41 1919(大正8)年頃 1921(大正10)年頃 那波八幡宮の参道 田中藤治

1919(大正8)年頃
那波八幡宮の参道
1921(大正10)年頃
田中藤治商店
松並木と境内
足羽恵
八幡宮の参道には大木が生い茂り、鳥居から境内にかけて松並木があった。戦前、神社は国家に管理さ
れ、地方の神社は、県社・郷社・村社・無格社に位置づけられた。那波八幡宮は、郷社であった。
大正10年頃
相生天満宮
大川弘
お祭りだけでな
く、記念写真の撮
影やさまざまな
行事がこの広場
で開かれた。
相生天満宮は、村
社であったが、昭
和 17 年、郷社に
昇格した。
41
1922(大正11)年3月15日
藪谷の葬斂(そうれん)場
松田酒造
光明寺での葬斂が終わると、柩は輿に乗せられて藪谷の火葬場に向かう。火葬場に近い葬斂場に着くと。
柩は台石の上におかれ、最後のお別れの読経が行われる。読経の後、輿は身内の者の肩に担がれ、六地
蔵の前から山道に入って行った。戦後、火葬場は古池に移転し、この辺りに旭小学校が作られた。
新町海岸を歩く葬斂の列
葬斂(そうれん)の行列に従
う近親の婦人方の服装は、
つぶし島田に白い披衣(く
つき)をかぶり、色物(白
無垢)を着用するのが普
通であった。
江見練太郎「地下の葬斂」
42
1922(大正11)年10月18日
兵庫県小学校競技大会優勝の記念
那波小学校
那波小学校は、明治 35 年、古宮から那波八幡宮に隣接する現在地に移転した。この年、鶴亀高等小学
校が廃止され、那波小学校は尋常高等小学校となる。写真は大正 11 年、師範学校主催の県内小学校陸
上競技大会で優勝したときの写真で背景に八幡宮が見える。
大正8年
実科女学校の授業風景
大正 2 年、那波小学校併
設の裁縫学校が実科女学
校に改称された。この写
真は、校舎不足のため得
乗寺を借りて裁縫室にあ
てていたときのものであ
る。
43
1924(大正13)年8月11日
松の浦の埋め立て
相生市役所
苧谷川の河口に広がる松の浦。正面は磯際山、左の小山は、弁才天の祭られている双子島。右の建物は
海運局(今の半田病院新館のあたり)
。満潮には、今の福祉会館のあたりまで船が着いた。
相生町は、松の浦の埋
め立てを計画し、大正
12 年、工事に着手した。
しかし、土木業者と訴
訟沙汰になって工事は
中断する。昭和 7 年、
工事を再開し 12 年に竣
工した。
相生と薮谷を結ぶ海沿
いの道は天保年間に開
通し、大正時代には埋
め立てによる拡幅で自
動車が通れるようにな
っていた。
44
1925(大正14)年2月
婦女会幼稚園の園児
相生幼稚園
婦女会幼稚園は、大正 13 年から 15 年まで、天満宮の石段で記念撮影をしている。記念写真を並べてみ
ると、大正 13 年と 14 年の間に大規模な改修が行われて石段が広がり、大正 14 年と 15 年の間に手すり
がつけられたことがわかる。
大正14年10月
第二回国勢調査員
神谷泰彰
現在の相生市域の人口は、
大正 9 年の 25313 人から
大正 14 年の 18044 人に減
少した。造船所の不況で
従業員が 5255 名から 1440
名に減少した影響である。
45
1926(大正15)年8月7日
播磨劇場で行われた陪審法の模擬裁判
松本住設
1923(大正 12)年 4 月 18 日陪審法が公布され、
1928(昭和 3)年 10 月 1 日に施行されることにな
っていた。この模擬裁判は、陪審法の裁判をシミ
レートしたものである。裏書の参加者を見ると、
明石松五郎、副島悟郎、松田三治郎、江見海治な
ど昭和前期の相生で活躍した人の名前が並んで
いる。大正デモクラシーの雰囲気が伝わってくる
ようである。
昭和17年 播磨劇場
大川弘
大正 7 年、造船所が厚生施設として播磨劇場を建
設した。映画館に転用されて播磨映劇となり、昭
和 30 年代は東映専門館であった。
46
1926(大正15)年11月5日
相生天満宮、天神祭りの行列
大川弘
天満宮での奉納獅子舞を終わって各町の辻舞いに向かう祭りの行列。この辺りは町の中心部で、当時の
商家の様子がうかがえる。天満宮の獅子舞いは昭和 23 年に 200 年を迎えたと言われており、辻舞いに
ついては、「天保八年酉年獅子舞い当年初めて東南北、三方の若者頭これを舞う」との記録がある。
天神祭の綾子
獅子舞に華麗な衣装で華
を添える綾子たち。女形
は大川弘氏で女装をして
いる。隣の幼児は御幣持
ちである。
47
大正か昭和の初め
破魔呉服店の売り出し
破魔呉服店
播磨劇場で開かれた売出しの様子。戦前の商店街において、呉服店は最も有力な店舗で、商店街の中心
部には呉服店が店を構えていた。破魔呉服店は、佐多稲子の小説「素足の娘」に浜屋呉服店として描か
れている。
浜屋呉服店という、場所
にちなんだような名前の
その呉服店のすじ向いの、
つまり、この町のもの持
ちらしい家の間にある、
石の鳥居のある恵比寿神
社の角を左へ曲がってゆ
くと、私の二階借りの魚
屋へ出るのだ。
「素足の娘」より
48
昭和の初め
消防出初め式の鯉上げ
唐土昌治
普光沢(ふこさ)川と苧谷(おこく)川が合流する境橋の北側には、今のテレジア幼稚園のあたりまで空地が
あった。消防団の出初め式は、毎年 1 月の 6 日頃にこの空き地で行われ、普光沢川に土嚢を積んで貯め
ておいた水を空に吹き上げた。出初め式の華は、放水技術を競う鯉上げや玉割りである。
出初め式の集会
大正時代になると。手押
しポンプに替わって、ガ
ソリンポンプが普及した。
向こうの山裾にかすんで
見えているのは那波の村
である。
49
1927(昭和2)年3月
青い目の人形使節(友情の人形)の歓迎集会
相生小学校
昭和 2 年、ひな祭りにあわせて米国から 12,739 体の人形が日本各地の小学校や幼稚園に贈られた。人
形を贈られた学校では集会を開き「人形を迎える歌」を歌って歓迎した。代表の女子が人形を抱き、児
童たちは日の丸と星条旗を振っている。
明治 20 年代から大正にか
けて、日本から多くの移
民が米国へ渡ったが、や
がて、米国で日本移民へ
の警戒が強まった。宣教師
のシドニー・ギューリック
は、
「ひな祭り」を参考に、
人形を贈って相互理解を深
めようとした。日米の友好
を願って贈られた青い目
の人形は目を閉じたり、
ママーと声を出したりし
て子供たちを驚かせた。
50
1928(昭和3)年11月
昭和の御大典
松本住設
明治 42 年、新天皇の即位を内外に宣言する即位式と大嘗祭を、前天皇の喪が明けた年の秋冬の間に続
けて行うことが決まった。これを御大典という。昭和天皇の御大典は、昭和 3 年 11 月 10 日に京都御所
での即位式、14 日から大嘗祭、16 日から一般市民の祝賀行事と続いて、各地で祝賀の催しが開かれた。
写真は、丘の台に設けられた特設舞台での踊りの様子。
矢野町での御大典
石野太造
矢野町は、大正御大典と
昭和御大典の記念写真帖
を発行している。これは、
昭和御大典写真帖所収の
写真。
51
1931(昭和6)年
昭和初期の那波港(那波町制施行記念絵葉書)
田中藤治商店
那波が町制を施行したときに発行された6枚組の絵葉書。港正面の左は、江戸時代庄屋を務めた三木家
(戦時中の建物疎開で取り壊された)
、右が材木商の田中家。左右に米蔵が見える。右手の海岸には薪
が積まれている。
昭和 9 年の那波港の交易品(本町商店街 60 年史による)
搬入 ①塩
29.9
搬出 ①薪
4.9
②石炭 15.0
③セメント 7.9
④朝鮮牛 7.3
計 90 万円
②菓子砂糖 4.5
③清酒 4.0
④煉瓦 3.1
計 28 万円
那波西通り
左の井戸のある屋敷は岡
田酒造店。自動車が停車
しているところが那波銀
行。この辺りには、瀬戸
物屋、米屋、布団屋、傘
屋などの商店が並んでい
た。
52
1931(昭和6)年
田中藤治商店
昭和初期の那波駅(那波町制施行記念絵葉書)
那波駅に続く陸の坂。駅前では人力車が客待ちをしている。まだ珍しかった自動車と単車が写っている。
昭和 2 年に走り始めた港行きのバスであろうか。右手には「田中旅館」
「たばこ」
「塩」の看板。那波駅
は、明治 23 年の山陽鉄道開通とともに開業し、初期は隣接の竜野や有年より格下の駅であったが、造
船所の拡大と相生の町の発達で格上げされていった。昭和 17 年の市制施行で相生駅と改称される。
那波東方面
西国街道と赤穂を結ぶ赤
穂道に沿う那波の町並み。
苧谷川の堤防を港から駅
を向かうバスが走ってい
る。
那波は、矢野・若狭野の
人たちが農産物や薪炭を
持ち込み、日用品を買っ
て帰る商業で賑わった。
53
1931(昭和6)年10月11日
港郵便局 2 階にあった電話交換所
藤原家
相生の電話の始まりについて、福永一仁氏は「相生文化論」で、「松田せいさんは、大正 4 年に電話が
ついたといっておられる」という記述しているが、相生郵便局での電話加入事務開始は、大正 10 年 5
月 31 日である。大正 7 年操業開始の極東硝子の電話が「阪越局」になっていることから考えると、初
期の電話は坂越管内だったのだろう。
「相生文化論」によると、大正 10 年の電話番号は、次のようであ
った。福永氏の解説がおもしろいので、短くしてみた。当時の相生の様子がうかがえる。
1番
浜本弥七郎 壱番はここしかない
2 番 魚市場
漁師町おうの象徴
3番
松井一二
郵便局長さん
4 番 自彊寮
造船所の寮
5番
水月
おうを代表する旅館
8番
浜本亀七
材木屋さん
10 番
ますや
船舶食糧と借家
11 番 松浦正吾
12 番
土井市治
郵便局務めでしぶしぶ
13 番 松田藤右エ門 酒造さん、後の初代市長
14・15・16 番 播磨造船所
6・7 番 松田三治郎 当時は通船で後に回漕店
9 番 加賀隆治
17 番 三上英策
18 番 横尾龍
24 番 青木友吉
個人トロ箱第一号
後に播磨劇場を傘下に
20 番 社宅事務所
23 番
播磨病院
25 番
唐土庄次郎 漁業組合長
26 番
頼実八百屋 文化論では「?」となっているが、本町商店街にあった
28 番
得乗寺
那波のお寺
30 番 表屋
54
造船所の協力工場
那波の呉服屋さん
1933(昭和8)年1月
遠見山梅林の開墾
松田酒造
世界恐慌の影響で日本は昭和恐慌に陥り、造船所も不況で仕事がなかった。相生信用組合の那波鉄治組
合長は、遠見山を開墾して梅林をつくる計画を立て、開墾した土地に梅を植えるという条件で遠見山を
開放した。前列中央のネクタイ姿が那波組合長。
開墾によって、遠見山は
梅林になり、戦時中、貴
重な食糧となった。しか
し、梅林は昭和 20 年から
のたび重なる火災で焼失
してしまった。
55
1933(昭和8)年
カフェ新町食堂の絵葉書
神谷泰彰
蔵相高橋是清の積極政策で日本経済は回復に向かった。播磨造船所の業績も急速に改善し、新町の歓楽
街は大いに賑わった。江見練太郎氏は「ふるさと想い出の記」でこのように回想されている。
若い衆が安直に遊びの感触を味わうことが出来るところが、カフェーであった。そこでは、白いエプロ
ンをつけた若い女給さん達が、結構若い人たちの官能を楽しませてくれたもので、
「船頭小唄」
「籠の鳥」
や新しいもので「君恋
し」と云った流行歌を、
レコードによって共に
唄い、共に踊ってくれ
たものである。新町界
隈には「ヨット」
「いろ
は」
「みとく」「さつき」
と云ったところがあっ
て、私どもの世代の者
がカフェーなるところ
に興味を覚えた頃には、
「新町カフェー」が全
盛期であったと記憶し
ている。
56
1933(昭和8)年10月
那波八幡宮秋季祭典 那波町支部青年団
萩原家
江見練太郎氏は、八幡宮の秋祭りについてこのように書いている。「那波の八幡様はこの辺りの氏神さ
んである。祭りの当日になると、相生の町をはじめ、近郷近在からの参詣人が海路を陸路を繰りこんで
来て、いつもの静かな那波の町は、その活気に溢れ賑わいを見せたものであった。
・・殊に、海上から
の参詣は壮観とも云える
もので、坪根、鰯浜、野
瀬からは大漁旗をはため
かせた漁船が、那波の港
に向う様子は、正に海上
パレードを思わせる観が
あった」
ふるさと想い出の記
昭和18年 植樹記念
57
1934(昭和9)年
那波町役場・公会堂
横尾家
昭和 9 年 4 月 1 日に竣工した那波町の役場・公会堂。竣工当時「西播磨一のモダン役場と公会堂」とい
われた。右側が役場、左が公会堂である。陸と那波の中間にあった。戦後、跡地に那波幼稚園が建てら
れ、現在は税務署になっている。
昭和13年1月7日
那波町公会堂の火事
モダンな公会堂は町民の
誇りであったが、4 年後の
正月、火事で焼失してし
まった。
相生と那波の合併
昭和 12 年、両町の合併問題が具体化したが「地方的風習」の差が問題となった。造船所の
横尾龍専務は「弊害のないものなら、この際合併なされてはどうですか」とすすめ、14 年
の合併につながった。
58
1935(昭和10)年頃
那波町公会堂での学芸会
那波小学校
昭和 10 年頃、公会堂大広間で行われた学芸会の様子。こどもたちが演じているのは「勧進帳」で、安
宅の関で弁慶が義経を打ちすえている場面。
昭和 7 年
鉄砲山での水泳の授業
那波小学校の水泳の授業
は、鉄砲山の海岸、今の
相生大橋のあたりで行わ
れていた。遠泳 5 キロが
上級であった。
59
1935(昭和10)年11月15日
敷設艦沖島の進水式に向かう伏見宮軍令部総長
松田酒造
皆勤橋ができるまで、水月前の桟橋から造船所に渡船がでていた。写真は水月前の桟橋から造船所へ向
かう伏見宮海軍軍令部総長。沖島の進水式には、伏見宮をはじめ、多数の来賓が出席した。右端で見送
っているのは、松田藤右衛門相生町長。
水月別館
松井照男
造船所の対岸、遠見山の
麓にあり、相生湾をみお
ろす旅館。沖島の進水式
に来た伏見宮の宿泊所と
して建てられた。
60
1937(昭和12)年6月12日
松の浦埋め立て竣工奉告祭
相生市役所
大正時代に、相生町は松の浦を埋め立てて新市街を造る計画を立てた。紆余曲折があったが、昭和 7 年
の工事再開から五年間をかけて埋め立てが完成したときの奉告祭の様子。松の浦は戦時中、造船所の工
場となり、戦後、市役所を中心とした官庁街として整備された。
昭和7年6月29日
蛭子神社で催された松の
浦埋め立て起工式
松田酒造
埋め立ては大正 12 年に一
度着工したが、土木業者
とのトラブルで工事が中
断した。この写真は、昭
和 7 年に工事を再開する
際の起工式である。
61
1937(昭和12)年11月18日
支那事変戦没者相生町葬
相生市役所
昭和 12 年 7 月 7 日の盧溝橋事件をきっかけに日本軍は華北に侵攻し、支那事変が勃発した。戦火は予
想をこえて拡大し、多くの犠牲者が出た。姫路連隊所属の戦没者の遺骨は、姫路で連隊葬を行った後、
故郷の村々に帰った。相生町では、11 月 18 日、最初の町葬が相生小学校で行われ、翌年にかけて何回
も町葬が行われた。白いエプロン姿は、大日本国防婦人会。
支那事変に出征した兵士
の家族
米国の中立法への配慮で
宣戦布告は行わなかった
が、支那事変は事実上の
戦争であった。日本陸軍
は主力を中国大陸に投入
し、戦火は拡大していっ
た。
62
1937(昭和12)年12月
移転した相生魚市場
相生市役所
蛭子神社の斜め前から、相生港の南岸に移転した魚市場。自転車が商人たちの輸送の中心であった。左
に、オート三輪が一台見える。下の写真は魚市場の新築工事の様子で、城山の麓の埋め立て地に木材が
並べられている。
魚市場の建設現場
江戸時代、相生の魚問屋
は海老名家の独占家業で
あった。明治になり、海
老名家の特権が揺らぎ、
明治 31 年松方財政による
不況のなかで海老名源三
が廃業、魚市場は株式会
社として運営されること
になった。
63
1930年代初期
天満宮に勢ぞろいしたバス
平野政一
平野氏が経営していたバス会社のバス。大正時代には、馬車と人力車であったが、昭和に入って自動車
に代わった。相生では、昭和 2 年に駅から港へバスが走り始めた。馬車もバスも決まった停留所はなく
手をあげるととまってくれた。バスは、海岸通りから大谷橋を渡り、松の浦から本町通りを抜け、境橋
から苧谷川の堤防を苧谷橋まで走り、右折して駅へ向かった。
愛車と平野政一氏
戦前の日本の自動車工業
は、トラック中心に少量
の生産にとどまっていた。
乗用車はシボレーやパッ
カードなど米国車が大半
を占めていた。市役所の
公用車も戦後までアメリ
カ車であった。
64
1939(昭和14)年
那波駅行きバスと車掌
神谷真喜代
相生港から薮谷を通り那波駅との間を結ぶ相生合同自動車のバス。昭和 2 年の駅と港をつなぐ路線に続
き、鵤や矢野への路線バスが走り始めた。那波駅から高取峠を越えて赤穂へ行く路線もあり、県観光協
会のパンフに「赤穂から那波へ出るバスのコースは風色も変わっていて屈曲ばかりのおもしろいコー
ス」とある。自動車の普及により、人力車組合が昭和 10 年に解散している。
昭和10年
バス運転手の研修
平野政一
GM(ゼネラルモーター
ス)サービススクールと
いう文字が印字されてい
る。戦前は、アメリカ車
が多かったが、運転手の
研修まで米国企業が行っ
ていたようである。
65
1940(昭和15)年頃
相生町産業組合大広間での踊りの発表会
松本住設
相生町産業組合(信用販売購買利用組合)の事務所が昭和 13 年に完成した。組合は事業を拡大して、
戦後、相生信用金庫となり、このビルは本店となった。裏に大広間「報国の間」があり、町民に公開さ
れていた。発表会のような催しの他、市制施行祝賀会や播磨造船所の株主総会がこの広間で行われた。
昭和13年7月
相生町産業組合事務所
竣工記念絵葉書
産業組合那波鉄治理事長
の指導力のもとにこの木
造ビルが完成し「相生に
すぎたるもの」と称され
た。事務所前の二宮尊徳
像は、南荒神に移されて
いる。
相生町信用販売購買利用組合は、産業組合法に拠る組織で、地元の人は縮めて信用組合とよんだ。上の絵葉書の垂
れ幕は「相生町信用組合」
説明は「相生町産業組合」
66
発行者は「相生町信用販売購買利用組合」である。
1940(昭和15)年11月10日
紀元二千六百年祝賀式典
相生市役所
松の浦の埋め立て地で開かれた紀元 2600 年祝賀式典。皇紀(日本紀元)は、神武天皇即位から数える
紀年法で、辛酉革命説にもとづき BC660 年 2 月 11 日から起算する。1931 年の満州事変から大東亜戦争
終結まで幅広く使われた。
真広・大神宮社での式典
石野太造
この年、2600 年祝賀の一
環として東京五輪・東京
万博が予定されていた。
しかし、第二次世界大戦
勃発で、五輪・万博は中
止され、祝賀式典が終わ
ると日本も戦争モードに
なっていった。
67
1941(昭和16)年
真広・大神宮社境内の舞台
石野太造
大神宮社の境内にある舞台で演じられていたお芝居。村民が役者となり、歌舞伎を演じた。戦前は、多
くのお宮にある農村舞台で村芝居が行われていた。相生ふるさと散歩によると、矢野では、菅谷八幡神
社、小河宇麻志神社に農村舞台がある。
昭和15年頃
矢野郵便局
初代の矢野郵便局は瓜生
にあったが、二代目から
二ツ木に移転した。
68
1942(昭和17)年
横尾家
横綱双葉山の相撲興業
大横綱双葉山を迎え、丘の台の陸上競技場で催された大相撲。西出町の社員社宅の背景に、昭和 14 年
に着工し、土木工事が進んでいた赤穂線が見える。戦前は、場所数が少なく、力士は部屋や一門で巡業
していた。相生は相撲がさかんで有力者が中心になって相撲を興業した。
横尾家玄関で双葉山と
双葉山は、昭和 12 年 5 月、横綱に昇進
し、14 年 5 月まで 69 連勝を続けた。
双葉山はたびたび相生を訪れ横尾家に
泊まった。
69
1942(昭和17)年5月27日
水月前のペーロン船
月岡家
ペーロン競漕は長崎出身の造船所従業員によって 1922(大正 11)年に始まった。戦前は、造船所の海上
運動会として、5 月 27 日の海軍記念日に行われていた。5 月 27 日は、日露戦争の日本海海戦で連合艦
隊がバルチック艦隊を撃破した日である。皆勤橋ができるまで、コースは水月前から皆勤橋方面にむか
っていた。
昭和 14 年頃
ペーロン競漕
神谷泰彰
水月前の桟橋から地蔵
岬への海岸には、趣向
をこらした応援船が数
珠つなぎに並び、応援
船内には酒肴や弁当が
用意されていた。
「ふるさと想い出の記」
70
1942(昭和17)年3月25日
相生館
大川弘
相生館は、昭和 5 年に建てられた本
格的な映画館である。映画の全盛期、
相生に相生館・播磨映劇・旭館があ
った。昭和 31 年、三館は相生興行の
傘下に入り、旭館は邦画、映劇は東
映、相生館は洋画・邦画になる。
下左 鈴木時計店
鈴木家
下右 三徳理髪店
三徳家
昭和 11 年水月本館に宿泊した野口
雨情は、この理髪店に入り四方山話
に花を咲かせた。その後再び店を訪
れて、水月館で作詞した「播磨港ぶ
し」の一節を書いた奉書を持ってき
たという。(資料館だより 178 号)
播磨港ぶし(全部で 15 節ある)
相生(おお)の港はなつかし港
軒の下まで船がつく
71
1942(昭和17)年12月1日
相生市最初の市会議員による天満神社報告参拝
相生市役所
造船所の発展によって、相生町・那波町と造船所の
結びつきが強まっていった。造船所の仲介で両町の
合併機運が高まり、昭和 14 年 4 月 1 日、相生町と
那波町は合併して(大)相生町となった。
戦争とともに人口が増加し、昭和 17 年 10 月 1 日、
県下 9 番目の市として相生市が発足する。
初代市長は、松田藤右衛門。11 月に市会議員選挙が
予定されていたが、相生市翼賛選挙貫徹同志会の推
薦候補以外の立候補は弾圧され無投票となった。
昭和 17 年 4 月 30 日
総選挙の投票所となった那波小学校
大川弘
大東亜戦争に突入した直後の選挙で、翼賛政治会推
薦候補以外の候補は徹底的に弾圧された。投票所の
立て看板に、勇壮な文字が並んでいる。
72
1943(昭和18)年8月
相生警察署薮谷巡査派出所の開設
永田眞旦
昭和 18 年 3 月、松の浦工場で戦時標準船の建造が始まった。国家動員計画で造船所の工員は急増し、
17 年 3 月の 5000 人から、18 年 3 月に 10600 人、19 年には、最大 21500 人に達した。薮谷の本町通り
には派出所が新設された。憲兵も目を光らせており、人口の増加にかかわらず市内は静かであった。
昭和20年6月29日
相生警察署玄関にて
西播地区剣道大会優勝
の記念写真。玄関に「都
市疎開住宅斡旋所」の
看板が掛けられている。
73
1943(昭和18)年11月11日
相生地区で食糧増産に励む婦人
大川弘
戦時中、食糧不足を補うため、山の斜面に段々畑を造った。相生から藪谷にかけての山は頂上まで開墾
された。段々畑は、昭和 30 年代初期まで耕作されていたが、その後、高いところから次第に放棄され
て、雑木林に戻っていった。
昭和 19 年
竜泉桃山の開墾
那波小学校
竜泉の開墾には、那波国
民学校・上郡農学校・相
生高等女学校の生徒が動
員され、開墾した畑に馬
鈴薯を植えた。
74
1944(昭和19)年6月
三石耐火煉瓦での勤労動員
那波小学校
昭和 19 年 6 月、決死増産の最終段階に入り、国家動員計画の最後に位置づけられていた学徒動員が実
施された。造船所には、近畿各地の中学校や女学校から 4000 名が動員され、多くの寮が建てられた。
写真は、三石耐火煉瓦の工場で働く那波国民学校の生徒。
昭和18年
那波国民学校の運動会
昭和 16 年 4 月、小学校は
8 年制の国民学校となり、
子供を鍛錬する場となっ
た。運動会も、戦時らし
い種目が登場した。
75
1944(昭和19)年
相生国民学校での防空訓練(バケツリレー)
内海家
戦時中、バケツリレーによる消火訓練が繰り返し行われた。相生の町が爆撃を受けることは無かったが、
造船所は爆撃されている。昭和 20 年 7 月 28 日、グラマン 30 機の攻撃により、39 名の死者と多数の負
傷者を出した。姫路の市街地は、7 月 3 日夜の焼夷弾による空襲で焼失した。姫路の町が燃えて赤く染
まる夜空は相生からも見えたという。
昭和18年9月16日
同校でのバケツリレー
大川弘
市内各地で防空訓練が行
われ、防空壕が掘られた。
大川氏は、市役所に勤務
され、長年にわたり、市
内の様子をカメラに収め
た。この写真集は氏が撮
影された多くの写真を収
録している。
76