「道が語る古代史ー古代道路の謎」 近江俊秀さん(56

第Ⅱ部
総会講演会企画
「道が語る古代史ー古代道路の謎」
近江俊秀さん(56 回生)講演
総会終了後、第Ⅱ部総会企画で、関西鰐陵 56 回生の近江俊秀さん(文化庁文化
財調査官)の講演会を行いました。概要を以下に紹介します。まとめるに当たっては近江さ
んの著書も参考にさせていただきました。
古代道路研究の視点や考え方、古代道路の探し方などをパワーポイントを使ってご講演
いただきました。その概要を紹介します。(事務局)
(略歴) 文化庁文化財調査官、奈良県立橿原考古学研究所主任研究員を経て文化庁に
入庁。橿原考古学研究所 20 年、文化庁 7 年。第 1 回古代歴史文化賞を受賞。「道が語
る日本古代史」(朝日新聞出版)、「古代国家と道路」(青木書店)、「道路誕生」(青
木書店)、「古代道路の謎ー奈良時代の巨大国家プロジェクト」(祥伝社)
古代道路とその謎を解くー「謎の巨大国家プロジェクト」
天武天皇により計画され、持統天皇の時代に完成した日本最初の律令国家の都・藤原
京と平城京は、日本の首都として造られた巨大都市だった。
この都市が日本の政治・経済・文化の中心となり、ありとあらゆる権力を集中させた。そし
て、地方からはさまざまな人や物が道路を通って、都にもたらされた。そしてこの中央集権国
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家が、最も重視した道路が「駅路(えきろ)」である。 この駅路がどこまでもまっすぐであり、
幅広の道路であたった。その道の幅は12m ほどもあった。両側に広がる水田は、道に沿っ
て整然と並んでおり、どの田も同じ大きさである。のどかな田園風景の先には、白壁で囲まれ
た大きな建物が見え、この道は都へとまっすぐ続いていた。その総延長は、6300m にも及
んでいた。その距離は、現代において 1966 年に計画された高速道路網のうち、北海道を
除く総延長(6500m)に匹敵する規模だった。
古代国家が何故このような駅路を造ったのか?
そして駅路が果した役割とは何か?
不思議なことにこの国家的規模の大規模事業がなされた理由が、文献資料には、何も
記されていないのはなぜか?
造られた時代さえ何も記されていない。この駅路の建設という、「謎の巨大国家プロジェク
ト」と係わって、古代道路の謎の究明・解明に取り組んできた。
駅路とそれを繋ぐ駅家(うまや)の役割
この道路の沿線には、16km ごとに駅家(うまや)と呼ばれる交通管理施設が設置され
ていた。この駅家の名前は、律令の施行細目を定める『延喜式』という平安時代の文献に
列挙されており、いくつかは発掘調査によって遺構も見つかっているという。 全国に 400 か
所以上あったという。山陽道の駅家は外国の賓客も宿泊することもあるため、豪奢な作りで
白壁と瓦葺であった。駅家については、律令のなかに、かなり細かい規定がみられる。
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駅家の経営の為に駅田が与えられた。駅稲(えきとう)と民衆に貸し付け、その利息によ
って経営させた。田を与えられれば、耕す民衆が必要である。これらの人は馬の飼育迄させ
られた。駅家に関する規定は特に入念で牛馬についての定めもあった。
①駅家を 30 里間隔におくこと。
②駅家には、駅長をひとりおくこと。
③大路、中路、小路など道路の等級ごとに、おくべき馬の数を示すとともに、それらの馬は、
みな筋骨強壮なものを充てることとした。馬の養育は駅の近くの集落の駅戸で行い、死んだ
ら駅稲を使い、買い換えろとか、伝馬については、郡ごとに五匹おけとか、馬の養育は、家が
富裕な二人以上の成人男子がいる家が行うとか、民衆にとってはやたらと負担の多い定め
であった。
駅路は、それまでの道路を拡幅・整備したものではなく、ほとんどの区間、それまで道路が
通っていなかった場所に、新たに造ったものである。 上述したがその総延長は、6300m に
も及んでいた。その距離は、現代において 1966 年に計画された高速道路網のうち、北海
道を除く総延長(6500m)に匹敵する。ちなみに、推古天皇の時代に計画された大和と
河内に造られた直線道路網は、全国規模で張り巡らされたものである。
駅路の路線については、歴史地理学者の先行研究があり、その駅路の存在を想定した
上での発掘調査が可能となり、駅路研究が大きく発展を遂げることができた。
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「駅路」とは何か
①復元された駅路の路線は、都を起点として、地方拠点とを最短距離で結ぶようにして
造られている。
②直線的に造られているため、場所によっては、非常に長い区間、沿線にまったく集落が
存在しない場所を通過するところさえあった。ということは、沿線住民の利便性などは全く視
野に入れられていなかったということである。
③結論として、駅路とは、まさに、中央政府が地方を支配するために設置した道路網なの
である。
この駅路のうちで七つの駅路が発掘されていて、造られた時期の一端が判明している。規
模は路線や地点によって差異があるが、狭くても幅6m、畿内と近江では、17m 以上あ
る。そのほとんどは直線的であるだけでなく、より頑丈な道路を造る意図があった。
まっすぐな道路とは、それを造ることが困難な地形、地質など、自然との闘いであり、当時
の人々がもっていた高度な技術、労働力の結晶であった。
(具体的な工法や構造、技術については、ここでは省略して、HP の添付資料に譲る。)
納税の道としての駅路について
駅制は兵部省の所管であったが、駅路の利用者が、駅使は軍隊の移動だけに使われた
わけでなく、最も多かったのは、納税の為に都に向かう庶民であった賦役令(ふえきりょう)
という規定があり、以下のように規定されていた。
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・調・庸(税金)は、毎年 8 月中旬より輸納を始めること。
・近国は 10 月 30 日より、中国は 11 月 30 日より、遠国は12がつ 30 日以前に輸
納を終えること。運脚(運搬労働者)は調・庸(税金)を納入する家から出させること。
・納税の旅には、国司が彼らを引率すること。
としていた。
納税の旅は過酷であり、留守宅は働き手を失う。駅家で接待を受けるのは、引率の国司
だけで、納税者は食料を自前で準備した。納税を終え郷里に戻る途中で発病したり、飢え
て死ぬものがたくさんいた。死ぬと死んだ集落では、穢れを払うと称して費用を要求する事態
が頻発し、そのため、同伴者が死ぬと遺体を放置して立ち去るものが多かった。
律令国家と班田収授
律令国家は、大化の改新の詔を実現するために、耕地を一辺109m 四方に区画した。
この区画土地制度が条理制である。土地を均質に区画することにより、耕地の面積が把握
しやすくなり、国民への土地の貸し出しも正確にできるようになる。租は与えられた面積に応
じて納められるので、耕地面積の正確な把握は、国家予算を把握するうえでも、必要不可
欠だった。この条理水田を造るということは、駅路建設に勝るとも劣らない事業なのであった。
これをやり遂げている。こうした事業は、天武天皇の時代に着手され、その後、地頭、文部と
いった歴代天皇に引き継がれていったようだ。律令国家は、庶民を土地にしばりつけることに
よって成り立っていた。
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それは、当時の国家が、地方を国ー郡ー里の単位で把握し、里とは50戸を単位とする
行政組織で、その責任者の里長(りちょう)は、里に住んでいる人を把握し、郡に報告す
る。郡の長官である郡司は、里から提出された名簿を 6 年に一度、戸籍としてとりまとめ、国
司に報告する。
国司はそれを政府に提出する。これらが納税者名簿になり徴兵名簿にもなったのである。
律令国家にとって、住民の出入りが激しければ、正確に人口を把握できなくなり、国家財
政に直結する問題に発展するために、閉鎖的な社会を維持するような措置がとられていた。
古代道路は、住民の出入りを自由にするための道路ではなかったのである。
「駅路」の廃絶や規模の縮小
奈良時代も終わりを告げる 8 世紀の後半、全国に張り巡らされた駅路に大きな変化が
現れた。北陸道や南海道では、9m 以上あった道幅が、5~6m に、山陽道や西海道、
東山道でも同じ現象が認められた。場所によっては、路線そのものの付け替えも行われてい
る。
これらは中央政権の意図によると考えられる。
(具体例については講演資料に説明されているので、ここでは省略して HP の添付に譲る。)
延暦 8 年(789)年に、三つの駅路が初めて廃止され、寛平元年(889)以降、駅
家の廃止が相次いでいる。また延暦 15 年 8 月には、古い地図の内容が粗雑で文字が欠
けているという理由で、諸国に地図を作成しなおすように命じている。その際は、国郡、郷里、
駅道の遠近、名山・大川を詳しく記載するよう求めた。この前後に駅家の改廃記事が頻出
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している。これは桓武天皇の命令によるものであると考えられている。桓武天皇の治世が終
わり、平城天皇が即位した後も、駅路の見直しは継続された。
駅路の廃絶について~律令国家の衰退とともに
11 世紀初頭前後に、駅路に大きな変化が認められた。幅1~3m 程度と他の道路と
ほぼ同規模になり、地番の悪い部分ほど、維持・管理に手間がかかる部分を避けるように付
け替えられたため、直進性を失う。沿線の官衙もこの時期に廃絶された。
この時代は、藤原道長が栄耀栄華を誇った時期から、摂関政治の終焉、院政の開始、
そして武士の台頭と、時代は大きく揺れ動いていた。すなわち、駅路は、律令国家の建設と
いう政治的な必要性とともに誕生し、律令国家を支えた政治形態が変質すると、道路その
ものも形を変えた。
そして駅路を生み出した律令国家が崩壊すると同時に、その役割を終え、姿を消したので
あった。全国に張り巡らされた古代道路は我々のもっとも身近にある歴史の証人なのである。
(HP添付の資料は、近江俊秀さんが講演の為に準備されたものです。こちらをご参照ください。)
以上
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