「独立自主の平和外交」と - 日本・中国・ASEAN経済文化研究会

冷戦後の中国の安全保障観と東アジア――「独立自主の平和外交」と「中国脅威論」
霞山会主席研究員
阿部純一
はじめに
米ソ冷戦の終結は、中国にとって基本的には正と負の両側面の意味を持っていた。冷戦
終結の直前にあたる一九八九年五月に中国はソ連との和解と関係正常化を達成しており、
二十年以上にわたる「北方の脅威」から開放されることとなった。中国にとって、これは
経済建設の加速をめざし「全方位外交」を本格的に展開する基礎となるべきものであった。
その一方、冷戦の終結はアメリカにとって中国の「戦略的価値」の低下にほかならなかっ
たからである。
しかしながら、現実には中国はソ連との関係正常化達成直後の天安門事件によって世界
的な孤立状況に陥り、また同年秋から冬にかけての東欧諸国の社会主義体制のドミノ的崩
壊、さらに翌年にはソ連の共産党独裁体制の放棄などが続き、中国は唯一の社会主義大国
として孤塁を守る立場に追い込まれたのである。
このように、中国はポスト冷戦の時代を厳しい国際環境のもとで迎えざるをえなかった。
しかし、中国は一九九二年の初めの鄧小平による南巡講話を契機に、再び高度経済成長の
軌道に戻ることによって、地盤沈下するどころか困難な状況を切り抜け、ますますその存
在感を強めている。そうしたことが可能となったのは中国を取り巻く冷戦後の国際環境が
著しく改善されたからであって、中国こそ冷戦終結、さらに一九九一年末のソ連解体の恩
恵を最大限に享受した国であるといっても過言ではない。中国の安定と繁栄が東アジアの
安定に連動するものであることをアジア太平洋諸国は認識したし、また中国が近代化をめ
ざし「改革・開放」路線を追求したことによって、みずからが東アジアを中心とした国際
経済から孤立していけないまでに組み込まれていることを、中国自身も認識するにいたっ
た。中国は、鄧小平の「改革・開放」路線にしたがって、東アジアの経済発展にみられる
「雁行型経済発展の連鎖構造」に参入したばかりでなく、九〇年代に入ってアジア太平洋
経済協力会議(APEC)に代表される地域の経済協力組織、ASEAN地域フォーラム
(ARF)という地域安保対話の場への参加を実現した。これは、中国が国際協調によっ
て平和な国際環境を実現し、自らの経済建設に資することをねらったものであり、その強
調と相互依存を重視する国際協調主義に冷戦後の中国の安全保障観の一面が窺われる。
一方、中国の経済建設は国家の「富強」を目指すという方向をとりつつも、八〇年代の
後半まで国防の近代化は「経済建設の大局にしたがう」という大方針のもとで低い優先順
位しか与えられていなかった。その方針は現在でも首脳の公式発言で言及されてはいる。
しかし、ポスト冷戦の現在では、江沢民総書記が一九九二年の中国共産党第一四回全国代
表大会における報告で、「人民解放軍を現代化、正規化した強大な革命軍隊に築きあげ、わ
が国の国防力をたえず増強し、改革・開放と経済建設のために強力な安全の保障を与えな
ければならない」と述べているように、強力な軍隊が国家の発展に必要であるという見方
に変化してきている。冷戦後の最初の党大会であるこの場で、さらに領土、領空、領海の
主権を擁護するための軍の役割が強化されたことは指摘しておくべきであろう。強烈な主
権意識に基づく国防力強化もまた、冷戦後の中国の安全保障観に依拠する政策展開である。
こうした政策展開をもたらした中国の伝統的なパワー・ポリティクスの信奉もまた、中国
の安全保障観に不可分な属性なのである。
国際協調主義にせよ、国防の強化にせよ、程度の違いこそあれ一般的にどの国も普通に
行っていることであって、けっして国家の安全保障を追及するうえで一貫性を欠く矛盾し
た対応とはいえない。中国の場合も、政策決定者レベルでは整合するはずのものである。
しかし、冷戦終結とほぼ時期を同じくして「中国脅威論」が語られるようになった現実を
見るとき、中国での安全保障観に基づく政策展開の整合性を問い直す必要があるように思
われる。
もとより「中国脅威論」にはさまざまな側面があるが、一言でいえば東アジアの安全保
障における不安定要因として中国を位置づける見方である。中国の急速な経済成長が将来
のエネルギーや食料供給の世界的バランスを崩壊させ、ひいては大量の人口流出や環境汚
染をもたらすといった見方、すなわち中国の「発展」そのものが脅威となるという意見も
あれば、経済力の伸長に伴って軍事力を拡大し、東アジアに覇権を唱えるといった見方も
ある。とくに歴史的に中国の巨大な陰に怯えてきた東南アジア諸国にとって、現代の中国
は投資や貿易のパートナーであると同時に、アメリカがプレゼンスを希薄化させるなかで
軍事的にも巨大な存在として映っているのである。
いずれにしても、外部の観察者が現在あるいは将来の中国を「脅威」として認識するこ
とで「脅威論」は語られる。その認識の材料は観察者の判断という主観に委ねられるが、
その判断のなかに中国が言うように、近年著しい国防支出の増加に対する「曲解」や「誤
解」があったとしても、あるいは一部に脅威を煽ることで中国の経済発展を阻害しようと
いう意思があるにしても、外部のミス・パーセプションや「悪意」だけで「中国脅威論」
が構成されていると考えるべきではないだろう。中国を「脅威」とみる認識が正しいか否
かの問題は別にして、その認識が中国の安全保障観とそれに基づく外交・軍事政策のなか
に、外部の観察者が脅威を抱く要素が内在している可能性は排除できない。
本稿では、かかる観点から中国の安全保障観に焦点を当て、国際環境を中国がどう認識
し、それに対応しているのかという問題を中心に取り上げる。とくに鄧小平が指導した「改
革・開放」路線のなかでの中国の安全保障政策としての「独自自主の平和外交」と、それ
を基礎におく国防戦略の発展を手掛かりに、冷戦終結以前と、以後との間にみられる継続
性と変化に着目して分析を試みる。
一
中国にとっての安全保障とは
国家にとって、安全保障観とは狭義においては国防観と言い換えることが可能な、軍事
戦略、国防政策を形成する基礎となるものである。政権の基盤をゆるがしかねない国内治
安問題や国民の生命、財産はじめ国家の領土、主権を脅かす脅威などのなかで、直接的に
軍事力の行使で対処しなければならない事態への認識がそれにあたる。中国にとっては、
朝鮮戦争における人民志願軍の派遣、台湾海峡危機、中印・中ソ国境紛争、チベットや新
疆における民族自立の動きなどがそうしたケースに当たる。一九五〇、六〇年代を中心と
したこれらの脅威は、主に国境を接した直接的軍事的脅威であった。
一方、広義において政権のもつ世界観ないし国際政治観、国際情勢認識のみならず、政
権が国内の情勢(国情)をどう把握しているかに依存するものである。国防政策や外交政
策を策定し、国家の統合を維持し安定と発展を目指す政策を形成する基礎となるという意
味で、国家の在り方そのものを規定するものと言える。中国にとっては、東アジアの経済
発展の潮流に取り残されまいとする性急な経済成長政策の選択もその一端をしめすもので
あり、さらに西側思想の流入による民主化を求める動きが、共産党の指導体制を揺るがし
かねないという「和平演変」の脅威認識もその範疇に入る。さらに、食糧・エネルギー供
給、人口抑制、環境汚染なども広義の安全保障に含められるべき問題であろう。いわゆる
「総合安全保障」の概念であり、いずれも鄧小平の「改革・開放」路線の開始以後に直面
するようになった問題が中心である。
いずれにしても、中国にとっての安全保障は、中国に対する内外からの直接・間接の脅
威を除去することにとどまらず、中国のいっそうの発展を可能にする国際・国内環境をい
かに整備するかという要素をもつ。それを実現するために中国が国内資源をどのように選
択的に動員し、どのような安全保障戦略を選択し、どのような環境を実現しようとしてい
るのか。直接的には中国の外交政策、軍事戦略の変化、発展がそのための手掛かりとなる。
二
鄧小平以前の安全保障観
中国の安全保障観を論じるにあたって、歴史的な連続性と発展・変化を見ておく必要が
ある。一九四九年の建国当時から鄧小平が実権を握る一九七〇年代末までの中国の安全保
障観について、まず概観を試みることとする。
毛沢東時代、外交の基本姿勢は一九五〇年代前半の「向ソ一辺倒」、五十年代後半の「平
和共存」、六〇年代前半の「中間地帯論」、60年代後半の文化大革命期における「造反・
改革外交」七〇年代後半の「三つの世界論」へと変化してきた。このうち、国際情勢認識
との関係で毛沢東の考え方を端的に示すものとして、まず「中間地帯論」がある。これは
もともと建国前の一九四八年に毛沢東自らが語っていたもので、公表されたのが一九五八
年であった。建国直後の対ソ接近(「向ソ一辺倒」)政策や、その後の朝鮮戦争によるアメ
リカとの敵対関係によって、中国そのものが米ソ冷戦の対立構造に深く組み込まれ、そう
した事情が公表を遅らせたとみられる。この「中間地帯論」とは、世界の主要矛盾は米ソ
対立ではなく、アメリカ帝国主義と米ソの「中間」に位置する国家との間の矛盾であって、
中国は自らをこの「中間地帯」に位置づける考え方である。そこには中国主導の反米統一
戦線が中心を占め、ソ連の役割は明示されていない。中国はこの思想にしたがって、「中間
地帯」における民族解放闘争を支援し、アメリカへの対抗策とした。
さらに一九六四年には、アジア・アフリカ・ラテンアフリカの新興独立諸国を「第一中
間地帯」、日本や西欧諸国を「第二中間地帯」に分け、中国は前者に属するという認識も示
し、中国の立場を東西の対立から、南北の対立へと、より一層シフトしていく。ただし、
この思考でも第一、第二「中間地帯」ともに反米統一戦線のなかに位置づけられていた。
ついで「三つの世界論」がある。一九六六年に始まる文化大革命の間、中国は自らを世
界革命の中心に位置づけ、階級闘争を強調する「造反・改革外交」を展開し、けっけとし
て世界的孤立を招くことになった。しかし一九七〇年代に中国が対米接近をはかり国際社
会への復帰を実現することによって新たな外交の枠組みが必要となり、そこで打ち出され
たのがこの「三つの世界論」である。これは鄧小平が一九七四年の国連総会における演説
で明らかにしたものだが、アイディアそのものは毛沢東の「中間地帯論」を発展させたも
のであって、米ソの超大国を「第一世界」、その他の先進諸国を「第二世界」、そして残る
発展途上国を「第三世界」とし、中国は第三世界に属するという考え方である。
「第二世界」
と「第三世界」との連帯によって「第一世界」に対抗する必要を説くものであった。
はじめの「中間地帯論」は、一九五〇年代に影響力のあったアジア・アフリカの新興独
立国を中心とした非同盟運動と連動し、アメリカ帝国主義と対峙しようとするものであっ
たし、「三つの世界論」は、六〇年代にクローズアップされた「南北問題」の文脈で語られ
た発展途上国によって形成される「第三世界」に通じる議論であった。ともに中国にとっ
て共通するのは、中国を発展途上国と位置づけ、米ソという超大国に対抗する構図が語ら
れていたことである。
こうした中国の国際情勢認識、自己認識に加えて、中国が建国以来一九八〇年代に入る
までに直面した国際環境の厳しさが指摘されなければならない。一九五〇年にはじまる朝
鮮戦争、五〇年代半ばの台湾海峡危機、六〇年代を中心とするベトナム戦争に加え、五〇
年代後半の中印国境紛争、六〇年代を通してエスカレートした中ソ紛争など、中国は国境
をはさんだ紛争ないし武力脅威に直面してきた。それがために中国の安全保障政策は極端
に軍事中心に傾かざるをえなかったし、それは毛沢東が一九六〇年代に、安全保障上の考
慮から内陸部での国防関連経済建設に重点をおく「三線建設」を推進したことに見られる
ように、国家経済の建設計画そのものにさえ影響してきたのである。
とくに特徴的なのは、いわゆる「主敵論」であって、一九五〇~六〇年代は「アメリカ
帝国主義」が「主敵」として位置づけられ、六〇年代後半のソ連によるチェコ侵入の頃か
ら「ソ連者解帝国主義」がクローズアップされ、七〇年台に入るとそれが「ソ連覇権主義」
となって、「アメリカ帝国主義」にとってかわって中国の「主敵」に位置づけられるように
なる。米ソ超大国との対立色をきわだたせた「主敵論」の展開は、中国的「冷戦思考」を
象徴するものであり、主敵に対抗する国際的な統一戦線の形成が中国外交の目標となった。
これは明らかに軍事中心の国際情勢認識である。毛沢東が中国の核兵器開発を強力に推進
したのは、まさにこの時期の 1950 年代半ばからであって、アメリカ帝国主義に対抗する意
識が際立っていた。
こうして見ていくと、「中間地帯論」にせよ「三つの世界論」にせよ、そこで描かれる世
界像は、国家のパワーと発展の格差に基づく「南北」の視点であり、中国を含む「南」と、
米ソを頂点とする「北」との大国対弱小国による対立の構図である。しかし、同時に中国
は「主敵論」によって「東西」の視点に立つ「冷戦」的対立の構図にも立脚していたこと
になる。ただし、「南北」の視点と「東西」の視点は同時に現れるというよりは、その時期
の国際情勢とそのなかでの中国の立場によって使い分けられていたといえる。
こうした視点は、現在の中国にも受け継がれている。すなわち、
「東西」の視点は「平和」
の問題であり、「南北」の視点は「発展」の問題に置き換えられて今日に至っている。
いずれの視点にも共通するのは、時代状況によって変化するが、中国にとって米ソ量超
大国のいずれか、あるいは両方ともが抵抗すべき対象とされていることで、ここに中国の
「大国主義」的国際情勢認識につながる。国際情勢を左右するのは大国間の関係であり、
そこに中国も連なるという認識である。
要するに、基本的に中国の国際情勢認識にはパワー・ポリティクスの色彩が濃いという
ことである。一九五四年以来、現在にいたるまで中国は「平和共存五原則」を標榜してい
る。領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存を謳うこ
の原則は、取り立てて特異な内容ではなく、極論すれば一七世紀ウェストファリア条約に
よって主権国家を最高単位とする近代国際社会が成立して以来の伝統的な国際行動準則と
して普遍的に受け入れられてきたものである。しかし、この「平和共存五原則」が打ち出
された政治的背景は別にして、そこにはまったく社会主義のイデオロギーの要素はない。
中国がこの原則を強調する背景には、社会主義・中国よりもむしろ主権国家・中国という
強烈な国家意識、ナショナリズムがあったことが窺える。
三
「独立自主外交」への転換
毛沢東時代の「主敵論」に代表される軍事対決色の濃い国際情勢認識は、鄧小平の権力
掌握とともに大きく変質していく。鄧小平が選択した経済建設を最重点におく近代化路線
は、「改革・開放」の名のもとに中国と国際経済との結びつきを発展のエネルギーとするも
のであって、そのためには平和な結びつきを発展のエネルギーとするものであって、その
ためには平和な国際環境の実現が必要とされたのである。
ここに、毛沢東時代から鄧小平時代へと変化するにともなって、中国の安全保障観も大
きな転換を遂げることになる。転換は、第一に「主敵論」の放棄であった。中国に対する
安全保障上の脅威を特定の国に求める考え方は、中国の外交を硬直化させ、国防重視の姿
勢を必然化させる。しかし一九七〇年代はじめには米ソ・デタントが実現していたし、中
国自身も国連への参加を手掛かりに、六〇年代の世界的に孤立した状況から脱却していた。
72年にはニクソン訪中による米中接近が演出され、日本との国交も樹立された。そして、
すでに有名無実化していたとはいえ、一九五〇年に締結された中ソ友好同盟相互援助条約
の有効期限三十年が終わろうとしていた。ソ連は新たな中国との関係構築をめざし、その
ための交渉を呼びかけていた。
一九七〇年代を通して、中国はソ連覇権主義を厳しく批判してきた。一九七八年締結の
日中平和友好条約に、ソ連を想定した「反覇権条項」を盛り込むことに中国側が強く固執
したことはその一例である。鄧小平の指導体制が確立されてから、中国がソ連との関係正
常化をめざす協議に応じたこと自体、中国の姿勢の転換を物語っている。中ソ次官級協議
が開始されたのは一九七九年、十一月だったが同年十二月、ソ連のアフガニスタン侵攻似
よって中断された。しかし八二年三月、ブレジネフ書記長のタシケント演説のよってこの
協議は復活する。
転換の第二は、毛沢東の「階級闘争」路線から経済建設を最優先する路線への転換であ
る。毛沢東が 1966 年に発動した文化大革命と、それに依拠し、各国の反政府革命勢力を煽
動する「造反・革命外交」は中国を世界的孤立に追い込んだし、そうした状況に対処すべ
く中国がうちだした「自力更生」路線は、つまるところ中国の国家建設を極端に停滞させ
てしまった。七〇年代、中国が国際社会に復帰して気づいたとき、中国は世界の発展から
大きく落伍してしまっていたのである。
一九七六年、毛沢東の死は中国にとって「自力更正」の閉鎖状況から脱する契機となっ
た。毛沢東から権力を継承した華国鋒政権は、江青はじめ「四人組」の極左勢力を打倒し、
西側の資本や技術の導入を急いだものの、その準備の杜撰さによる失敗から、「洋躍進」と
批判された。しかし、その後の鄧小平による一九七八年、中国共産党第十一期三中全会で
の「改革・開放」路線の先鞭を付けたことは否定できない。
こうした転換を具体化したのが、「独立自主外交」を打ち出した一九八二年九月の中国共
産党第十二回全国代表大会(中共十二全体会)であった。鄧小平が実権を掌握して最初の
党大会となったこの大会において、胡耀邦総書記は報告のなかで「われわれが独立自主の
対外政策を堅持することは、われわれが世界平和の擁護、人類進歩の促進という崇高な国
際的義務を履行することと一致している。建国以来三十三年、中国はいかなる大国あるい
はいかなる国家ブロックにも決して依存せず、またいかなる大国の圧力にも決して屈伏し
ないということを、われわれは実際の行動で全世界に示してきた」と述べるとともに、「覇
権主義をおしすすめる超大国がいままた世界人民への新たな脅威となっている。超大国は
世界制覇の目的から、他のいかなる国をもはるかに上回る軍事力によって、世界的範囲の
争奪をくりひろげ、世界の不安定と動乱の主な根源となっている」という情勢認識を示し、
「覇権主義に反対し、世界平和を守ることは、今日の世界人民にとって最も重要な任務で
ある」、「全世界人民が真に一致団結して、覇権主義、拡張主義のあらゆる現象と断固たた
かうなら、世界平和は守ることができるであろう」、「中国は、第三世界の他の諸国ととも
に帝国主義、覇権主義、植民地主義に反対して断固闘争することを自己の神聖な国際的義
務と見なしている」と中国の立場と姿勢を明示している。
すなわち、中国は米ソ両超大国と一線を画し、平和建設のために発展途上国と連帯する
ことを謳っているが、特徴的なことは、米ソ両超大国を名指しにすることを避け、固定的
に「敵」と位置づけることなく、その覇権主義的な行動という個別の争点にたいして、中
国自身の判断で批判、反対の立場をとるということにある。
中国は一九七九年一月にアメリカと国交を樹立し、また前述のブレジネフ・ソ連書記長
による中ソ関係正常化を提案するタシケント演説によって、対ソ関係改善の手掛かりを得
ていた。「独立自主外交」の標榜は、ソ連を「主敵」とするこれまでの思考から脱却し、中
国の国益を実現するという観点でソ連との関係修復を目指すものであった。
中共十二全大会の後、一九八三年六月の第六期全国人民代表大会(全人代)第一回大会
において、趙紫陽総理は政府活動報告の中で「われわれの社会主義現代化建設は、平和な
国際環境を必要としている」と語った。中国にとっての「平和な国際環境」の達成とは、
ソ連による北方からの軍事的脅威の除去にほかならない。すでに中共十二全大会で対ソ関
係正常化に向けての三条件すなわち、⑴ 対ベトナム援助停止、⑵ アフガニスタンからの撤
退、⑶ モンゴルからの撤兵――を中国は提示している。これはソ連と中国の間にある部隊
的な争点に依拠した政治的要求であって、その要求レベルからもわかるように、現実の可
能性さらには中国の安全保障にとっての直接的な脅威の除去を優先したものであった。
一方、「独立自主外交」はまたアメリカとの距離を置こうとするものでもあった。一九七
九年一月に米中の国交は樹立したものの、アメリカは台湾への防衛用兵器供与の条項を含
む「台湾関係法」を国内法として成立させ、台湾に対して新型戦闘機(FX)供与問題で中
国の反発を引き起こし、結局、台湾での従来からのF―5Eの共同生産の追加を認める措
置をとった。米中は一九八二年八月、第二次上海コミュニケと呼ばれる共同声明を発表し、
台湾への武器供与の漸次減少で妥協した。こうした経験から中国はアメリカと一定の距離
をおく必要を認識することとなったのである。とくに中国にとって容認できなかったこと
として、アメリカに中国を対ソ交渉の「カード」と位置づける思考があったことも指摘し
ておくべきであろう。
中国は、中ソ、米中の関係をバランスさせ、かつ米ソの戦略関係がいわゆる「相互確証
破壊」(MAD)という相互抑止の関係、端的に言えば「核の手詰まり」状況にあるとの認
識から長期にわたって超大国間に戦争は起きないという認識に立ち、米ソ等距離が中国に
とって戦略的に有利と判断した。中国が米ソの膠着状態のなかで、キャスティング・ボー
トを握れる立場にあるという自覚がその背後にあった。
さらに中国にとって、
「主敵論」からの脱却とともに指摘されなければならないのが、
「経
済建設」を最優先とする政策展開のもう 1 つの側面である。つまり、世界大戦を回避して
もたらされる「平和な国際環境」は、中国にとって「改革・開放」による経済建設をめざ
しつつ、解放軍の近代化を実行する環境づくりに必要な条件でもあったのである。
一国の軍事戦略が外交や経済政策などから独立したものでないことは、改めて指摘する
までもない。その国を取り巻く国際環境ないし政権の国際情勢認識や、その国の規模、経
済力、軍事資源、地理的環境を含めた客観的条件、さらにその国がめざす国家的発展の構
想によって期待される総合的な安全保障政策の一環である。中国も例外ではない。鄧小平
の進めた軍事改革は、経済建設を大目的とする「改革・開放」路線との関連で理解されな
ければならない。そうであるとすれば、鄧小平による軍事改革、さらには軍事戦略の展開
を検討する事によって、一九八〇年代の中国の安全保障観に迫ることが可能となる。
すでに指摘したように、毛沢東時代、彼の戦略観にしたがって、重要な工業は防衛の面
で安全度の高い、四川省などの内陸地に建設されていた。鄧小平は、通商面で立地条件の
よい沿海地区を中心とした経済発展をめざし、八〇年代には深 圳 ・珠海・汕頭・履門の四
ヵ所に経済特区を設けるとともに、八四年には大連や天津、上海など沿海十四都市を対外
開放した。国防の観点では脆い弱性の高い沿海都市を中心とする経済建設の政策は、それ
がアジアNIESの後を追う雁行型経済発展の連鎖構造に加わろうとする試みであると同
時に、中国にとっては重大な戦略転換であったといってよい。これは要するに毛沢東時代
の常に「主敵」との戦争に備えた「早く、大きく、核戦争を戦う臨戦態勢」からの訣別で
あり、中国が世界戦争のような大規模な戦争に巻き込まれないことを前提としたものとみ
ることができるからである。
しかしながら、鄧小平の時代になっても毛沢東の時代から引き継いだものもある。それ
はまず第 1 に、パワー・ポリティクス的国際政治観である。「独立自主外交」が提示された
とき、そこに「建国以来三十三年、中国はいかなる大国、いかなる国家ブロックにも決し
て依存せず、またいかなる大国の圧力にも決して屈伏しないということを、われわれは実
際の行動で全世界に示してきた」と、これまでの政策との継続性にわざわざ言及している
のは、単に政策の正統性のためばかりではなく、米ソと対峙してきた大国・中国という意
識の表出であったし、政策の基礎を従来どおり「平和共存五原則」に求める姿勢にも、国
家主権を至上のものとする意識を見て取ることができるのである。
四
鄧小平の戦略--毛沢東路線からの発展
こうした状況のもとで、鄧小平は人民解放軍の再建に取りかかる。鄧小平の進めた軍事
改革とは、言いかえれば毛沢東の軍事路線からの「発展」である。「発展」は一部には「訣
別」と「転換」を含み、一部には「継続」を含む。
「訣別」は、毛沢東の「人民戦争論」で説かれた、敵をみずからの陣営深く誘い込み、
人民の海で包囲し殲滅するという、遊撃戦を主体とした人海戦術による「積極的防御」戦
略の否定である。七〇年代末、蕭克・軍事科学院長による「積極的防御」批判にそれを見
てとることができる(10)。中国は現在でも軍の戦略として「積極的防御」を標榜し、毛沢
東の軍事思想を堅持する「建前」をとっているが、現実の軍事態勢は明らかに「前方に軍
を展開し敵を迎え撃つ」思想に「転換」している。七九年の中越戦争の教訓から、歩兵中
心の戦闘組織の限界を認識し、文化大革命の過程で肥大化した軍のスリム化をすすめると
ともに、機動力、火力を強化し各軍種の共同作戦を重視した「合成集団軍」化がすすめら
れることとなった。中越戦争自体、国境を越えた戦争であり、人民戦争の理念からはずれ
るものであったが、この戦争で受けた予想を超える損害そのものが、軍が現代の戦争を戦
う態勢にないことを痛感させ、軍近代化をすすめる大きな契機となった。
「継続」は、核戦力である(11)。毛沢東はアメリカの核兵器を「ハリコの虎」と侮りつ
つも、実際にはその戦略的価値を認識しており、一九五〇年代半ばから核兵器開発を開始
した。朝鮮戦争、インドシナ戦争、台湾海峡危機等、一連の過程でアメリカの核の脅威に
直面し、六〇年代末以降はソ連との武力衝突も経験してきた経緯から、アメリカやソ連の
核の威嚇に対抗することを目的として、限定的な抑止力となる核ミサイル戦力の建設に集
中的な投資が行われ、一九八〇年代の初めには、小規模とはいえアメリカ大陸を射程に収
める大陸間弾道ミサイル(ICBM)を実戦配備するまでになった。これは毛沢東の貴重な遺産
であり、鄧小平はこの継続発展をめざしたのである。
その継続発展が途上にあることは、中国が核実験の継続を明言していることからも窺わ
れ、中国は新世代の ICBM や SLBM を開発・配備することによって、信頼性の高い核報復力
を確保し、より安定した抑止力を建設しようとしている。アメリカとロシアとの間の START
-Ⅱ(第二次戦略兵器削減条約)が完全に履行されれば、二〇〇三年にはアメリカの保有
する核弾頭は現在の三分の一の約三千発のレベルにまで減少する。中国が保有する核弾頭
の数は不明だが、一説には四百五十発程度といわれているものの、増加傾向にあることは
疑いない。相対的な米中の核戦力の接近は、それだけ中国の「核大国」としての発言力の
増大を促すことになろう。
毛沢東が中国の核武装を決意したとき、中国はその経済力から見ても、通常戦力の近代
化と同時並行的に行うことは不可能だった。アメリカの核兵器の脅威と顕在化しつつあっ
た中ソ対立のなかで、自らの手で安全保障を確保するために結果的に核武装と従来からの
マンパワーに依拠した人民戦争戦略を選択せざるをえなかった(12)。鄧小平は、経済建設
の進展を条件に、世界から落伍していた通常戦力の近代化をめざしたことになる。
こうして、中国は現代的条件下の戦争をいかに戦うかという命題のもと、軍の近代化・
正規化を推進することとなる。
「精簡整編」と呼ばれる軍の簡素化・精鋭化を中心とする改
革は、端的に言えば「人民戦争論」に依拠したマンパワー中心の軍と、一九六五年の階級
制度の廃止に加え、六六年に発動され、中国に十年の空白期を生んだ文革の過程で肥大化
した軍組織をスリム化し、精鋭化して現代戦を戦えるよう再編成することであった。
軍の改革の必要性は、一九七〇年代後半には指摘されていた。一九八二年の憲法で国家
中央軍事委員会が設置され、共産党の軍隊である解放軍に国防軍の性格が明確に付与され
たことを皮切りに、八五年から二年間で四百二十万の軍隊を三百二十万にする百万兵員の
削減と、十一大軍区から七大軍区への再編が行われ、マンパワー重視の「量」の軍隊から、
近代的装備と機動力を重視した「質」の軍隊への転換がめざされた。
軍隊の「若年化・革命化・知識化・専門化」を達成するため、一九八五には軍における
最高教育機関としての国防大学が設置され、八八年には軍人の指揮・命令系統の基礎とな
り、かつ定年制を織り込んだ階級制度も復活する。
とくに戦略面について言えば、人民戦争論に依拠した積極的防御の否定は、すなわち国
境での防御を重視する方向を生み出し、国境地帯重視の戦略へと移行するとともに、中国
を取り巻く周辺諸国との関係改善が外交課題として浮上してくることとなった。
注目すべきは、この流れが論理的に海上国境を防衛する海軍の役割を再認識させること
になった点である。中国の本土内部での人民戦争を想定するかぎり、海軍の役割は陸上兵
力の補助でしかなく、沿岸警備の域を出ないことになる。しかし、領海の守備が重視され
ることとなれば、必然的に海軍に期待される役割は大きくなるのである。
さらに一九八五年六月四日、鄧小平が中央軍事委員会拡大会議における講話で、米ソ両
超大国の「核の手詰まり」状況を認識し、「全世界の平和擁護勢力がさらに拡大すれば、か
なり長期間にわたって大規模な世界戦争が起こらずにすむ可能性が生まれ、世界平和の擁
護には希望が持てる」と語って、毛沢東時代の戦略観を大きく転換させることとなった(13)。
すでに触れたように、中国の戦争観はそれまで、世界戦争は不可避であることを前提に、
「早く、大きく、核戦争を戦う」という臨戦態勢をとってきた。鄧小平の発言によって、
中国は世界戦争が当面は生起しないということを前提に、平和時における軍隊建設として
軍の近代化をすすめることとなった。そして、鄧小平の発言にみられる戦争観の変化は、
解放軍が対処すべき戦争を「現代的条件のもとでの局部戦争」とすることになった(14)。
局部戦争は、その想定から国境周辺で生起するものであり、その立場で戦略態勢を眺め
るとき地上・海上の国境で、どこに中国の防衛の重点が置かれるべきかが問われる。一九
八〇年代半ば頃の中国の経済建設は、沿海地区を中心とした発展戦略が具体的に動きはじ
めており、中国の軍事戦略も、そうした動きと連動していくこととなる。すなわち、海上
国境の防御を重視する戦略へと進展していくのである。
その一方、鄧小平の「平和擁護勢力の拡大」という論断を受け、一九八五年の後半には
中国外交は「独立自主の平和外交」へと発展することになる。趙紫陽総理が、翌年三月の
第六期全国人民代表大会第四回会議における政府活動報告でそれを確認したように、これ
までの「独立自主外交」に「平和」という字句を加えた「独立自主の平和外交」政策を標
榜するに至る。「独立自主外交」は、主に米ソ両超大国と中国との関係の調整に主眼が置か
れていたが、
「平和」という字句を付加することによって中国は経済建設に必要な「平和な
国際環境」の確保に積極的に踏み出すことを意図したのである。
しかし、こうした「平和外交」の標榜は、まさに鄧小平が戦争観を転換し核戦争は当分
回避できるという判断から軍の改革による近代化をめざす時期と軌道を一にすることにな
る。中国外交が軍事戦略と密接に連携するものであることは、このことからも理解しうる
のである。しかも、
「平和外交」とは裏腹に、軍事戦略はより一層、「独立自主」の「主権」
意識を強め、海洋への進出をめざすようになる。
五
海洋へ進出する戦略展開
このように、鄧小平が毛沢東の人民戦争論から訣別し、国境での防御を重視する方向を
生み出したことは、論理的に海上国境を防衛する海軍の役割を再認識させることになった。
しかも、沿海中心の経済発展戦略に基づき、国境としての領海の守備が重視されることは、
当然ながら海軍への期待と役割拡大をともなうこととなる。
そして「独立自主外交」は、これまでの国際的な統一戦線の形成というような国際社会
へのコミットを回避し、自国中心の利益、とくに経済的利益を追求する論理的なバックボ
ーンを提供することとなる。一九八五年後半以降の「独立自主外交」から「独立自主の平
和外交」への変化は、まさに軍近代化に必要な時間とカネを確保しようとする政策展開と
見ることができる。その経済的背景として、すでに指摘したように、一九八四年四月には
沿海十四都市の対外経済開放路線が打ち出され、また十月の党十二期三中全会では、企業
の経営自主権拡大など経済の市場化をめざす経済改革が加速されることとなった。
また一九八五年秋には、先進五カ国蔵相会議で「円高ドル安」誘導の「プラザ合意」が
行われ、日本の対アジア投資が拡大されることになる。これによってアジア NIES や ASEAN
諸国を中心とした経済発展が加速されることとなった。こうした状況は中国にとって経済
発展の大きなチャンスと受けとめられた。中国では王建(国家計画委員会計画経済研究所
副研究員)が八七年六月頃、国際大循環発展戦略という輸出主導で獲得した外貨を発展の
資金とする構想を打ち出し注目された(16)。これを基礎に、同年十一月に当時の趙紫陽総
書記が沿海地区を視察し、その成果は「沿海地区経済発展的戦略問題」と題する報告書に
まとめられた。これに基づき、八八年には「沿海地区経済発展戦略」が打ち出され、中国
の経済発展も海洋への依存を深めることになった。
経済が高度成長路線に乗った一九八七年頃から、中国では「総合国力」という表現が見ら
れるようになる。国務院の中国国際問題研究中心の総幹事・宦郷はこの年、国際情勢を「一
つの世界、二つの制度、政経多極、競争共存」と描いてみせ、例えば米ソ関係を総合国力
の競争であると論じた。
中国のめざす経済建設は、こうして「総合国力」の増強を目標とすることとなる。軍に
とって、こうした状況が海洋への関心を高め、たとえば『解放軍報』の記事の中でもさま
ざまな議論が提出されてくる。総合国力の資源として海洋が注目され、新たなフロンティ
アとしての海洋とそこへの中国の主権確保が軍の役割となってくるのである。ある論文で
は、「資源は国家経済の血液であり、かつ国防発展の基礎である」「新たな戦略資源は宇宙
空間と海洋にある」
「われわれも強固な意識と軍事力を含むパワーを備え、国際資源の共同
開発に加わり、われわれの国益を擁護するとともにわが国の現代化建設を促進しなければ
ならない(18)」という認識が示され、さらに別の論文では領土・領空・領海という国家の
地理的国境とは別に、「国家の軍事力が実際にコントロールしうる、国益と関係する(地理
的空間的範囲の限界」としての「戦略国境」という概念が提出され、この「戦略国境」が
国家と民族の生存空間を決定づけるとしている。「戦略国境は総合国力にしたがって増減、
伸縮する」ものであり、中国は「地理的国境を承認することを基礎に、国際法で公認され
た原則に照らし、わが国の字宙空間、海上、陸上の合法的な戦略国境を確立する」として、
「国家が直面している現実的脅威と潜在的脅威、さらに世界の海洋と宇宙空間の発展の新
たな情勢に基づき、われわれは国門(訳注・防御すべき国境)を海上三百万平方キロメート
ルの海洋管轄区の縁に沿って外に拡張し、陸上では地理的国境と一致させ、宇宙空間では″
高度国境〃に進入してこそ、必要な総合空間を獲得し、国家の安全と発展を保障すること
ができる」と論じ、海洋への進出の意欲を示すのである。
こうした流れの帰結の一つが、 一九八八年三月の南シナ海・南沙海域におけるベトナム
との戦闘による南沙諸島の実効支配の開始であるといえる。そして、この年の初めから一
九九二年にかけて、中国は東シナ海で本格的な海洋資源調査を開始している(20)。
その一方で、 一九八〇年代に入り交渉が本格化する中ソ関係の正常化は、中国にとって
経済建設に必要な「平和な国際環境」を実現するために必要不可欠な要件であると同時に、
長期にわたった「北方の脅威」の消滅を意味し、中国にとって沿海からさらに近海、方角
的には領土主権で係争のある南シナ海への進出を可能にする戦略環境を整えることを意味
した。 一九七〇年代に中国にとって「主敵」と位置づけられていたソ連との和解は八〇年
代後半には秒読み段階に入っていった。まさにそうした状況を背景に、中国は一九八八年、
南シナ海の南沙諸島に実効支配を開始した。中国との関係改善を優先するソ連から見捨て
られた格好のベトナムとの小規模な海戦を経て、中国は南沙諸島の主権を主張する立場を
固めたのである。
中国は、こうした南シナ海進出を背景に、一九八八年秋に平和共存五原則を基礎とする
「新国際政治経済秩序」を打ち出す(21)。これは一九七四年国連資源特別総会で発展途上
国が中心になり提唱された「新国際経済秩序」(NIEO)を想起させる。七三年のオイル・シ
ョックとそれにともなう資源ナショナリズムの高揚から、NIEO では途上国の保有する天然
資源に対する「十分かつ恒久的な主権の保証」が謳われていた(22)。中国の新国際政治経
済秩序の提唱が平和共存五原則という国家主権を強調した論理であることをみても歴然と
しているように、NIEO の提唱は南シナ海の海底資源に対する中国の主権の主張と重なりあ
う。そればかりでなく、そこには中国が海洋への主権の確保を通じて総合国力の強化に努
め、将来的に米ソ両超大国の「覇権主義」「強権政治」に対抗し、排除することによって中
国を中心とした国際秩序を形成しようとする構図も秘められていた。
さらに一九八九年二月には、海軍副司令員(当時)の張序三が全人代の政府活動報告に「海
洋権益の擁護」を盛り込むべきだと主張するにいたる(23)。こうした中国海軍の役割拡大
をねらう主張は、一九九二年二月に公布された、東シナ海、南シナ海全域を中国の領海と
する「中華人民共和国領海及び接続水域法」への布石となり、同年秋の中国共産党第十四
回全国代表大会に至るのである。
一九九二年十月、中国共産党第十四回全国代表大会(中共十四全大会)で江沢民総書記は
「わが国はすでに百万の兵員を削減した。今後は軍隊は近代戦の必要に応じて、自己の体
質改善に力を入れて、戦闘力を全面的に高め、国の領土、領空、領海の主権と海洋の権益
の防衛、祖国の統一と安全擁護という神聖な使命をよりよく担うべきである。また国の経
済建設の大局に自発的にしたがい、改革・開放と近代化建設を積極的に支持し、これに参
加して、国の発展と繁栄に寄与すべきである(24)」と述べ、解放軍の「量」から「質」へ
の転換とともに「領海の主権と海洋の権益の防衛」について初めて言及した。海洋重視の
戦略への発展である。
中国におけるこうした戦略の変化を端的に論述したのが、中央軍事委副主席の劉華清が
一九九二年八月に党中央理論誌『求是』に発表した「中国の特色をもつ近代的軍隊建設の
道を揺るぎなく前進しよう」と題した論文(25)である。すでに発表されてから二年近く経
過しているものの、この論文は鄧小平の進めてきた軍事改革の成果を総括するとともに、
ポスト冷戦の時代である九〇年代、とくに九一年の湾岸戦争でのアメリカのハイテク兵器
の威力を目の当たりにしたうえで、中国の軍事力建設のめざす方向を余すところなく論述
しており、ここに中国軍事戦略の概要を見て取ることができる。
この論文は、中国の軍事力の使命が領土・領空・領海を防衛し、海洋権益の侵犯を防ぎ、
祖国統一を擁護し、国家の安全を守ることにあるとする。それゆえ、軍隊の現代化建設は
本土ならびに近海防御の必要に着目し、現代の条件のもとでの防衛作戦能力を向上させる
とし、「中国は海洋大国であり、数百万キロの領海、内海、大陸棚や経済水域などわが国が
管轄する海域があり、一万八千キロの海岸線、六千五百もの大小の島嶼がある。海洋と中
華民族の生存と発展は密接な関係がある。わが国の海洋権益を保持・防衛するためには、
強大な海軍を建設しなければならない。現代の条件のもとでは、海上、陸上を問わず空軍
の支援なしで作戦はなりたたない。したがって、われわれは海空軍の現代化建設を優先的
な地位に置かなければならない」とのべ、海空軍力の優先的な発展の必要を指摘するので
ある。
六 冷戦終結と中国の対応――孤立回避外交と「中国脅威論」の出現
時期は前後するが、天安門事件前の一九八八年十二月、党中央政治局は外交をテーマに
会議を開催し、そこで「全世界は対抗から対話へ、緊張から緩和へ向かいつつあり、世界
平和の擁護、発展の新しい時期が出現する可能性がある」とし、
「われわれは経験を総括し
た基礎のうえに、独立自主の平和外交政策を発展させるべきである。われわれは国際情勢
が長期緩和の方向に向かうのを積極的に促進し、平和共存五原則の基礎のうえで国際政治
の新秩序を樹立し、また平等互恵の基礎のうえで国際経済の新秩序を樹立することを積
極的に提唱し、世界各国との政治。経済貿易・科学技術協力・文化交流および民間往来な
どの関係を大いに発展し、引き続き対外開放を堅持し、また、国際経済・科学技術協力の
強化を対外関係のよりいっそう重要な位置におかなければならない」と、きわめて明るい
展望をもっていた。
しかし、その後の展開は中国にとって厳しいものであった。 一九八九年六月の天安門事
件によって国際的に孤立し、しかも東欧の社会主義体制のドミノ的崩壊のなかで米ソ冷戦
の終結を迎えることになったのである。米ソの冷戦終結が宣言される直前の八九年十一月、
鄧小平は、訪中したタンザニアのニエレレ議長との会談でこう述べている。「わたしは冷戦
の終結を願っていますが、いまのところは失望を禁じえないでいます。 一つの冷戦が終わ
ったかと思うと、もうすでに別の二つの冷戦が始まっているのです。その一つは南の世界
全体、第二世界に焦点を合わせたものであり、もう一つは社会主義諸国に焦点を合わせた
ものです。西側諸国はいま、砲煙のない第二次世界大戦を行っているのです」(27)。
中国の自己規定が発展途上の社会主義国家であるとするならば、中国は鄧小平の言う冷
戦後の「二つの冷戦」の両方に直面していることになる。同年六月の天安門事件と、その
後の西側諸国による対中制裁を「和平演変」の試みであると反発する中国は、 一面で天安
門事件の責任をアメリカをはじめとする西側諸国の民主化勢力への煽動に求めるとともに、
中国に対する人権批判を主権に対する干渉であるとして、「国家の主権、国家の安全を終始
第一に置くべき」だと主張するのである(28)。
中国にとって天安門事件それ自体が「独立自主の平和外交」の危機であった。「改革・開
放」路線そのものが、中国社会を外部とくに西側の価値観の影響を受けざるをえない「浸
透性」のあるシステムに変化させるものであり、それを防ぐために、これまで「精神汚染」
反対や反「ブルジョア自由化」のキャンペーンを行い、 一九八七年の党第十二回大会では、
経済建設を「一つの中心」と位置づけつつ、「改革。開放」路線と、共産党の指導体制維持
を中心とする「四つの基本原則」を「二つの基本点」としてきた。こうした反「和平演変」
の立場と、全方位の協調を求める「独立自主の平和外交」との折り合いをどう付けるかが
厳しく問われることとなったのである。
こうして、東欧社会主義体制のドミノ的崩壊と米ソ冷戦の終結は、中国を社会主義国家
として孤立させ、さらに一九九一年末のソ連の解体は中国の戦略的価値を著しく低下させ
ることとなった。まさに中国は二重、二重の孤立に追い込まれた環境のなかで冷戦後の外
交、さらには安全保障を構想しなければならなくなった。
国際的孤立という窮地からの脱却を中国はアジアに求めていく。一九九〇年には、イン
ドネシアと国交を回復したのを皮切りに、シンガポール、ブルネイと国交を正常化した。
これによって、ASEAN メンバーのすべてとの国交を完成させた。 一九八〇年代、カンボジ
ア問題の平和的解決をめざして中国が ASEAN 諸国と連携していたことがプラスに作用した
といえるし、アメリカなどの人権圧力に東南アジア諸国が反発していた要素も中国にとっ
ては好都合だった。中国はさらに九一年十一月に、ベトナムとも関係正常化を実現し、九
二年八月にはついに韓国との国交も樹立した。さらに中国は中東にも外交攻勢をかけ、イ
スラエル、サウジアラビアとも国交を樹立していく。
この時期、中国は一九八六年十一月に太平洋経済協力会議(PECC)に加盟することでアジ
ア太平洋の国際協力に加わり、ついで九一年十一月には APEC にも加盟した。一九九〇年に
ASEAN メンバーだけで始まった「南シナ海における潜在的紛争処理のためのワークショッ
プ」(通称「南シナ海共同開発会議」)に中国は、九一年の第二回会議から参加している。
ASEAN 拡大外相会議(PMC)には九一年から主催国のゲスト国という立場で参加し、九四年七
月に発足した ARF にも正式メンバーとして参加している。同年の ASEAN・PMC から中国はロ
シアとともに、日本ゃアメリカなど「対話国」に準じる「協議国」という位置づけが与え
られた。中国はポスト冷戦の東アジアで、多国間ネットワークに加わることで確固たる地
歩を築いていったのである。
西側先進諸国の対中制裁も緩和に動いていた。早くも一九九〇年十一月に、日本は第二
次円借款の凍結解除を決定した。九一年八月には海部総理が訪中し、九二年四月には江沢
民総書記が来日するとともに、同年十月には天皇皇后両陛下の訪中が実現した。アメリカ
も、ブッシュ政権は議会の批判にもかかわらず、中国への最恵国待遇(MFN)供与を継続した。
日米とも、中国の孤立化がもたらす非建設的な影響を考慮した結果であった。
こうして、中国は国際的孤立状況から徐々に脱していくが、それとほぼ並行するかたち
で、「中国の脅威」が語られはじめる(29)。それには偶然的要素もある。 一九九一年末の
ソ連の解体は予想を超えた展開であったし、それが中国にとって「北方の脅威」の消滅と
なって、「中国脅威論」の一因をなす中国の南シナ海を中心とする海洋進出を加速させたこ
とは否定できない。しかし、ソ連解体どころか、米ソ冷戦の終結が宣言された八九年十二
月のマルタにおける米ソ首脳会談以前の同年五月に、ゴルバチョフ訪中によって中ソが三
十年にわたる対立を解消していた事実に照らしてみれば、中国は米ソ冷戦の終結にかかわ
りなく、すでに自らの安全保障観に基づく外交・軍事政策を策定していたと見るべきであ
ろう。そしてそのなかに、九〇年代に入って「中国脅威論」が叫ばれるようになる要素が
存在していたと考えるべきだろう。
その要素として指摘されるのは、第一に中国が急速な経済成長を続け、経済大国・巨大
市場としての存在感を強めるとともに、それをさらに凌駕するかのような国防費の急増傾
向が続いていることで、中国自身も発展の目標を国家の「富強」と表現しているように、
総合国力の強化にむけて経済発展と同時に軍事力強化を前面に打ち出していることである
(30)。第二に、一九九二年二月に公布された「領海および接続水域法」でも顕著に示され
ているように、 一九八〇年代後半以来、東シナ海、南シナ海方面における海洋権益を、軍
事力を後ろ楯に擁護しようとする強硬な主権意識が軍を中心に見られることである(31)。
第三に、国際的核軍縮推進の潮流に逆らい、フランスとともに核実験を強行継続し、さら
には新世代弾道ミサイル発射実験を行っていることである。
こうした一連の軍事力強化の姿勢が「中国脅威論」に結びついていくのである。
七 国力構成要素としての軍事力
これまで検討してきたように、中国は「改革・開放」路線によって経済建設を最優先す
る政策を採用してきた。そのために周辺諸国との関係改善による平和な国際環境の実現を
めざす「独立自主の平和外交」が推進されてきた。しかしながら、経済建設は中国にとっ
て総合国力の充実をめざすものであって、そこには軍事力の近代化もセットされているの
である。「独立自主の平和外交」も、その基本理念は「平和共存五原則」にあり、そこでは
内政不干渉を第一とする主権尊重の大前提がある(32)。中国における軍の近代化は、まさ
に中国にとって主権擁護の物理的手段であり、そこに「独立自主の平和外交」と軍近代化
の整合性が求められてきたといえる。
しかし、軍事戦略が局部戦争に備えるものとなり、その守備範囲を、国境周辺なかんず
く経済発展の中心を占める沿海地区の防御を目的に、防衛上の縦深性を確保するために沿
岸警備から近海防御ヘと拡大し、海軍戦力を強化するとともに現代戦争で重要性を一層高
めている航空戦力の強化をめざす方向が顕著に見られるに及んで、「中国脅威論」の台頭を
見るにいたるのである。
このように中国が、軍の近代化がセットされた総合国力の拡充をすすめる背景に何があ
るのか。第一に指摘されなければならないのは、アヘン戦争以来の欧米や日本など列強に
よって半植民地化された屈辱の歴史体験がある(33)。経済的に落伍し、軍事的に弱体であ
ったがゆえに被った屈辱を繰り返さないためには、経済発展と国防力強化をはからなけれ
ばならない。それも、政治・経済大国たる中国にふさわしいものでなければならない。中
国の核武装はとくにその意味が強い。毛沢東みずから、核兵器開発は他国から侮りを受け
ないためだと明言している(34)。
第二に指摘されるのは、中国の国際情勢認識である。ポスト冷戦の世界を多極化に移行
する状況とみる考え方、あるいは中国、ロシア、日本、ヨーロッパを「一超多強」とみる
考え方(35)、ひいては現在の国際関係を、大国間の総合国力の競争とみる考え方(36)は、
伝統的なパワー・ポリティクス以外のなにものでもない。こうした認識に立つなら、中国
が国際政治場裏において落伍しないためには軍事力を含めた総合国力の拡充しかない。
こうしたことから見ても、中国は今後も経済の発展にともない軍の近代化を継続してい
くことになろう。どの国にとっても、安全保障は最大の課題であり、中国の軍近代化もそ
うした観点で見ていくことが必要である。九五年九月二十五日、党第十四期五中全会にお
いて李鵬総理が行った「第九次五カ年計画と二〇一〇年までの長期目標制定についての説
明」では、「国家の安全を守るため、国防の近代化を強めなければならない」「兵器装備の
近代化水準と軍隊の戦闘力を高めるため、新型戦略、戦術兵器・装備の開発と開発手段の
更新・改造を重点的に強化し、ハイテク条件下の防衛、作戦に必要な有効な兵器装備を優
先的に発展させるべきだ。わが国が独立自主の平和外交政策をとり、国防を強化している
のは、完全に自衛のためだ(37)」と述べられているのである。
結語――ポスト冷戦の国際環境と中国の安全保障
一九八九年の天安門事件から冷戦終結、そして九一年末のソ連解体と、国際環境が激変
していた時期、中国は西側諸国による「和平演変」の脅威に身構えていた。そして現在、
国家の「富強」をめざして経済成長のみならず軍の近代化に拍車をかける中国に対し、周
辺諸国は「中国脅威論」をもって警戒している。
この間、中国は「独立自主の平和外交」のもと、「改革・開放」路線を深化させ、「社会
主義市場経済」を謳うなど、八〇年代を通じて追求してきた政策を維持・発展させてきた。
九二年からは鄧小平の「南巡講話」を契機に、ふたたび高度成長路線を驀進しはじめた。
中国市場は最後の巨大市場として西側の投資を引きつけ、政治、軍事のみならず経済でも
その存在をますます大きなものにしている。
中国が主張する立場は、 一貫して平和な国際環境を求め、そのなかで発展の道をめざし
てきたというものである。そして国際社会との摩擦について、中国はその都度、外部にそ
の責任を求めてきた。しかし、中国にも責任はある。
本稿で述べてきたように、鄧小平の「独立自主の平和外交」は、毛沢東時代の「主敵論」
という軍事中心の安全保障観からの脱却をめざすものであった。しかし、鄧小平みずから
大国間の抗争を主とする「平和」と、先進諸国と発展途上国との矛盾を捉えた「発展」が
国際社会の二大課題であるとし、
「覇権主義と強権政治」に対抗する姿勢を鮮明にしたとき、
「平和」にも「発展」にも、ともに絡む中国としては、冷戦後に唯一の超大国となったア
メリカ、すなわち「覇権主義と強権政治」に対抗していかざるをえなかった。
こうして、中国にとって「覇権主義と強権政治」はかつての「主敵論」と同じ位置づけ
となり、中国が「平和共存五原則」に依拠する「新国際政治経済秩序」の確立をめざすの
は、中国を中心とした国際秩序形成によって、アメリカの主唱する政治民主化、人権擁護、
市場経済の拡大を中心的内容とする国際秩序に挑戦するものという側面があることを指摘
せざるをえない。「新国際政治経済秩序」の提唱は、いわば形を変えた「中間地帯論」であ
り「統一戦線」形成の試みという側面があると見ることができ、その意味でポスト冷戦の
中国の安全保障観は、毛沢東時代とさほど変わらない様相を呈しているのである。
そうした意味で、中国が経済建設をめざし、そのために平和な国際環境が必要だと認識
して標榜された「独立自主の平和外交」も、毛沢東時代以来の超大国との対立の構図から
脱してはいなかった。中国にとっては伝統的ともいえるパワー・ポリティクスに基づく国
際政治観、そして中国独自の安全保障観を内包した安全保障政策としての「独立自主の平
和外交」は、その裏付けとしての軍の近代化を必然的にともない、冷戦後の「平和な国際
環境」のもとで「海洋権益の擁護」を名目に影響力の拡大をめざすようになった。
すべては中国の総合国力の増強に収敏するのである。そして中国は国家建設の目標を国
家の「富強」に求めている。中国のパワー・ポリティクスに基づく国際政治観、愛国主義
で国民を動員し国家の「富強」すなわち富国強兵をめざす姿勢、国家主権の擁護を第一と
する国家主権至上主義は、過剰な防衛意識と大国願望が結合した一国主義(ユニラテラリズ
ム)に帰結する。
そこには国際社会の安定をめざして中国がいかにイニシアティブを発揮し国際協調を図
るかという戦略は欠如しているといわざるをえない。それでは中国の言う「覇権主義と強
権政治」に対抗する勢力を糾合するにはいたらない。 一九九〇年十二月、鄧小平みずから、
「第二世界の一部の国は中国に、リーダーシップをとってくれるよう望んでいる。だが、
われわれは決してリーダーシップをとってはならない。これは根本的な国策の一つである。
このリーダー役はわれわれが担いかねるものであり、われわれにはそれだけの力がまだな
い。もしリーダーになったら、少しも利点がないばかりか、かえって多くの主動性が失わ
れてしまうだろう」と述べているのである(38)。中国はみずから国際政治で「極」を形成
する大国を自任しながら、その大国としての責任は回避しているのである。
中国の「独立自主の平和外交」が全方位・等距離をめざし、国家主権の独立にこだわる
とき、その逆説として政策の一国主義的側面を看過すべきではないだろう。もとより「全
方位」は「平和協調外交」を否定するものではなく、むしろ協調と相互依存が前提となっ
て推進されるべきものである。しかし、中国が国際協調に言及し、経済の相互依存を言う
のは中国の総合国力増強に有利な場合に限られるのであって、中国の「平和協調外交」の
限界がそこに窺えるとすれば言い過ぎであろうか。
逆に、中国がアメリカの人権擁護・民主化要求に民主活動家・魏京生の逮捕で応え、核
拡散防止条約(NPT)の無期限延長に賛成しながら、それが決まった直後に核実験を行い、急
増する国防費や相次ぐ軍事演習に対する批判に、中国の国防政策はあくまでも防御的だと
強弁するとき、さらに南沙諸島の領有権をめぐり「主権問題は棚上げにして共同開発を」
と呼びかける一方でフィリピンが領有を主張するミスチーフ環礁に強引に構築物を建設し、
江沢民みずから台湾に対して「中国人は中国人を攻撃しない」と言いつつ、李登輝総統訪
米後の台湾に軍事威嚇のミサイル発射演習を行うとき、周辺諸国は中国の「平和協調外交」
に懐疑的にならざるをえないのである。
「人権」よりも国家の生存を優先する「国権」を標
榜し内政不干渉を声高に叫ぶとともに、国家主権擁護の名のもとに軍事力を背景にして南
シナ海への支配を強める中国に、周辺諸国は東アジアにおける覇権国家たらんとする強国
をイメージせざるをえないのである。(了)
(1)中国国際問題研究中心の総幹事であった宦郷は、すでに一九八八年にはこうした認識を
もっていた。宦郷「日本的経済増長及其対亜太合作的影響」『宦郷文集』下巻(世界知識出
版社、一九九四年)一四五八頁。
(2)江沢民「改革・開放のテンポをはやめ、中国の特色をもつ社会主義事業のさらなる勝利
をかちとろう」(中国共産党第十四回全国代表大会における報告)『北京週報』一九九二年
十月二十七日号 。
(3)中国の経済発展や人口増による食糧・エネルギー供給危機、環境汚染がもたらす影響の
はうが周辺諸国に与える脅威として大きいという見方もある。さしあたり毛里和子「不定
形のアジア--中国は脅威か?」『世界』一九九六年三月号参照。しかし、この脅威は、ま
だ差し迫ったものとして認識されておらず、また急激に解決を迫られる問題として出現す
る問題でもない。中国の行動とくに軍事力の行使によってもたらされる安全保障上の脅威
という問題とは性格を異にする。
(4)岡部達味「中国外交の四十年」岡部達味編『中国をめぐる国際環境』(岩波講座『現代
中国』第六巻、岩波書店、一九九〇年)二―三七頁参照。
(5)胡耀邦「社会主義現代化建設の新たな局面をきりひらこう」『北京周報』一九八二年第
三七号。
(6)趙紫陽「政府活動報告」「北京周報』一九八三年第二七号。
(7)鄧小平「維護世界和平、●(手偏に高)好国内建設」
『鄧小平文選』第三巻(人民出版社、
一九九三年)五六―五七頁。
(8)宦郷「対世界形成発展趨勢的分析及軍委提出転入″和平時期″戦略決策的理論依据」一
九八六年三月〕前掲『宦郷文集』一三一五-一三四三頁。
(9)鄧小平「在中央軍委全体会議上的講話」
『鄧小平文選一九七五-一九八二』(人民出版社、
一九八三年)六九-八一頁、および鄧小平「軍隊要服従整個国家建設的大局」前掲『鄧小平
文選』第三巻、九八-一〇〇頁。
(10)平松茂雄『中国の国防と現代化』(勁草書房、一九八五年)二五―二七頁参照。また鄭
維山「落実積極防御戦略方針的幾個問題」『毛沢束軍事思想研究学術論文集』(解放軍出版
社、 一九八四年、内部発行)一〇二―三一二頁を参照。
(11)抽稿「中国核戦力の実像」『諸君!』一九九五年十二月号、九四―一〇三頁参照。
(12)平松茂雄『中国 核大国への道」(勁草書房、一九八六年)二四七―二五一頁。
(13)鄧小平「在軍委拡大会議上的講話」(一九八五年六月四日)『鄧小平文選』第三巻(人民
出版社、一九九三年)一二六-一二九頁。
(14)鄧小平前掲文献。
(15)洪保秀「戦争与和平理論的重大創新」『中国軍事科学』一九九四年第一期、一〇-一七
頁。
(16)岡部達味『中国近代化の政治経済学』(PHP 研究所、一九八九年)一一二-一一六頁。
(17)宦郷「動蕩、変革、不平静的一年――関于一九八七年国際形勢」〔一九八七年十二月〕
(前掲『宦郷文集』)一四〇八-一四一四頁。
(18)蔡小洪他「戦略競争已経伸向外層空間和海洋」『解放軍報』一九八七年一月二日。
(19)徐光裕「追求合理的三維戦略辺彊」『解放軍報』一九八七年四月三日。
(20)「海軍基本完成東海大陸架測量任務」『解放軍報』一九九二年六月四日。 .
(21)鄧小平「以和平共存五原則為原則准則建立国際新秩序」『鄧小平文選』第三巻(人民出
版社、一九九三年)二八一-二八三頁。
(22)高橋満「第二世界認識の変容――国際経済新秩序 NIEO を中心に――」小林弘二編『中
国の世界認識と開発戦略――視座の転換と開発の課題」(アジア経済研究所、一九九〇年)
二七―一三六頁。
(23)「呼喚我個現代的海洋観」『解放軍報』一九八九年三月二十六日。
(24)江沢民「改革・開放と現代化建設のテンポをはやめ中国の特色をもつ社会主義事業の
さらなる勝利をかちとろう」『北京週報』一九九二年十月二十七日号。
(25)劉華清「堅定不移地沿着建設有中国特色現代化軍隊的道路前進」『求是』一九九三年第
十五期。
(26)「中共中央政治局の国際情勢と対外政策に関する討論」太田勝洪・朱建栄編『原典中
国現代史』第六巻「外交」(岩波書店、一九九五年)二一七―二一八頁。
(27)鄧小平「堅持社会主義、防止和平演変」前掲『鄧小平文選』第三巻、三四四―三四六
頁。
(28)鄧小平「国家的主権和安全要始終放在第一位」前掲書三四七―二四九頁。
(29)「中国脅威論」の分析として、さしあたり Zhan Jia-lin, “China Threat--A New Breed
of the Old Myth,” SIIS Journal (Shanghai Institute for International Relations) 1994.
Vol.1,No.1.,
文馨「対『中国脅威論』之研析」『中共研究』一九九五年八月号、高原明生
「「中国脅威論』を生む中華世界の拡充と軋礫」『外交フォーラム』一九九四年五月号など
を参照。
(30)中国が国防費を急増させるのは一九八九年度予算からであり、天安門事件や米ソ冷戦
終結との直接的関係はない。なお、中国国防費の急増をめぐる分析として、平松茂雄『軍
事大国化する中国の脅威』(時事通信社、 一九九五年)七八―一二六頁参照。
(31)「領海および接続水域法」の制定をめぐる中国内部の状況、とくに軍の姿勢について
は、西倉一喜「中国『新冷戦』外交は何をめざすか」『世界』一九九四年五月号参照。
(32)「第五十回国連総会における銭其●(深のさんずいを王扁に)中国外交部長の演説」
一九九五年九月二十七日)『北京週報』一九九五年第四十一号。
(33)江沢民国家主席は九五年十一月十四日、APEC 大阪会議出席に先立ち韓国を訪開し、韓
国国会で「かつて長期にわたって列強の抑圧と屈辱を受けてきた中国は独立と平和の尊さ
をよく理解している」と述べている。「中国通信』一九九五年十一月十六日。
(34)毛沢東「十大関係について」
『毛沢東選集』第五巻(外文出版社、一九七七年)四一七頁。
(35)蒔謀洪「一超大国と四強との関係について」『北京週報』一九九五年第三十九号。
(36)銭其●(深のさんずいを王扁に)「始終不漁地奉行独立自主的和平外交政策」「求是』
一九九五年第十二期。ここで銭其●は「現在は各国間、とりわけ大国間では経済と科学技
術を中心とする総合国力の競争がまさに盛んに繰り広げられ始めたところである。この競
争は実際には、国際関係の構造の変化を推進する基本的な力である。来世紀における世界
各国、各民族の興亡はかなりの程度、この競争の結果いかんにかかっている。これに対し
て、われわれは十分な認識と緊迫感をもたなければならない」と述べている。
(37)『中国通信』一九九五年十月十七日。
(38)鄧小平「善于利用時機解決発展問題」前掲『鄧小平文選』第三巻、三六三頁。