柴田龍郎 - 長崎県医師会

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< 長崎市 >
救護班
柴田 龍郎
7 月 15、 16、 17、 18 日
日 本マス ター ズ 水 泳
選手権が大阪のなみはや ドーム (収容人員 10 ,000
人、メ ー ン プー ル 長 水 路 50 m 10 コ ー ス、補 助 プー
ル 50 m 7 コ ー ス そ れ に 飛 び 込 み 用 プー ル 2 5 m 10
コース) という巨大な会場で、 参加人員選手役員
6 ,000 人、 それに応援団、 家族、 付添 を 加える と
10 ,000 人近く の 大イ ベ ン トが 4 日間にわたり開
催さ れま した。 私 は 救 護 班 と して、 15、 16 日、
両日にかけて参加致しました。 会場は異様な雰囲
気、 緊張 と 騒めき、 レース中はプールサイ 料こは
常にライ フ ガー ドと いうメ ンバー数人が目を光ら
せています。 競技中選手に異常が有ると素早く水
中に飛び込み異常な選手を引き上げる。 その後救
護員 に引きジ
度さ れ、 ドクターの診察 とな ります。
初日は得意分野ばかりで大した事も無く、 看護師
さんと茨城と金沢から来た現役の先生方と京都よ
り来た小児外科の女医さん (私の次男、 晴海台ク
リニック院長と大学水泳部で同級生、 我が家にも
遊びに来た事が有り、 大変懐かしく) と久し振り
に色々と情報交換等、 都会の話に耳を傾け充実し
日本水泳連盟の中に日本水泳ドクター会議 (武
藤芳照 東大教授、 現在東大理事が 20 数年前に
た 1 日 で した。
立ち上 げられた) という の が在り、 メ ンバーは全
国に 170 名程いて主に水泳関係、 オリ ン ピック帯
科のス ポー ツ ドクター と東京の救命救急センター
の現役の バリ バリの麻酔医 と私の 3 人、 今日は僕
同 ドクター、 水と健康医学会があり医学生のス
の仕事は無いな ? と内心安堵 しま した。 しか し、
その後、 大変な患者さんばかりでス トレス で僕自
ポー ツ医学の教育等、 様々 な活動を しており ます。
この会より派遣された医師 9 名 (僕は名誉会員
O B でありますが) と看護師数人が 4 日間にかけ
て振り分 けら れ て、 私 は 15、 16 と 2 日間の救護
医師として大変貴重な経験をさせて頂きました。
ここ で、 マスター ズと は 18 歳より始まり 24 歳そ
れ以降は 5 歳刻みで組み分けランクされ 100 歳へ
とな っ ていきます。 ちなみに私 は 75 歳 79 歳 ラ
ンクとなります。
いよいよ 2
日目です。 今日は地元大阪の整形外
身が少々参りま した。 しかし、 さすが救急医です、
テキパキと見事な釆配と処置に感動すら覚えまし
た。 その後、 救急車による救急搬送も有りま した
が、 事無きを得て再び安堵。 しかし急性心不全、
狭心症等、 点滴はもとより酸素ボン ベが空 になる
程 (小型 ボンベ 2 本) 一時ではありますが、 てん
て こ 舞 い で し た。
救護業務について受診者内訳は健康相談、 出場
ここで、 初日そうでしたが、 2 日目 も短時 間で
はありますが、時間をさいて僕自身の レースに (実
前の体調チ ェックから始 まり、 積極的に出場を止
は、 m o m と 50 m の 平 泳 ぎ に エ ン ト リ ー し て お
めてもらいなが ら、 レース が始まる と若いラ ンク
ではノ ン ビリ と レース見物が出来ま した。 その後、
り ま した) 出場 しま した。 先生方とスタ ッフ の快
い御協力 に より、 持てる力 を振 り絞 っ て 60 数年
打ち身、 切り傷、 貧血等に始まり高年齢になると、
の水泳生活の総決算ともいう本大会で全身全霊の
もともと 高血圧、 動脈硬化、 婦人病、 種々の術後
集中力 を持っ て念願のレース に挑みま した。 なん
と 明言じられない事が起こりま した。 二種目制覇、
等の持病があり自己管理が出来ている人は良いの
ですが、 本人に自覚が無く、 動脈硬化等より起こ
りやすい解離性動脈瘤、 動脈瘤破裂による死亡例
が過去に報告さ れており ま す。 競泳においては、
血 圧 250、 脈 拍 220 以 上 起 こ り 得 て 特 にノ ー ブ
レッ シングによりそれ以上の場合も考えられます。
30
75 歳 ラ ン ク、 マ ス タ ー ズ 水 泳 日 本 一 に な っ て し
まいま した。 ご協力下さ っ た方々 に、 涙ながらに
感謝する ばかりで した。 この事については、 話せ
ば延々 と長くなります ので、 此処で話を打ち切り、
本来の 救 護業務 に戻りたい と思 い ま す。 一 位 と
長崎県医師会報 第788号 平成23年 9月
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なって喜び勇 んで救護医務室に戻ると、 急患が来
てま した。 両 手両足 痙攣、 チ アノ ー ゼ 強く S p 0 2
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ばの、 なかなかの好男子で地下鉄を別 れて降りる
時、 またお会い しま しょう と手を差 し伸べられ、
は 87%、 意識はもうろう、 脈拍血圧は測定が難
しく緊張と体力消耗による狭心症とも考えられま
の現役医師の手の温もりが何時までも忘れられま
したが、 救急医による テキ パキと した指示と処置
せ ん で し た。
慌てて握手を した時、 本当に来て良かっ た、 現代
は見事なものでした。 救急車が来るまで僕は水着
長崎に帰ってから数日後、 女医さんより写真と
の まま ウロウロと していま した。 簡単な作業をし
ていた と思います。 救急搬送が終わり、 や っ と室
茨城 の ドク タ ー か ら僕 の初 日 の レース が動 画の
C D - R O M で送られて来ま した。 多忙にもかかわ
内を見渡すと医療機器の整理とカルテの記載等、
大変でした。 その間に水着から着衣に着替え、 暫
らず、 心良 い配慮に、 またまた感激と嬉 しさで涙
ながらで大阪なみはや ドームを思い出 し、 ま だま
くする と、 皆、 我にかえり、 今度は僕に皆で祝福
を してくれま した。 なんと心の豊かなスタ ッ フの
だ頑張らなくてはと思 っ ております。
方々 で しょ う。 暫く現場に居なかっ た自 分に対 し
ての気遣いが、 やさ しく 感 じられ、 本当に嬉 しく
思 い ま した。
その後は打ち身、 切り傷、 健康相談等、 なかに
は何処かの水泳大会で出会った顔見知りの人が僕
を御指名で受診して来て色々と相談なのか、 遊び
に来たのか和やかな時が過ぎま した。 一 日の業務
が終わると安堵と疲れが一緒に現れ、 スタ ッ フ皆
で談笑の後、 またお会い しま しょ う と別れま した。
今から東京に帰るという 救命救急センターの先生
と一緒 に地下鉄に乗 っ て、 暫く話すうちに彼 の父
親より五歳も年齢が上であると言われ、 つく づく
と世代交代 と自分の年齢を見直しました。 40 半
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丁 度 一年 前 の九 月 、 "な つか し の医 局 旅 行 " と 称 し 久
住 ・阿蘇方面を巡 る。山登り組は久住山 へ、ぶらり散歩
組 は 竹 田 へ向 い、 芒 胤城 の月 」 ゆ か り の岡 城 丑 を 尋 ね る 。
そ の後 再 び 合 流 し て阿 蘇 を 巡 る 。 楽 し い旅 と な る 。)
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長崎県医師会報 第788号 平成23年 9月
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