革命前夜のチワワ州 チワワ州がメキシコ革命の主戦場となったのには

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革命前夜の
革命前夜のチワワ州
チワワ州
チワワ州
チワワ州がメキシコ革命
がメキシコ革命の
革命の主戦場と
主戦場となったのには、
なったのには、いくつかの理由
いくつかの理由があ
理由があった
があった。
った。第一に
第一に、
当時のチワワはルイス・テラサスと
当時のチワワはルイス・テラサスと娘婿
のチワワはルイス・テラサスと娘婿エンリケ・クレエル
娘婿エンリケ・クレエル、
エンリケ・クレエル、そして彼
そして彼ら一族に
一族により完全
より完全に
完全に
牛耳られていた
牛耳られていた。
られていた。テラサスは裕福
テラサスは裕福な
裕福な肉屋の
肉屋の出身で
出身で支配階層の
支配階層の出ではなかったが、
ではなかったが、婚姻によ
婚姻によ
りその仲間入
りその仲間入りをした
仲間入りをした。
りをした。彼は改革戦争の
改革戦争のときにはリベラル派
ときにはリベラル派のリーダーとなり1859
のリーダーとなり1859年
1859年、
知事になった
知事になった。
になった。テラサスは
テラサスは1876年
1876年、セバスチアン・レルド・デ・テハダ大統領
セバスチアン・レルド・デ・テハダ大統領を
大統領を支持した
支持した
ため、
ため、ディアス政権
ディアス政権の
政権の誕生で
誕生で彼の政治生命は
政治生命は絶たれたかに見
たれたかに見えた。
えた。しかしその
しかしその間
その間、彼は事
業に専念、
専念、アメリカへ鉄道
アメリカへ鉄道を
鉄道を利用して
利用して牛
して牛を輸出し
輸出し、メキシコ
メキシコ一の金持ちと
金持ちと言
ちと言われるほど
われるほどに
ほどに
なり、バンコ・ミネロを設立
バンコ・ミネロを設立し
設立して外国人投資家の
外国人投資家の受け皿を作った。
った。ルイス・テラサスは政治
ルイス・テラサスは政治
権力の
権力の回復を
回復を狙い、1879年
1879年には知事
には知事の
知事の座を回復した
回復した。
した。ディアスが再選
ディアスが再選された
再選された1884
された1884
年、再びその座
その座を追われてからも執拗
われてからも執拗に
執拗に十八年以上の
十八年以上の歳月を
歳月を待って1903
って1903年
1903年、知事に
知事に返
り咲いた。
いた。その一年後
その一年後、
一年後、老齢を
老齢を理由に
理由に、娘婿エンリケ・クレエルを
娘婿エンリケ・クレエルを暫定州
エンリケ・クレエルを暫定州知事
暫定州知事に
知事に任命して
任命して
退いた。
いた。クレエルは直
クレエルは直ちに法律
ちに法律を
法律を改定し
改定し、それまで選挙
それまで選挙で
選挙で選ばれていた市町村長
ばれていた市町村長を
市町村長を知事の
知事の
任命制度にし
任命制度にし、
にし、1905年
1905年、土地法を
土地法を改正し
改正し村々の共有地を
共有地を取り上げ、投資家への
投資家への売却
への売却を
売却を
可能にした
可能にした。
にした。あらゆる社会階層
あらゆる社会階層の
社会階層の人々が州全域にわたってテラサス
州全域にわたってテラサス=
にわたってテラサス=クレエル一族
クレエル一族に
一族に反目
していた。
していた。
第二に
第二に、チワワ州
チワワ州は巨額の
巨額の外資を受け入れたため
れたため、
ため、国際市況の
国際市況の影響をもろに
影響をもろに受
をもろに受けた。
けた。19
07から
07から三年
から三年に
三年に及ぶ不況がチワワに
不況がチワワに与
がチワワに与えた影
えた影響は、他の地域に
地域に比較して
比較して大
して大きかった。
きかった。また、
また、
同じ時期に
時期に発生した
発生した旱魃
した旱魃のため
旱魃のため食糧
のため食糧が
食糧が高騰した
高騰した。
した。農民は
農民は製造業や
製造業や鉱山に
鉱山に職を求めたが、
めたが、殆
どが閉鎖
どが閉鎖していた
閉鎖していた。
していた。更に事態を
事態を悪化させたのは、
たのは、アメリカに出
アメリカに出稼ぎに行っていた数千
っていた数千の
数千の労
働者が、コロラドやワイオ
コロラドやワイオミング
ミングの鉱山閉鎖
鉱山閉鎖により
閉鎖により、
により、失業して帰
して帰国した事
した事であった。
であった。
第三に
第三に、隣州ソノラやコア
ソノラやコアウ
ラやコアウイラでは州知事
イラでは州知事が
州知事が革命に
革命に同調したの
したのに対し、チワワの為
チワワの為政
者の中には革命
には革命支持
革命支持者
支持者がいなかったこ
がいなかったことが、
とが、事を単純明快にした
単純明快にした。
にした。
最後に重要な
重要な事は1885年
1885年、アメリカ軍
アメリカ軍に協力してアパッ
してアパッチの
パッチの指導者
チの指導者ジェ
指導者ジェロ
ジェロニモを
ニモを倒
し、アパッチの
パッチの襲撃
チの襲撃が
襲撃が終焉す
終焉するまでは、
るまでは、チワワの自
チワワの自由移民は銃をとって
をとって戦
って戦っていた。
っていた。クレ
エルに土地
エルに土地を
土地を奪われた自
われた自由移民たちは既
たちは既に戦闘能力を
能力を備えていたのである
えていたのである。
のである。
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革命初
革命初期の段階で最も貢献したのは
貢献したのはパ
したのはパンチョ
ンチョ・ビヤではなくパ
ではなくパスクアル・オ
スクアル・オロスコであっ
た。オロスコは当時
ロスコは当時二十八
当時二十八歳
二十八歳、パンチョ
ンチョ・ビヤより四
より四つ年下の彼は、チワワ南部
チワワ南部サン・イシ
南部サン・イシ
ドロにある、
ドロにある、州内で最も古い家族の
家族の末裔であった
末裔であった。
であった。父親は
父親はプロテスタ
ロテスタント、金持ちとは
金持ちとは言
ちとは言
えないまでも牛
えないまでも牛や土地、
土地、家も数戸持
数戸持っていた。
っていた。彼は小学校を
小学校を終わると実
わると実家の店で働き、暫
くしてチワ
くしてチワワの
チワワの山
ワの山野を抜け、貴金属を運ぶラバ追
ぶラバ追いの一
いの一団を護送す
護送する仕事を始めた。
めた。危険
を伴ったが稼
ったが稼は大きく、
きく、皆から信望
から信望を
信望を得て次第にリーダーとしての資
リーダーとしての資質を備えるよう
えるようにな
っていった。
っていった。オロスコの故郷
ロスコの故郷サン・イシドロでは
故郷サン・イシドロでは、
サン・イシドロでは、地方軍司令官ホ
方軍司令官ホアキン・チャ
アキン・チャベツ大尉
が護衛す
護衛する近隣のア
近隣のアシエンダと
のアシエンダと、
シエンダと、住民との間
との間に争いが絶
いが絶えなかった。
えなかった。チャベツ大尉は二十
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年前、
年前、冷酷で
冷酷で独裁者のよ
独裁者のよう
のように振舞った
振舞ったため
ったため、
ため、トモチ・インディアンの
トモチ・インディアンの反
チ・インディアンの反乱を招いた人
いた人物で
あった。
あった。オロスコがチャ
ロスコがチャベツに反感を抱いていた事
いていた事は間違いなく、
いなく、彼はフロレス・マ
ロレス・マゴン兄
弟の反逆思想に
逆思想に惹かれ、
かれ、1907年
1907年には急進的
には急進的な
急進的なPLMプ
PLMプロパガンダを
パガンダを読
ンダを読んでいるこ
でいることを
地方警察に
方警察に告発されている。
されている。革命直前には
革命直前には貴
には貴金属輸送の契約をチ
契約をチャ
をチャベツにより停止
により停止され
停止され、
され、
オロスコの反
ロスコの反感は極限に
極限に達していたと思
していたと思われる。
れる。チワワ州
チワワ州の権力体
権力体制への反発
への反発や
反発や個人的恨
みに加え、政治的野望
政治的野望に
的野望に満ちたオ
ちたオロスコは反
ロスコは反乱集団を
乱集団を組織した
組織した。
した。
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オロスコの一
ロスコの一団が動き始めた頃
めた頃、別のグループ
ループがあった。
あった。チワワ市
チワワ市に程近いシエラ・ア
程近いシエラ・ア
スル連
スル連山にあるラ・クエバ
にあるラ・クエバ・ピンタと呼ばれる小
ばれる小さな牧
さな牧場で革命グ
革命グループ
ループの会合が開かれ
ていた。
ていた。この会合は再選反対党
再選反対党の
対党の支部長アントニ
アントニオ
トニオ・ルイスが招集
・ルイスが招集したもので
招集したもので、
したもので、クエバ
クエバ・
ピンタの中央広場
中央広場で焚き火を囲んで行われた。
われた。ルイスがサン・
ルイスがサン・ルイス・ポト
ルイス・ポトシ
ポトシ計画を
計画を読み上
げると、
げると、一同目を
一同目を輝かせ「独裁者を
独裁者を倒せ!自由万歳!マデロ万
デロ万歳」と叫んだ後
んだ後、隊長を選
挙することになった。
とになった。選ばれたのはチワワ州
ばれたのはチワワ州ボイラー修
イラー修理工組合長
工組合長カスト
カストゥロ・エレラで
ロ・エレラで
あった。
あった。エレラは皆
エレラは皆に最も良く知られた再選反
られた再選反対党
再選反対党の
対党の役員であった
役員であった。
であった。次に二人の
二人の隊長補佐
が選ばれ、
ばれ、一人は
一人はエレウ
エレウテリオ
テリオ・アルメンダリス少尉
・アルメンダリス少尉、
少尉、二人目が
二人目がパンチョ
ンチョ・ビヤで、其々伍
長と4人の兵士が
兵士が付けられた。
けられた。
19
17. Friedrich Katz,
Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P28
18. Ibid. P62
19. Ibid. P63
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