1 <「校長室便り」47> 夏 風 邪 夏風邪を引いてしまった

<「校長室便り」47>
夏
風
邪
夏風邪を引いてしまった。結構ひどい。原因はわかっ
ている。先週土曜日の午後、仕事で都内に出たのだが、
終わってから一緒に出かけた仲間に誘われて一杯やった
ためだ。少し喉がおかしいなと思って、最初は押さえ気
味にビールを嘗めていたのだが、そのうちに日本酒を飲
み、つい過ぎてしまった。
翌日曜日も津田沼で私学中学フェアがあり、少し顔を
出した。体力不足のせいもあるが、そんなわけで風邪を引いてしまったのである。
思い出すことがある。まだ20代の頃、3学期の始業式の日だったが、勤務していた
学校の校長が、風邪を引くなんてのは職業意識が欠けているからだ、と言ったことがあ
った。なかなか厳しい校長だった。例えば起案した書類を持っていくと黙ったままじっ
と見ていて首を捻る。
私も国語の教員だったから、それなりの文章を書いているとの自負はあった。が、校
長名での公文書として出すには不適切だったのだろう。これは自分が校長になってみて
よくわかった。
元に戻ると、風邪を引くのは職業意識の欠如だとの言葉に、それは無理ではないのか、
と思う反面、納得するものもあった。だから40年もしても覚えている。
今回の夏風邪に関して言えば、完全に職業意識の欠如、と言うか自己コントロールに
欠けていたせいだと思う。尤も、年下の仲間に誘われながら酒を飲まないのもどうかと
思う。
と言って思い出したのだが、前述の校長の下で当時教頭を勤めていた先生は、酒を誘
われて断ったことがなかった。本人は喘息を抱えていたにも拘わらずに、である。ある
時、私はその教頭先生に、先生はどうして酒を断らないですか、と聞いたら、あっちに
もこっちにもいい人がいるからね、という答えだった。
あまりにも、きれい事のような答えだとは思ったが、旧制高等学校の生徒のように、
この先生は飲んで語ることが好きだった。その後県内有数の進学校の校長を勤め、退職
後はやはり県内の有力私学の校長として勤めたが、3年くらいで、勿論現役中に、死ん
でしまった。つきあいの良さが命を縮めたのである。なかなかうまくはいかない。
この先生にはいろいろ思い出はあるのだが、教頭時代職員室でよくいびきをかいて寝
ていた。それでも職員は悪く言わなかった。人柄だろう。
さて、また職業意識の話にもどるのだが、最近台湾関係の本を読んでいて感じたこと
があった。例えば八田與一(はったよいち)という人がいた。この人は台湾で最も愛さ
れ、尊敬されている日本人だとのことである。
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八田は日本統治下の台湾でダムと灌漑用水を建設した。特
に台南市の烏山頭(うさとう)ダム建設と嘉南平野の18,
000キロメートルに及ぶ水路敷設は台南の不毛地帯を穀倉
地帯に変えた。これには十年の歳月を要したという。後に八
田はフィリピンに派遣されたが、そこへ向かう船が魚雷攻撃
を受けて死んだ。1942年のことだ。
3年後の敗戦によって日本人は全て日本本土に帰ることに
なるが、この時妻の外代樹(とよき)は夫の作った烏山頭ダ
ムに身を投げて死んだ。
後に現地の人々は八田の銅像を作って哀惜した。国民党政
府が像の撤去を図った時にはそれを隠し、1981年再度据えたという。
このことは例えば元総統の李登輝(『新・台湾の主張』)や、司馬遼太郎(『台湾紀行
街
道をゆく 40』)が語っている。八田のこの行為は、日本の植民地政策の視点等から批判
はあるかも知れない。しかし、台湾の人々が今に至るまで感謝しているのである。
これは台湾総督府土木技師としての仕事の範囲を超えているように思う。先の文脈で
言えば、単なる職業意識を超えた使命感、更には天命のようなものがありそうだ。
「天命」
とは天(天帝)から与えられた役目であり、職業に関して言えば、英語では calling に
当たるだろう。
今、「職業意識を超えた」と述べたが、「職業意識」も根底でこのような宗教意識に近
いものに支えられないと完全にはならないように思える。
本当に緊張感を持って生きることはむずかしい。それは「天命」や‘ calling’が現代
の私たちから遠くなっているからだろう。
思い出したことがある。6月17日(水)生徒会選挙があった。それに先だって演説
会もあった。これを聞いていて私は感心したのだが、皆随分しっかり話している。話し
方がしっかりしているだけでなく、話の内容もいい。成田高校の仲間たちのために尽く
したいとの気持ちが如実に伝わってくる。
その中の一人が演説の中で、直接生徒会の内容に関わるものではないが、こんなふう
に言った。
「ぼくは死ぬこと以外はすべてかすり傷だと思っています。」
このような気持ちで毎日生活しているということだった。私はこの生徒と直接接した
ことがない。どんな生徒かも知らない。しかし、この言葉にはまいった。このような気
持ちで生きている生徒がいるのに、それを指導する自分たちにそれだけの気持ちがある
のか。
いや、人のことはいい。私自身がそのような気持ちを持って生きているか。この生徒
に恥ずかしくない日常を過ごしているか。そんなふうに思ったのだった。
(2015.6.26)
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