[424]続・接続詞に頼らなくても 成語・ことわざ雑記(22)

上野先生と歩こう 中国語遊歩道 『中国のことばと文化Ⅱ』
[424]続・接続詞に頼らなくても
成語・ことわざ雑記(22)
(85)“心有余而力不足”“心有余力量不足”
何事かを成し遂げたい意欲はあるが,とうてい力が及びそうにないことを言いたい時,「意あれど
も力及ばず」とか「心余りて力足らず」などという慣用表現を用いることがある。人から求められた
助力や無心をやんわりと断りたい場合にも使える。
「心余りて力足らず」は,ここが出典かどうかは知らないが,『紅楼夢』第 78 回で賈政が息子の宝
けな
玉の詩作を貶して“岂不心有余而力不足些”
(これでは心余りて力足らずといったところではないか)
と言っている。“心有余而力不足”は同じ『紅楼夢』の第 25 回に“心有余力量不足”の形でも出てく
る。
(86)茅盾も使っている
“心有余而力不足”と“心有余力量不足”は意味に違いはないが,一方が“力”を,他方が“力量”
を用いているほかに,一方に接続詞“而”があるのに,もう一方がこの接続詞を欠いているという相
違がある。この事実からも,接続詞の接続作用が極めて希薄であるというすでに見てきた中国語の特
徴をよく読み取ることができる。
“心有余而力不足”は上に引いたように『紅楼夢』に用例を見,またたいていの成語や慣用句の辞
典類がこれを用例として掲げるが,『紅楼夢』が果たして初出かどうかはつまびらかでない。近代の
マオトン
作家茅盾もその代表作『子夜』でこの語を使っているが,茅盾は全文をそらんじているほどの『紅楼
夢』愛読者であったというから,やはりここから仕入れたのであろうか。
(87)“心余力绌”“心长力短”
現代中国語でよく使われる成語に“心余力绌”(xīn yú lì chù)という語がある。《现代汉语词典》
もこの語を収めているが,その語釈を見ると“心有余而力不足”をそのまま掲げている。“绌”は不
足する意。“心有余而力不足”の短縮形が“心余力绌”であろうが(短縮に当たって“不足”が同義
の“绌”に改められた),ここでも出来上がった“心余力绌”の“心余”と“力绌”とが接続詞“而”
を欠いたまま結ばれて逆接関係にあるのが興味深い。
なお,“心余力绌”と同義の成語に“心长力短”(xīn cháng lì duǎn)があって,こちらは今日で
は“心余力绌”ほどには使われないようであるが,すでに明代あたりから使われていて,由緒はむし
ろ“心余力绌”よりも正しい。
(88)“心长力短”→“心有余而力不足”→ “心余力绌”
“心有余而力不足”が清の乾隆年間(1736-1795)に成った『紅楼夢』もしくはそのあたりが初出で
あるとすれば,明代にすでに用例を見る“心长力短”のほうがずっと早い。もう一つの同義語“心余
パーチン
力绌”は近代になってからのもののようであるから(巴金が使っている),粗雑ながら次のような仮
説を立てたくなる。
ラオパイシン
初めに読書人,つまりインテリが使った“心长力短”があった。これを老百姓,すなわち一般大衆
が“心有余而力不足”という俗わかりのする語に展開した。さらに近代になって俗語の“心有余而力
不足”が,もう一度“心余力绌”に引き締められた。――「仮説」にはほど遠いかな?読書範囲の狭
い老生の「思いつき」です。
2015/10/23
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