時事フランス語 和文仏訳の約束事 第 22 回 基本語には注意が必要 (2

時事フランス語 和文仏訳の約束事
第 22 回 基本語には注意が必要 (2)
彌永康夫
前回に続いて時事問題に関する基本語の扱いについて考えていきたい。基本語だけに用例も多
いし,検討すべき課題にも事欠かない。できるだけ多くの語を取り上げたいとは思うが,一つ一
つを疎かにもできない。
3)「民族・国民」
「民族」についてはすでに「語感を磨く」で取り上げた。ただしその時には,この言葉の使い
方に,日本語とフランス語との間で違いがあることを強調したため,それを実際に訳すときに,
どのように考えるべきかについては,とくに取り上げなかった。さらに,「国民」については,
マスコミにおけるその使用頻度の高さにもかかわらず,いざ訳す段になると一筋縄ではいかない。
「民族」という語がマスコミを賑わすのは,1950-60 年代からとくに顕著になった現象ではない
だろうか。脱植民地化が世界の潮流になりつつあった時代には,「民族自決権」とか「民族解放」
などが話題の中心だった。それぞれに対応するフランス語は,自決権については「民族」が peuple,
「解放」ではそれが nation と別々になっていた。すなわち droit des peuples à disposer d’eux-mêmes
あるいは droit d’autodétermination des peuples と libération nationale(たとえば 1950 年代にアルジェ
リアの独立を掲げてフランスと戦った組織は Front de libération nationale=FLN と名乗っていた)で
ある。1990 年代,東西冷戦が終わって,東ヨーロッパ,なかでも旧ユーゴスラヴィアで内戦が始
まったころには,「民族浄化」というおぞましい言い回しがマスコミでしばしば用いられた。こ
の時の「民族」は peuple でも nation でもなく,ethnie だった。すなわち「民族浄化」は nettoyage
(épuration, purification) ethnique というのである。ただし,同じ「族」という語が用いられていても,
ルワンダの内戦における主役は「部族」,あるいは単に「族」であり,フランス語では tribu だっ
た。さらに,1990 年代から 2000 年代になると,世界各地における「少数民族」の問題が国際的
にも重要な位置を占めるようになった。もちろん,「少数民族」問題ははるか以前から存在して
いたものであり,1920 年代の旧ソ連におけるカザフスタンやウズベキスタン,トルクメニスタン
などや,中国におけるウイグルとかチベット「自治区」が,モスクワや北京にある「中央政府」
にとってつねに頭痛の種となっていることは,よく知られている。その時の「少数民族」につい
ては nationalité が公式用語になっていた。他方,西ヨーロッパでも,UE による統合の「深化と拡
大 approfondissement et élargissement」と並行して,その加盟国内部にまで「少数民族」問題が存在
するだけでなく,時として近代の統一国家そのものの存続を脅かしかねない様子は,2014 年にス
コットランドでイギリスからの独立を問う住民投票が実施され,独立派の勝利寸前までいったこ
とでも明らかである。このときには,「少数民族」は nation も ethnie も使わず,minorité だけで済
ます例が多い。ただし,スコットランドにしろ,フランスのコルシカにしろ,独立派を称して
indépendantiste というだけでなく,nationaliste という言葉もしばしば用いられている。
「国民」は「民族」よりもさらに扱いが難しいかもしれない。日本語でも『語感の辞典』で「国
民」の項を見ると,第 1 には「その国の国籍を有する国家の構成員である人間を意味し,くだけ
た会話から硬い文章まで幅広く使われる基本的な漢語」という説明がある。ただし,第 2 として
は「「人民」や「民」とは違って論理的には政治家を含むが,この語を用いる政治家の発言には,
無意識のうちに自分たちを除外した選挙民を頭においている気配の漂う例が少なくない」という
「語感」が付け加えられている。また,「人民」の項では,「1.社会の構成員である一般の人を
さし,主として硬い文章に用いられる漢語。...2.支配者に対する一般の人々をさす雰囲気が強く,
上から下を見た感じが強い。ちなみに,「...の...による...のための政治」(フランス語では
gouvernement du peuple, par le peuple, pour le peuple である)というリンカーンの有名なモットーが,
もし「...の国民による民衆のための政治」とでも訳されていたら,これほど説得力を勝ち得たか
どうかは疑問だ。...」という興味深い考察が続いている。「国民」をフランス語でいうとすれば,
文脈によって nation をはじめとして,peuple, pays, opinion など,さらにはその国の住民を示す名
詞(日本国民ならば les Japonais)を使うこともできるが,どれか一つでなくてはならないケース
は少ないだろう。これらの単語それぞれに固有の語感には個人差があるとしても,時事問題を扱
う文でもっとも「中立的な」訳は opinion あるいは pays かもしれない。「国民」という語の用例
をいくつか出して,それぞれについて訳語として何が最適かを考えてみよう。
1.-「エジプト政変 真の国民対話で収拾を」(『朝日新聞』)。
これは 2013 年夏にエジプトを揺るがせた政変に関する論評の見出しである。ここでまず考えな
くてはならないのは,「国民対話」とは何かということである。「(政府と)国民の対話 dialogue
avec le peuple」なのか,「国民各層の間の対話 dialogue au sein du peuple」なのか,「為政者と被支
配者の対話 dialogue entre gouvernants et gouvernés」なのか。原文の曖昧さをそのままに「国民対話」
をそのまま dialogue national と訳せればよいが,これではフランス語としてはほとんど意味不明に
なるだろう。結局,訳者としての解釈が問われることになる。ここでもう一つ注意したいのは,
この文脈で「国民」の訳として最初に頭に浮かぶのが,nation よりは peuple だということである。
その理由は,peuple は「国民」とも「人民」とも訳されうる語だからではない。上に引用したリ
ンカーンの有名な言葉の「人民」はもちろん peuple だが,近代民主主義の基本概念のひとつであ
る「国民主権」の「国民」も nation ではなく peuple なのである(実際にはそれぞれの語から派生
した形容詞が用いられる。すなわち souveraineté nationale ではなく souveraineté populaire。他方,
souveraineté nationale は「国家主権」を意味する)。なお,nation (national)と peuple (populaire)との
間にある語感の違いについては,もう一つ具体的な例を挙げておこう。20 世紀の最後の 20 年ご
ろからフランスで次第に勢力を伸ばしている極右政党「国民戦線 Front national」と,1936 年から
38 年にかけてフランスで政権につき,イタリアやドイツ,スペインなどで台頭していたファシス
ト勢力に対抗した左翼連合「人民戦線 Front populaire」は,ともに「戦線 front」という同じ語を用
いながら,それにつく形容詞によって全く異なる政治勢力を代表している。
2.-「国民と向き合って」(『朝日新聞』)
2011 年 8 月,民主党が野田佳彦氏を党首として選出したことについて『朝日新聞』が掲載した論
評の見出しだが,この「国民」は nation でも les Japonais でも,さらには le pays, opinion publique
でも使えなくはない。
3.-「外交政策では「国民国家の役割」を信奉し,「強い英国」の復活を目指した。」(『朝日新聞』)
2013 年の春,イギリスのサッチャー元首相が死去したとき,『朝日新聞』が社説で書いた文の
一節である。ここで使われている「国民国家」という言葉は,17 世紀のウェストファリア条約 traité
de Westphalie 以降に用いられるようになったと言われるが,とくに 20 世紀の終わりごろからグロ
ーバル化が顕著になった反動として,しばしば持ち出されている印象がある。いずれにしろ,こ
れは Etat-nation という定着した言い回しを利用すればよい。
4.-「低成長と財政赤字に悩む先進国共通の問いに,米国民は後者の「大きな政府」路線を選ん
だ」(『朝日新聞』)
2012 年 11 月のアメリカ大統領選挙を論評した記事からの引用である。ここでいう「先進国共通
の問い」とは,この文のすぐ前にある,「自由競争にゆだねる社会か、それとも格差の是正を重
んじるべきか」
という問いを指している。
いずれにしろこの用例における
「米国民」は les Américains
とするのがもっとも自然だろう。たとえば le peuple américain とか l’opinion américaine などは,意
味は分かるとしてもいかにもこじつけに響く。
例文の試訳
1. Coup de force en Egypte : la sortie de crise passe par un véritable dialogue avec le peuple
2. Face à l’opinion, M. Noda ne doit rien esquiver
3. dans le domaine extérieur, elle s’employait à restaurer la “forte Grande-Bretagne”, convaincue qu’elle
était qu’il revenait à “l’Etat-nation de jouer un rôle primordial”.
4. Confrontés à ce choix, commun aux pays développés qui souffrent à la fois de la faible croissance et du
déficit budgétaire, les Américains ont opté pour la politique de “plus d’Etat” selon le second terme de
l’alternative.
4)「選挙」
選挙と言えば当然 élection がまず頭に浮かぶ。ただ,この言葉には少なくとも二つの意味があり,
またその使い方にも習慣に基づくいくつかの規則がある。
意味については次の二つの表現を見てほしい。l’élection de l’Assemblée nationale と les élections
législatives である。どちらも国民議会選挙,日本式に言えば総選挙であるが,最初の表現は élection
が単数で使われていて,「選出すること」,「選択」,「選定」を意味する。二つ目の表現は複
数形で,「選挙手続き」,「投票行動」などの意味である。この意味で用いられるときには,選
挙する対象が単数の場合には élection も単数形(たとえば「大統領選挙」は élection présidentielle),
対象が複数の時には複数形(たとえば élections sénatoriales)で使うのがふつうである。一つの良
い例が「補欠選挙 élection partielle」について見られる。1 選挙区だけで補欠選挙が実施されると
きには単数形で,2 以上の選挙区で同時に実施される場合には複数形で使われる。ただしこの規
則は絶対的なものではなく,対象が単数でも élection は複数形という例も少なくない。
次は,フランスで行われる選挙の種類を一覧表にしおこう。政治にかかわるものだけでも 8 種
類がある。
- 大統領選挙 élection présidentielle 5 年ごとに直接普通選挙,単記多数決 2 回投票制で実施。
- 国民議会議員選挙 élections législatives 5 年ごとに直接普通選挙,単記多数決 2 回投票制で実施。
議席総数は 577。
- 上院議員選挙 élections sénatoriales 3 年ごとに半数改選(任期は 6 年)。間接普通選挙,単記
多数決 2 回投票制あるいは名簿投票制で実施。議席総数は 343。
- 地域圏議会議員選挙 élections régionales
6 年ごとに直接普通選挙,名簿式 2 回投票制で実施。
- 県議会議員選挙 élections départementales (2015 年から名称かかわった。それまでは élections
cantonales が正式名称)。6 年ごとに直接普通選挙,単記多数決 2 回投票制で実施。なお県議会は
conseil départemental(2015 年までは conseil général)。
- 市町村議会議員選挙 élections municipales 6 年ごとに直接普通選挙で実施。投票方法は市町村
の人口によって異なる。
- ヨーロッパ議会議員選挙 élections européennes 5 年ごとに直接普通選挙,名簿式比例代表制で
実施。
- 国民投票 référendum 随時。
日本語に訳せばいずれも「選挙」となる言葉が élection 以外にも scrutin, suffrage, consultation, vote
などいくつかあるが,その意味に微妙な違いがあるので,フランス人でさえ混乱をきたすことが
あるらしい。フランス政府の公式サイト La vie publique にもこれらの単語の使い分けについてか
なり詳しい説明が掲載されている。その主な点をまとめると次のようになる。
scrutin は選挙実務全体 ensemble des opérations de vote を指すときと,当選者を決定する票の計算
方法 modes de calcul destinés à départager les candidats aux élections を意味するときがある。さらに,
国民議会などの集会が決定を下す際になされる投票にも,scrutin という語が用いられる。また,
日常の用語法では,投票用紙によって表明される「票」を指す。選挙制度についても scrutin が用
いられる。
たとえばフランスの大統領選挙は普通直接単記多数決 2 回投票制 scrutin universel, direct,
uninominal et majoritaire à deux tours で実施される。「単記多数決制」と対をなすのは名簿式投票
scrutin de liste であり,それはまた比例代表制 scrutin proportionnel(représentation proportionnelle)
とも呼ばれる。
suffrage は投票すること,すなわち le vote と投じられた票 la voix を意味するほか,投票の権利
を保有する人を基準にした選挙制度(suffrage censitaire は納税額に基づく制限選挙制),ないしは
投票行動(その結果)を意味する(たとえば suffrage masculin と言えば男性有権者の投じた票)。
この語から派生した語 suffragette は婦人参政権運動に積極的に加わった人を指す。suffrage も
scrutin のように選挙制度を意味することもある。たとえば直接投票制 suffrage direct,間接選挙制
suffrage indirect,普通選挙制 suffrage universel などである。間接選挙制が適用される選挙について
は,選挙人団 collège électoral が投票する。
上に挙げた語のほかにも,フランスのマスコミでは「選挙」の言い換えにいろいろと工夫を凝
らす。たとえば,「当選する」は remporter une élection だけでなく,se faire élire au siège de député
(sénateur, conseiller départemental, municipal …),さらには sortir vainqueur des urnes などなど,文脈
により,前後関係に従って,繰り返しを避けるためだけでも幾通りもの表現が可能である。
選挙制度についても,少なくとも système électoral と mode de scrutin という 2 通りの言い方があ
る。
さらに,フランスのマスコミでは多くの種類の選挙について,élection を省略して,大統領選挙
ならば présidentielle,総選挙なら législatives などと,その種類を特定する形容詞だけを書くことが
頻繁にみられる。
最後に,選挙は政治の分野だけで実施されるものではない。フランスではとくに企業や官公庁
において労働者の代表を選ぶ選挙が,マスコミで大きく取り上げられることがある。「職業選挙
élections professionnelles」
とか
「社会選挙 élections sociales」,あるいは
「組合選挙 élections syndicales」
など呼び方はいろいろだが,従業員数が 11 人以上の企業や団体では「従業員代表 délégué du
personnel」を,従業員数 50 人以上の企業ないし機関では「企業委員会 comité d’entreprise」の委員
を選ぶほか,官公庁では「労使同数委員会 commission paritaire」あるいは「労使同数専門委員会
commission technique paritaire」の委員を選ぶ。こうした選挙の第 1 回投票における組合ごとの獲得
票数が,「労働組合の代表資格 représentativité syndicale」を評価する基準になる。さらに,労使間
の紛争,
とくに雇用に関する紛争を裁く「労働裁判所 conseil de prud’hommes」
の
「裁判官 conseiller」
も選挙を通して任命されていたが,2014 年末の「経済・社会活動の自由化」に関する法律によっ
て,この選挙は廃止された。
Primots all rights reserved.