〈はじめに〉 近年、小豆坂の合戦が一度しかなかったと 論じられる。これを否定し、併せて天正十年 の二通の北条氏康書状について、新しく提起 したい。 ( ⑤是ヨリ安祥織田家ニ渡ル 「岡崎領主古 記」天文九年条 。 ) ) ( ) ( 天文十一年、尾張方が維持していた ①・ ② 。 天 文 十 四 年 も 維 持 し て い た ③ 。「 か つて攻めとり」 ③ は天文九年であろうか。 ④も松平方が安城近辺を失って いた史料にな る。 結論は⑤。天文九年以後、同十八年まで安 城城は織田方の手にあった。 ただ、周辺に城主織田信廣や信秀奉行人、 清洲守護代家奉行人の発給文書は見事なまで に一通もない。軍事的拠点として奪取しても 地域支配は全く進まなかったことになる。 ( 【天文九年、安城攻略】 安城 安祥 城は安城松平氏の本拠で、松平 長忠 親 ・信忠が継ぎ、大永三年清康が城主 となった。翌四年清康は岡崎城へ移り 『三 河松平一族』 、後を任されたのは長忠弟左 馬佐長家である 寛政譜 。 天文九年六月、信秀は安城城を攻め 武徳 大成記、岡崎古記 、六日、城主長家以下を 討 ち 取 っ た 「 大 樹 寺 過 去 帳 」『 朝 野 舊 聞 裒 藁 』 。「 就 安 城 乱 中 」 天 文 九 年 十 二 月 廿 八 日桑子宛都筑竹松他二名連署売券「妙源寺文 書 」) と あ り 、 こ の 年 、 攻 防 が あ っ た こ と は 間違いない。 まず、攻撃の主体は信秀でいいだろうか。 『 武 徳 大 成 記 』『 岡 崎 古 記 』 も 後 世 の 史 書 で あり、信秀の名に惑わされ、尾張勢=信秀と 即断したと可能性がある。 信秀の三河の侵攻については、信秀個人の 軍事行動なのか清洲守護代家の総意なのかを 考える必要がある。 天文九年段階では、信秀等の清洲守護代家 の軍勢が安城城を攻めたとするのが現実的で あろう。→前述 そうすると攻撃の理由も、天文四年来の清 洲守護代家による三河への反撃となろうか。 尾張・三河における国境線の攻防の一つとな る。 結 果 に つ い て は 、『 岡 崎 古 記 』 は 落 城 と い い、堅守と記録する家譜もある 寛政譜・寛 永譜/松平利長、寛永譜・寛政譜/松平忠 次 。ここは、城主以下多数戦死しており、 『 朝 野 舊 聞 裒 藁 』 編 者 や 『 岡 崎 市 史 』・『 新 編岡崎市史』の判断通り、安城城は落城した と考えたい。次の史料も証左となろう。 [ [ ] ) ) ( ) ) えられる。 このように、天文十一年「あづき坂」の合 戦について、関連史料は多数実在する。 『 公 記 』の 描 く 、天 文 十 一 年 の「 あ づ き 坂 」 の合戦が実在したことは確かである。 以上から、天文十一年の「あづき坂」の合 戦は実在したと結論を下したい。 小豆坂の合戦というのは、後世の命名であ り 、「 あ づ き 坂 」 公 記 、「 小 豆 坂 」 三 河 物 語 で信秀と今川勢が合戦に及んだという事 実は二度在った。小競り合い程度ならもっと あっただろう。 太田の記憶する「あづき坂」と大久保が記 憶する「小豆坂」は別であった。 次ぎに経緯を整理する。 Ⅰ今川方が安城奪回に兵を出した。 Ⅱ織田方が迎撃した。 Ⅲ両軍は「あづき坂」が衝突した。 ) ( ] このような経緯だろう。Ⅰは①が史料。こ こで、迎撃を主導したのは誰かという、二つ 目の課題が生まれる。 清洲衆那古屋弥五郎が戦死し 公記 、信秀 を含む清洲守護代家の人数が迎撃していたこ とは事実。 「国中憑み勢をなされ」 「公記」天文十 三年 推定 条 た信秀が単独で迎撃したとい うのが一案。二案が清洲守護代家として駿河 衆を迎撃した。天文十一年の信秀にそこまで の 動 員 力 は な か っ た と 思 わ れ る 。二 案 が 妥 当 。 →天文七年・同十三年 ) 【天文十一年、小豆坂の合戦】 天 文 十 一 年 推 定 八 月 、信 秀 は「 あ づ き 坂 」 で「駿河衆」と激突 公記 。 この記事には二つの課題がある。これにつ いて考えてみよう。 一つは合戦が実在したかどうか。近年、こ の合戦を否定する考えが広がりつつあるが 『 織 田 信 長 の 系 譜 』『 今 川 義 元 』『 三 河 松 平 一族』 、行き過ぎであろう。 ①天文十一年、臨濟寺の長老雪齊、今川義 元にかハりて安祥をせむる時、清繩手の 合戦にをひて 寛永譜・本多忠勝条 。 ②天文十一年八月十一日参州小豆坂合戦の 時 、・ ・ ・ 、 戦 死 寛 永 譜 / 寛 政 譜 ・ 松 平傳十郎条 。 ③参戦した下方左近は「十六歳」 天理大 学本「信長記」首巻 。 ④岡田助右衛門は「十六歳」 同 。 ⑤ 駿 河 衆 は 「 正 田 原 」。 信 秀 は 「 あ ん 城 よ り 矢 は ぎ へ 懸 出 し 、あ づ き 坂 へ 」 公 記 。 ⑥ 駿 河 衆 は 「 藤 河 」。 信 秀 は 「 清 洲 」「 笠 寺・鳴海」 「安祥」 「上和田」 「馬頭之原」 「小豆坂」 三河物語 。 ) ] ( ( ) ( ( ( ( ) [ ) ( ) ] ) ( ( ) 【天文十七年、三河】 天文十五年十一月、今川氏は今橋 三河渥 美郡 を攻略 天野文書 。同十六年九月、田 原戸田氏を滅ぼした。 信秀は攻め寄せる今川勢にどう立ち向かう か苦慮していた。いくら戦闘に勝っても今川 勢は懲りることなく三河へ勢力を伸ばしてく る。考えた案が北条氏との連携である。守護 斯波氏の名を使って北条氏に探りをいれた。 天文十七年初頭と思われる。 〈二通の信秀宛北条氏康書状〉 『十七年三月十一日織田弾正忠宛氏康書状 写 古証文 』に次のようにある。 Ⅰ [ ( ( ( ) ) ( ( ) ) ( ) [ [ ) ] ( ) ( 如来札、近年者遠路故、不申通候処 略 仍三州之儀、駿州へ被相談、去年向彼国 被 起 軍 、安 城 者 要 害 則 時 ニ 被 破 破 之 由 候 、 毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国 就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其 以後、万其国相違之刷新候哉、因茲、彼 国 被 相 詰 之 由 承 候 、無 余 儀 題 目 候 、就 中 、 ( ①は天文十一年安城奪回のために、今川軍 が 侵 攻 し た と し て い る 。「 清 縄 手 」 だ け で な く、 「 あ づ き 坂 」で も 衝 突 し た 可 能 性 は あ る 。 ② は 、『 公 記 』 の 「 八 月 上 旬 」 と 日 付 が 一 致 し 、『 公 記 』 を 補 う 史 料 と な る 。 ③ は 、「 慶 長十一年八十歳で死去」 士林泝洄・下方左 近 、 ④ も 、「 没 年 五 十 六 歳 」 寛 永 譜 ・ 岡 田 と一致する。 ⑤ ・ ⑥ を 見 る と 、『 公 記 』 と 『 三 河 物 語 』 では地名が相違し、両記事は別々の合戦と考 えられよう。また、織田信廣が先手 三河物 語 と し て 活 躍 す る が 、『 公 記 』 で は 信 秀 の 息 子 の 出 番 は な い 。『 公 記 』 と 『 三 河 物 語 』 は別年代の別事件を記述したものであると考 ( ) ①天文十一年、臨濟寺の長老雪齊、今川義 元にかハりて安祥をせむる時、清繩手の 合戦にをひて 寛永譜・本多忠勝条 。 ②「其折節 天文十一年 、三川の内あん城 と 云 う 城 、織 田 備 後 守 か ゝ へ ら れ 候 「 公 記」首巻 。 ③天文十四年織田信秀かつて安城の城を攻 めとり、兵士をして守らしむ 寛政譜・ 本多忠豐条 。 ④「安城為替地」寄進 天文十二年五月善 立寺宛松平広忠寄進状写「善立寺文 書」 。 -1- ) ) ( ) ] ( ( ( ) ) ( ( ( ) ) 駿州此方間之儀、預尋候、近年雖遂一和 候、自彼国疑心無止候間 迷惑候、抑自 清洲御使幷預貴札候 略 。 ( ) 、 ま た 、『 天 文 十 七 年 三 月 十 一 日 織 田 弾 正 忠 宛氏康書状写 古証文 』に次のようにある。 Ⅱ ( ) 他 の 文 面 は お ま け で あ る 。「 仍 三 州 之 儀 、 駿 州 へ 被 相 談 」 Ⅱ ど う か 。「 貴 札 」 に 今 川 氏の三河における非道が述べられ、北条氏に 三河に関わらせようとしたのあろう。その返 答が三河については今川氏と相談して下さ い、関わりませんという返答になった。 「清洲御使」 Ⅱ とあり、つまり守護斯波 氏の立場で信秀は今川氏の非を訴えたと思わ れる。が、氏康はそれに乗らなかった。 次 は 「 去 年 向 彼 国 、・ ・ ・ 、 岡 崎 之 城 自 其 国就相押候」の文面。論争の対象となってい る箇所である。 ま ず 「 去 年 」。「 去 年 当 年 」 天 野 文 書 と い い 、 ま ず 昨 年 考 え ら れ る が 、「 去 三 月 」 天 文十七年七月朔日日朝比奈宛今川義元感状写 「三川古文書」 のように、過ぎた年月を形 容する場合もある。 この箇所の眼目は「毎度御戦功」と思われ る。提携を拒否し、三河には干渉しませんと い う 冷 た い 態 度 ば か り で は 、言 い 過 ぎ と 思 い 、 信秀を持ち上げたものである。 「 安 城 、・ ・ ・ 、岡 崎 之 城 自 其 国 就 相 押 候 」 という情報を「清洲御使」から得たのか、自 ら掴んでたのかはっきりしないが、安城を攻 略したら、大局的に岡崎を押さえているだろ う。北条側がそう認識しても誤りはない。 結論。Ⅱの文面には全く疑問はない。 ( ( ) ) 貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故 不申入候、背本意存候、抑駿州此方間之 儀、預尋候、先年雖遂一和候、自彼国疑 心無止候 委細者、御使可申入候条、令 省略候 略 。 ( 、) 最近はⅠを根拠に安城落城を天文十六年と し、それによって天文九年の安城攻略を否定 し、さらには同十一年の小豆坂の合戦も否定 する論調が目立っている。→前述 こ れ に 対 し て 、『 新 編 安 城 市 史 』 で は 天 文 九年の安城攻略、同十一年の小豆坂の合戦を 事実とした上で、ⅠについてはⅡをもとに後 代に改作されたとする。 天文九年の安城攻略、同十一年の小豆坂の 合戦を認める立場で、Ⅰ・Ⅱについて考えて みよう。 駿州此方間之儀、預尋候、近年雖遂一和 候、自彼国疑心無止候間 Ⅰ 。 ( ) ( )( 〈天文十七年、小豆坂の合戦〉 氏康は今川氏とは「先年雖遂一和」とつれ なかった 天文十七年三月十一日織田信秀宛 北条氏康書状写 。信秀は独力で立ち向かう こととなった。 同年三月十九日、信秀は今川方と小豆坂で 再び激突 松平記、天文十七年四月十五日松 井惣左衛門宛今川義元感状「記録御用所本古 文書」 。 太原崇孚が率いる今川勢と、安祥城主織田 信廣を先陣として小豆坂で激突 松平記 。安 城 寛政譜・本多忠高 でも攻防があったよう である。 結果は信秀の敗北に終わった 天文十七年 三月廿八日西郷宛義元宛行状「記録御用所本 古 文 書 」、 天 文 十 七 年 七 月 朔 日 朝 比 奈 宛 義 元 感状「朝比奈永太郎所蔵文書」 。 明大寺 岡崎東泉記 で、四月十五日、松平 信孝は岡崎方に討たれ 寛政譜・松平信孝、 松 平 記 、信 秀 は 有 力 な 味 方 を す べ て 失 っ た 。 この後、信秀は「弾正忠入道」 「荒木田 守武日記」天文十八年四月条 とあり、敗戦 によって頭を丸めたようである。 ) 抑駿州此方間之儀、預尋候、先年雖遂一 和候、自彼国疑心無止候 Ⅱ 。 ( ) 『新編安城市史』はⅠ・Ⅱがほぼ同文であ るから、どちらかを疑ったのあろう。そして 文面からⅡを改作とした。 そうではなくて、ⅠもⅡも作られた。だか らⅠ・Ⅱも正文か案文の写 しとなる。 そして、信秀に出されたのはⅠかⅡのどち らかであろう。同内容の文書を同日付で出す ことは考えられない。日付から見てⅠが発給 さ れ て 、Ⅱ は お 蔵 入 り と な っ た 可 能 性 が 高 い 。 わざわざ、Ⅱを改作と見なす必要はない。 また、Ⅱを改作と判断したのは文面に疑問 がある 『新編安城市史』 からだという。 Ⅱの前半の文面について検討してみよう。 そもそも信秀の「貴札」 Ⅰ・Ⅱ には何が 書かれていたのだろうか。 「彼国被相詰之由承候」 「駿州此方間之儀、 預尋候」 Ⅱ 。ここに明らかになっている。 信秀は、三河を攻めるので共に今川氏と戦う と呼び掛けたと思われる。 そ の 返 答 が 「 近 年 雖 遂 一 和 」「 先 年 雖 遂 一 和」であった。Ⅰ Ⅱの共通内容はこれであ る。北条氏康は連携をやんわりと断った。 -2- ( ( ) ・ ) ( ( ) ( ( ) ( ( ) ( ) ) ) ) ( ) ) (
© Copyright 2024 ExpyDoc