子犬でもパンくずを マルコの福音書7章24節~30節 2015年11月1日(日)礼拝説教 皆さん、お早うございます。 今日から、11月が、スタート、いたしました。‶もう いくつ 寝ると お正月″という童謡が、昔、歌われましたが、も う、あと、丁度、二月、寝ると、元旦礼拝と、なります。 マルコの福音書連続講解説教、今日は、‶子犬でも、パンくずをいただきます。″という、イエスさまと、異邦人の女 性との間のやりとりを通して、自分が、価値の無い者に、過ぎないのだという事実を、受け入れて、謙遜な心をもっ て、イエスさまの祝福を求める者こそが、イエスさまから、祝福を、与えられる者であるのだ、ということにつきまして、 マルコの福音書、7章24節から、30節までを、紐解きながら、ご一緒に、学んで、まいりたいと、存じます。最初に、 ひとこと、お祈りさせて、いただきます。 父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。11月がスタートした、第一日目も、このようにして、あなたが、私た ちを、礼拝に、招いてくださり、私たちが、あなたに、礼拝を献げることをもって、新しい月を、始めることが、出来まし た幸いを、心から、あなたに、感謝いたします。どうぞ、あなたさまご自身が、私たちの真ん中に立ってくださり、今日、 私たちに与えられております、みことばの意味を、解り易く教えてください。感謝して、イエスさまの、尊い、御名前に よって、お祈りいたします。 アーメン。 マルコの福音書7章24節。 イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われた が、 隠れていることはできなかった。 イエスさまの、ご一行は、ガリラヤ湖の北西にある、マグダラの港の北西に広がる、グーエール平原で、癒しのみわ ざや、福音の宣教を行っておられましたが、そこから、さらに北西の方向へ、約100Km位の位置にある、地中海の 港町・ツロの地方に、出て、行かれました。ツロは、町の形状が、細長い、鳥のくちばしのように、地中海に向かって、 突き出て、おりますので、風向きに応じて、シリアやトルコ方面にも、イタリア・フランス・スペイン方面にも、或いは、 エジプトや北アフリカの国々に向かっても帆を上げ、出帆することが出来ました。それで、天然の良い港として、紀元 前1000年頃から、ずっと、発展し続けておりました。エリヤなどが拠点としていた、地中海を望む小高い丘・カルメ ル山から、海岸伝いに、北へ、60Kmほどの距離にある場所です。 イエスさまご一行が、この、シリアの、フェニキアにある町・ツロに出かけたのは、ひとつには、リトリートのためで、あ りました。ガリラヤ地方では、どこへ行っても、結局、噂を聞きつけた人々が、押し寄せて来てしまい、ゆっくり休養す ることが、出来なかった、からです。そこで、イエスさまご一行は、ツロにあった、友人の家に、お忍びで、滞在して、 おられたのです。ツロは、海の幸、山の幸が、行き交う、風光明媚な、海岸でしたので、イエスさまご一行は、栄養補 給も含めて、ゆっくりと、弟子の訓練と、十字架への道、という、次のステップへの、準備に専念して、おられたので す。ところが、ガリラヤ湖周辺での、イエスさまの活躍の噂は、グーエール平原を越えて、ここ、ツロの町にも、伝わ って来て、しまって、おりました。ですから、イエスさまご一行は、ツロの友人宅に、いつまでも、お忍びで、隠れて、 滞在しているわけには、いかなくなってしまって、いたのです。 口を開けば、伝道、伝道、と言っては、駆け回っていることが、クリスチャンの使命だと、信じて、活動して、いらっし ゃる方々もおられますが、隠れようとしても、隠れていることの、出来ない、福音の宣教者たちも、イエスさまの、大 切な、宣教の、お手伝いを、させていただいている、方々なのでは、ないでしょうか。 マルコの福音書7章25節。 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もと にひれ伏した。 ひとりの女性が、イエスさまのことを聞きつけて、すぐに、やってまいりました。一片の、福音の破片が、与えられた 時、その女性は、迷わず、やって来て、イエスさまの、足もとに、ひれ伏しました。それほど、その女性は、切羽詰ま って、いたのです。福音の伝達が、十分に、なされているにも関わらず、別に、それによって、心を動かさるわけでも ない、という風潮が、今、日本には、蔓延して、いるのかも、しれません。どうして、そうまで、違うのでしょうか。 それは、自分の、窮乏についての、意識の欠如に、あるのかもしれません。 その女性の場合には、汚れた霊につかれた小さな娘を抱えて、失意の、どん底に、あったのです。 ‶ひれ伏した″という表現の中に、娘を思う母親の熱心と苦悩が表れて、おります。 その女性は、イエスさまの方に向かって、自分の身を、投げ出したのです。その女性は、理屈や言語を超え、体当 たりで、イエスさまに、すがったのでした。イエスさまこそが、万事を、益に、変えて、くださる御方なのです。 その女性は、イエスさまの力を仰ぎました。イエスさまに希望を、抱きました。信仰は、決して、諦めません。イエスさ まへの一途な、姿勢と信頼の中に、勝利への鍵は、存在して、いるのです。 マルコの福音書7章26節。 この女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出して くださるようにイエスに願い続けた。 当時は、ギリシャ語を話す人々のことを、‶ギリシャ人″と呼んでおりました。これは、ユダヤ人に対して、ユダヤ人 以外の、周囲の国々に住んでいる、諸国の人々、すなわち、異邦人という意味で、広く、使われていた、言葉で、あ ったのです。ですから、その女性の場合には、アフリカのリビア地方にある、フェニキヤとは、区別するために、‶シリ ヤ地方のフェニキヤの生れの、女性″という、言葉が、使われて、いるのです。当時のユダヤ人の目から見れば、 この女性は、ツロの地方に広く信じられていた、偶像の神、‶アドニスの神″を拝む、一人の偶像崇拝者に、過ぎま せんでした。しかし、この女性は、‶アドニスの神″の無力さを、自分の娘の症状を通して、知り尽くして、おりました。 そこで、真理であるイエスさまと出会い、心が、開かれたのです。そして、イエスさまに、娘の癒しを願い、大胆に、イ エスさまに、近付いて、来たのです。それは、娘を思う熱心と、イエスさまの愛に、動かされたから、なのです。イエス さまの愛は、人を、恐れから自由にし、大胆にさせるのです。 マルコの福音書7章27節。 するとイエスは言われた。「 まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取 り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。」 当時、ユダヤ人は、外国人たちを、‶犬″と、呼んで、その、不道徳な、生活態度を、さげすんで、おりました。 イエスさまは、ここでは、‶子犬ちゃん″と、呼んでおりますので、だいぶ、可愛らしい、表現では、ありますが、それ でも、厳しい、表現であることには、変わりありません。この、イエスさまの、厳しい、お返事によって、その女性は窮 地に、追い込まれてしまいましたが、逆に、それによって、自分の内側に芽生えていた、イエスさまに対する信仰を、 初めて、自分の口で、表現することが、出来たのです。イエスさまは、実に、奥深い、塩味の効いた、ことばを、返さ れたのでした。 マルコの福音書7章28節。 しかし、女は答えて言った。「主よ。 そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンく ずをいただきます。」 その女性は、先ず、‶主イエスさま″と、答えました。この答えには、‶そのとおりです″という、自分の弱さを認める、 肯定する意味と共に、自分の弱さを、イエスさまに、お委ねする意味が、含まれて、おります。 私たちも、祈りが、た だちには、聞かれない、経験を、しばしば、積むことが、あるのかも、しれません。 もう、祈っても、駄目なのでは、ないか。自分には、信仰が無いのでは、ないだろうか。そのような気持ちが、湧き出 て来ることが、あるのかも、しれません。でも、そんな時、私たちは、祈りを、捨てては、ならないのです。私たちは、 試みられているのです。信仰は、最も、否定的で、過酷な現実を、受け留める能力であるのだからです。信仰は、現 実から逃避するのではなく、現実を、受け入れ、認めた上で、イエスさまに、信頼するのです。丸ごと一個のパンで あれば、もちろん、大喜びなのですが、子犬ちゃんの場合には、子どもたちが、食卓の上で、食べ散らかして、食卓 の下に、落ちて来たパンくずでも、結構、喜んで、ぺろぺろ、舐めて、食べるのです。 スロ・フェニキヤの女性にとって、‶落ちたパン″、‶パンくず″は、既に落ちているのですから、‶子どもたちから取り 上げる″ことには、ならないと、判断したのです。イエスさまの恵みは、溢れていると、信じたのです。 マルコの福音書7章29節。 そこでイエスは 言われた。「 そうまで言うのですか。それなら、家にお帰りなさい。 悪霊はあなたの娘から出て行きました。 」 ‶そうまで 言うのですか。″という、イエスさまの言葉を直訳すると、‶この ことばの ゆえに″、すなわち、その女 性の信仰告白の言葉をベースにして、お家に、お帰りなさい、となっております。その瞬間、イエスさまの、奇跡のみ わざによって、悪霊は、その女性の娘の、中から、外に、出て行って、しまったのです。 マルコの福音書7章30節。 女が家に帰ってみるとその子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。 その女性の娘は、遠く離れた所におり、その場には、おりませんでした。でも、イエスさまの、癒しの、みわざは、そ の娘の上に、その瞬間に、働いたのです。聖霊の働きは、距離と時間とを、超越して、なされるのです。 信仰をもって、その女性は、自分の家に、帰りました。帰った先に開けていた世界は、しばらく前とは、全く、違って、 おりました。 あの、暴れ回っていて、手も、付けられなかった娘が、ベッドの上で、静かに、やすんでいるでは、ありませんか。 それは、イエスさまの光が、射し込んでいる、世界でありました。私たちが、イエスさまの食卓から、パンを受けて、 帰って行く、世界も、まさに、そのような、現実が転換している世界なのです。 お祈りさせて、いただきます。 父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。御言葉を、ありがとうございました。あなたの、ご栄光を、賛美いた します。今日は、これから、あなたの食卓から、パンと、ぶどう液を、いただく、聖餐式が、行われることを、感謝、い たします。そして、その聖餐式の前に、聖餐式に、一番、ふさわしい御言葉が、あなたから、与えられましたことを、 感謝、いたします。私たちは、自分の、弱さを、受け入れざるを得ないような事態に、たびたび、陥ります。 そんな、自分の弱さを、受け入れざるを得ないような瞬間こそが、イエスさまからの、恵みに、満ち溢れている、瞬間 であることを、御言葉を通して、知らされましたことを、心から、感謝いたします。 イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈りいたします。 アーメン。
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