意外な Ruckers の実像 その 7 意外な Ruckers の実像 その 8

意外な Ruckers の実像
その 7
1638, Ioannes Ruckers(上巻 p.47)のテール
低い 8' ヒッチピンレール
通常、8′ 用のヒッチピン・レールは、十八世紀楽器の多くが低音域か
ら中音域にかけて高くしておき、高音域に向けて段差やテーパーをつ
ける、あるいは現代ピアノのようにダブルピン(=バックピン)を使
い、響板への弦圧の負担軽減を図る。(用語集 p.245)
ダブルピンは、現代ピアノでは最高音まで使われるが、チェンバロの場合、弦圧を増加させないようにテ
ナーからバスの音域に用いられる。しかし、Ruckers の標準的なショート・オクターヴ楽器では、8′ の最
低音域 C/E~c の僅か 9 弦にダブルピン、英国市場向けのロング・オクターヴ楽器というクロマチックで C
に至る鍵盤をもつ楽器では、8′ の最低音域 C~c(または二段鍵盤の G1~G)の 13 弦にダブルピンが使われ
ていた(O.p.110, 175)
。Ruckers のチェンバロは、最低音域の響板モールディングが響板面に近く、8′ ヒッ
チピン・レールとして響板面から約 6.5mm の厚みしかないうえ、ブリッジからヒッチピン・レールまでの
距離も短いので、ブリッジは相対的に高くなり大きいダウン・ドラフト(サイド、ダウン両ドラフトとも約
5 度)が作用する。そのため、響板が割れやすい。最低音域の弦はバック・ピンを使いヒッチ・ピンへ直進
させるが、ときには数弦がスパイン方向へわずかに向かう左方向のサイド・ドラフトになっている(O.p.110)。
ヒッチピン・レールを高くしてバック・ピンを使う技法は、十六世紀のイタリア楽器にはない。
意外な Ruckers の実像
その 8
焼け焦げベントサイド
Ruckers のオリジナル楽器のケース側板の板厚は、楽器によるが一段鍵盤楽器が二段鍵盤楽器よりやや
薄いなど、概ね 12.5~16mm の範囲であり平均的には約 14~5mm とみてよい。しかし、ベントサイドの
板厚は、テール側端とチーク側端でそれぞれ約 15.5mm ほどあり、湾曲の曲率が大きいところでは約
12.5mm へと薄くされている。
(用語集 p.267)
Ruckers のオリジナル楽器では、いくつかの現存楽器のベントサイドにみられる焼け焦げた跡から、板
材表面を裸火に直接かざした後、力を加えて曲げたと考えられている。
そのような不確実な工法のためか、Ruckers のチェンバロ底板に描かれている設計図の予定の曲線から
ずれてしまうこともあったらしい(例:Andreas, 1644 年作、アントワープ、フレースハイス博物館蔵)
。
更に表面の焦げ目や煤は削り取る必要もあったと思われる。O’Brien によれば、Ruckers 楽器のベントサイ
ドの厚みが、大きく湾曲する部分で薄くなっている事実について、「曲げやすくするために薄くされたので
はなく、曲げが実施されたあと、最も入念に仕上げる必要のある部分」であり、曲面かんな等で汚れを削り
去ったため(O.p.90)としている。
1
焦げ目の観察できるものに製作年銘のない Ioannes による一段鍵盤チェンバロとヴァージナルのコンビ
ネーション楽器(O’Brien によると 1628 年? ベルリン楽器博物館蔵 下巻 p.47)の、チェンバロ部分の 8′
ヒッチピン・レールを兼ね、ヴァージナル部分を仕切る内蔵されたベントサイド、同じく Ioannes による
1618 年作のダブル(ウエストファリア・カッペンベルク館蔵 下巻 p.19)のベントサイド等がある。
チェンバロのベントサイドに相当する仕切り板
に焦げ目のある一段鍵盤チェンバロ + 4′ ヴァー
ジナルのコンビネーション楽器 n.d.(1628?)
IR。(下巻 p.47)Ⓝ
ベントサイドは、内側に響板を支えるライナーを接合することで強度を増すが、Ruckers 楽器の場合、
このライナーもベントサイドのように曲率の大きい部分では板厚が薄くなっているため、同様に熱による曲
げ加工がされたとみられる。
このように、
チェンバロのベントサイドのカーヴ部分で板厚が薄くなっていることによる音響上の意味は
ス
テ
ラ
ン
ブ
ノ
ワ
不明である。しかし、一部の楽器(1760, Stehlin, Benoist ワシントン・スミソニアン博物館蔵 上巻 p.39)
にみられる側板の厚み上下方向にテーパーをつける工法は、響板厚みにテーパーをつける技法と同様、振動
伝達のための経験的に試行されたインピーダンス・マッチングの手法と解釈できる。
意外な Ruckers の実像
スパインに開口した道具入
れ(ツールボックス)と回転
留め具。1640 b IR
その 9
スパインに穴あけ道具入れ
チェンバロの周囲を構成する側板のう
ち、奏者の左側にある最長の側板がスパイ
ン。英語でロング・サイド long side ということもあるスパ
インの語源は「背骨」。名前の意味するように、ボディ強度
を確かなものにする重要な部材で、壁際など目につかない位
置にあるため、
古来、
塗装やベニアの仕上げによる外装を省くことがしばしばあった。
オリジナルの Ruckers
チェンバロでは、スパイン側の「道具入れ(ツールボックス英:toolbox)」の存在と、その内部の仕切り壁
の幅が奥(チーク側)で狭くなることが真正楽器の判定基準にもなっている(O.p.190)。その道具入れの「ふ
た」は、底板側にワイヤー・ヒンジがつき、革紐で開閉されていた。
意外な Ruckers の実像
その 10
チークに穴あけ突き出しレジスター
オリジナル Ruckers 楽器のオーセンティックな構造的特徴のひとつは、ストップのオンとオフを手でコ
ントロールするためのジャック・スライドの高音端が、チーク側板から突き出ている構造である。
最初期チェンバロの用例では 1537 年作、Müller 楽器(上巻 p.100)や、ボタン式ノブで操作する十七世
紀楽器の 1619, Mayer, Johann(上巻 p.109)がある。(用語集 p.181)
オリジナル Ruckers は、突き出た先端ノブに操作し易くするための紐、リボン等を通す小穴をあけてあ
る。
2
1619, Mayer, Johann とチーク側のボタン式ノブ。
意外な Ruckers の実像
1640AR の突き出しレジスター(用語集 p.182)
。
その 11
ジャックはテーパー付き オフで弦から離れるマウスの耳型ダンパー
ク
シ
ェ
Ruckers とCouchet のオリジナルのジャックはブナ材で、厚さ、幅ともにテーパーがつけられている。
ファミリーの使用したジャックは、柾目のブナ材を使い、8′ ジャックの厚みのテーパーは、代表的なもの
で 3.9mm から 3.0mm に減少しており、幅のテーパーは 13.7mm~13.1mm の変化であるため、ジャック
本体は 3.8mm×14.4mm に開孔されたジャック・スライドのスロットから抜け落ちることがない。つまり、
それらジャックの厚みは上部が厚く下部が薄いため、スライドの中で幅方向に余裕をもつが、アクション静
止時にはスロットに密にフィットし、
押鍵の瞬間は弦に対する距離が精密に保たれ、撥弦後はあそびができ、
下降を確実にする(O.p.121)。4′ ジャックも厚みは同様であるが、幅のテーパーは 12.1mm~11.7mm の
変化で、3.8mm×12.6mm のジャック・スライドのスロットに適合している。(用語集 p.173)
十八世紀フランスの Taskin はジャック・スライドとジャック・ガイドに皮革を貼り、幅と厚みにわずかな
テーパーをつけ、ジャックが静止時にのみフィットするなどの工作によって、迅速に、軽く、静粛に作動す
るアクションを実現している。これらは、Ruckers 以来のフランドルの技法が継承されたものである。十
八世紀英国楽器のジャック本体は梨材で、タング背後にホッチキス状のハネ止めがあり、ジャック本体のテ
ーパーはついていなかった。
ク
シ
ェ
Ruckers とCouchet のオリジナル・ジャックは、O’Brien によれば「マウスの耳型 mouse ear shape」
ひも
というフェルトを紐状に丸めたダンパーを差し込む楕円の小孔が開けられており、現代の一般的なスリット
で挟んで固定する長方形の「フラッグ・ダンパー」は使われていなかった。ダンパー固定法は、おそらく「フ
ェルトを円筒状の『マウスの耳』型にして差し込んだ(O.p.123)」か、もしくは紐状のダンパー材を通した
テ
ー
ウ
ェ
ス
と思われる。V&A 蔵のアントワープ楽器の製法を伝承する工匠Theewesによる 1579 年作、クラヴィオル
ガヌムのチェンバロ部分で見つかった 1 本のオリジナルのジャックも、Ruckers 風楕円穿孔であった。
Ruckers の楕円穴。
(O’Brien による)
マウスの耳型ダンパー。
ロ ー デ ヴ ィ ク
テ ー ウ ェ ス
Lodewyk Theewes、1579 年作
クラヴィオルガヌム
そのようなダンパーであれば斜角をつけた形状にしやすいうえ、筒状なので丈夫であり変形しにくい。そ
して、レジスターが除音されたとき、その列のダンパーは一斉かつ完全に弦から離れる。また、ダブルのフ
ラッグ・ダンパーに近い効果があり、レジスターのオン・オフの際摩擦が大きいというフラッグ・ダンパー
の欠点がなく、機能的に優れている。
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他面、楕円や「マウスの耳」型もしくは紐状のダンパーでは、アクションの機能や音響上の効果に特徴が
生じる。つまりシングル楽器、特に 2×8′ ディスポジション楽器に「マウスの耳」型ダンパーを使って単独
の 8′ だけで演奏すると、除音されているレジスターの弦が解放状態になって共振し、独特のソノリティで
あるカリヨン効果を発することになる。現代のフラッグ・ダンパーを通常の方法で使った楽器では「カリヨ
ン効果」は生じない。また、オクターヴ違いの 4′ 弦は解放状態になってもさほど共振しない。現代のフラ
ッグ・ダンパーもオーバーハング状の斜角をつければ同様なカリヨン効果が生じる。
1622IR ミュゼラーの響板面と内部構造(下)及びジャック群
つづく
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オリジナルと後補(上)