿門失闌免。︵﹃漢書﹄王嘉伝︶
こうした意味から引伸して、住居の門戸を守る者、ともに暮らす者達の代表者という意味に転じたと考えられる。
そこからさらに、一戸ごとに三男子をくだらず︵臣竊度之不下戸三男子
﹃戰國策﹄斉策︶といった集団としての
戸を指す語義が派生してくるのではないか。
前述のごとく戸主を指して戸人という場合、戸自体に戸主の意味が含まれていると考えられるが、同様の対応関
係にある語に正と正人がある。拙論︵鷲尾祐子二〇〇六 ︶で論じたように、正は特定の兵士に徴発される義務を
確認した。ではこうした理解に基づいて秦律を読み直してみると、どのような解釈が可能か。
以上、
﹁戸﹂には集団としての意味のみならず、役目・集団の長︵後世の戸主︶としての意味が含まれることを
周書﹄には戸に任じると表現が見えるが︵農夫任戸,戶盡夫出。︵大匡篇︶︶
、これは役目としての戸ではないか。
を負担する義務が課せられる役目という含意があり、それに任命される人が戸人であると解し得る。たとえば﹃逸
負う国家から与えられた役目であり、それに該当する人が正人である。戸に関しても、戸自体に国家から租税や賦
a
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中国古代史論叢 四集
三章
秦律の﹁戸﹂について
序に述べた如く、戸の説明として最も重視された史料は前掲﹃睡虎地秦簡﹄
﹁法律答問﹂二二︵﹁戸為同居﹂︶であり、
この資料によって戸とは同居者の集合体であるという解釈が導かれた。しかし、
﹁戸為同居﹂の戸を﹁家族の単位
としての戸﹂であるとし﹁戸を、同居とする﹂と直訳すれば、この文は戸という集合体を﹁同居﹂という個々人と
みなしていることになり、抽象的な議論ならともかく具体的な説明としては成り立ちにくい︵国家を人民とする、
など︶。同居が個人であるならば、﹁戸﹂も個人を指すべきである。もとより﹁法律答問﹂の文は省略が多く、語を
補って考えねばならない場合があり、厳密に形式論理的に考えるべきではないかもしれない。しかし同﹁法律答問﹂
の、﹁坐隷、隷不坐戸謂テ︵也︶
。
﹂についても、戸に坐す︵戸に連坐する︶=某集団に連坐する、というのは他に
例を見ない表現であり、甲が乙に連坐するという場合、通常は罪を犯して甲を連坐にまきこむ特定の個人︵父・兄
弟など︶が乙として坐に続いて記される。こうした不自然さは、戸を集合体と見る限り解消されない。
﹃睡虎地秦簡﹄
の戸も、明らかに出入り口を指している例以外は、戸主としての﹁戸﹂として解するべきである。
では戸が戸主を意味するとして﹁戸為同居﹂を解すると、秦制において同居する﹁戸﹂
︵戸主︶が﹁同居﹂とさ
れるのであり、﹁戸﹂でない同居家族は﹁同居﹂と呼ばれないことになる。それは一章にて引用した﹃睡虎地秦簡﹄
﹁法律答問﹂二〇一によっても示される。
可︵何︶謂室人。可︵何︶謂同居。同居、獨戸母之謂テ︵也︶。●室人者、一室、盡當坐罪人之謂テ︵也︶。
︵﹁法律答問﹂二〇一︶
91
⑨
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
―
﹁獨戸母﹂を読み解く諸説については一章で紹介した。最も懸案となるのは母の解釈だが、
﹃睡虎地秦簡﹄に見え
る他の文例によれば 母は毋︵なし︶に通用されることが多い。
壬癸有疾,母︵毋︶逢人,外鬼爲祟,得之於酉︵酒︶脯脩節肉。
︵略︶︵﹃睡虎地秦簡﹄
﹁日書﹂甲種七六
二︵正 ︶ 母字は毋の意味︶
これ
故に、母を毋と解した上でこの句を字義どおりに解釈すると﹁獨戸之毋きの謂なり﹂となる。このように読むと
﹁の謂なり﹂の﹁の﹂の意味をなす﹁之﹂が消える。しかし前掲﹁法律答問﹂二二﹁坐隷、隷不坐戸謂テ﹂
、
﹁法律
答問﹂一七八﹁臣邦父、秦母謂テ﹂など、﹃睡虎地秦簡﹄の他の例に鑑みれば、
﹁之﹂が無くとも﹁の謂なり﹂と読
むことが可能であり、
﹁之﹂は必須ではない。以上の解釈によれば﹁獨戸母之﹂は、単独の﹁戸﹂に﹁同居﹂はい
ないと解し得るのであり、つまり﹁同居﹂呼称は複数の﹁戸﹂がともに居住する場合、﹁戸﹂相互の間に用いられ、
従って単独で居住する﹁戸﹂には同居は無く、また﹁戸﹂でない家族員は法律上﹁同居﹂ではないことを示す。前
掲﹁法律答問﹂二二が、奴隷は戸に坐すとして同居に坐すとしないのは、同居は戸主間の呼称であり、奴隷の主人
いて男子が成人に達すれば皆戸主となる故に︵鷲尾祐子二〇〇六b︶、戸は第一に壮丁と妻と未成年の男子と未婚
戸をめぐる一連の文をこのように解すると、さまざまな矛盾を解消することが出来るように思われる。秦制にお
指す呼称である。先述の如くこのような戸の意味は、﹁代戸﹂﹁戸人﹂など漢制上で用いられる成語にも残存している。
つまり秦律の﹁戸﹂は、血縁集団を指すのではなくその主を指し、
﹁同居﹂は﹁戸﹂からみて同居する﹁戸﹂を
にとって同居する﹁戸﹂は﹁同居﹂であっても、奴隷からみて﹁戸﹂は﹁同居﹂ではないからである。
⑩
92
中国古代史論叢 四集
の娘から為り︵免老となった父、父死去後の母など戸主となる義務を有さない者を含む可能性はある︶租税と徭役
を負担する主な単位である︵太田幸男一九八四・鷲尾祐子二〇〇六a ︶。壮丁が存在しなければ女性などが一戸人
となる。室人は一室に同居する成員すべてを含み、
﹁同居﹂は同居する戸主の間の呼称であり、室人・同居はとも
に居住をおなじくする範囲にかかわるが別個のものである︵奴隷が含まれるか否かについてはここでは問題にしな
い︶。また戸を戸主と解すると、序文に挙げたように戸が財所有の主体として表れることとも矛盾しない。ある人
が戸︵戸主︶であり父母と同居する場合、父母は戸人として別個の財産主体である可能性がある。ゆえにその者の
奴隷が主の父母から盗むという状況が成立しうる。
では秦の戸︵戸主︶を、漢の戸人と同じく所有の主体と断じてよいか。太田幸男一九八四は、戸も別ならば財産
も別であると述べるが、詳細には論じていないため、この機会に考察してみる。
﹃二年律令﹄に見える爵位によっ
て差等の設けられた田宅が与えられる規定は、
﹃史記﹄商君列伝に記述されている秦・孝公時の商鞅が実施したと
される施策に似る。
關内侯九十五頃、大庶長九十頃、駟車庶長八十八頃、大上造八十六頃、少上造八十四頃、右更八十二頃、
中更八十頃、左更七十八頃、右庶長七十六頃、左庶長七十四頃、五大夫廿五頃、公乘廿頃、公大夫九頃、官
大夫七頃、大夫五頃、不更四頃、簪ォ三頃、上造二頃、公士一頃半頃、公卒・士五︵伍︶
・庶人各一頃、司冦、
隱官各五十畝。不幸死者、令其後先擇田、乃行其餘它子男。欲爲戸、以爲其□田予之。其已前爲戸而毋田宅、
田宅不盈、得以盈。宅不比、不得。︵﹃二年律令﹄三一〇∼三一三︵戸律︶
︶
宅之大方卅歩。徹侯受百五宅、關内侯九十五宅、大庶長九十宅、駟車庶長八十八宅、大上造八十六宅、少
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⑪
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
上造八十四宅、右更八十二宅、中更八十宅、左更七十八宅、右庶長七十六宅、左庶長七十四宅、五大夫廿五
宅、公乘廿宅、公大夫九宅、官大夫七宅、大夫五宅、不更四宅、簪ォ三宅、上造二宅、公士一宅半宅、公卒・
士五︵伍︶・庶人一宅、司冦・隱官半宅。欲爲戸者、許之。﹃二年律令﹄三一四∼三一六︵戸律︶
明尊卑爵秩等級各以差次、名田宅臣妾衣服以家次。︵﹃史記﹄商君列伝︶
こうした軍功によって得られる爵位に応じて、田宅や奴隷の所有量が決まる制度を、平中苓次一九五一は﹁爵に
附随する土地保有制度﹂であると述べる。ところで秦において授田が行われていたことは、次の秦律によっても明
らかであり、商君列伝の施策は爵に応じた授田制度と言える。
九︶
―
入頃芻稾、以其受田之數、無ゥ︵墾︶不ゥ︵墾︶、頃入芻三石、稾二石。︵略 ︶ 田律︵
﹃睡虎地秦簡﹄﹁秦
律十八種﹂八
商君列伝の記述では、爵位により家ごとに土地が与えられる。とすれば爵位は家に附随するものである。しかし
﹃史
記﹄の記述は司馬遷によって彼と同時代の語彙に書き換えられている可能性がある。他に秦の爵位が家に帰属する
ことを知ることができる史料として、一九七五 七
﹁家
―六年湖北省雲夢睡虎地四号秦墓より出土した十一号木牘に、
爵﹂という語彙が見える。
二月辛巳、黒夫・驚敢再拝問中、母毋恙也、
︵略︶書到皆爲報、報必言相家爵来未来、告黒夫其未来状。
︵後
94
中国古代史論叢 四集
略︶︵正面 ︶ 書到らば皆報を爲せ、報じて必ず家爵の来るを相るや未だ来らざるやを言え。
毋恙也?、辞相家爵不也︵後略︶︵背面︶︵李均明・何双全篇一九九〇︶
これは秦始皇二十四年のものと推定される︵黄盛璋一九八〇を参照︶
、出征中の兵士から母に送られた書簡であ
るが、兵士が待ち望む爵を家爵と呼んでいる。家に爵位が附随し、家次︵家の序列︶が決定されるとすれば、それ
は爵位によって家に田宅がもたらされるという商君列伝の記述と合致する。
︶
。爵
爵位は男子に与えられるものであり、また多く軍功の顕彰として与えられるため、兵士に徴発されることは爵位
を得る主要な機会となったが、徴発対象となる壮年男子はみな戸とならねばならない︵鷲尾祐子二〇〇六
このため爵位は戸を代表とする集団の中に一つだけであり、それを言い換えると先に見えた家爵という言葉となる
を得るのは戸だが、壮丁は戸とならなければならぬ故に、彼が率いる集団の中で戸はただ一人爵位を得る者である。
b
のではないか。つまり戸の得る爵とは家爵であり、戸が率いるのは﹁家﹂なのである。従って秦においても、戸が
財を所有する主体であり、その代表する集団は﹁家﹂と称されたことがわかる。
家と戸が同一の対象を示すものとして相互に言いかえて用いられる例が見えることも、この結論を傍証する。
諸守牲格者、三出卻適、守以令召賜食前、予大旗、署百戶邑若他人財物、建旗其署、令皆明白知之、曰某
子旗。牲格內廣二十五步、外廣十步、表以地形為度。︵﹃墨子﹄旗幟篇︶
城下里中家人皆相葆、若城上之數。有能捕告之者、封之以千家之邑、若非其左右及他伍捕告者、封之二千
家之邑。︵﹃墨子﹄號令篇︶
95
⑫
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
﹃墨子﹄旗幟篇と號令編は、﹃墨子﹄の兵技巧諸篇を四つに分類した内の同じグループに属し、どちらも秦におい
て成立した︵吉本道雅二〇〇四︶
。しかし邑の規模を表す単位として、旗幟では戸を用い號令では家を用いる。吉
本道雅二〇〇四によれば、號令篇は紀元前三世紀前半の成立であり︵吉本道雅二〇〇四︶、現今に伝わるテキスト
は秦始皇帝時に伝写されたものに源を発しているため、始皇帝の諱に触れる一部の語が書き改められているが、旗
幟篇も始皇帝時の秦にて伝写される際に、一部の語彙が写された当時の語彙に書き改められ、家が戸に改められた
のではないか。
﹁里耶秦簡﹂に見える、始皇帝二六年・つまり統一したその年の官文書においては、﹁劾等十七戸﹂
⑯
J1
︶。旗
009A
と数字の後ろに﹁戸﹂を記して戸数を表すなど、戸は量詞化しており、戸が一字で見える場合主に集団を表す意味
に転じている︵湖南省文物研究所・湘西土家族苗族自治州文物処・龍山県文物管理所二〇〇三
幟篇﹁百戸邑﹂の戸は、このような変化を受けて、家から戸に書き改められたのであろう。
もし睡虎地秦簡にみえる戸と里耶秦簡に見える戸の意味が相違すれば、ともに公文書中で用いられる同一の用語
であるにもかかわらず意味を違えることとなり、はなはだ不便なようにも感じられる。しかし統一前の律及び律説
からなる﹃睡虎地秦簡﹄︵黄盛璋一九七九参照︶と、﹃里耶秦簡﹄の双方に共通して見える用語の中には、意味を異
にしているものもある。例えば、睡虎地秦簡において﹁徒﹂は多く徴発されて徭役・兵役に就く者を指すが、里耶
秦簡に見える﹁徒隷﹂は刑徒を指し、漢代において専ら刑徒を指す﹁徒﹂の意味に用いられるようになる︵冨谷至
一九九八b参照︶のと共通の意味を有する。
御中発徴、乏弗行、貲二甲。失期三日到五日、䵟、六日到旬、貲一盾、過旬、貲一甲。其得也、及詣。水
雨、除興。興徒以爲邑中之紅︵功︶者、令앶 ︵⨵ ︶堵卒歳。未卒堵壊、司空將紅及君子主堵者有罪、令其徒
96
中国古代史論叢 四集
復垣之、勿計為゚。︵後略 ︶︵﹃睡虎地秦簡﹄﹁秦律十八種﹂一一五∼一二四徭律︶
廿七年二月丙子朔庚寅、洞庭守禮謂縣嗇夫卒史嘉・假卒史穀・屬尉令曰、傳送委輸必先悉行
城旦舂隷臣妾居貲贖責、急事不可留、乃興゚、●今洞庭兵輸内史及巴南郡蒼
梧、輸甲兵、當傳者多、節傳之、必先悉行乘城卒隷臣妾城旦舂鬼薪白粲居貲贖
責司寇隠官踐更縣者、L田時テ、不欲興黔首、嘉・穀・尉各謹案所部縣卒徒隷居
貲贖責司寇隠官踐更縣者簿、有可令傳甲兵、縣弗令傳之、而興黔首、興黔首可
省少、弗省少而多興者、輒劾移縣、縣亟以律令具論、當坐者、言名史・泰守府、嘉
穀尉在所縣上書、嘉穀尉令人日夜端行、它如律令。
︵湖南省文物研究所・湘西土家族苗族自治州文物処・龍山県文物管理所二〇〇三
⑯
J1
正面︶
005
このような相違は、
﹃睡虎地秦簡﹄の法律答問が、古い条文は称王以前にまでさかのぼり得るなど長い時間をか
けて蓄積されてきた為、古い条文が用いる古い言葉が制度上の特定の概念を表す用語として一般の用例とは別個に
残存しているからではないか。
また秦律中には、家罪・家人など、家を含む成語が複数見える。松崎つね子一九八二は家罪の成立が父子同居を
要件としている例が存在することから、家人は同居の別表現であり、
家は家族を指すとする。確かに﹃睡虎地秦簡﹄﹁法
単位としての戸と同居単位の家とは一致しない。一方太田幸男一九八四は、家罪の家は公室告の公の対概念︵つま
律答問﹂には父子同居した際の案件について家罪としている一文があり、家罪の家が同居範囲を指すならば、財の
⑭
りプライベート︶であると述べる。成語である家罪の家と、単位としての家とは異なった意味を有するのではないか。
97
⑬
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
このように家の長が戸であり、秦制において爵位と財は戸︵家の長︶が有する。戸人は財と爵位を保持する特権
を有することによって、家中で優位に立つ。また爵位による序列が家と家の間に顕現することによって、戸人間に
地位向上の競争が生じる。こうして特権を与えられた正丁の戸人は意欲的に国家のため働く兵士と化す。兵士の持
続的な再生産が、秦の戸の制度の一機能であった。
では居住をともにする範囲である室は、さらにどういった範囲とされていたのか。次の条文によれば、室は共同
で生計を営む範囲である。
︵略︶一室二人以上居貲贖責︵債︶而莫見其室者、出其一人、令相爲兼居之。居貲贖責︵債︶者、
或欲籍︵藉︶
人与并居之、許之、毋除゚︵徭︶戍︵略︶。︵﹃睡虎地秦簡﹄﹁秦律十八種﹂一三三∼一四〇司空律︶
一室につき二人以上が官への債務に代替する労働についていて室の生活を見る者がいない場合、一人で二人分の
労働を兼務させてもよいというこの規定から、室は生計を共にする単位とみなされていることがわかる。それは漢
制上で居住を共にする範囲︵同居範囲︶が、老弱を扶養する単位とされていることと共通の性格を持つ。
民大父母・父母・子・孫・同産・同産子、欲相分予奴婢・馬牛羊・它財物者、皆許之、輒爲定籍。孫爲戸、
與大父母居、養之不善、令孫且外居、令大父母居其室、食其田、使其奴婢、勿貿賣。孫死、其母而代爲戸。
令毋敢遂︵逐︶夫父母及入贅及道外取其子財。︵﹃二年律令﹄三三七∼三三九戸律︶
98
中国古代史論叢 四集
さらに﹃睡虎地秦簡﹄には、一室から二人以上の者が同時に兵士として徴発されることを禁止する規定が存在す
るが、これも前掲の律と同じく生計の単位としての室を維持する人材を確保しておくためであろう。
●戍律曰、同居毋并行、縣嗇夫、尉及士吏行戍不以律、貲二甲。︵
﹁秦律雑抄﹂三九︶
つまり秦漢双方の制度において同居とは扶養と生計の単位であり、さらに﹃二年律令﹄にみえるように室内の財
を有する者には法的に老弱の扶養が義務づけられていた。制度上で財の共有範囲と生計範囲に区別して規定されて
いるのであり、どちらを構成する者にもその単位の機能共同に応じた義務が課せられていたのである。
結
以上、戦国時代末の秦律にみえる親族集団﹁戸﹂
﹁同居﹂
﹁室人﹂の範囲を検討し、﹁戸﹂は﹁家﹂の長であって
漢の戸人に該当する財の所有主体であり、同じ居住空間に同居する戸人が相互に同居であるとされ、室人は同居範
囲内の全ての成員を指すという結論を得た。すでに太田幸男一九八四が集団の﹁戸﹂とは正丁一人を基準に編成さ
れ、徭役・使役・戸賦徴収のために国家側からきわめて重視された単位であったと指摘する。太田が戸を単位とし
ていること、正丁一人を基準としていることを除けば、拙論が得た戸の内容はこれに近い。戸は財を所有すると同
時に租税・徴発に責を負い、特に正丁の戸は財と爵という特権とひきかえに兵士として戦うことを義務づけられ、
戸・
家間に創出される爵位と財の序列が国家のために働く意欲を増幅するシステムとなっていた。秦漢の爵制は徴発制
度と深くかかわっており、国家が規定した親族集団の枠組み︵家・室人など︶の機能を考察する上でも、時代ごと
99
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
に変遷するその制度実態の解明が重要である。
﹃二年律令﹄にみえる爵位継承の問題を含めて改めて検討される必
要がある。
秦・漢ともに法制上複数の親族集団の枠組みがあり、それぞれ財を共有し租税を負担する範囲︵家・戸︶
、共同
生活して生計を営み老弱を扶養するなど直接人の再生産にかかわる範囲︵漢の同居・秦の室︶、連坐や首匿罪にか
かわり秩序の保持に連帯責任を負わされる範囲︵父母妻子兄弟︶などが存在すると考えられる。国家はこのような
複数のレベルの血縁集団を、労働力の再生産や社会秩序維持の基盤としていたのであり、秦代における夫婦倫理の
強調︵飾省宣義,有子而嫁,倍死不貞。防隔内外,禁止淫䈣,男女䊑誠。夫爲寄䤓,殺之無罪,男秉義程。妻爲逃
嫁,子不得母,咸化廉清。大治濯俗,天下承風,蒙被休経。
﹃史記﹄秦始皇本紀・会稽刻石︶
、﹃睡虎地秦簡﹄の秦
制にみえる父の強い権力︵松崎つね子一九八二参照︶
、漢代における孝倫理の宣伝など家族秩序倫理の強化は、親
族集団かつ国家の基層である複数の組織の安定と係わる。
秦制においては、成人した男子は皆戸主として妻子とともに独立した財の単位を形成するため、おのずとそれぞ
れが一定の独立性を保持するようになるであろう。すると成人した男子と父母との間には法的に定められた序列の
関係が有るが、これは財を有する集団としては別個のものの間の秩序であり、居住を共にする集団である室も、そ
れが単独の核家族によって構成されているわけではないかぎり、こうした別の財の単位を構成する父母子の秩序に
よって維持されていたと考えられる。また秦律の規定をみると生計単位としての室についてはむしろ保護につとめ
ており、必ずしも家族の解体をもくろんではいない。つまり必ずしも小家族の分立を意図してはいないが、家族中
の個々の成年男子の独立性は強まったであろう。結果、壮年男子とその妻・未成人の子からなる家が独立性を有し
つつ、再び連合して家族を形成していくようなあり方が、促進されたのではないか。
100
中国古代史論叢 四集
本論とは別のレベルの話ではあるが、国家的に家族秩序倫理がすべての社会倫理の源泉であるとされたことは、
当時において国家の正当性とは何であるかとという事と関連する。複数の基層組織に対する国家の制度、家を序列
づける爵位の問題、そして家族国家観の三点は、国家と家との接点を論じる上でさらに考察さるべき課題である。
注
①
以下﹃睡虎地秦簡﹄の引用については、睡虎地秦墓竹簡整理小組一九九〇を参照する。﹃二年律令﹄は張家山二四七號漢墓竹簡
整理小組二〇〇一を参照し、﹃里耶秦簡﹄は湖南省文物研究所・湘西土家族苗族自治州文物処・龍山県文物管理所二〇〇三を参照
たとえば睡虎地秦墓竹簡整理小組編一九七八・古賀登一九八〇・佐竹靖彦一九八〇・好並隆司一九八一・松崎つね子一九八二・
した。
②
一九八五・堀敏一一九八九・張世超一九八九・冨谷至一九九八 など。
太田幸男一九八四・ Hulsewé, A.F.P.
③ 佐竹靖彦一九八〇・好並隆司一九八一・堀敏一一九八九参照。堀一九九六は、﹁同居﹂とは実際に同居しているか否かにかかわ
らず、同戸籍者を指すとする。しかし史料として例に挙げられているのはいずれも官吏や遊学する諸生など移動が前提となる職に
視角から捉える必要がある。同居にかんするこの問題については鷲尾祐子二〇〇六 で論じた。
就く人々であり、これを以て一般的な事例とすべきか疑問である。同居については国家が如何にして人々を管理把握したかという
a
一九八五・冨谷至一九九八 。
④
睡虎地秦墓竹簡整理小組編一九七八・ Hulsewé
⑤
牧野巽一九四二・中田薫一九四三等多くの論著が同居同財をもって中国家族の範疇を説明している。
b
⑥
古賀登一九八〇・松崎つね子一九八二・太田幸男一九八四・冨谷至一九九八 は家屋とする。
⑦ たとえば﹃睡虎地秦簡﹄の次の一文では、内︵部屋︶の出入り口が戸がある。
封守
郷某爰書。以某縣丞某書、封有鞫者某里士五︵伍︶甲家室・妻・子・臣妾・衣器・畜産。●甲室、人。一字二内、各有戸、
内室皆瓦蓋、木大具、門桑十木。︵後略︶︵﹁封診式﹂八 一
―二 ︶
⑧
尹在碩二〇〇三によれば、戸主の地位を継承することを代戸という。
101
a
a
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
⑨
例えば﹁可︵何︶如爲大誤。人戸、馬牛及者︵諸︶貨材︵財︶直︵値︶過六百六十銭爲大誤、其它為小。﹂︵﹁法律答問﹂二〇九︶
の人戸以下は、﹁人戸・馬牛及び者そ貨材の直六百六十銭を過ぐる︵の誤︶を大誤と為し﹂であり、大誤直前の為の前にあるべき
誤りを意味する言葉が省かれている。但し為の後に省かれた言葉である誤があり、意味を容易に推測させる構造になっている。
二一︶。事務的に伍を組む際に、一室が複数の
⑩
連坐対象として、同居と伍人がともに列挙されることがある︵﹁法律答問﹂二〇 ―
戸に率いられる集団からなる場合、一室中の戸が別の伍に属す可能性があるからではないか。
⑪ 吉本道雅二〇〇〇によれば、商鞅の変法とされる一連の施策の記録は、秦において行われた様々な制度を商鞅の事跡に仮託して
いるものであり、すべてを商鞅の功績に帰することはできない。
⑫
戸に爵位を与える例として、﹃史記﹄六國年表始皇二十八年に﹁賜戸三十爵一級﹂と見える。
⑬ 黄盛璋一九七九によれば、﹁法律答問﹂は称王以前の律文、恵文王時の律説を含む。
⑭
可︵何︶謂家罪。父子同居、殺傷父臣妾、畜産及盗之、父已死、或告、勿聽、是胃︵謂︶家罪。︵略︶︵﹁法律答問﹂一〇八︶
参考文献
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―
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ける國家と農民﹄所収
西嶋定生博士還暦記念論叢編集委員會編
山川出版社
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太田幸男
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岡田功
佐竹靖彦
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古賀登
冨谷至
a
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中国古代史論叢 四集
一九九八
一九八九
一九八二
堀敏一
松崎つね子
一九八一
一九九六
好並隆司
二〇〇〇
二〇〇六
二〇〇四
吉本道雅
鷲尾祐子
二〇〇三
二〇〇六
尹在碩
二〇〇四
中文
裘錫圭
一九七九
一九八〇
黄盛璋
一九九四
第一章 同朋舎
﹁刑徒墓の概要と分析﹂﹃秦漢刑罰制度の研究﹄第Ⅱ編﹁漢代刑罰制度考証﹂第一章
同朋舎
﹁中国古代の家と戸﹂﹃明治大学人文科学研究所紀要﹄二七
堀敏一一九九六所収
﹃中国古代の家と集落 ﹄ 汲古書院
﹁睡虎地秦簡よりみた秦の家族と国家﹂
﹃中国古代史研究﹄五
雄山閣︵しかし松崎つね子二〇〇〇﹃睡
虎地秦簡﹄明徳出版社では同居の解釈につき訳者に定見があるわけではないとする。ゆえに松崎説に
関しては本論では参照しなかった。︶
﹁商鞅﹁分異の法﹂と秦朝権力﹂﹃歴史学研究﹄四九四
﹁商君変法研究序説﹂﹃史林﹄八三 四
―
﹂冨谷至編﹃江陵張家山二四七号漢墓出土漢
―
﹁墨子兵技巧諸篇小考﹂﹃東洋史研究﹄六二 二
―
漢代における戸と国家負担﹂立命館東洋史學會中国古代史論叢編集委員会編
―
立命館東洋
史學會叢書五﹃中國古代史論叢﹄三集
﹁為正考
﹁漢初の戸について ﹃
―二年律令﹄を主な史料として
律令の研究﹄論考篇
朋友書店
二
―
﹁睡虎地秦簡和張家山漢簡反映的秦漢時期後子制和家系継承﹂﹃中国歴史文物﹄二〇〇三 一
―
﹃ 中 国 出 土 古 文 献 十 講 ﹄ 出 土 古 文 献 与 其 他 出 土 文 字 資 料 在 古 籍 校 読 方 面 的 重 要 作 用︵ 三 ︶ 与 古 代 制 度
有関的詞語 復旦大学出版社
﹁雲夢秦簡弁正﹂﹃考古学報﹄一九七九 一
―
﹁雲夢秦墓両封家信中有関歴史地理的問題﹂﹃文物﹄一九八〇 一
―
﹁江陵高台漢墓新出〝告地策〟
、遣策与相関制度﹂﹃江漢考古﹄一九九四
睡虎地秦墓竹簡整理小組編 一九七八 ﹃睡虎地秦墓竹簡﹄文物出版社
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b
a
b
秦 の 「 戸 」「 同 居 」「 室 人 」 に つ い て 鷲 尾 祐 子
張世超
一九八九
, Leiden, E.J.Brill.
秦
―代古城一号井発掘簡報﹂
﹁秦簡中的〝同居〟与有関法律﹂﹃東北師大学報︵哲学社会科学版︶﹄一九八九 八
―
Hulsewé, A.F.P.
一九八五
出土文字史料
睡虎地秦墓竹簡整理小組 一九九〇
﹃睡虎地秦墓竹簡﹄文物出版社
李均明・何双全編
一九九〇
﹃散見簡牘合輯﹄文物出版社
二〇〇六
張家山二四七號漢墓竹簡整理小組 二〇〇一 ﹃張家山漢墓竹簡︵二四七號墓︶﹄文物出版社
﹃江陵張家山二四七号漢墓出土漢律令の研究﹄訳注篇
朋友書店
冨谷至編
胡平生・張徳芳編撰 二〇〇一 ﹃敦煌懸泉漢簡釋粹﹄上海古籍出版社
湖南省文物研究所・湘西土家族苗族自治州文物処・龍山県文物管理所
二〇〇三
﹁湖南龍山里耶戦国
﹃文物﹄二〇〇三 一
―
104