居 柿

居柿
寓平
海屋
ロロ=
券
福島
舟
(清 水
跡
門邸 )跡
和歌 山市 舟 大 工 町 28
◎御書付
紀伊殿御領分海岸 、砲 台 の儀 につ き、其方 へ御談 じなられ度き旨、仰 せ立てられ の趣もこれあり候 間、
紀州 へ 罷り越し、久野丹波守 申し談 じ候よう致さるべ く
勝 海舟 は4月 3日 から13日 まで紀州藩領 内に滞在 し、和歌 山城下では福島屋という清水平右衛門
の屋 敷を寓居先 として滞在しました。
「ファミリーショップロ
クイノセ」の前 に石碑 が あります。
南海和歌山市駅 か ら東南 に行 つた所 にある
の場所が福
の方にお伺いすると、
石碑
島屋跡 にあたるのは
山歴史博物館の学芸
員
和歌
いとの
でし
た。
どうも疑わし
事
現在 は舟大 工 町に石碑 が建つていますが、橋丁 のあたりが正しいとの事 です。
この福島屋 には 、前述 の南方熊楠 の父 南方弥兵衛 が番頭を務 めていたことが あり、熊楠 は
父から勝 海舟 が 滞在 していた話を聞いていたそうです。
文久 三 年 四月 二 日
。
若 山 (和 歌 山)表 へ 着 、片原 町福 島屋 平 左 衛 門方旅宿 。田中庄 蔵 、諸事 周旋 。夜 に入 り、御 用 人 向笠 三之 助 、
・
・
書物方 津 田楠 左 衛 門来る。友 ケ島防禦 、砲 台 の事 を云う。且 、明 日、伝 法 と唱 う別館 にて、重役 久野 丹波守 、
野平太夫、佐野 出羽守 出会 い、海峡 、防禦 の策を問う趣を申す。
和歌山市湊紺
正徳3年 (1713)、 第 5代 紀 州藩主 徳川吉宗 によって
設 けられた藩の講釈所です。
「学習館」と名称が 変更されました。
その後、
現在 この地にある株式会社世界 一統 は、学習館 の
跡地を南方熊楠 の父である南方弥右衛門(初 代)が
紀州候 から譲 り受け、酒造業として創業しました。
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正 徳 三 年 (1713)五 代藩 主徳川 吉宗 によつて創建 され、
当時は講堂と呼 ばれたが、その後衰微 した。
寛政 二年 (1791)十 代藩 主治宝が再興し、藩校 学習館
を開校した。
東西 35メ ー トル・南北 50メ ー トルの敷 地を占める。
学習館 は藩 士 およびそ の子弟 の教 育 に当つたが、
慶応 二年 (1866)岡 山へ 移転 し、この時 、一 般庶 民 にも
門戸を開いた。
勝 海舟 訪 間 の 地
紀 州藩伝 法 の別館 跡
和歌山市湊紺屋町 1-8
ィ 藩校学習館 の西隣に紀州藩伝法御殿 という施設がありました。
勝 海舟寓居先 である福 島屋 からそれ ほど離れていません。
勝 海舟は、文久3年 (1863)4月 3日 に和歌 山に到着し、福島屋を寓居先 としますが、翌 日、紀州藩 の
久野丹波守、岡野平太夫、佐野出羽守ほか、海防担 当者数人と友ケ島防禦について議 論するため
同藩の伝法の別館 (伝 法御殿 )を 訪れました。この とき海舟は海軍の必要性も説 いています。
また、4月 10日 にも再 度 、伝法の別館 (伝 法御殿 )に て、久野丹波守と面談し、友ケ島砲台、海軍の
ことを話し合 つています。
1紀 州
藩 家 老
久 野 丹 波 守
中 屋 敷 跡
勝 海舟 と面談した紀 州藩家老久野丹波守の上屋敷
は現在和歌 山県庁があるところですが、中屋敷 は
伝法橋 の南西 から現在 の和歌 山市民会館が
あるところまで広大にありました。
久野丹波守は名を純 固 (す みかた)と 称し、紀州藩
の 家老及び兼 田丸城 の城主を兼務していました。
幕末 の紀州藩 は、5つ の派 閥 に別れていました。
勤 王派 、温進改革派 (公 武合体派 )、 激進改革派 、
経国派、守 旧派です。
久野丹波守 は守 旧派 に属 していましたが、次第 に
勤 王派に傾斜しました。
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陸 奥 宗 光 像
和 歌 山市伝 法橋 南 ノ丁 ズ禾口歌 山市 民会館 )
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和 歌 山市 岡 山丁 4(岡 公 園 )
弘化元年 (1844)、 紀州藩 士 伊達宗広 の六 男として生まれました。
宗光が8歳 のとき、父 伊達宗広 は紀州藩 の重 臣でしたが、藩内 の政争 にやぶれて失脚した
ため、一 家は貧困な生 活を強 いられるようになりました。
文久3年 (1863)、 勝海舟 の 門下 生になり坂本龍馬とともに海軍 の勉学 に励みます。
勝 海舟失脚後 は坂本龍馬に従い、亀 山社 中、土佐海援隊の一 員として活躍しました。
龍馬が 暗殺され 、明治新政府が樹立すると外国事務局御用係 、兵庫 県知事 、神奈川県令、
地租改正局長などを歴任 します。
西南戦争後 、政府転覆事件に関わ つたとして、除族 のうえ禁錮 5年 の刑 を受け投獄されました。
明治 16年 (1883)1月 、特赦 によつて出獄を許され 、欧州 に留学します。
帰国後外務省 に出仕し、明治 21年 (1888)駐 米 公使 となっています。
明治25年 (1892)、 第 2次 伊藤博文内閣 のときに外務大臣に就任します。
明治27年 (1894)、 イギリスとの 日英通商航海条約を締結 し、幕末以来 の不平等条約である
治外法権 の撤廃 に成功しました。同年8月 、子爵を叙爵します。また、日清戦争の戦勝後 、
伊藤博文 とともに全権として明治28年 (1895)下 関条約を調 印し、戦争を 日本にとつて有利な
条件 で終結させました。この 功により、伯爵 に陸爵します。
明治30年 (1897)8月 24日 死去。浅草海禅寺 で葬儀 が行われ、同年 11月 に大 阪 の夕陽 丘に
葬られました。