近世ヨーロッパの人口動態 (1500~ 1800 年)

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近世ヨーロッパの人口動態(1500∼1800年)
高木, 正道
静岡大学経済研究. 4(2), p. 147-174
1999-08-30
http://doi.org/10.14945/00005111
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近世 ヨーロ ッパ の人口動態 (1500∼ 1800年 )
論
説
近世 ヨーロ ッパ の人 口動態 (1500∼ 180o年
)
高 木 正 道
I
人 口 動 態 の 旧体 制
一般 にある国ない し社会 の「人口様式」 (Bevё lkerungsweise)は 、歴史的にみると、高出生率 ・
高死亡率 (多 産多死 )の 第一 局面か ら、高出生 率 ・低死亡率 (多 産少死 )の 第二 局面 を経 て 、低
出生率 ・低死亡率 (少 産少死 )の 第 三局面 に移行する。
「人 回転換 」 (demographic transition)
と呼 ばれるこの歴史的過程 を ヨーロ ッパ につい て粗描すれば、次の よ うになる。すなわち、人 口
転換以前 の時代 にお い ては出生率 と死亡 率 は と もに高 い水準 (約 30‰ )に あ ったが 、18世 紀 の 後
半 以 降 まず死 亡率が下が りは じめ 、そ の結果 としてかな り急激 な人口増加
(「
人 口爆 発 」 と呼 ぶ
学者 もい る)が 生 じた。 しか し19世 紀後半 になって産児制限が普及 しは じめる と、出生 率 が 低 下
し、少産少死 (出 生 率 ・死亡率 と もに15‰ 前後 )の 人口様式 に移行 した 。大抵 の ヨーロ ッパ 諸 国
では、 この移行が完結す るまで にほぼ200年 を要 した (図 1を 参照 )。
本稿が問題 にす る近世 (Frthe Neuzeit)は 人回転換が起 こる以前 の 時代 で あ るか ら、そ の 人
口様式 は多産多死 によって特徴 づ け られた。当時 の ヨーロ ッパ は まだ人口が全 体 として きわめ て
少な く、都 市や村落 の規模 も非 常 に小 さか った。人口 はほとん ど増加 しなか った し、増加 した と
して もほんのわずか で あ った。 だが そ の原因は、低 い 出生率 にではな く高い死亡率 にあった。フェ
ルナ ン・ ブ ローデ ルが言 う ように、 ヨーロ ッパ社会 は1740年 頃にや っと人口動 態 の旧体制か ら脱
却 しは じめるので あるが、 この 人口動態 の旧体制 を構成 していたのは「 生 と死 との対等 、非常 に
高 い幼児死亡 率、飢饉 、慢性栄養不 良、強烈 な流行 病」 であ った (ブ ローデル『物質文明・経済・
資本 主義』 I-1、 108ペ ー ジ)。
長期的 な観点か ら見 て 、旧体制下 の人口動態 を特徴 づ けてい たのは、
「 一 に近 い世 代 の 再 生 産
―-147-―
経済研究 4巻 2号
「幸福 な数年間 と苛酷 な数 年 間 との継 起 に もかか
率」 を もつ「脆 い均衡」 で あ った。そ こでは、
わ らず 、地域 的 ・局地的 。社会的偏差 を貫 い て 、全体 として一種 の 内的均衡 とい うべ きもの が実
現 されて い た」が 、世代 の再生産率 の決定 に与 った諸要因の一 つ が変化す れば、それによつて こ
の率 は どちらか一 方 の方向へ 決定的 に傾 きかねなか ったので 、その均衡 はまことに脆い ものであっ
「人口現象の年 ごとの推移が本質的に不規則 で ある
た。人口動態の旧体制の もう一つの特徴 は、
こと、つ まり、出生数、死亡数、そ して婚姻数さえもが、年を逐 って、 しばしば大 きな偏差 を示
す とい うこと」であった。この現象 は「あまりにも持続的かつ執拗 に、どの小教区において も、
どの地方 においても、 どの時期 において も現 われるので」、それは旧体制 における人口動態構造
その ものの本質的特徴 とみなす ことがで きる (グ ベール F歴 史人口学序説』34∼ 36ペ ージ)。
当時の平均寿命
(出 生児の平均余命 )は
、今 日と比較 してかな り短かった。グベールは先 に引
用 した箇所で、1661年 頃のフランスにおける平均寿命を25歳 以下 と述べているが、16世 紀末のヘ ッ
セ ン北部 のシュ ヴアルム (Schwalm)で は平均寿命 はお よそ25歳 と30歳 の あ い だに あ った
(Borscheid,Gescん
jcλ
ι
θ&s AJι ars,S.26)。 「1690年 代の平均寿命 は、 イギ リスでは32年 、 ドイ
ツのブレス ラウでは27.5年 であった」(ギ リス『 〈
若者〉の社会史』18ペ ージ)。 エ ング ルジング
によれば、18世 紀末のブレスラウにおける平均寿命 は33歳 から34歳 であった (Engelsing,Sο zttJ―
scλ ttπ 法,S.101)。 ドイツとオース トリアにお い ては 、 19世 紀
πご 7jrι scλ artSgθ scん ,cん ι
οDο ι
“
“
の半ば過 ぎになって もこうした状況 は基本的にあまり変わっていなかった (表 1)。
近世 に生 きた人 々 に とうて60歳 を こえる ことがで きれ ば 、まさに御 の字 とい えた。60歳 を こ え
て生 きてい る者 は当時 の村や町 で きわめて 稀 な存在 で あ つた。ちなみに、宗教改革 と宗教戦争 の
時代 にハ プス ブルク家 か ら出た皇帝たちの多 くも、実 に興味深 いこ とに、60歳 ない しはそ の 前後
でみ まか っている。マ クシ ミリア ン 1世 (1519年 没 )は 60歳 、 力‐ ル 5世 (1558年 没 )は 58歳 、
リレー
彼 の弟 フェルデ ィナ ン ト1世 (1564年 没 )は 61歳 、マ クシ ミリア ン 2世 (1576年 没 )は 49歳 、
ドルフ 2世 (1612年 没 )は 60歳 、マ テ イアス (1619年 没 )は 62歳 、 フェルデ ィナ ン ト 2世 (1637
年没 )は 59歳 、 フェルデ ィナ ン ト3世 (1657年 没 )は 49歳 で あ った (Borscheidi Cescん
jcん
ι
θルs
AJι θ
rs,S.24)。
ところで 、 フリー ドリヒ・エ ング ルスは、産業革命期 のイギ リス にお いて平均寿命 が階級 な い
`
「 リヴ アプ ー ルで は1840年 に 、 上流 階
し階層 によつてか な り異 な って い る事実 に注 目してい る。
級 (ジ ェ ン トリ、専 門職等 )の 平均寿命 は35歳 、商人 と富裕 な手工 業者 の平均寿命 は22歳 、労働
者、日雇 い労務者、奉公 人階級 の平均寿命 はなん とわず か15歳 で あ つた」 (エ ング ルス 『イギ リ
ス における労働者 階級 の状態』 (上 )岩 波文庫 、210ペ ー ジ)。 しか し、 この よ うな 「死 の まえ の
―-148-―
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
社会的不平等 」 (in6galit6 sociale devant la mort)は
、決 して産業 革命 と と もに始 ま った わ け
ではな く、す でにそれ以前 の近世 に も存在 して い た。 この問題 に関 しては、17世 紀 の ジュ ネ ー ヴ
につい て詳 しい研究が なされてい る。それ によれば、上 層 (大 中のブルジ ョワジーや上級公務員 )
の場合 、60歳 に達 した者が 1000人 中305人 い た。 これにたい して中層 (小 市民 、手 工 業 者 、熟練
労働者 )に お いては171人 、下層 (不 熟練労働者や下働 きの労働者 )で はたった106人 にす ぎなか っ
た。 この相違 はある程度 まで 、階層 によって異 なる乳 児死 亡 率 に起 因 して い た。実際、 1000人 の
乳児 の うち、満 1歳 の誕生 日を迎 える ことがで きた者 は、上 層 では792人 、中層 では697人 、下層
では642人 だった。 だが 、それ だ けでは なか った。死 の危険 は、 どの 年齢 を とってみて も上層 よ
りも下層 にお い て大 き く、50歳 の平均余命 は後者 のほ うが前者 よ りも 5歳 、 60歳 の それ は2.3歳
短か った (Borscheid,Gθ
rs,S.26,246f;図
scん jcλ ι
θ,ル sス Jι ο
2)。
平均寿命が この よ うに短か った原因は、乳幼児 と子供 の高 い死亡率 にあ る (表 2)。 17世 紀 後
半 の 6年 間に フイレンッェの ある教 区で死 んだ1000人 の教 区民 を年齢別 のグル ー プに分 けてみ る
と、710人 が乳幼児 と10歳 以下の子供 で あ り、そ の半数以上 (367人 )が 1歳 未満 の乳児 で あ った
απαEcOπ οπjc″ jsι οッ
(7%θ Fο んι
0/EEtr"θ ,Bd.2,S.69)。 カル ロ・チポ ラによれば 、正 確 で
包括 的なデ ー タを集 めることがで きる場合 、われわれは次の よ うな結果 を得 る。す なわち、工 業
化 以前 の ヨーロ ッパ では、生 まれた子供 1000人 の うち、150か ら300人 が 1歳 未満 で死亡 し、 も う
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100か ら200人 が10歳 に達す るまえに亡 くな った (Cipolla,3a/o″ ι
んθれ仇 sι rttJ Rο υοJじ ι
れ,S.
156)。
グベー ル も、
「恵 まれたオヌーユ にお い て さえ、新 生 児 の四 分 の一以上 は 1歳 未満 で 死亡
したのであ り、彼 らの半分 よ りやや多 くの者 は20歳 の誕生 日を迎 える ことがで きなか ったの で あ
る」 (グ ベール『歴 史人口学序説』26ペ ー ジ)、 と述 べ てい る。
図 3は 、A.E.イ ム ホ ー フが 、ベ ル リ ンの ドロテ ー ンシュ タッ ト教 区におけ る1715∼ 1875年 の
すべ ての死亡例39251件 を コ ンピュー タ・ グラフイックで描 い た もので あ る 。横 軸 は年 で 、左 か
ら右 に向 かって1715年 か ら1875年 まで を表 し、縦軸 は死亡年齢 で 、手前 に向か って 0歳 か ら90歳
まで を示 して い る。そ して 、 この教 区での死亡例 ひとつ ひ とつがその死亡年 と死亡年齢 にしたがっ
て小 さな箱 と して描かれて い る。同 じ年 に同 じ年齢 で多 くの人が死ねば 、た くさんの箱が積 み重
な って柱 になる。毎年同 じ年齢 で多数 の 人が死 ねば 、柱 が横 に連 な って壁がで きる。生 まれ て 間
もない年齢層 の ところに巨大 な「死の壁 」 が響 え立 っているが 、 この壁 をつ くってい る死 者 の う
ち、31.1%(12193件 )が 1歳 未満 の乳児 で あ り、かれ らを含 む50.6%(19857件
)が 8歳 まで に
命 を落 とした子供 たちであ った。ちなみ に、そ の死因の第一位 は天然痘 であ った。ベ ル リンで は
種痘が 1801年 に導入 され 、それに よって天然痘 による乳幼児 の死亡は劇的に減少す るが 、今度 は
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経済研究 4巻 2号
天然痘 に代 わって「 胃腸系」 の病気 (便 秘 、下痢 、胃痙攣 、下腹部炎症 な ど)が 幼 い 子供 た ち の
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屁 ″θ θ
ん,S.203f)。
rJO″ π
命 を奪 い続 けた (Imhof,Djθ υο
Jι
フラン ドラ ンによれば、
「 1000人 の うち200人 か ら300人 の子供 が 1歳 にな る前 に死 亡 し、 20歳
まで生 き残 るのは しば しば半分以下 で あ つた」 (フ ラ ン ドラ ン『フラ ンスの家族』78ペ ー ジ )。 ピ
エー ル・ グベール も、ル イ14世 時代 のフランスの人口動態 を次の よ うに描 い て い る 。「 1969年 の
平均寿命 は70歳 を少 しこえてい る。1661年 のそれ はおそ らく25歳 以下であ つた。 この冷酷 な数字
が示 してい るよ うに、当時 は、ち よう ど墓地が村 の 中心 にあ つた よ うに、死 は生 活 の 中心 に位 置
して い た。新 生児 100人 の うち、25人 は満 1歳 になるまえに死亡 し、 もう25人 は20歳 に達せ ず に
亡 くな り、さ らに もう25人 は20歳 と45歳 の あい だで死 んだ。60歳 代 にまで生 きたのは 10人 ほ どに
す ぎなか つた。80歳 まで生 きぬいた人 は、少 な くと も100歳 に見 させ る伝 説 の 雰 囲気 に包 まれて
お り、自然 の感情か ら王者 たち (champiOns)に 与 え られる迷信的 な畏敬 の念 を もって 眺 め られ
た。かれ の息子や娘 、甥 や姪 は とつ くの昔 に死 んで い た。孫 たちのゆ うに半分 は亡 くな った あ と
も生 き続 け、 この 故老 は村全体 の 賢者 となつた 。 かれ の 死 は地 域 全 体 の 大 事 件 で あ っ た 」
π,S.21)。 確 か に昔 も長生 きす る者 は き
(Goubert,Lο じ,s Xry“ ご ■″厖り ν jJJjο πFrθ ttcλ θ
“
わめて少数 ではあ るが いて 、 まさにそれゆえに特別 の存在 とみなされたのである。 しか し大数法
則 としては、生 まれた者 のほぼ半数が20歳 以前 に亡 くな り、60歳 を こえる者 はせ いぜ い数 パ ー セ
ン トにす ぎなか った。
こ う した当時 の死亡パ ター ンを今 日の それ と比較 してみる と、図 4の よ うになる。現代 の ドイ
ツでは、乳幼児 の死亡 は きわめて稀 にな り、死 が多数 の人 々 を襲 うよ うになるのは60歳 を過 ぎて
か らである。 これにたい して 、17世 紀後半 か ら18世 紀 の ヴ ュル テ ンベ ル クの ニ ュル テ イ ング ン
(Ntrtingen)に お い ては、 この世 に生 まれて きた者 の約35%が 1歳 未満 で死 に、約 55%が 5歳 未
満 でな くな った。そ して死 は、統計的 にみる と、人 々のそれ以後 の人生全体 にほぼ平均 して ば ら
「結婚初 期 の 数年 間 には 、婚姻
まかれ て い た 。 これに関連 して夫婦 の死 につい て触 れてお くと、
関係 の断絶 は、 と りわ け新妻 の死亡 によつて 、す なわち結婚当初 の 2年 間 ………に非常 に頻 繁 に
見 られた彼女 たちの出産時 の死亡 によつて、 もた らされた。結婚後 10年 目か ら24年 目にかけては、
婚姻 関係 の断絶 はむ しろ夫 の死亡 によつて もた らされる」 (グ ベー ル『歴 史 人 口学序説』 22ペ ー
ジ)。 以上 の よ うな死亡 パ ター ンに対応 して、近世 ヨーロ ッパ社会 の年齢 別 人 口構 造 は 、 い わゆ
る ピラミッ ド型 と呼 ばれる形 を示 してい る。そ れは、(1)人 口全体 に占め る15歳 未満 の 年齢 集
団の比 率 が高 い こと、お よび
(2)人 口全体 に占め る60歳 ない し65歳 以上 の年齢集団の比 率 が 低
い ことによつて特徴 づ け られる (図
3、
表 3)。
一-150-―
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
人回転換 以前 の ヨーロ ッパ は現代 に比 べ て確 かに多産 な社会であった。だが それは、決 して 当
時 の大多数 の人々が 若 くして結婚 した ことを意味す るわ けではない。同時代 の他 の諸社会 ない し
諸文化 と比較 してみ る と、旧 ヨーロ ッパ社会 の結婚 パ ター ンを特徴 づ けて い たの は 、 (1)相 対
的に高 い独 身者 の比率 と
(2)相 対的 に高 い結婚年齢 で あ った。独身者 の比率 は少な くとも5%、
多 くの ところではは20%か ら25%に 達 した (Gottlieb,abo λ れj″
50)。
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λθ Z“ ι
θ ″οr″ ,S。
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これ らの独 身者 の 中核 を成 したのは、 ピー ター 。ラス レッ トの い う「 ラ イ フサ イ クル奉 公
jπ
人」 (life― cycle servant)で ある。お よそ12∼ 30歳 の年齢 にあ る これ らの 男女 は 、結婚 に必 要 な
資 金 を貯 めるため に、かれ らの青年期 を奉公人 (Gesinde)と して通常 は他人 の世帯 で暮 ら した。
かれ らの うちの大多数が最 終的 には結婚 したが 、 この時代 には常 にかな りの数 の独身の奉公人が、
農村 では下男 (Knecht)や 下女 (Magd)と して 、都市 では徒弟 (Lehrling)や 職人
(Geselle)、
あるい は さまざまな種類 の女 中 と して 、種 々の分野 で働 い て い た。都市 には農村 よ りもはるか に
多 くの女性 の独身者がお り、彼女 たちの なか には結婚す ることな く生 涯 を終 える者 も少 なか らず
いた。
旧 ヨーロ ッパ社会 にお いては、貴族 の娘 は別 として 、庶民 の男女 の あい だではむ しろ晩 婚 が 普
通であ り、特 に女性 の高 い結婚年齢 は人口動態 の 旧体制下 にお ける「受胎 調節 のための真 の武器」
&jι α θ
rル s Bα rο cλ ,266)で あ った 。 16世 紀 末か ら18世 紀
“
末 までのイギ リスの教 区 を対象 と したサ ンプル調査 によると、20∼ 24歳 の年齢集団に占める既婚
(Chaunu,Eじ r"ajscん θκじ rjれ
Jι
Jι
者 の割合 は、男 で16%、 女 で18%に す ぎなか った。25∼ 29歳 の年齢集団につい てみ ると、対 応 す
る数値 はそれぞれ45%と 50%で あ った。 また17・ 18世 紀 のオ ース トリアでは、20∼ 24歳 の 年齢 集
団に占める既婚者 の比 率 は、男 の場合 は10%以 下の地域が大部分で、女の場合 は少数 の例外 を除
い てほ とん どの地域で20%を 下回 ってい た。17・ 18世 紀 のイギ リス にお ける平均初 婚年齢 につ い
ては、男26∼ 28歳 強、女24∼ 27歳 弱 とい う数値が示 されてい る。同様 に18世 紀 の ドイツにお け る
男 の平均初婚年齢 は約 28歳 、女 の それ は25歳 ない し26歳 であ った (表 4)。
出産 に関 しては、階層 によってか な りの相違が見 られ 、上 層 では農民や手工 業者 よ りも出産 間
隔が短かかった。上 層 の人 々の あ い だでは、子供 を育てるのに乳母 を雇 うのが 普通 で 、母親が み
ずか ら母乳 を与 える ことを しなか った ため て出産間隔が短 くな ったので ある。だか ら、支配層 の
家族 の情景 (例 えば 、た くさんの子供たちに囲 まれたマ リア・ テ レー ジア)を 描 い た絵画か ら、
当時 の一般庶民 の家族生活 を類推す るのは、まった くの誤 りである。農村住民 と都市 の 中層 ・ 下
層 の人 々の場合 、子供が毎 年 ひ と りず つ増 える とい うことは まずあ りえなか った。母乳 を与 えて
い る期 間、流産や死産 、宗教的戒律 による定期的 な性 的禁欲 、 と きには長期 にわた る
夫 の不在
―-151-―
経済研究 4巻 2号
一―これ らはすべ て 、出産間隔 を広 げ る要因 としてはた らい た。
庶民 の 出産力 につい てグベー ルは、ボ ー ヴ土地方 の教 区記録簿 の綿密 な調査か ら得 られた結 果
「人口動態 上 の ア ンシ ャ ン・ レジー ム に属 す る女性 はみ んな
に基 づい て次 の よ うに述べ て い る。
毎年 出産 した とい うことが、 しば しば通例 と して認 め られて きたので あ るが 、 これは並 はず れ た
出産力 に関す るい くつ かの断片的な言及 に基 づい た単 なる伝説 にす ぎない。近代 以前 のわが ボ ‐
ヴェ地方 にお い て (近 代 以前 のわが フラ ンス にお いて 、 と言 える日も近 い だろ う)、 妻 た ちは 2
年 に一 度 しか子供 を生 まなか つた し、 30カ 月 に一 度 とい うの も多 か ったので あ る」 (グ ベ ー ル
『歴史人口学序説』18ペ ージ)。 そ して既述のような比較的高い結婚年齢 に条件づ け られて、 た と
え生殖能力を最後まで発揮 できたとしても、一人の主婦が生んだ子供の数 は、平均値で も最頻値
で も、多 くて 8人 とい うのが実状 であった。しか し実際には、妻の受胎可能期間が終わる以前に、
夫婦の一方の死によつて多数の結婚生活が終上 したため、出生の実数はさらに小 さくなり、一家
族あた り平均出生人数 5と い う値が現実の状態 に合致する とい う (グ ベール『歴史人口学序説』
19-20ペ ージ)。
ところで 、人 口の流 出入が まった くない とす れば、ある地域 の人口数の変動 は出生 と死亡によつ
て決定 される。当時、出生 率 は大体 にお いて35‰ と45‰ との あ い だにあつた。25‰ と35‰ の あ い
だの比 率 で あ る こと も珍 しくはなか つた。出生率 は一般 に農村 のほ うが都市 よ りも高 か った。 と
いうのは、人口全体に占める若い夫婦の比率が都市 よ りも農村 において大 きか ったからである
οり ,Bd.2,S.66)。
(1吻 οFο ttι ″2α EcOれ οttjc″ ぉι
もう一方の死亡率であるが、これは出生率に比べ てその変動幅が非常に大 きか つた。それゆえ
われわれは、チポラにな らって、死亡率を「通常 の死亡率」(nOrmal mOrtality)と 「壊滅的な
死亡率」 (catastrOphic mortality)を 便宜 上 区別 して考 える のが よい (Cipolla,3a/0″
れ仇 strttJ
ι
んθ
jο
屁,S.5)。 「通常 の死亡率」は特別 なことがなに も起 こらない平常 時 の死亡
οJ“ ι
Rθ υ
「壊滅的な死亡率」は激 しい人口減少 をもたらす大惨事が発生 した ときの破局的な
率 を意味 し、
死亡率を意味す る。通常 の死亡率 は農村 と都市では若干の相違が見 られ、農村 では25‰ と35‰ と
のあいだに、都市では30‰ と40‰ のあいだにあつた。したが つて、大惨事が起 こらない時期には、
へ
農村人口はわずかではあるが増加 した。だが このわずかな増加分 は、ほとんどすべ て都市 の移
住や植民 によつて吸収 されて しまい、それ以上の人口増加 につ ながることは稀 であつた。
―-152-―
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
Ⅱ 戦争 、飢饉 、疫病
大惨事が起 きたときには死亡率 は異常な高さに達 し、通常の 5倍 、10倍 、 ときには15倍 に もの
ぼつた。そ して、異常な「大量死亡が襲 わない ままに10年 が過 ぎる ことはめった になかった」
(グ ベール『歴史人口学序説』38ペ ージ)。 戦争、飢饉 、疫病が、そのような「壊滅的な死亡率」
を生 じさせる三大災禍であった。だから、当時の人々が くりかえし唱えた祈 りは、「主 よ、 われ
らを戦争 と飢饉 と疫病から守 り給え」(a bello,fame,et peste libё ra ttOs Domine)で あ った
(Kamen,Eじ r"θ tt
SOcjθ
り,S.33)。 特に戦争は諸悪の根源であった。なぜ なら、戦争 は い わば
不可避的に他の二つの悪を伴 ったからである。すなわち、戦乱による破壊 と荒廃はしば しば飢饉
の元凶になった し、不衛生な軍隊は動 きまわるごとに疫病をまき散 らしたからである。そ して飢
饉 は、間接的に疫病の流行を助長することによって、死者の数をさらに増や した。 とい うのは、
飢饉 のときには、貧 しい人々は、栄養失調のために病気に感染 しやすいと同時に抵抗力も弱 くなっ
てお り、しかもそのような折 りに、飢餓 と空腹に堪えかねて、普段 は摂取 した こともない よ うな
ものを食べ た り飲んだ りして病気になり、命を落 とす ことがよ くあったからである。現実の死 者
の数 とい う点からいえば、直接 の戦闘による犠牲者 よ りも、戦争の間接的結果としての飢饉 の発
生 と疫病の蔓延に よる犠牲者のほ うが、一般的にはず っと多かった。
大量 の人口減少のあ と、人口は概 して驚 くべ き速 さで回復 された。これまで研究された多 くの
地域や市町村 の人口統計が示す ところによれば、戦闘や包囲攻撃や疫病のあ と、最初の収穫がな
されて飢饉が和 ら ぐと、まず著 しい結婚の増加が起 こ り、一定のタイム・ ラグをともならて 出生
の増加が続 き、こうして大量死によってつ くりだ されたギャツプは埋め合わされた。全体 と して
改善された生活環境 と特に人口増加 と食糧供給 との一時的な緊張緩和が、そ うした速やかな人口
回復をひ き起 こ したのである。またこのような人口の回復 は、当該地域の住民 の出生率の上昇 だ
けによって実現 されたのではなかった。まだあまり研究が進んでいない問題ではあるが、人 口移
動の効果を考慮する必要がある。戦争による生命 の危険がさし迫 ったような場合、人々は一旦 は
どこか余所に逃げるが、生存者たちは再 び戻 って くる。 と同時に、大抵 は人口が相対的に過 剰 に
なった地域から移民がやって来て定住するようになる。特に17世 紀 には、大 きな人口減少の生 じ
た地域へ の移住はときどき重要な意味をもった。例えばバーデ ンの Singen村 では、1650年 か ら
1675年 のあいだに行 われた結婚 の半分において、新郎 と新婦 の両者 またはい れかが
ず
同村以外 の
出身者であった。そのなかでも最 も多かったのはス イスからの移住者であった (G″ aり
,Bd。
“
S. 239)。
―-153-―
2
経済研究 4巻 2号
戦争
「19世 紀 は 、西 ヨーロ ッパ 文明 に前代未聞の現象 、す なわ ち平和 の 100年 (1815∼ 1914年
)を
生みだ した。クリミヤ戦争 一一 これは多 かれ少 なかれ植民地 での事件 にす ぎない一一 を別 にす れ
ば、 イギ リス、 フランス 、プ ロ イセ ン、オース トリア、イタリア、 ロシア相互間では、 わ ず か 18
カ月 しか戦争が起 こ らなか つた。 これに先立つ 二世紀 について対応す る数字 をみる と、一世紀平
均60な い し70年 の大戦争 がある ことがわかる」 (ポ ラニー『大転換』 6ペ ー ジ)。 1500年 か ら1815
年 まで に起 こった主要 な戦争 (内 乱 ・ 革命 な どを含 む )を 挙 げれ ば 、次 の よ うになる。
1521∼ 1544年
イタリア戦争
1524∼ 1525年
ドイツ農民戦争
1546∼ 1547年
シュマルカルデ ン戦争
1562∼ 1598年
ユ グ ノー戦争
1568∼ 1648年
オラ ンダ独立戦争 (八 十年戦争
1618∼ 1648年
三十年戦争
1642∼ 1649年
清教徒革命
1648∼ 1653年
フロ ン ドの乱
1652∼ 1654年
第一 次英蘭戦争
1655∼ 1660年
ス ウ ェーデ ン・ ポ ー ラン ド戦争
1664∼ 1667年
第二次英蘭戦争
1667∼ 1668年
フラ ン ドル (遺 産帰属 )戦 争
1672∼ 1674年
第三次英蘭戦争
1672∼ 1678年
オラ ンダ戦争
1675∼ 1679年
スウェーデ ン・ ブラ ンデ ンブルク戦争
1688∼ 1697年
アウクスブル ク (プ フアルツ)戦 争
1690∼ 1697年
ウイリアム王戦 争
1700∼ 1721年
北方戦争
1701∼ 1714年
スペ イ ン継承戦争
1733∼ 1738年
ポ ー ラ ン ド継承戦争
1740∼ 1748年
オース トリア継承 戦争
1740∼ 1742年
第一 次 シュ レー ジエ ン戦争
1744∼ 1745年
第二次 シュ レー ジエ ン戦争
(フ
ラ ンスの内乱 )
―-154-―
)
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年
1756∼ 1763年
七 年 (第 三次 シュ レー ジエ ン)戦 争
1776∼ 1783年
アメ リカ独立戦争
1778∼ 1779年
バ イエ ル ン継承戦争
1789∼ 1795年
フラ ンス革命
1799∼ 1815年
ナポ レオ ン戦争
)
特 に17世 紀 は戦争 に明け暮 れた100年 であ った。
「 17世 紀 の100年 間、 ヨー ロ ッパ に戦 火 の 消 え
た年 はたったの 4年 だ けで あ った とい われる」 (高 澤紀恵『主権国家体制 の成立』41ペ ー ジ )。 あ
るい はまた、
「1618年 か ら1815年 の あい だで 、 ドイツ国民 の神聖 ローマ 帝 国 の 版 図全域 で 平和 が
保 たれた期間は70年 もなか った」 (Gθ ″拗り ,Bd。 2.,S.233)と もい われる。なか で も最 大 の 規
模 で最 も激 しく戦 われたのが三 十年戦争である。 と りわ け戦場 となった ドイツは、この戦争によつ
て壊滅的な被害 を こ うむった。三 十年戦争 による人口減少 は 、一般 に都市 では33%、 防備 施設 の
貧弱 な農村 では40%と 見積 もられてい る。 もちろん人口減少 の程度 は地域 によって大 きく異 な っ
てい る。戦争 の被害 をまった くあるい は少 ししか受 けなか った北西 ドイツの諸地域 は、そ の 人 口
水準 を維持 したのにた い し、マ ルク・ プラ ンデ ンブルク、ザ クセ ン、バ イエ ル ンの人口は半減 し
た。 メ クレンブル ク、ポ ンメル ン、ヘ ッセ ン、 プファルツ、ヴュル テ ンベ ル ク (表
5)に お け る
人口喪失の割合 は、三分 の二 あるい はそれ以上 にのぼった 。 ベ ー メ ン (ボ ヘ ミア )の 人 口 も、
1618年 の170万 人か ら1654年 の93万 人に減少 した。南 ドイツ最大 の都市 と して 1600年 には4万 5000
人の人口を擁 したアウクスブル クではあるが、1635年 のセ ンサ ス に よれば 同市 の 人 口 は1万 6000
人にす ぎなか った。南 ドイツの他 の都市 と地域 にお ける人口減少 をみ ると、ニ ュルンベ ルク50%、
ミュ ンヘ ン60%、 カウフボ イ レン (Kaufbeuren)75%と 推計 されて い る。 ドイッに隣接す るフラ
ンシュ・ コンテ も、1635∼ 1644年 の戦争 による荒廃 のため に、その人口の半分か ら四分の三 を失 っ
た。他方、ハ ンブル ク、ブ レー メ ン、 リュ ーベ クな どの北 ドイツのハ ンザ諸都市 は、基本 的 にそ
の人口水 準 を維持す るか 、あ るい は増加 させた。例 えばハ ンブル クの人口は、1620年 の約4万 5000
ない し5万 4000人 か ら1660年 の7万 5000人 へ と増大 した。 ドイッ全 体 としての 人口は、二十 年戦争
のために1600∼ 1700万 人か ら1000∼ 1100万 人に減少 した。
飢饉
「数世紀間 とい うもの 、飢饉 はまことに執拗 に再来 して、人類 の生物学的制度 に組み込 まれ て
い たほ どで 、その 日常生活 の構造 の一環 をな してい た。物価高 と品薄 とは、 じつ に ヨー ロ ッパ に
お い て さえ 一― ここは有利 な地歩 を得 た地域 で あ ったの に 一一 連続 的に襲 い かかって くる、見慣
―-155-―
経済研究 4巻 2号
れた敵手 で あ った。栄養 の よす ぎる金持 ちが何 人かい た ところで 、通則 にはなん ら変 わるところ
がなか った。事態 が変わるわけ もなか った。穀物 の収穫率 は貧弱 で あ った。二年続けて凶作だと、
破局が ひ き起 こ されたので ある」 (ブ ローデル『物質文明 。経済 ・資本 主義』 ILl、 81ペ ー ジ )。
近世 の ヨー ロ ッパ を くりかえ し襲 った 凶作 は、凶作 → 飢饉 → 疫病 とい う因果関係 を通 じて
人口危機 をひ き起 こ した。 この時代 の収穫量 は年 によつて大幅 に変動 し、凶作が 二年 ない し三 年
連続 して起 こった と きには、穀物 の供給 は危機的な水準 にまで低下 し、種用 の穀物 にす ら事 欠 く
ことにな つた。当然 の ことなが らまず穀物価格 が 高騰 し、それに他 の食料品 の価格上昇が続 いた。
そ うな る と、 と りわ け貧 しい人 々 は必要最低 限の食料す ら買 うことがで きず、飢餓 に瀕す る こ と
になった。また一般 に当時 の交通 と輸送 は、あ る地域で の余剰 を他 の窮乏地域 へ 時間的 に間 に合
うよ うに輸送 で きるほ ど機動性 に富 んで い なか った し、実際 にそ の ような ことを行 うには大変 な
コス トがかか つたので 、被害 を緩和す る現実 的な手段 た りえなか った。特 に関税障壁 によつて あ
る地 方 が 別 の地方 と分断 されて い た状況下 では、二つの隣接す る地域 の一 方 が餓死に直面 して い
るのに、他方 は十分 な食糧 を供給 されて い る、 といつた よ うな ことが起 こ りえた。
農作物 の作柄 は、当時 は今 日以上 に気候 と天候 によつて左右 された 一― 翻弄 された といつても、
過言 で ない だろ う。近世 はい わゆ る「小氷河期 」 (Kleine Eiszeit)と 時期 的 に重 な つて お り、
‐
1550年 か ら1850年 には寒 い冬 と雨 の多 い夏が多 か った。16世 紀 の前半 は全般的 に気候 に恵 まれて
い た。 と きには暑 い夏があ り、冬 はかな り寒 く異常 に乾燥 してい た けれ ども、農作物 の収穫 には
好 ましい天候が続 い た。 だが 16世 紀半 ば以 降 t厳 寒 の冬 と多雨 の冷夏 が多 くな り、豊作 を もた ら
す前提条件 が失われた。17世 紀初頭 は一 時的 に比較 的暖 か く乾燥 した夏 に恵 まれ たが 、早 くも
1620年 頃 には遅 い春 の到来 と雨が ちの寒 い夏 と秋 を特徴 とす る時期が始 まった。1635年 頃か ら17
世紀末 までは乾燥 した年が続 い た。1685年 以降は、今 日まで経験 した うちで も最悪 の気候 ―一 冬
も夏 も寒 く、そ れに加 えて夏 と秋 は雨の多 い気候 一一 の時期 となった。それゆえ、 ヨーロ ッパ 全
どい飢饉 の一つ が まさに この時期 (1695年 )に 起 こってい るのは、決 して不 思
域 を襲 つた最 もひ―
議 ではない。18世 紀初頭 は収穫 を増加 させ る比較 的温暖な天候 に恵 まれたが、1730年 頃か ら大 陸
型気候 (寒 く乾燥 した冬が終 わる と、涼 しい春 と暖か い多雨 の夏がや つて きて、その あ とには冬
の よ うな秋 が続 く)の 時期 が始 ま り、それは19世 紀初 めまで続 い た。18世 紀 は17世 紀 に比 べ て 良
い天候 に恵 まれて はい たが 、それで もや は り異常気象が原因 となって農作物 が全滅あ るい は減収
し、食糧 の供給不足 が発生 した (Garれ αり ,Bd.2,S:8)。
食糧不足 と死 亡率 とのつ なが りは、1590年 代 、1661年 、1690年 代 の危機 か ら判断 して、確 か な
証拠 に よつて裏づ け られるように思 われ る。1594∼ 7年 は ヨーロ ッパ の 大 部分 の地域 で 大雨 と不
一-156… …
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
作 の年 で 、そ のため に穀物価格 は急騰 した。スペ イ ン、 イタリア、そ して特 に ドイツでは、 この
災害 は、ペ ス トの流行 にようて もた らされた大量死 と時 を同 じくして い た。1659∼ 62年 の危機は、
多 くの 国で絶対王政へ の道 を容易 にす る条件 を生みだ した。 フランスの北部 と東部 にお け る1661
年 の 凶作 は 、若 きル イ16世 が 自分 を情 け深 い支配者 として彼 の 臣民 に印象づ ける機会 をつ くりだ
した。1692∼ 4年 に西 ヨーロ ッパ は不作 に見 舞 われた。1693年 11月 には一― ア リカ ンテ市 の 報告
によれば一一「14カ 月 も雨が降 らなか ったために、収穫 は ない も同然であ った。
」 フランス にとっ
て1693年 は17世 紀最悪 の年 で あ った。パ リ北 東 にあるム ラ ン (Meulan)で は 、穀物 の価格 は三
倍 にな り、埋 葬 は平年 のそれのほぼ二 倍半 になった。三十年戦争 中の1637年 にフランシュ・ コ ン
テを襲 った飢饉 につい て 、あ る同時代 人 はこ う記録 してい る。
「後世 の 人 た ちは信 じな い だ ろ う
が、人々は庭や畑の草木 を食べ て生 きて い た。死んだ動物 の腐 肉を探 し求め さえ した。 ………そ
してつい には人 肉を食べ るまで にい たった。
」 フ ラ ンスでは1693∼ 4年 に 一― 疫病 の発生 と相侯 っ
て 一一 死者の数 は200万 人 を超 えた。三年後 の1696年 には、悲惨 な凶作 が フ ィ ン ラ ン ドを襲 い 、
1696∼ 7年 に同国 の 人口のお そ ら く四分 の一 を奪 い去 った
(Kamen,Eじ ropθ απSOctο り,S.37-38)。
宗教改革か らフラ ンス革命 の時代 までに、幾度 とな く飢饉 に襲 われた時期があ った けれ ど も、
最後 の大 きな飢饉 に よる災害 の,つ は 、1770年 か ら72年 にか けての ことで あ った。11770年 と1771
年 に大 雨 の ためにベ ー メンの穀物収穫が大 きな被害 を受 けた と き、住民の14%に あたる25万 人が
死亡 したとい われる。ザ クセ ン も、ち ょう ど同 じ年 に不作 に見 舞 われた。1767∼ 1770年 の 年 平均
出生数 と年平均死亡 数 を、1771∼ 1773年 の それ らと比較 してみる と、1771年 と1772年 に は 出生 数
が約6万 多 く、1772年 と1773年 には出生数が3万 6000少 なか ったため 、結 果 と して人 口が 6%純 減
した ことが わか る (Blum,η tt ILご 0/ι んθO″
Or&rれ
Rし れ JE“ rOpe,Si 147)。
そ して この
ときの飢饉 をきっか けの一 つ と して 、それ以後 ヨーロ ッパ にジャガイモの栽培 が普及 して いっ た
とい われてい る。
だが 、凶作が実際 に どの よ うな被害 を もた らすかは、地域 の産業構造の あ り方 によって少 なか
らぬ違 いがみ られた。表 6は 、17世 紀末 フランスの ボー ヴェ地方の三 つ の教 区における埋 葬数 と
結婚数 と妊娠 数 の変動 を、そ して表 7は 、 この時期 の小麦価格 の動 きを示 した もので ある。小 麦
価格 が高騰 した と きには死亡率 が激増 し、結婚数 と妊娠数の双 方が激減す るとい う一般 的傾 向が
はつき りと認め られる。 しか しなが ら、注 目すべ きことに、 これ ら三 つ の教 区における
被害 の 程
度 は同 じでは ない。ォヌ ーユ は他 の二 つ よ りも軽傷 ですんだ。 この よ うな違 いが生 まれた理 由は
、
これ らの教 区の経済構造が異 な ってい た ことに求 め られる。 オヌ ーユ の属す る地 は
域 、牧`畜 が 農
業全体 の なかで重 要 な位置 を占める混合農業地帯 で あ り、 この ことが凶作 による穀物収量減少 の
―-157-―
経済研究 4巻 2号
被害 を緩和す るのに役 立 った。 これにた い して 、ブル トゥーユ が位置す る ピカルデ イの高原 は基
本的 に穀物単作地帯 で あ り、凶作 の影響 を和 らげ るクッシ ョンの役割 を果 たす ものがな きに等 し
かった。 しか し、 この 凶作 によつて最 も甚大 な被害 を受 けたのは、農村 工業 で生 計 を立てて い る
労働者 たちで あ った。大規模 な地方的毛織物 工業 が立地 して い た ム ゥイにおける驚 くべ き死亡率
が 、そ の ことを如実 に物語 つてい る。穀物価格 が高 い と きには生 産 の重心が工 業部門か ら農業部
門へ移動 し、そのため毛織物工 業 で働 く労働者 たちは 、貨幣 を最 も必要 とす るまさにそ の と きに
失業 させ られたのである。
疫病
「不作 も一 回な らまだよい。二 回 となる と、物価 が狂騰 し、飢饉 が御輿 を据 える。 しか も決 し
て飢饉 だけではす まない。遅速 の差 はあるが、それ は疫病 の露払 い を務め る」 (ブ ロー デ ル 『物
質文明 ・経済 ・資本 主義』 I-1、 89ペ ー ジ)。
ヨーロ ッパ の全域 を襲 った大規模 な疫病 としては、本稿 が扱 う時代 以前 の 出来事 ではあるが 、
14世 紀 におけるペ ス ト (死 体 に見 られる紫斑や膿胞 の黒 さゆえに「黒死病」 と も呼 ばれ る)の 大
流行があ る。1347年 、す で に コンス タ ンチ ノー プルをは じめ、キ プ ロス 、サ ルデ イエ ア 、 コル シ
カ、マ ジ ョリカ等 の地 中海 の主要都市 、 さらにマルセ イユ 、ヴェネチア等 の港町に上陸 して い た
黒死病 は、1348年 に入 る と、 1月 に ア ヴ イニ ヨンに伝播 したのを皮切 りに、 4月 にはフイレンツェ、
8月
にはイ ングラ ン ドまで上 陸 し、翌 1349年 の 11月 には ス ウ エ ー デ ンやポ ー ラ ン ドに広 が り、
1351年 には ロ シアにまで達 した。 ジ ヨヴア ンニ 。ボ ッカッチ ヨ (1313∼ 75年
(柏 熊 生訳 )の
)は 、『 デ カメ ロ ン』
なか で 、 フイレンツ ェヘ のペ ス トの到来 とそ の病状 につい て 記 したあ と、 同市 と
その周辺農村 の惨状 を次の ように伝 えて い る。
そ う して棺 をかつい だのは、身分 の ある市民 ではな く、こうした仕事を金 をもらってやつ
てい た死体運 び (ベ ッキ ー ノ)と 呼 ばれてい た細民 の 出で あ る一種 の死体運搬埋 葬 人 で ご
ざい ま した。で 、かれ らは、死者 が生前 に手配 してお い た教会な どほ うつてお い て、大 抵
の場合 は一番手近 の教会 に、 ………棺 を運 んで い きま した。聖職者 たちは先 に述べ た死 体
運 びの助 け をか りて、 ………儀式 で骨 を折 るよ うな ことは しないで 、ふ さが つて い な い 墓
穴な らなんで も構 わず見 つ か り次第、死体 をそ の なか に埋 め ました。 ………
………あ らゆる教会 に、毎 日、ほ とん ど毎時間、す でにお話 しした よ うな彩 しい数 の死
体が続 々 と運 ばれた ものです か ら、 これ を埋葬す るには、墓地が十分 ではあ りませ んで し
た。 ………どこもか しこ も全部 いつぱいで した ので 、教会 の墓地に大 きな溝 をつ くり、 そ
―-158-一
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年
)
の なかへ新 たに運ばれる死 人が何百 とな くお さめ られ ま した。死人はそ の なかに、まるで
船 に貨物 を積 み込む よ うに、一段 一段 と溝 の頂 きに達す るまで積 み重 ね られ 、土 をか ぶせ
るの もや っ とで ご ざい ま した。
………そ こ [田 舎 ]で は、散在 してい る部落や畑地 でね 、哀 れな貧 しい働 き手やか れ ら
の家族 の者 が 、医者 の面倒 も煩 わ さず、あ るい はまた召使 い の世話 も受 けないで、道端や、
耕作地や、家のなかで、昼夜 をわかたず、人間 とい うよ りも、まるで畜生 のように死んで
い きました。そんなわけでかれらは、市民 と同様、その習慣 の うえで、放埒に流れ、 自分
たちのことや仕事 は何一つかまい ませんで した。それ どころか、皆 はまるで死が自分たち
のところに訪れる 日を待 ってで もいるように、家畜や土地や、さては自分 たちの過去 の労
働な どの未来の収穫 をあげるために手をかす どころか、現在手許にあるものを使い果 たそ
うとあらゆる知恵をしぼって努力 してお りました。
……… 3月 と同年 7月 のあいだに、………きっとフィレンツェの城壁内では10万 人以上
の人間が生命 を奪われただろ うと考 えられるほど、天の残虐 と、それから一部 には人 間の
残虐が ひどい ものであったとい う以外に、もっとなんとお話 しす ることがで きるで しょう
か
。
当時 の ヨーロ ッパ の総人口8000万 人 の うち、そ の約 三分 の一 にあたる2500万 人が 、 この 1348∼
51年 のペ ス ト流行 の犠牲 となった。 だが 、ペ ス トによる悲 劇 はこれで終 わったわ けではなか った。
この と きの大流行 をきっか け と して 、ペ ス トはい わば風土病化 して ヨーロ ッパ の地に根 を下ろし、
それ以 後 18世 紀 にい たるまで何度 もくりかえ し発生 した。 と りわ け17世 紀 には ヨー ロ ッパ の 各地
で頻発 し、死亡率 を通常 の何倍 に も高めた。
「 アムステルダムで は、1622年 か ら1628年 にか け て 、
ペ ス トが毎年続 い た (決 算 ―一 死 者3万 5000人 )。 パ リでは、1612年 、1619年 、1631年 1638年 1
、
、
662年 、1668年 (最 後 の流行 )に ペ ス トが流 行 した。 ………ロン ドンでは、 1593年 か ら1664年
-6
5年 にか けて 、ペ ス トが 5回 くり返 して襲 い かか り、合計す る と15万 6463人 の 犠 牲者 が 出た とい
う」 (ブ ローデル『物 質文明 。経済 ・資本主義』 I-1、 102ペ ー ジ)。 三 十年戦 争 中 の 出来事 で あ
るが 、ネル トリング ン (Nё rdlingen)市 は1634年 のペ ス トで そ の9000の 人口の三 分 の一 を失った。
18世 紀 に入 る とペ ス トは勢 い を弱 め 、1720年 にマルセーユ で狙微 をきわめた (同 市 の人口の半 分
が犠牲者 とな った といわれる)の を最後 に ヨーロ ッパ本土か らは姿 を消 し、1743年 のメ ッシ ナで
のペ ス ト流行が西 ヨーロ ッパ で最後 の もの とな った。 しか し東 ヨー ロ ッパ ではそれ は依然 と して
猛威 をふ るい続 け、モス クヮでは1770年 のペ ス ト流行で多数 の死者が出た。
当時ペ ス トか ら身 を守 るために とられた ご く普通 の方策 は隔離であった。1563年 にイングラ ン
―-159-―
経済研究 4巻 2号
ドでペ ス トが流行 して いた あい だ、宮廷 はウイ ンザ ニ に移 され 、同時代 の年代記編者 が報 じて い
る ところによれば、
「 ロン ドンか らそ こにやって来 た者 が い た ら、かれ らす べ て を 吊 し首 にす る
ために市 の 開かれる広場 に絞首台 が立て られた」 (Kamen,EEtrOpaの
Sο cjθ り,S.34)。
ペ ス トは
貿易路 にそ つて広が り、行軍す る軍隊 にようて運 ばれたが 、隔離 はかな り効果があ つた。陸路 を
通 じて伝播す る疫病 を防 ぐのは困難 であったけれ ども、海路 による通商 の禁止 はいつ も成功 をお
さめた。例 えば、 この方法 によつて オラ ンダは1563年 のイングラ ン ドでのペ ス トか ら、ス ペ イ ン
は1720年 のマルセーユ でのペ ス トか ら救 われた。
ペ ス トは確 かに恐 ろ しい病気 ではあ ったが 、 しか しそれは多 くの病気 のなかの一つ にす ぎず、
ほかに も一一長期 間 をとってみればペ ス トよりも頻発 し、それゆえより大勢 の 人 々の命 を奪 った
一一ペ ス トに劣 らず恐 ろ しい伝染性 の病気 がた くさんあ った。す なわち、ジフテ リア、 コ レラ 、
チ フス 、天然痘 、狸紅熱、 イ ンフルエ ンザ等 々で ある。一般的 にいつて 、疫病 が発生す る と、罹
患 した者 の三分 のす か ら半分 が 数 力月 の あい だにその犠牲 となって命 を落 と した。「 1775年 の あ
る医学書 は、種痘がようや く話題 にな りかけていたころの ことだが、天然痘を 《すべ ての病気の
うちでもっとも一般的なもの》 だとしている。100人 中、罹患者 は95人 。罹患者 7人 につ き 1人
が死亡、 とある」 (ブ ローデル『物質文明・経済・資本主義JI-1、 89ペ ージ)。 ジェンナー (17
49∼ 1823年 )に よつて牛痘 の効果が明らかにされたのは1798年 以後のことであるか ら、1775年 当
時「話題 になりかけていた」種痘 は、牛痘種 を使 った種痘法ではな く、それ以前に行われ てい た
人痘接種法である (18世 紀 の種痘論争 については、ヴォルテール『哲学書簡』第11信 「種痘 につ
いて」 を参照 )。
疫病の社会的影響 についての研究 はまだ不十分 にしかなされていないが、社会諸階層が平等 に
疫病 の犠牲 になったのではないことは疑 い ようがない。疫病 は不潔な状態のところにはび こ り、
なによりもまず都市 の下層階級 を襲 った。ロン ドンでは一一 死亡者統計表 (Mortality Bill)が
示す ところによれば一― 疫病 は最 も貧 しい郊外か ら発生 した。そ して このような現実は、死 のま
えでの社会的不平等 とい う現象 をひき起 こす重要 な原因の一つであつた。自分 たちの目に映るあ
りの ままの事実 をみて、上層階級 の人々は、疫病 を広 く伝染 させるのは貧民 たちだと感 じていた。
他方で貧民 たちは、物質的な快適 さに恵まれた連 中は疫病の襲来か らも免れ るとい う事実 を不快
に思っていた。貧困 と栄養不良 は、疫病 の犠牲者の二大特徴 であった。こうした貧困 と疫病 の結
びつ きに鑑みて、公共団体 は都市の衛生状態の改善 に力を入れたけれ ども、都市当局 によつて講
じられたなんらかの措置が実際 に功 を奏 したか どうかは疑わ しい。
―-160-―
近世 ヨーロ ッパ の人口動態 (1500∼ 1800年 )
Ⅲ
人 口 変 動 の歴 史 的趨 勢
まず、1500∼ 1900年 の期 間における ヨーロ ッパ 主要諸国 とヨーロ ッパ 全体 の人口変動 を世 紀単
位 で示す と、表 8の よ、
うになる。 ヨーロ ッパ 全 体 としてみ ると、人 口はこの 間一貫 して増え続け、
特 に ヨーロ ッパ で本格 的な工 業化が始 まった19世 紀 にお け る人口増加が際立 っているが 、19世 紀
の問題 は本稿 の考察範囲 の外 にある。16世 紀 と18世 紀 は どの 国に とって も一― したが って、 ヨー
ロ ッパ 全体 と して も一一 人口増加 の世紀 であ った。 これにた い し17世 紀 には、人 口は 一一 イギ リ
ス とロ シア を例外 と して (増 加率 は と もに29%)一 一 停滞 もしくは減少 した。 ドイッの人 口減 少
はす でに見た三十年戦争 による もので ぁ り、スペ イ ンの それ の原因は1596∼ 1602年 と1647∼ 52年
にお けるペ ス トの流行 で あ った。イ タリアで も、17世 紀 の20年 代 と30年 代 にお ける疫病 の 流行 に
よつて人口が減少 した (た だ し、 これには相当の地域差が あ り、南部 はほどんど被害を受けなかっ
たのにたい して、北部 は深刻 な人口危機 に見舞 われ 、1650年 の北 イタリアの住民数 は百年前 よ り
10%も 少 なか った )。
以下では、 これ まで述べ たことを補足 しなが ら、近世 ヨーロ ッパ にお ける人口変動 の歴 史的趨
勢 を世 紀 ごとに見 てい く。
16世 紀
ヨーロ ッパ の人口は15世 紀後半か ら増加 を開始 し、増加 は16世 紀 を通 じて続 い た。 1450年 を基
準 と して計算する と、西 ヨーロ ッパ の 人目指 数 は 1450年 =100、 1500年 =155、 1600年 =195と な
る。 この数値 は、16世 紀 に入 ると人口増加 の速度が 15世 紀後半 よ りも落ちた ことを示 してい る 。
14世 紀 の半 ばか ら後半 と15世 紀初 めに頻発 したペ ス ト流行 による人口減少が埋 め合わされたあと
、
人口増加のテ ンポが減速 したので ある。
16世 紀 には ヨーロ ッパ 全域 で 人口増加が起 こった けれ ど も、その増加率 は地域 によってか な り
違 ってい た 。表 9が 示 して い る よ うに 、北 欧 と北 西 欧 にお い て は著 しい 人 口増加 が 見 られ た
(1500年 か ら1600年 にか けて指数は北 欧では100か ら163、 北西欧では100か ら154に 上 昇 )。 ホ ラ ン
ト州 の人口増 加 は特 に著 しかった (1500年 を100と す ると1650年 は328、 北 ネーデル ラ ン ト全 体 で
は197)。 これにた い して 、西欧 と南欧 と中欧 にお ける人口増加率 は相対 的に低か った
地域 では1500年 か ら1600年 に人目指数 は100か らそれぞれ105、
132、
(こ
れ らの
130に 上 昇 )。 こ う した人 口
増加率 の地域差 は、 この時期 に経済 。政治・ 文化 の 中心が地中海地域か ら大西洋 に面 した北欧 と
―-161-―
経済研究 4巻 2号
北 西 欧 へ と移 動 しつ つ あ った こ との 反 映 とみ なす こ とが で きる。 この 16世 紀 の 人 口増加 は 、世 紀
の 後 半 に 一一 特 に1570年 代初 めの 飢 饉 以 後 一一 減 速 した 。
ドイ ツの 人 口は 、14世 紀 の ペ ス ト大 流 行 に よ つ て 、 1340年 か ら1470年 に か け て 1400万 人 か ら
1000万 人 に減少 した 。 しか もそ の 後 、 ドイ ッで は農民 戦争 に よつてお よそ10万 人 の生 命 が 奪 わ れ
た 。 しか し、 ドイツ の 人 口 は16世 紀 に急 速 に増加 し、1560年 には1340年 の水 準 (1400万 人 )に ま
―
θ
ごWjrι sめ artSgascん jcん ι
し
ん
で回復し、1620年 には1600万 人に達した (Engelsing,SOzjα ι
,S.58u.
91;Schulze,Dθ
οjれ
ttscλ θGθ Scλ jcλ ι
ゴ6.Jαん浅影π&rι ,S.23f)。
17世 紀
17世 紀 に入 ると、人 口増加 の速度 は概 して緩やか にな り、表 10の 人口増加指数が示 して い る よ
うに、特 に中欧 と西欧 と南欧 で 目立 って停滞的 になった。そ して戦争 と飢饉 と疫病のために、ヨー
ロ ッパ の各地 で異常 な人口減少が生 じた。特 に三十年戦争 の主要舞台 となつた ドイツにおいては、
既述 の よ うに、容易 に回復す る ことので きない破局的 な人口喪失が生 じた。
ポ ー ラ ン ドとマ ソヴイアの人口 は、1655∼ 60年 の ス ウ ェ ー デ ン・ ポ ー ラ ン ド戦争 のた め に 、
1655年 の383万 人か ら1660年 の250万 人に減 った。 イタリアの人口は 、1600年 か ら1650年 にか け て
1330万 人か ら1150万 人に減少 したが、その後増加 して1700年 までに1340万 人にな った (要 す るに、
17世 紀 を通 じてほ とん ど増加 しなか つた )。 スペ イ ンの人口 は、1587∼ 92年 の 768万 人か ら1646∼
50年 の525万 人に減 ったが 、1712∼ 17年 には700万 人にまで回復 した。 フラ ンスは当時 の コー ロ ッ
パ で最大 の 人口を擁 してい たが 、同国 の 人口 は 一-20%以 内 の幅 での変動 を含 み なが らも一一 比
較的安定 して い た (17世 紀半 ばの人 口数 はお よそ2300万 人 )。
これにたい して北欧 と北西欧 の 人口 は、ペース を落 としなが らも増加 を続 けた。17世 紀前 半 の
ー
増加率 は比較的高 く、停滞 が起 こったのは後半 にお い てであ つた。例 えば、イングラン ドとウェ
ルズの人目指数 は、1603年 か ら1670年 に100か ら141に 上昇 したが、その後 の増加 は微 々た る もの
で あ った (1731年 に144)。 北 ネーデ ルラン トで も同 じような傾 向 が観 察 され 、 1600年 を100と す
ると、1650年 と1700年 の人目指数 はそれぞれ125と 126と なる。
17世 紀 における人口の停滞 と減少 には多数 の要因がかかわ つてい た。戦争 と疫病 と飢饉 が 主 要
―
な原因で あ つた ことは確 かであるが、それ以外 の無視 で きない要因 として結婚年齢 の上昇 があ つ
た。17世 紀 の人口動態 は、経済状態 の全 般的悪化 をもた らした16世 紀 の過度な人 口増加 にた い す
る反作用 で あ つたが 、 この厳 しい経済的状況 に適応す るために当時 の人 々は結婚 を遅 らせ:る こ と
「予防的制 限」 (preventive check)を 通 じて 一一 かれ
によつて一一 マルサ スの用語 を用 いれば、
―-162-一
近世 ヨーロ ッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
らの生 殖 パ ター ンを変 えたのであ る。表 11か ら明 らかなよ うに、17世 紀、特 にその後半 には女性
の結婚年齢 は ヨーロ ッパ の多 くの地域 で上が り、その結果 として 当然 の ことなが ら婚姻内出生力
は低下 した。
17世 紀 の ヨーロ ッパ にお ける人口の動 きは一般 に停滞 ない し減少 によつて特徴 づ け られ るが 、
この よ うな全般的な趨勢 とは大 い に異 な り、急激 な人口増加 を経験 した農村地域があった。それ
は、 と りわ け繊維 工 業 を中心 とす る農村 工 業が集中的に展 開 した地域で ある。 この「 プ ロ トエ 業
化」 (PrOto― Industrialisierung)が 起 こった地域 では、農村家内工 業 の 発展 に よって恒 常 的 な就
業機会が創 りだ されたので 、 これ まで結果的 に晩婚 を余儀 な くさせていた結婚 と相続 との結 びつ
きが断ち切 られると同時 に、相続 に与 らない若 い男女 も奉公人 と して余所 に働 きに出る必 要 が な
くな り、自分が生 まれた故郷で結婚 して生 活す ることが可 能 になった。 しか も家内工 業経営 は 、
む しろ結婚 と家族 の形成 を前提 としていた。 とぃ ぅのは、家内工 業 にお いては妻や子供 の労働 が
不可欠 で あ ったか らである。 こ う して農村家内工 業が展開 した地域 では結婚年齢が低下 し、そ の
結果 は人口増加 で あ った
(こ
れ につい ては、後述参照 )。
18世 紀
中世後期 の危機 の あ とに16世 紀 の好況 と拡大局面が続 い た よ うに、17世 紀 の危機 は18世 紀 の 長
期 の成長 に とって代 わ られ 、 この成長 は停滞 と危機 に終 わることな くそ の まま「離陸」へ と移行
した。 ヨー ロ ッパ の大部分 の地域 では1740年 頃か らい わゅる近代 以前型 の人口動態構造が消滅 し、
人口は再 び急増 しは じめた。そ して本格 的な工 業化 をともなった この人口増加 は、19世 紀末 に低
出生 率 と低死亡率 を特徴 とす る新 しい均衡 シス テ ムが形成 されるまで続 い た。他方、16世 紀 と17
世紀 に観察 されたあの人口増加 の地域差 、す なわち、中欧 と西欧 と南欧 の人口増加率 に比 して 、
北欧 と北西欧のそれが 高 い とい う現象 は、18世 紀 にお い て も依然 と して 継続 して い た (表 12)。
こ うして ヨーロ ッパ の経済・ 政治・ 文化 の重心 は、16世 紀か ら18世 紀 のあ い だに、地中海 地方 の
諸国を離 れて、大西洋岸 に面 した国 々へ と移動 してい ったので ある。
ドイツは三 十年戦争 による人口喪失か ら徐 々 に回復 しつつ あ ったが 、1700年 頃にはそ の喪 失 は
まだ完全 には埋 め合 わ されてい なかった。例 えば 、 ヴュルテ ンベ ル クの人口が 1614年 以前 の水 準
に回復 したのは1730年 代 で あ った (表
5)。
クー ルヘ ッセ ンについ て も同様 の こ とが い える 。 ド
イツ全体 の人口数 は、1720∼ 1750年 に三 十年戦争以前 の水準 (1500∼ 1700万 人 )に 回復 したのち、
18世 紀半 ばか ら持続 的な増加が始 ま り、同世紀 末 までに2300∼ 2400万 人 に達 した
(表 13)。 また
西 ドイッ諸領邦の人口増加 は比較 的緩慢 で あ ったの にたい して、ェ ルベ川以束のそれは急速であっ
―-163-―
経済研究 4巻 2号
た。 プ ロ イセ ンの 中核 諸州 (西 ドイツの プロ イセ ン領 を除 く)の 人口指数 は、1748年 か ら1800年
にかけて100か ら161に 上昇 した。
1700年 を100と して、他 の ヨーロ ッパ 諸国の1800年 の人口指数 を表 せ ば 、次 の よ う にな る 。 フ
ラ ンス =134、 イタリア =135、 北 ネーデルラ ン ト=111、 南 ネーデ ル ラ ン ト=194、 イ ン グラ ン ド
とウェー ルズ =157。 イ ングラ ン ドとウェー ルズ を例 に とってみると、表 14に 示 され て い る よ う
に、 ここで も人口増加率 は1740年 頃か ら上昇す るが 、そ れは死亡率 の低下 と出生率 の上 昇 の 両者
による もので あ つた (表 15)。
すでに述べ たように、ペス トは1720年 のマルセーユでの大流行 を最後に ヨーロ ッパから姿 を消
した。また深刻 な飢饉 はあまり起 こらな くなつた。 といっても、完全に消滅 したわけではなかつ
た。1771∼ 72年 には特 に中欧において激 しい食糧危機が発生 し、例えばクールヘ ッセ ンでは死亡
率が三倍 になった。このときは死亡数が出生数を大 きく上回つたとい う。 しか しそのような人口
危機 は、 もはや人口変動の全体的趨勢 を決定す るものではなか つた。18世 紀 になる と死亡率 は確
実 に低下 したのであ り、特 に世紀後半 はそ うであったるこうして平均寿命が伸 びていつた。
しか しなが ら、18世 紀の人口増加 を死亡率の低下 だけで説明す ることは片手落ちであろ う。 も
う一つの重要な要因 として結婚年齢 の低下があつた。表11か ら明 らかなように、女性 の平均結婚
年齢 は18世 紀 に概 して下が つた。 と りわけプロ トエ業化が進展 した農村地域 では、結婚 と相続 と
の結合 一一 それは通常 は結果的に晩婚を意味 した一一 を要 とす る人口制御 システムがはたらかな
くなつたために、結婚年齢 の低下 とそれに ともなう急激 な人口増加が起 こつた。1792∼ 93年 に ヨ
ハン・ ヴォルフ (Johann w01f)は 、その
Fア
θ
イ ヒスフェル ト政治史』 (Pο ι jsaθ Gascλ jcλ ι
jι
「まさに機織 りや糸紡 ぎで生計 を立 てる こと
&s Ejcお ルJル s)の なかで次のように述べている。
を営む者〕
ので きる.チ ャンスが与えられた ことによつて、以前には農耕 ときわめて有用な手工業 〔
に限られていた結婚が 、異常 に容易 になり、農村 には人間が満 ち溢れるようになつた」(Kriedte,
%仇 Jお れじs,S,130)。
Spあ げ
表 16は 、旧 ヨーロ ツパ社会 に備わっていた人口制御 システ ムが作動
しなくなったプロ トエ業化地域 と伝統的な農村 における人口増加の顕著な相違を示す一例である。
―-164-―
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
図
1
人回転換の図式
図
2
ジュネ ー ヴの階層 別 余命 (1625∼ 1684年 )
生存者
人口増加
「人口爆発」
Or..
40
30
20
年齢
O1 510 20 30 40 50
60
70
80
90
(出 典 )ジ ュ ネ ー ヴの階層別 余命 (1625∼ 1684年 ):
10
Borscheid(1989),248
0
時間
(出 典 )人 回転換 の 図式
図 3
:
IInhof(1977), 61
ドロテ ー ン シュ タ ッ ト教 区 の 年齢別 死亡 者数 (1715∼ 1875年 )
(出 典 )ド
ロテーンシュタッ ト教区の年齢別死亡者数 (1715∼ 1875年 ):
Imhof(1985),204
一-165-―
経済研究 4巻 2号
図
4
近 世 (ニ ュル テ ィ ン ゲ ン )と 現 代 (ド イ ツ )の 死 亡 パ タ ー ン
生存者
年齢
015Ю 20 30 40 50 60 70 80 ,0
(出 典 )近 世 (ニ ュル テ イ ング ン)と 現代 (ド イツ )の 死亡 パ ター ン
Borscheid(1989),257
図 5
チュー リヒ市 とその郊外 の年齢別人 口構成 (1637年 )
女性
0
7
n-2189
0
6
0
5
0
4
8,9
0
3
0
2
202
0
1
21,5
0
24,4
%30252015115 0
0 51015202530%
(出 典)チ ユーリヒ市 とその郊外の年齢別人口構成 (1637年 ):
B6rscheid(1989),25
-166-
:
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
表
1
ドイ ツ とオ ース トリアの 平 均 余命 (年 )
ド
1871//80笙
1967//69笙F
「
満年齢
t-zlt)7
ツ
t16s,/75+
女
男
女
6
38.5
67.4
73.5
30。
49。 4
51.0
64.5
70.3
31.4
33.1
40。 9
46.0
29。
12.1
12.7
15。
1
5.3
歳 歳 歳 歳 歳
男
35。
4.1
4.2
|
女
twt+
男
女
33。 1
66.6
73.7
45.3
46.5
63.9
70.6
7
30.5
40。 5
46.3
18.8
11.8
11.7
15.2
19。 1
6.0
4.1
3.9
男
4
5。
2
6。
1
(出 典 )ド イツとオース トリアの平均余命 :ミ ッテラウアー/ジ ーダー (1993)152
表2
イギ リス とオ ッフェン ブル クの乳幼児死亡率 (%)
イギ リス
オッフェンブルク
1 幼児死亡率
1 1∼ 9歳
乳児死亡率
1歳 未満
乳児死亡率
1歳 未満
1550∼ 1599年
143
127
142
123
1751∼ 1760年
1600-1649笙 F
162
123
127
118
1761∼ 1770年
1650∼ 1699年
170
133
137
147
1700∼ 1749年
1771-1780笙「
195
148
143
139
1781∼ 1790年
1750∼ 1799年
165
152
133
117
1791∼ 1800年
265
322
337
328
441
ギリスとオッフェンブルクの乳幼児死亡率
ラスレット (1986)152;An lntroduction tO the Sources,Vol l,196
(出 典)イ
:
表3
Abtenau
年齢集団
1632年
ドイツとォ ース トリアの年齢別人口構 成 (%)
zel1/Ziller
1671年 1779年
オース トリア
1900年
ドイツ
1951年 1970年
1871年
1900年 1950年 1970年
0∼ 15歳
37.3
34.0
31.3
29.7
22.9
24。 4
34.3
34.8
23.3
23.2
15∼ 60歳
57.1
59。 1
60.1
60.8
61。 4
55。 2
61.0
60。 3
68.2
63.6
60歳 以上
5.5
6。 9
9。 4
9。
4
15.6
20.4
4.9
9。 4
13.2
(出 典 )ド
4.6
イッとォース トリアの年齢別人口構成 :ミ ッテラウアー/ジ ー ダー (1993)154
―-167-―
経済研究 4巻 2号
表
4
イギ リス と ドイ ツにお ける平均初 婚 年齢 (歳 )
イギ リス
ドイツ
時期
男性
女性
1600∼ 16494「
28.1
25.6
1650∼ 1674年
28。
1
26.2
1675∼ 1699年
27.7
26。 6
1700∼ 1724年
27.6
26.9
1725∼ 1749年
27.4
25。 7
1750∼ 1774年
26.5
25。 3
1775-17994「
26.1
24.7
時期
男性
1700∼ 1749年
27.8
1750∼ 1799年
(出 典 )イ ギ リス と ドイツにお け る平均初婚年齢
表
5
女性
25。
7
:Ehmer(1991),292
ヴ ュル テ ンベ ル ク公 国 の 人 口 (千 人 )
年代
人口数
年代
414 1
16794F
1598笙
人口数
265
「
1622年
445 1 1697年
284
1623年
458 1 1707年
347
1634年
4151 1730年
425
1645年
121 1 1754年
467
477
16524「
166 1
17594「
479
1669笙 F
218 1
17694「
476
1673年
252 1 1794年
614
(出 典 )ヴ ユルテ ンベルク公国の人口
:
An lntroduction to the Sources,VOl
表
6 17世 紀 末 ボ ー ヴ ェ地方 の 人 口危機
1694年
16934F
16924「
教区
四半期
3
4
13
10
オヌ ーユ
妊娠数
埋 葬数
6
3
5
3
結婚数
1, 192
14
9
21
16
ブ ル トゥーユ
妊娠数
埋葬数
3
9
ム ゥイ
結婚数
妊娠数
埋葬数
18
12
28
18
結婚数
5
1
1234
1234
12
6
o
18
16
4
12
29
4
(出 典 )17世 紀末 ボー ヴェ地方の人口危機 :リ
6
7
1
10
11
3
13
14
4
7
17
2
4
15
1
10
37
0
1695`「
1234
3
17
1
8
31
4
8
67
5
11
lo
10
5
9
2
14
8
3
19
15
14
19
12
7
26
17
8
1452
12
22
12
60
5
120
5
0
2
9
124
1
グリイ (1982)74
―-168-―
18
9
12
82
2
24
27
4
7
35
3
25
21
8
22
18
12
29
20
6
26
11
7
22
17
5
近世 ヨーロッパの人口動態 (1500∼ 1800年 )
表
7 17世 紀 末 の 小 麦価 格
ン〔
=約 78ι 〕につき1ス ー)
(1ミ
(10月
年代
に始 まる収穫年 )
価格
1690∼ 1691年
35
1691∼ 1692年
54
1692∼ 1693年
94
1693∼ 1694年
150
1694∼ 1695年
57
1695∼ 1696年
34
(出 典)17世 紀末の小麦価格 :リ
表
1500年
8
グリイ (1982)76
近 世 ヨー ロ ッパ 主 要諸 国 (1914年 以 前 の 国境 )の 人 口 (百 万 人 )
フランス
イギリス
ドイッ
スペ イ ン
ロ シア
イタリア
ヨーロッパ全体
人数 増加率 人数 増加率 人数 増加率 人数 増加率 人数 増加率 人数 増加率 人数 増加率
16
4
12
10
8
9
80
16004「
19
19%
7
750/O
16
1700笙
「
20
50/0
9
290/0
15 -6%
1800準 F
27
350/0
11
220/0
19004F
41
52%
24 60%
51 113%
37 236%
33%
13 30%
13
0%
18 38%
34
890/0
10
25%
14
56%
105
9-10%
18
290/0
115
26
440/0
185
12 33%
19 58%
59 1270/0
9
近 世 ヨー ロ ッパ の 人 口変 動 (千 人 )
15004F
1600年
1700年
18004F
欧 欧 欧 欧 欧
西
北 北 西 南 中
絶対数
指標
絶対数
1,600
100
2,600
163
3,100
197
5,000
313
6,300
100
9,700
154
12,700
202
21,200
337
指標
絶対数
指標
絶対数
指標
17,000
100
17,900
105
20,800
122
27,900
164
16,400
100
21,700
132
21,700
132
31,300
191
181
18,500
100
24,000
130
24,500
132
33,500
小計
59,800
100
75,900
127
82,800
138
118,900
199
東 欧
南東欧
12,000
15,000
125
20,000
167
36,000
300
11,200
123
12,200
134
20,800
229
小計
21,100
100
26,200
124
32,200
153
56,800
269
合計
80,900
100
102,100
126
115,000
142
175,700
217
9,100
欧 =デ ンマ ーク、 ノル ウェー、ス ウェーデ ン、 フィンラン ド
北西欧 =ブ リテ ン諸島、オラ ンダ、ベ ルギー、
西 欧 =フ ラ ンス
南 欧 =ポ ル トガル、スペ イ ン、イタリア
中 欧 =ド イッ、ス イス、 ォース トリア、ポ ー ラン ド、チェ コ
東 欧 =ロ シア (ヨ ーロ ッパ部分 )
南東欧 =ス ロヴァキア、ハ ンガ リー、ルーマニ ア、バ ルカン諸国
(以 上それぞれ現在の国境 )
(注 )北
(出 典 )近 世 ヨーロ ッパ の人口変動
:Kriedte(1980),12
―-169-―
10%
610/0
400 116%
(出 典 )近 世 ヨーロ ッパ主要諸国の人口 : Our Forgotten Past(1982),110
表
310/0
経済研究 4巻 2号
表 10 17世 紀 ヨーロ ッパの 人 口指数
北 欧 、北西 欧
中欧 、西欧 、南 欧
(出 典 )17世 紀 ヨーロ ッパ の人口指数
:
Kriedte(1980),80
表 11 16∼ 18世 紀 ヨーロ ッパにお ける女性の結婚年齢 の変化 (歳 )
コ リ トン (C01yton)
ボ ッツフォー ド (Bottesford)
1650/49年 11700/49年
1600/49年
1550/99年
27.0
纂
シェップシェ ッ ド (ShepShed)
ム ラ ン (Meulan)
ホイヘ ルハ イム (Heuchelheim)
26.3
│
28
1驚 1射
24.9
ギーセ ン (Giesen)
ジュネー ヴのブルジ ョワ
21.4
24。
イギリスの貴族
22.8
23.4
貌1髪
25.4
6
(出 典 )16∼ 18世 紀 ヨーロ ッパ における女性 の結婚年齢 の変化
:Kriedte(1980),82
表 12 18世 紀 ヨーロ ッパの人口指数
北欧 、北西 欧
中欧 、西 欧 、南 欧
(出 典 )18世 紀 ヨーロ ツパ の人口指数
Kriedte(1980),128
―-170-―
1750/99年
:
26.5
24。
1
25.5
23.8
24.0
25.0
近世 ヨーロ ッパ の人口動態 (1500∼ 1800年 )
Clarkω
16
(1620年 )
10
一 15
1650年
15
Wehlerd)
「
Abel°
Sagarat)
Kellenbenz")
Dipper
5
・
1600笙
Cipolla/
Borchardto)
/
︲
s
貯
。
B
表 13 17∼ 18世 紀 ドイ ツ (1871年 の 国境 )の 人 口変 動 (百 万 人 )
12
18
18-20
18-20
10_11
11-13
11-13
18
「
18
(1740年 )
1800笙 F
23
15-17
2
. 6.
3.
1750雀
15
15.5
「
6
︲
1700笙
24.5
18
18
23
18-20
18-20
24
23
(1815年 )
a ・
0
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ドイッの人口変動 :Dipper(1991),44
表14 イングラン ドとウェールズの人口増加率 (%/10年 )
期間
増加率
期間
5.6
1731∼ 1741年
増加率
1600∼ 1630年
5.6
1741∼ 1751年
-0.3
3.6
1630∼ 1670年
0。
8
1751∼ 1761年
7。 0
1670∼ 1700年
1.5
1761∼ 1771年
7.3
1701∼ 1711年
2.7
1771∼ 1781年
1711∼ 1721年
0.3
1781∼ 1791年
6.8
9.5
1721∼ 1731年
-0。 9
1791∼ 1801年
11.0
1570∼ 1600年
(出 典 )イ
ングランドとウェールズの人口増加率
:
An lntrOduction tO the Sources, VO1 1, 117
―-171-―
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経済研究 4巻 2号
表 15 イ ン グラ ン ドとウ ェ ール ズの 地域 別 平均 出生率 と平均 死亡 率
1701∼ 1750年
(%)
1781∼ 1800年
1751∼ 1780年
出生率
死亡率
出生率
死亡率
出生率
北西部
33.6
28.0
39.6
26。 7
39.8
27.0
北部
32.6
28.5
35。
1
26.8
35。 1
25。 3
南部
ロ ン ドン地 区
32.8
30.6
36.6
29.0
37.1
26.0
38.0
48。 8
38.5
43.3
37.9
35。 1
イ ングラ ン ドとウ ェールズ
33.8
32.8
30。 4
37.5
27.7
地域
37。
(出 典 )イ ングラ ン ドとウェールズの出生率 と死亡率
2
死亡率
:
An lntroduction to the Sources, Vol l, 118
表 16 ノ ッテ ィ ン ガ ム シ ャ ー の 農 業 村 と工 業 村 の 一 村 あ た り平 均 人 口 数
1674笙
農業村落
工業村落
(出 典 )ノ
個数
2
6 “
村落類型
絶対数
「
指数
1743年
絶対数
指数
1764準
絶対数
「
指数
1801笙
絶対数
「
指数
166
100
187
113
199
119
279
176
230
100
340
148
462
210
908
395
ッテインガムシャーの農業村 と工業村の一村あたり平均人口数 :Kriedte(1980),83
―-172-―
近世 ヨーロ ッパ の人口動態 (1500∼ 1800年 )
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