「速記者における線条体神経ネットワークの繋がり」

論文は英語のため、研究者より提供していただいた日本語概要を掲載します。
「速記者における線条体神経ネットワークの繋がり」
伊藤岳人(玉川大学脳科学研究所/放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 研究員)
松田哲也(玉川大学脳科学研究所 教授)
下條信輔(カリフォルニア工科大学生物・生物工学部
ボルティモア冠教授)
概要
速記術とは、速記符号と呼ばれる特殊な文字を用いて発言などを書き記す技術であり、一生
涯をかけて習得する非常に高度な専門技術である。音声認識、言語理解、文章理解、記憶、そ
して運動機能といった多様な脳機能を統合させて初めてなし得る技術である。多様な専門技術
が存在する中、このような多様な脳機能の融合を要する技術はまれであり、複雑な神経モジュ
ールの融合により支持される高度な技術は脳科学の知見から見ても非常に興味深い研究対象
である。近年の機械による自動音声認識の導入に伴い、衆参議院において速記者の養成が停止
され、今後速記者人口の減少が危惧されている。
そのような状況の中、今回我々は、第一線で活躍する速記者の脳機能を解明するチャンスを
得た。
機能的磁気共鳴画像(fMRI)研究には速記者、同年代の速記経験のない対照群に御参加
いただいた。fMRI内では、参加者にはヘッドホンを通してさまざまなスピーチを聞いてい
ただき、指示に従って書き取り作業などをしていただいた。
fMRI実験の結果、脳中央部に位置する大脳基底核の被殻と呼ばれる領域に、速記者に特
異的な神経ネットワークが確認された。具体的には、速記者では被殻前部の活動が、小脳や中
脳と強い結合を示した一方で、対照群では被殻後部の活動がこれら二つの領域と強い結合を示
した。
今回の研究より、長期にわたる技術の修練により、神経モジュールの可塑的変化が起こるこ
とが明らかとなった。特に、長期にわたる修練により起こった神経の可塑的再構成が、成人に
なっても起こり得ることを示唆することができた。
研究の背景と目的
速記術とは、速記符号と呼ばれる特殊な文字を用いて発言などを書き記す技術である。音声
認識、言語理解、文章理解、記憶、そして運動機能といった多様な脳機能を統合させて初めて
なし得る技術である。プレ実験により、日本語の速記者は1分当たり 340―400 文字を書き取
ることができ、これは実に対照群の5―6倍に及ぶ分量である。日本語においては、他の言語
と比較して平仮名や漢字を初めとしたさまざまな文字を用いることからも、その複雑さが際立
っている。
速記術は他の専門技術とは異なり、二十歳前後になってから訓練を始めることが大きな特徴
である。ある種の専門技術は幼少期から訓練に取り組むのが一般的であるが、速記のように成
人になってから訓練を集中的に行い、高度な技術を身につける例は非常にまれである。そのた
め、高度な速記術の神経基盤の解明は、多様な神経モジュールの融合を明らかとすると同時に、
成人後においても脳の可塑的な変化が起こり得るかを明らかにする可能性も秘めている。しか
し、近年の音声認識技術の発達により、速記者の持つ本来の技能をもって活躍できる場は少な
くなっている。そのような状況の中、我々は、第一線で活躍する速記者らの神経基盤の解明に
着手する機会を得た。
研究手法と結果
速記者 13 名と、同年代の対象者 14 名に御参加いただいた。速記者は全員、二十歳前から養
成所にて速記術の勉強を始め、2年半の養成期間を経て、1級の速記の資格を有している。衆
参議院のブロックに所属し、日常の業務で速記による作業を行い、平均 14 年以上の長い業務
実績を誇る。
MRI装置内では、被験者の手元に紙とプラスチックペン、非磁性の書記台を用意し、合わ
せ鏡により手元が見えるように配置し、横たわった状態でも書記できる環境を整えた。また、
ヘッドホンを通してテレビの解説番組の音声が流れるようにした。
被験者は音声を聞きながら、音声を「書記」する課題、
「書記するイメージ」する課題、
「聞
き流す」課題という、3種類の課題を行った。ただし、速記者と対照群とでは書き取れる分量
が違うため、制限時間内に書き取れる最大音声量を事前に確認し、速記者は 20 秒間に 140―
180 文字、対照群は 20 秒間に 25―35 文字の音声量となるように調整した。
「書記」する課題では、速記者群は音声を速記術を用いて書記し、対照群は平仮名、片仮名、
漢字等で書き取りを行った。速記者群・対照群ともに「書記するイメージ」する課題では、手
や腕を動かさず脳内で書記のイメージだけを行い、
「聞き流す」課題では、音声をただ聞いて
いた。スキャン後、書き取りの正答率を確認した。
「書記」の書き取りの正答率は、速記者群 95.0 ± 0.85%(SEM)、対照群 93.5 ± 0.87%
となり統計的な差は見られず、課題の難易度はそれぞれの群で統制がとれていると考えられた。
fMRI実験により両群の脳の賦活の差異を検討した結果、上記の作業中、速記者群は対照
群と比較して被殻前部において有意に高い活動を示した。また、両群の構造的な差異を検討し
た結果、速記者群では被殻前部がわずかであるが拡大していることも確認できた。さらに、速
記者群では活動の差が見られた被殻前部の活動が、小脳や中脳の活動と強く関連づけられてい
たのに対して、対照群では被殻後部の活動とこれらの領域の活動に強い関連づけが見られた。
本研究結果と今後の展望
今回の結果より、速記者に特異的な神経基盤を明らかにすることができた。速記者の脳では、
長期にわたる技術の修練により被殻の形態と機能が変化することが示唆された。
被殻はその機能に基づき、前部と後部に分けられるが、前部は主に新しく技術の習得する際
に重要とされ、一方で後部は習得した技術の実行にかかわると考えられてきた。そのため、当
初は速記者の脳では被殻後部の機能がより高進していると仮説を立てていたが、予想に反して
前部が中心的役割を担っていることが示唆された。
その理由として、第1に、これまでに報告のあるような単純な技術の習得にかかわる論文で
は、実験期間が数時間から数週間程度であり速記者のように生涯に渡るものではないというこ
と、第2に、ある種の専門家を対照とした研究では、MRI装置内で実際の技術を十分に行使
できているとは言いがたく、今回のようにより実践的な環境を再現しての実験は初めての試み
であるということが挙げられる。
このように、今回の研究ではより速記者の技術を引き出せるような環境下で脳活動を計測す
ることで、神経基盤の可塑的変化を明らかにすることができた。大脳基底核、特に被殻は従来
から運動機能に関係していると言われているので、ここと小脳、中脳との結合が速記の専門訓
練で増したことは、これらの領域間の連結がより効率的になることで高度な情報処理が可能と
なったことを意味すると解釈できる。被殻前部と後部の機能分担が、専門家と素人では違って
いることもわかった。
一般に、成長期を過ぎると脳の可塑性は失われると考えられるが、今回の結果では、二十歳
前後からであっても長期にわたる過学習により可塑的変化が起こる可能性が示唆された。今回
の実験では、同一被験者における学習の前後で比較を行うことができなかったため、今後は技
術の修練度による経時変化を調べる必要がある。
出典「日本の速記」6月号 (公社)日本速記協会発行((2015.6.1)