横 井 英 樹

火葬場で転がり出た銃弾
横井英樹
Hideki Yokoi
実業家、「乗っ取り屋」、
元「ホテル・ニュージャパン」オーナー
一九九八年十一月三十日没(八十四歳)、虚血性心不全
一九八二年二月九日、午前八時に福岡空港を離陸して羽田に向かった
日本航空三五〇便は羽田空港近くの海に墜落した。死者二十四人、重軽
傷者百四十二人、
「心身症」の機長が着陸以前にエンジンの「逆噴射」
をかけたために起った大事故であった。
その前日八日未明には、東京永田町のホテル・ニュージャパンが炎上
した。外国人宿泊客の寝タバコが原因とされる火は火元の九階と十階を
焼き尽くし、死者三十三人、重軽傷二十九人の大惨事となった。火から
逃れようと上階から飛び降りる人々の姿をテレビカメラは全国に流した。
魔に魅入られたような東京の冬であった。
大火災を招いた「乗っ取り屋」の営利主義
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横井英樹
ホテル・ニュージャパンは一九六〇年代前半まで、一流ホテルの格式
しろき
や
を保っていた。オーナーは戦前、台湾製糖で財をなした政治家藤山愛一
郎だが、それを買い受けたのが東洋精糖の株買い占めや白木屋デパート
乗っ取りなどで知られる横井英樹であった。
十五歳で愛知県から上京、十代の
井英樹は戦後、占領軍に食い込んで
財を築いた。白木屋の株買い占めに
走ったのは五二年、三十九歳のとき
である。白木屋側と横井ら乗っ取り
勢力の戦いに「総会屋」とヤクザが
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うちに衣料品を扱う会社を興した横
(写真提供:共同通信社)
介入して混乱をきわめ、結局横井が出馬を促した東急グループの五島慶
太が白木屋を買い取った。白木屋は東急百貨店日本橋店となったが、一
九九〇年代に入ると著しい営業不振に見舞われ、九九年に閉店した。
六六年には箱根町宮ノ下の名門、富士屋ホテルの乗っ取り騒動が起き
たが、その主役も横井であった(山口由美『箱根富士屋ホテル物語』)
。
横井と富士屋ホテルとの関係は六〇年、創業者山口仙之助の長女が別
荘を横井に売ったときにできた。仙之助の子どもたちは大半が女の子だ
ったのでみな婿を取ったのだが、長女の婿で、富士屋ホテルとならぶ老
舗、日光金谷ホテルの金谷家から入った山口正造は長女と離婚したのち
も富士屋ホテルにとどまり、経営の中心となった。正造に次ぐ実力者は
次女の婿であった山口堅吉であったが、こちらは次女と死別、後妻との
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間に生まれた女の子の婿が次代の社長とみなされていた。そのため創業
者の血筋につながる者たちの不満に横井はつけこんだのである。
問題が一気に火を吹いたのは六四年末の株主総会であった。血縁者た
ちの株をまとめた横井英樹は突然累積投票を要求、山口正造追い出しに
成功した。
正造は旧知の小佐野賢治にすがった。横井さえ追い出してくれたら、
あとは小佐野がホテルをどうしようと構わない、とまでいった。小佐野
は、それまで横井に協力して富士屋ホテルの取締役に名前を連ねていた
児玉誉士夫に働きかけ、横井が六年かけて集めた株をはるかに上回る数
の株を数ヵ月で集め、六六年春の臨時株主総会で実権を握った。戦後二
大フィクサーの連携の前には横井も無力であった。横井の持ち株四十五
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万株は小佐野が一株千円、四億五千万円で買い取ったのだが、代金を小
切手ではなく現金で要求した横井は六時間かけて一枚ずつ勘定した。小
佐野への嫌がらせであった。
富士屋ホテルは山口家の手を離れた。しかし横井英樹の手からはとり
戻すことができた。保守を怠って雨漏りを放置し、吝嗇から防火防災の
安全管理をないがしろにした横井の粗雑な経営ぶりを目撃した関係者は、
ホテル・ニュージャパンの火災の映像に接したとき、それが富士屋ホテ
ルで起らなかったことに心から安堵した。
ホテル・ニュージャパン火災の被害を甚大にしたのは、安全より営利
を優先する横井英樹のやり方であった。スプリンクラー不設置のみなら
ず、上階には防火区画がなく、積み上げたブロックにべニア板を貼り付
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けただけの仕切り壁が火を縦横に走り回らせた。
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トレードマークのボウタイ姿を「貧乏恵比寿」と形容された横井英樹
は、業務上過失致死傷罪を問われ、八七年、東京地裁で禁錮三年の実刑
判決を受けた。最高裁まで争ったが九三年確定、九四年、八十一歳のと
き八王子医療刑務所に収監された。
この間、横井はホテル・ニュージャパンの焼け跡を放置、バブル経済
で価格の跳ね上がった土地を担保に巨額の資金を調達して、ニューヨー
クのエンパイアステート・ビルを買収した。ホテルが解体されて更地と
なったのは、火災から十四年後の一九九六年であった。
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横井英樹は出所後の九八年十一月三十日、虚血性心不全で死んだ。八
十四歳であった。
火葬したとき、遺骨の中から銃弾が出てきた。それは五八年六月、蜂
須賀元侯爵夫人の依頼で横井から借金を取り立てようとした渋谷の暴力
団安藤組の組員が撃った弾丸であった。安藤昇組長から、殺すな、怪我
をさせろと命令された組員は横井の腰を狙った。弾は複雑な動きをして
手術困難な部位に達し、結局横井の死まで四十年間体内にとどまってい
たのである。
狙撃事件後に安藤昇は逃亡したが、約ひと月のち殺人未遂罪で逮捕さ
れ、六一年に下獄した。六四年、三十八歳で出所すると安藤組を解散、
翌年松竹と契約して映画俳優に転じた。六七年には東映へ移籍、
『男の
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顔は履歴書』
(一九六六年)
、『懲役十八年』
(一九六七年)
など四十本あまり
の映画に主演した。映画スターの移籍は「五社協定」に抵触するのだが、
深い頬疵のある安藤は「そんなこと俺は知らない」で通してしまったの
である。
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