我が国の海外移住盛衰の原因

我が国の海外移住盛衰の原因
太田新生
矢内原忠雄氏は可その箸「各国の移民政策」(Iifi和6年).「移民の必然性と効果」(昭
和7年)等において.各国における移住者送出の必要性は.一時的には景笂変動に左右され
るということはあるが,基本的にはその国の経済発展の段階により歴史的に規定されるとし.
経済発展段階とこれに相応する移住との関係を次の五段階に分けて.それぞれの特色を述べ
ている。即ち
(1)腱英国(先蔵本主義)・段階。この段階では.一国の人口j的加は停滞し・海外移住も
ざ程行われたい(例えば,中国.インド)。
(2)エ雄図化の段階(産業武本進展期)
との段附では.人口が急増し、急増人口は.一万では工業に吸収されるが・他方海外
移住の必要度が高在り,盛に移住が行われる(例えば・日本イタリア)。
(3)エ業国にたってし蚕つた段階(産業賢本の盛期”との段階では。人口昭加は前の段
階程多くなく.移住者・出方も少<なる。又この段階では.外国からの移住者が入って
くるという現象も起きる(例えば,ドイツ,アメリカ)。
(4)利子固化の段階(金融費本の進展期)。この段階では、人口墹加はむしる減少のlZU可
を示すが、他方において移住の必要腱が再び起ってくる。しかしその必要度が高い割合
には。実際の移住者数は多く莚い(例えばイギリスル
(5)利子生活国にたってし左つた段階(帝国主養後期)。この段階になると.人口は余り
畑えず.移住も行われない(例えばフランス)。
しかして.(当時の)日本は,農業国から工業国に権換しつつある時代であるから、政府
は移民を奨励している。農村人ロが絶対的に過剰であるのに封処的腱菜組繊が存続し・零細
鮭業を脱却できない。漸次、都市が膨張しているが工業の人口吸収力には限度があり.どう
しても人口の過剰は海外に出さなければ日本の国は到底局面症打1%lできない。それであるの
に、、イギリヱ、ト・イツ,イタリーで起ったような全国的圃民juu3bが起らないのは.一つには
適当な移住地が少いこと.一つには日本が漸次工業化しつつあること.もう一つには.困難
1.祭会していること・iig識が足りないからである。そこで伐国が移民を必妥とする所の経済
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我が国の海外糖住盛衰の原因
上・根拠を国民が鑑致して,官民か真剣に移民問題を開拓してゆかねばならぬという結臨ワウエ
生じる。
以上。所説は.経済発展段階と.それに対応する移住現象との関係を余りに類型化しすぎ
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ている蝦い力:あること,経f2i発展段階の区分方法は蝦近の世界経済の実状から詮れば必ずし
も妥当しないこと.等の欠点を有することは否定しえないかも知れたいがq同氏も他の箇所
で指摘しているように,「吾人は一国現実の経済機榊を分析してその中心をたす主段階を知
b刊べ〈,而して相混在する各種の要求及び議諭をば・それぞれの歴史的避底たる各生産段
階に通元することにエリで現在・問題の中核を知圦蛾も支配的‘拓導的実力を有する政
策の何たるかを理解しうるであろう」との言説は現在においても類る傾聴に価すると云わね
ばたるさい。
明治以来の我国の海外移住老数を顧みると,別表グラフにみられる如く、可成,顕著な増
減が雛,返されている。その原因としては、国内の経済蛎榊のエゥに.我国の側におけるも
のと.受入国側・受入政策変更の如く、受入国側紀おけるものとがある。この点からB'震グ
ラフをマクロ的に眺めなおしてみると.移住者数増減の波は大きく四期に分けうる。即ち露
1期は、明治初年から大正15年(1,24年)をでて、北米への移住が中心であったとき.
第2期は.大正14年(1125)より昭和,年(1154)主でで、南米への移住が中心
であったとき.第5期は.昭和11年(1156)エク終戦(昭和20年)をでて、満州開
拓移民が殆ど全部を占めたとき.第4期は.昭和27年(1152)から製在に至る時期で、
再び南米への移住が実質的にリードしているときLである。しかしてこれら・各期を画する
原困を綱ぺて梁ると,第1期の終篤は大正15年(1124)の米国における排日移民法の
制定、雛2期、Dそれは.昭和,年のブラジルにおける移民制限法の制定.i1,5期のそれは我
国の敗戦であって,何れも我国の国内離情から離れた.いわば外在的な膜因に腕するも●
であった。これに対し蕊4魁即ち錨近の移住のi9ijU1現象においては。始めて平ら我国の国
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内uIiWVが+tii9l的役割を果たす,という現象が生じたのである。(勿瞼,上肥四期の名期毎に
も可成hの墹域の波が染られる。たとえば第1期における明治35-58雫第2期におけ
る大正4-5娼鱒5期における昭和6年.等において著しく溶込んでいる。しかし.これ
らの減少は一時的現象にとど在り.いわば南造的な変化とは称しえたいも①てらった。なお.
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冬期の噌減の原因については,海外移住頚楽団の;「移住既究舗1.割所紋.抑本直正氏の所
説を参考ときれたい。)我国の移住史において,この上うな新しい現象をもたらした国内」1F
情は何かというと甑々の原因が考えられるにしても蛾も大きなものは.戎国経済段階の進展
に伴うものである゜しかして先述の矢内原説に従えば,我国の経済発展の段階は.戦後の移
住再開から昭和50年代前半左では.工業化段階(即ち移住が盛に行われるとき)にあった
が,それ以降現在に至る間は工業国にたってしをつた段階(即ち,移住は減退するとき)に
麟当し,それに対応して移住の盛衰か生じたと説明されうるであろう。
このエゥに移住の現象を。それの基盤となっている経済。辻会現象(特に、本論では.専
ら経済現象を念頭lこおいている)とのI1QjuLで分析し判断する心櫛え!i時宜に叶った移住政策
を策定する上に極めて大事な事柄であり.この心櫛えか欠けていると.徒らに実効を伴いえな
い移民政策の柔が慨ささりにされるという結果を招くことにたる。その好例として,矢内原
氏が引用しているものは.1120年代前当とおける英国の移住政策である。当時英国は.
工業国から利子国に躯t膜し工,という段階であり,それに大戦后の不景気か加わって,海外
移住を盛にしたいと,国内において社会政策によって扶助されねばならぬ沈澱層が多くなる
ばかりであった。そこで政府は1922年に「帝国移住法」を作り.向う15年間に海外渡航
の費用の半分を政府が補助することとし.又.1125年には.濠州と協定を結んで向う5
年間に45万人の労働者移民を送る計画のために財政的援助を行うことを定め.政府自ら移
住を大いに奨励した。しかるに当時の英国は利子国に転じようとする段階にあったから.国
民の多くは既に都市生活者と化しており.今更腱業を行うために海外移住を志す気力に乏し
く、かりに希望があっても彼らは無費力なプロレタリアートであるから,移民奨励のために
は巨額の国家補助を伴う。それでも希望者は少〈.多くは国内に沈澱するので,結局、国内
における社会政策喪かかさむばか、.という結果を生じた。これに鞘似た例は.戦后の我国
にも黒られた゜即ち政府は昭和55年に移住5ケ年計画を作り・昭和54年から向う5ケ年
間に合計105,000人の移住者送出を図つたが.丁度そ①直後から移住希望者数は激減の
一途を辿り始めたのである。
現在の我国の海外移住は.前述のエヴに第4期にあり。経済発展段階の点から鬼れば、急、
激左エ業化からエ業国となった段階にある。従って海外移住も激減し、現在は移住不振のと
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我が園の海外移住』圃瓦の原因
きてあるといわれる。しかし最近の動きとして注目すべきことは.カナダを始めとする先進
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国への移住の道が鐸Fと全く異る有利な条件で大きくl)ilけつつあることであり.我国からの
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先進国への移住性向が商左,っつあ患ことである。これに伴い,準我が国のi侮MFI移住者総数も
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・昭和40年を底として若干上向しつつある。この新た左動きが,~第4』lli内における一時的な
増減傾向の一つにすぎたいのか・第4)l嬢AKlの後の新たな騨造的変化の出発点であるのかは。
エ〈検lけすべき11U四であるが.これを第4期における国内鋒振il1F造の著しい変化フウエー応落)I2f
しつつあるときに移住面において生じた新たな動きであると見る左らば.急速左エj臘化段階
から工業国にたった初期段階の次に来るべき経済禰造に基く南進的変化が移住面においても
生じ始めている,と考えるべきではなかろうか。さればといって.現在の我国の経済発展段
階は矢内'風氏のいう利子国化の段階に途したわけではたく.依然としてエ業国としての盛期
にある段階であるから,潜在移住者の顕在化圧力は決して大きいとはいえぬ(国内労働力の
不足力s焼く)。従ってカナダを含む先進国への移住が.現在の如き迅速左テンポをもって上
昇し戯けるか否力墹ゴポI当疑llMであり.移住者の数の上からみる限りは.せいぜい微増程ⅡEないし
浮血的な増波が暫く戯<のではないかと推測される。
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