高 松 左 近 公

たか
まつ
さ
こん
こう
高松左近公
第 回
だ。今回は開講前についてのお話です。
か れ る ︱開 講 ︱へ と つ な が る 大 き な 事 件 と な る ん
が 起 き て い た ん だ ね。 や が て、 そ れ は 佛 立 講 を 開
でも、このとき本門法華宗では﹁三途成不の論争﹂
西 行 庵 を 追 い 出 さ れ た 開 導 聖 人 は、 衣 や 袈 裟 を
脱いで、普通の町人の姿でご奉公に励まれたんだ。
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安政三年︵一八五六︶三月、開導聖人は、
何とか頼該公を応 援 し よ う と 、 久 遠 派 の 教
えが、仏様の正しい教えであることを示した
﹁御法のしるべ﹂という本を贈られたんだ。
そ の 本 を ご 覧に な っ た 頼 該 公 は 、 仏 様 の
正しい教えを伝え る 方 が こ こ に も お ら れ た
んだと感激し、その教えを直接聞きたいと、
高 松 に 招 待 さ れ、 亀 阜 莊 で 出 会 う こ と に
なるんだよ。そして、開導聖人はそのまま
平
頼
該
公
年末まで、毎
日のように御
講に出て、ご
信者さんにも
教えを伝えら
れるんだ。そ
して、これか
らのご弘通に
ついて色々と
取り決められ、
それが翌年の開講へと続くんだ。
松
高松藩第八代藩主、松 平 頼 儀公 の 長 男 と
て 生 ま れ た 頼 該 公 な ん だ け ど 、 次 の 藩 主
し
は 母 違いの弟・頼胤公と決まったので、天
保九年︵一八三八︶三十一歳で隠居するんだ。
頼該公は、武 術 や 勉強でも良い成 績 を 修
めた人で、また、当時の世の中を良く見て
い た の で 、 尊 王 攘 夷︵ 天 皇 の も と に 政 治 を
行 い、 外 国 か ら 日 本 を 守 ろ う と す る こ と ︶
を 掲 げ る 人 た ち を 密か に 助 け 、 時 に は か く
まったり、お金を渡し た り し て 援 助 し て い
た ん だ 。 長 州︵ 山 口 県 ︶ の 久 坂 現 瑞、 桂 小
五 郎、 高 杉 晋 作。 土 佐︵ 高 知 県 ︶ の 中 岡 慎
太郎 など、その保 護を 受 け た 人 は 大 勢 い た
んだ。ところが高松藩は、そもそも徳川将
軍 家 の 親 戚 だ か ら、 慶 応 四 年︵ 一 八 六 八 ︶
の 幕府 軍 と 、 幕 府 を 倒 し て 新 し い 政 府 を 創
ろ う と し た 軍隊 と の 間 で 行 わ れ た 鳥 羽 伏 見
の 戦 い で は 幕 府 軍 に な っ て し ま い、 賊 軍
したら、そのまま仏になるのではない﹂と、 ︵天皇に逆らった軍隊︶となってしまった
本当の仏様の教えを伝えたんだよ。
んだね。そして、高松には官軍︵天皇の軍
こ の 法 論 に 破れた守進は、御題目で全 て
隊︶の兵隊が攻めてくるんだ。
が救われるという説・皆成派の人たちに応
高松では、戦争の準備を進めたんだけど、
争をすると大勢の人々が苦しむことにな
援を 頼むんだ。また頼該公の、御題目の功
戦
徳でご信者となり、それから自身の 信 心 で
るので、頼該公は重 い 病 気 だ っ た け ど 、 藩
仏 に な る と い う 久遠 派 に 味 方 す る 人 た ち も
主 の 頼 胤 公 を 説 得 し 官 軍 に 降 伏 す る ん だ。
いたから、当 時 の 本門 法 華 宗 を 二 つ に 分 け
高松を戦争の被害から守ったんだね。でも、
る大事件になってしまったんだね。
無理をしたせいで、その年の八月七日、六
まじ
十歳で亡くなるんだ。不 思議 な こ と に 、 平
開導聖人と頼該公との交わり
成二十九年の開導聖人ご生誕二百年の年は、
頼該公の百五十回忌に当たるんだね。
高松左近公と会い、これからのご弘通について話し合う開導聖人
左近公の屋敷跡に設立された香川
県で一番古い亀阜小学校
亀阜小学校の校庭にある高
松左近公を讃える石碑
三途成不の論争
讃 岐︵香 川 県 ︶ を 治 め る 高 松 藩 には、藩
主︵ 松 平 頼 胤 ︶ の 兄 で あ る 松 平 頼 該 公 と い
う熱心な御題目のご信者がいたんだ。
事情 が あ っ て 三 十 一 歳で 高 松 の 宮 脇 亀 阜
に隠居︵家の用事や仕事を辞めて暮らす
莊
こ と ︶ し、 当 時 の 御 題 目 を 唱 え る お 寺 が、
お 葬式 と か 亡 く な っ た 人 の ご 回向 ば か り 行
って、御題目を弘めて生きている人々を救
うという、仏様の教えを行わないのを見て、
自ら ご 信 心 を 弘 め て い た ん だ 。 今 の 岡山 や
徳 島、 淡 路 島 に も そ の 教 え を 聞 い て 、 御 講
席に集まるご信者が大勢いたんだよ。
嘉 永 三 年︵ 一 八 五 〇 ︶、 守 進 と 名 乗 る お
坊 さ ん が、 左 近 公 が 勤 め る 御 講 席 に 来 て、
法 論︵ 互 い に 意 見 を 述 べ 、 ど ち ら が 勝 れ て
いるのか争う︶を挑むんだ。
﹁ 悪 い こ と を し て、 三 途︵ 地 獄、 餓 鬼、
畜生︶という悪道︵悪い世界︶に生まれ落
ち て も、 子 孫 や ご 縁 の あ る 人 が、 あ り が
た い 御 題 目 で 弔 え ば 必 ず 仏に な る ﹂ と 言う
﹁御題目で弔 えば、
守 進に対して頼該公は、
亡くなった人
は、 そ の ご 縁
によって人と
生まれてご信
者 に な り、 そ
して自ら御題
目を唱えて功
徳を積んでか
ら仏になるの
だ。 ご 回 向 を
本堯寺(法華宗)にある松平頼該・
高松左近公の霊廟(中にお墓がある)