「欽古堂亀祐ってどんな人」講演録

欽古堂亀祐ってどんな人
(講演録:講師
善入達甫)
欽古堂亀祐とはどういう人物かというと、陶工というだけではなく、識字的な、本を読む・
書くことが出来るということで、江戸、名古屋、京都、大阪。京都は 2 箇所、計 5 箇所で
本を同時発行するわけです。
「陶器指南」、この本は陶工の秘密を全て暴いて出した本なんで
す。ですから、木米や周平なんかも本を出しています。ところが、あの人等は 1 箇所しか出
していません。ということは、一般に売らないということですね。京都、江戸、大坂、名古
屋と、5 箇所で印刷して販売した。その販売に関しては紀州が関係してきている。須原屋茂
兵衛という人がいてその人が亀祐に接近した。須原屋茂兵衛という人は江戸で一番大きな印
刷会社、版元なんです。それが働きかけている。それが 4 箇所の印刷会社で同時に発行して
いる。それが文政 13 年なんです。ところが、13 年に本が発行される前に、自叙伝が、それ
は既に 3 年前に下書きが出来ている。それに基づいて三田に亀祐が来三したのが寛政 11 年
ということで、逆算は出来るけれどもその本の一番裏に書いているのに、亀祐の職業が書い
てある。どういう職業かというと絵具調合所と書いてある。絵具調合所というと焼き物の絵
具を売るところなんです。それともう一つ、その当時、
「買い物一人案内」という本がある。
これは三都といって、3 つの都ですね。京都、大坂、江戸という。その三都で一番有名な、
一番信用できるところのお店を紹介したガイドブックなんです。このガイドブックの中に欽
古堂亀祐のことが出ています。その内容は三田の人にとって都合のいいことなんですが、三
田焼窯元、欽古堂亀祐と書いてある。ですから、普通なら三田焼窯元とは書かないはずなん
です。ところが、三田焼窯元と書いてありますので、それが京都の発行所、自宅ですね。自
宅でそれを売っていたということで、亀祐は陶工でありながら、数多くの陶工集団を率いて、
それから型を作る。型を作って地方へ持っていって売るということなんです。
ところが、今までの型の動きというものがありまして、今までの研究では型が出ていたらそ
の年にその人物が教えに来たと、皆、論文にはそう書かれているんです。ですから、男山で
も亀祐の型が出てくるんですけどね。例えば、男山が開業されたのが文政 10 年です。とこ
ろが、文政 10 年以前に亀祐の型はいろんなものが出てくる。例えば、文化 15 年に欽古堂
の型が出たり、文政 5 年に亀祐の型、文政 6 年に与吉の型、文政 7 年に同じく亀祐、8 年に
清兵衛、9年に亀祐、9年に清兵衛。これ、開窯前までにこれだけのものが動いている。
王地山でも同じことが言えます。文政6年に風鎮の型、文政7年に丼ですね。ゆりけん丼と
いうのが。それから文政8年に欽古堂亀祐の人物像、人麻呂像というんですけどね。これは
製品ですので王地山とも三田とも言えないんですけれど、王地山で型が出ているから王地山
と言っている。それと文政10年に角木瓜の焼物皿がある。ところが、王地山は何年かとい
うと開窯は文政 11 年なんです。やはり開窯以前の型があると。それはどういうことかとい
うと、開窯以前に来ているはずがないし、古い型を持っていったと言えばそれまでですけれ
ども、それも一寸おかしい。というのは、亀祐の型を調べてみると、とんでもない数字がで
てくるんです。ある先生は三田には60の在銘品があると論文に書いてあります。その中論
文の中にの欽古堂亀祐に限ってあまり汚れていない。汚れていないということは、これは見
本であると見ている。型の見本であると。とんでもない話で、型の見本というのではなしに、
亀祐はどんどん型を作って売る訳ですから、それは元型になるわけです。型は見本になるわ
けです。例えばそういうものの中に量産したものには必ず「15の内」と書いてあります。
それによって年度が入っているものと入っていないもの。例えば作者の入っているもの、例
えば欽古堂亀祐でしたら「イ印 15 の内天保 10 年」とか。その他のものについては「イ 15
の内亀祐」とかいてある。15 全部を合わせれば1つの物になるのだけれども、そのうちに
書いてあるものは 1 つか 2 つなんです。他のものは全て無名です。だから、見本という訳
ではないんです。
それは、びっくりするほど、三田に型があります。ここに、ざっと 150 位の在銘品が三田
にあります。しかし、三田市は 60 しか確認していないと思います。実際はその型が昭和 21
年にかなり竜王さんに持っていかれています。それは京都の陶工です。それを手伝った人は
いるんですけどね。それは、残念ながら亡くなっています。山根さんで、山根さんはトラッ
クに積み込んだのを手伝った。それを私は聞いていまして、それは実際京都に持って来まし
た。それは、100 点ほど持っていた。それ以外に窯元に所有者が居りまして、その土地の所
有者は芦屋の方なんです。その型がチョコチョコ、チョコチョコ持ち帰っています。それも、
100 点近くあります。その場所も、居所は捕まえていまして、写真を撮っています。
そのような関係の、三田から出て行った物の数は、三田市は余り把握していないんですね。
それを確認していったらかなりの数になる。そうすると、亀祐が男山と王地山、姫路の東山
(とうざん)に行ったとすると、例えば、文政 10 年、11 年に帰って「陶器指南」を出すとい
うことなんですが、ただ、文政 11 年には三田に型は無いんです。11 年、12 年には型は無
いんです。12 年にはかろうじて 1 点、亀祐があるんですけど、約 20 点余りが三輪の窯か
ら出ています。その中の 1 点に王地山と南紀の型がありますけれども、そして、言うたら人
が動くのではなしに、清兵衛のような、そういう人が型を持っていって作り方の指導をして
売る。つまり細工物一式を売ると、欽古堂亀祐の家の看板にも書いています。そしたら、欽
古堂は人形師である、人形でいう、人形を作っている。それから、焼き物でいう自分の陶工
集団を使って、自分の型を指導して売る、そんな動きをしています。大体型の動きはそうな
んです。
文政 12 年の型には 1 点だけあるんですけれども、三田のやつなんですけれどもね。それは
三田には無い。明石の文化博物館に、文政 12 年のものが 1 点あるんです。それは、どうい
ういきさつかと言うと、三田の三輪で発掘するときに、その関係者が明石の文化博物館に寄
贈したといっている。どういう訳で寄贈したのか分かれへんねんけどね。それが、10 点あ
る。その他に 1 点、文政 12 年のものがある。ですから、三田を 11 年に出て、来ていない
というのではないし、型だけこちらにあると言うのかも知れませんが、「陶器指南」を発行
するために 11 年に帰ったというのが今までの説なんです。それで、ずっといって、天保に
なりましたら、かなりはっきり出てくるんですけど、天保 8 年に亡くなる前、71 歳の寸前
の作品なんですけど、それが、今陶芸開館に展示してある段重なんです。71 歳で亡くなる
寸前の作品なんですけど…。それと、ヤエコバンというのが出てきます。それと、私が立花
さんと色々やり取りしているのに、型を売るのに、その型に印鑑の押し方が書いているんで
す。焼き物の型を持って、そこで作る焼き物に、そこにサインをしなさいよというような、
押したものがありますので、また、スライドで見てもらえばよいと思います。
それと、別の紙にあわてて書いたものですが、清兵衛の作品にこれだけあるんです。それと、
亀祐の動きと合わせて面白いのは、清兵衛が動いているときには三田に亀祐がいると、そう
いうような動きになっています。
それと、この書き方について、秋とか春とか冬とか書いていますけれど、それを作った秋と
いうのは何時かいなということになるんですけど、江戸時代の四季の分け方は、1、2、3 月
が春なんです。ですから、秋といったら何時になるかというと 7,8,9 月ですね。10,11,
12 月が冬。7,8,9 月が秋になりますので、清兵衛の型が一番上でしたら文政 7 年の秋と
いうことでしたら 7,8,9 月のどれかということです。同じ秋が男山にあり、王地山にあ
り、三田にありという、不可能なことは出来ませんからね。ですから、亀祐は自分も行くか
もしれないけれども、清兵衛なんかが型を持っていって指導していたんじゃないかという感
じです。というのは、三田に亀祐の型が多過ぎる。とんでもない数があるんです。年代的に
一寸言ってみましょうか。例えば、文化から言ったら、文化 11 年に 5 点あります。文化 13
年なんかとんでもない数です。9 点。こちらも費用に載っているより多いんですけどね。一
部、途中製作なんですけど、8 点とか 9 点とか、文政でしたら 9、8、5、6 点、6 年でした
ら 7 点あったりするんですね。それから、表の横を見てもらったら三田の横、王地山のラン
に出てきたのが文政 2,年に香炉が 1 つあるんですけど、これは高知の工房ですので、王地
山とも三田ともいえない。それで、文政 3 年がナカムラケン 2 点でしょ。文政 4 年が明神
から 5 点出ています。出土品は明神から 5 点、亀祐が 4 点。それから 4 年が 4 点あります。
6 年辺りから一気に増えてくる。10 年、11 年でなくなります。10 年はあって 11 年はなく
なる。そして、12 年にまた 1 点、三田にある。ですから、個数をずっと見ていったら亀祐
の動きが大体分かるんじゃないかと思います。
どうか、この辺でおかしいところかあったら…。
[質問]ケンニ寺ですか?
[回答]ケンニン寺です。小さい時から養子に来て、直ぐそっちに遊びにいっとるんですわ。
そこで馴染みになって入り込んでしまって、そこへ周平とか道八とか、入りたいんだけども
…。東福寺でも誰でも簡単に門から入れるんで…。今なら観光で誰でも入れるけれど、昔は
簡単に入れなくて、五山なんて特に入れない。ケンニン寺でも、中国系の文化の中心になっ
ていたから誰だって入れた。だから大体その辺に焼き物の有力な人を作るんですけどね。
[質問]文化の発祥地のような?
[回答]そうですね。そこが文化の発祥地であるし、中国文化の発祥地にもなるから、その寺
に入れないからその人のところへ弟子のように入った。すると、中へ入り易くなるから、穎
仙は赤絵の下絵なんかを描いていますけど、窯を作ったという本もあるんですけど、実際に
窯を作ったという古文書は一切無いんですよ。ただ、東山に焼き物を焼かしたという古文書
はあるんです。だから自分のものを東山に持っていって焼いてもらったという…。だから、
清水と東山という可能性はあるんですよ。赤絵の下絵なんかはあるけれども、窯に関するも
のはひとつも無いんです、窯に関する古文書は…。よそへ焼かせた、焼いてもらったと描い
ています。
[質問]清水から東山は近いですもんね。
[回答]そういうことですね。まあ、そういう風に今、これまでの話に反対する人が出始めて
います。まあ、昔から言われていることが正しいとは限らず、絶えず書き換えていかなけれ
ばいけないんですけど、自分のことを変えるのは嫌がられるんですね。なかなか変えにくい
んですけど、まあ、例えば、欽古堂亀祐の文化 8 年に来たということは体外の本に書かれて
います。ところが、文化 8 年に来るのに文化 5 年の品物があるわけないしね。そのような
ことを変えていかなければいけないと思うんですけど…。
一遍、スライドをやって見ましょうか。
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