復活節 第5主日 礼拝 2015年5月10日 飯川雅孝 牧師 1.主 題: 『母

復活節 第5主日 礼拝 2015年5月10日
飯川雅孝 牧師
1.主 題:
『母より受けるもの』
2.聖 書:
テモテへの手紙二 1章1-14節
(説教)本日は「母の日記念」礼拝であります。わたしたちが、母親から受けるも
のは非常に大きい。そこで、今日の礼拝ではそのことを考えてみましょう。
この手紙は全編を通して、死期を悟ったパウロがテモテに宛てた手紙であります。
人は死が近いことを知る時、一番自分が心を赦した者に心を向けるという真理があり
ます。その時は、自分にはこの世ではこれから望むものはないわけですから、本質的
なものしか見えない。パウロにとって、それは愛するテモテへの思いが一番大切なこ
とである。そのような時、自分が投獄されるに当たってテモテが涙を流したその真実
な愛を思い、その純粋な信仰を神に感謝している。そのテモテを心に留める時、祖母
ロイスと母エウニケの信仰が光を放っていたことがパウロには重なって見えた。
5月6日(水)の連休の最後の日にテレビを見ていました。第二次世界大戦の時、I
400とI401という潜水艦が建造された。目的はアメリカの艦隊がパナマ運河を越
えて太平洋を渡り日本に来るのを阻止する。そのために、パナマ運河を爆破する。そ
うすれば遠く南米のマゼラン海峡を遠回りして来なければならないから、戦局を有利
に進める。性能の優れた潜水艦、しかも飛行機をその中に搭載するのは前例もなく至
難のこと。しかし、これを広島の呉造船所で名うての設計技師がやり遂げた。しか
し、ドイツが負けたのでアメリカの軍団はパナマ運河を越えて太平洋の南方に来た。
だから二隻の潜水艦の意味は無くなったと言うものでした。
そこに乗組んだ若い乗組員の戦争に対する考え方も追及していました。若い独身の
者は多くは国のために死ぬという教育を受けていましたから、大勢として、それを使
命と受け止めた。しかし、その潜水艦に乗り合わせた者の中には若い妻と幼い子を残
して来た兵士がいる。彼はどうしても生きて帰りたいと言う。それを知って死を覚悟
していたその兵士に生きることの大切さが伝わる。そうした葛藤が潜水艦の中にあり
ました。また、痛々しい気持ちで聞いたのは、若い兵士が「自分は国のために死んで
もいいが、残された母親のことを考えると死ねない。」という思いを綴っておりまし
た。海軍の最上部から送られ、短刀が一人一人に上官から送られるという儀式があり
ました。「それは命を国のために捧げろ。」という意味でした。若い兵士はその思い
を、国ではなく愛する母に送ったと報道しておりました。国のためには死ねないが母
のためには死ねると言うことでしょう。幸いにも、パナマ運河の攻撃を直前に中止
し、太平洋の南方の戦場に戻ったこれら2隻の潜水艦は玉砕する直前に終戦を迎えま
した。艦長は「自分は皆んなの命を預かっている。皆んなを広島に届けなければなら
い。」と玉砕を止め、乗組員は命を取り留めます。しかし、何十万を超える若者が自
分の命と母親、家族のへの思いを死と引換に戦場に散ったことを考えますとまことに
心が痛む思いをします。
さて、以上のように母親の重さを考えた時、人間社会に入れば恵まれた家庭の愛情
ばかりとは言えません。一歩間違えばこの世には落とし穴が一杯待っています。信仰
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の篤い母親から育てられたと言っても、迷う人もいる場合もあります。今日の讃美歌
510番の歌詞は、母親の愛から離れ、この世の誘惑に流される若者への母親の悲し
みを歌っています。
1・まぼろしの影を追いて 浮世にさ迷い 移ろう花に誘われ行く 汝が身の儚(はかな)
さ 春は軒の雨、秋は庭の露 母は涙乾く間なく 祈ると知らずや
2・幼くて罪を知らず 胸に枕して むずかりては手に揺られし 昔忘れしか
3・汝が母の頼む神の 御元には来ずや 小鳥の巣に帰る如く 心安らかに
4・汝が為に祈る母の いつまで世にあらん とわに悔ゆる日の来る間に とく神に帰れ
最近出版されたこれを地で行ったような本が出版されました。「元暴走族の牧師が
本 少年院出た後も希望、伝えたい」ある牧師は少年時代の非行経験をつづった本
をしました。「私を代わりに刑務所に入れてください−−非行少年から更生支援者
へ」(いのちのことば社)著者は「少年院にいる少年たちに『出院後にも希望があ
る』ということを伝えたい」と話している。彼は3歳の時に両親が離婚。母は女手
一つで年の離れた2人の兄と野田さんを育ててくれたが、仕事で帰りが遅く、いつ
も寂しさを感じていた。母との関係はぎくしゃくし、成績も振るわず進路に悩んで
いた中学3年の時、暴走族が居場所になった。
鉄パイプを手に数十台のバイクで暴走すると「自分の存在が大きくなったように
錯覚した」。交番襲撃を繰り返し、覚醒剤にも手を染めた。「誰かに襲われる」と
不安になり、ナイフか包丁が枕元にないと眠れなくなった。16〜19歳まで毎年
1回少年鑑別所に入り、4度目の1995年にとうとう少年院に送られた。
「私を代わりに−−」。少年院送致を言い渡した裁判官に、母は泣き叫んだ。その
言葉を著書のタイトルにした。当時は「何で俺が入らなあかんねん!」と思った
が、一方で「母に愛されていると実感できた」という
―― ここに神の救いがあったと、わたしは感ぜざるを得ません。 ――
少年院に入った後、転機が訪れた。クリスチャンの兄が差し入れてくれた聖書を
読み進むうち「神はすべてお見通しだ。もう悪いことはできない」と思うようにな
ったという。出院後に奈良県内の神学校に入学。2000年4月に教会を開設し
た。現在は自立準備ホームも運営し、地元の保護観察所とも連携しながら社会復帰
を目指す少年らに一時的な住まいを提供するなどの支援をしている。
「『少年院上がり』の自分でも何とか地に足をつけて生きている。どんな人にも
可能性はある」。野田さんは力を込め「親御さんや少年司法に携わる人も読んでほ
しい」と話した。この事実を知る時、母親の与えるものはあまりに大きい、また、
母親とは悲しみも引き受けなければならないことを知るのであります。
今日は母の日記念礼拝、まだ母親がご健在の方も、天に送った方も、自分の母親
から与えられたことを素直な気持ちになって受け止め、自分の生き方をよく考えて
みる時としたいと思います。
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