9日 - 稲城聖書教会

2015 年 8 月 9 日
2015 年 8 月 9 日
【礼拝次第】
礼拝:午前 11-12 時
司会:松 永 旭兄
説教:金 俊 起師
奏楽:吉 川 歩姉
稲城聖書教会 週報
前
奏
招
詞
ヘブル書 12:1-2
*頌
栄
聖歌 89
*主の祈り
祈
私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく
罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
競走を忍耐をもって走り続けようではあり
ませんか。信仰の創始者であり、完成者で
あるイエスから目を離さないでいなさ
い。・・・
(ヘブル書 12:1-2)
〒206-0804
東京都稲城市百村 66-8
Tel・Fax.042-377-5546
牧師・金 俊 起(090-9809-5838)
http://church.inagibch.com
[email protected]
祷
一
同
司 会 者
使徒信条
一
同
聖書交読
詩篇 122:1-9
賛
美
聖歌 312
聖
書
マタイ福音 17:1-13
説 教 題
イエス様の栄光の姿
賛
美
聖歌 455
献
金
礼拝の前に捧げる
感謝祈祷
永守(め)姉
報
告
司 会 者
*閉 会 唱
聖歌 386
*祝
祷
金 牧 師
後
奏
(*印は一同起立してください。)
【午後集会】
2015 年 8 月 9 日(日・午後)7:30-8:00
聖 書・詩篇77篇、『静かに考えよう』
賛 美・聖歌 312、455
・詩人は、祈りがむなしく感じられるような大きな苦難の状態
で歌っています(1-3節)。バビロン捕囚の状況であったかもし
れません。3節の「思いを潜めて」と、6節の「語り合い」、12
節の「静かに考えよう」は同じ言葉です。新共同訳では「悩ん
で」、「思いめぐらします」と訳しています。詩人は苦難を神
様との対話として表現し、瞑想と自問自答の繰り返しによって、
答えを得ようとしています。この繰り返しが神様の救いの確信
へと高められていきます。4‐9節は、過去のイスラエルの恵み
に満ちた時と現在の苦境を対比します。11‐12節は、出エジプ
トの恵みが語られています。13節以後は、神様の御手は変わる
ことなくご自身の民に救いと導きを与えられるという確信を
語り、歌っています。…
【水曜祈祷会】
【お知らせ】
・教会堂の移転のためにお祈りください。
・来週の礼拝は、東京基督教大学の小林高徳先生(学長)がメッ
セージをしてくださいます。ビョンホギル兄と岩本兄による
特別賛美もあります。
・今日から一泊キャンプンの申込みを受けつけます。今年のキ
ャンプは、9月20-21日に奥多摩バイブルシャレーで行います。
・水曜聖書の学び、地域集会は8月末までお休みです。いずれ
も9月より再開します。
・水曜祈祷会は、サムエル記の学びが終わり、列王記を学んで
います。
・ビョンホギル兄は石巻市に行っています。
鄭ヨナ姉はお父さんの体調不良のために韓国へ帰国してい
ます。1ヶ月ほどの滞在です。覚えてお祈りください。
2015 年 8 月 12 日(水・午後)7:30-8:30
聖 書・第1列王記1:32-39
賛 美・聖歌 431、434
・(先週の内容)古いヘブル語聖書では、サムエル記と列王記は
一冊の書物でした。それが後に第 1、第 2 サムエル記と第 1、
第 2 列王記になりました。列王記は「今」の記録ではなく、
「以
前」の記録を集めたものです。たぶん捕囚となった人々に読ま
せるためだと思われます。捕囚となったイスラエルの人々は、
神の民が偶像崇拝をする民に滅びることに戸惑ったことでし
ょう。また、神との関係が神殿と祭司、いけにえなどに頼った
時代なので、これらすべてがなくなったことで、どのように神
との関係を持つべきかが全く分からない状態だとも言えます。
唯一神ではなく、バビロンのように多くの神々を持つべきだと
いう思った人もいたかもしれません。ですから、列王記はこれ
らの不安を抱く人々に答えを提供する書物だとも言えます。…
・来週(8 月 16 日)の礼拝/ヨハネ福音 4:3-27
『いのちの水、イエス・キリスト』
【8 月の奉仕担当者】
2日
9日
16 日
23 日
30 日
司 会
岩崎兄
松永兄
金牧師
岩崎兄
松永兄
祈り当番
菊地姉
永守(め)姉
松永姉
片岡姉
岩崎姉
掃除(前日)
南潤兄
松永兄
吉川姉
岩崎兄
青年部
【説教の要約】
2015 年 8 月 9 日
聖書:マタイ福音 17:1-13
説教題:『イエス様の栄光の姿』
・イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネと山に登り、イエス様の
姿が変貌される個所です。その姿はイエス様の本来の姿であり、
栄光に満ちた姿でしたが、「人の子が死人の中からよみがえる
ときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命
じられました。それは、16章でもあったように、「そのとき、
イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはな
らない、と弟子たちを戒められた。」(16:20)とつながるもの
です。どうしてイエス様はご自身の正体、つまり神の御子とし
て栄光に満ちる方であることを隠したでしょうか。どうしてイ
スラエルの人々は神の御子メシヤであられるイエスを認めな
かったでしょうか。これらの答えを、本文を通して考えること
にします。
・まず、イエス様の変貌には、モーセとエリヤが登場します。
モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物として理解するこ
ともできますが、彼らが登場したのは「本当の神の御子イエス
の姿をなぜ隠したのか」、という奥義を明らかにする人々です。
両者とも神様に遣わされましたが、イスラエルは彼らを拒みま
した。もう一つは、彼らは神様とイスラエルの民との間で仲介
者の役割をした人々です(使徒の働き7:37、マラキ4:5-6)。神
様から遣わされたにもかかわらず排斥される、拒まれる人々で
した。これが奥義だということです。イエス様が民に拒まれた
ことを、イザヤ53:1-4で語っています。それは、イエス様には
「見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような
見栄えもない」からでした。栄光と力で来られたのではなく、
馬小屋で生まれ、大工の子どもとして来られたのです。神であ
り、栄光に満ちる方なのにどうして馬小屋で生まれ、大工の子
どもとして過ごされたでしょうか。イザヤ53:5-9ではこう語り
ます。私たちの罪を贖うために「ほふり場に引かれて行く小羊
(説教の要約)
のよう」であったからです。神の御子ですが、私たちを救うた
めに来られた方です。自分が何者かを示すためではなく、罪を
贖うために来られた子羊です。私たちもこのことを知り、信じ
ています。しかし、罪という深刻さを私たちは認めない生活を
します。信仰で、信じることで幸せになることしか考えないか
らです。自分の罪のために神様が子羊となって死なれたことで
贖われるということはそう簡単に理解できるものではありま
せん。これがイエス・キリストの奥義であり、神秘だというこ
とです。
・クリスチャンの意味、特権はここにあります。罪と死から贖
われ、罪に拒むことができることです。この世での感覚ではあ
りません。この世は幸せになること以外には無感覚です。しか
し、私たちは罪を拒み、聖(きよ)い者として生きることを求め
る者です。「戦場にかける橋」という映画があります。太平洋
戦争の時にビルマとタイがつながるようにした鉄橋を造った
話です。この映画は、指揮官のプライドを面白く用いたものか
もしれません。プライドの戦い、この世での生き方ですが、イ
エス様はそのような次元とは異なる方であり、私たちもイエス
様と同じ次元で生きている者なのです。
・神様を信じてから、私たちは何を求めているでしょうか。こ
の世での変貌でしょうか。それは、罪を犯さないためではなく、
罪を犯しても構わないことを求める祈りかもしれません。十字
架は告白しましたが、この世でのことしか関心がないことが、
現代クリスチャンの特徴だと言います。「目が見たことのない
もの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮か
んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくだ
さったものは、みなそうである。」(第1コリント2:7)がキリス
ト教の奥義です。イエス様が子羊としてこの世に来られたこと
も、十字架で死なれたことも、この世が考えられなかったこと
です。クリスチャンの目指すものもそうです。この世で栄光に
満ちた姿ではありません。…